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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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Diary of the Dead - Exclusive Trailer

George A. Romero's Diary of the Dead | MySpace Video



ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラー」は傑作だった。エロ、バカ、バイオレンス、そしてスプラッター。エクスプロイテーションに必要な総ての要素が詰め込まれた夢のような映画だった。
 
世界で最初に大ヒットしたスプラッター映画はジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」である。というと語弊があるかもしれないが、その影響力と革新性を考えた場合、「ゾンビ」こそ時代を画した作品であると云える。イタリアではトム・サヴィーニの鮮血と肉塊が、アメリカではインディペンデントのその源泉とも言うべき一攫千金のフラッシュ(閃き)を創出しようとするスピリットが、それぞれの形でそれぞれのヤマ師たちによって大量生産と飽くなき転生を繰り返すこととなった。「ゾンビ」の世界規模の大ヒットはエクスプロイテーションの市場能力を開眼させメジャー侵食への口火となり、スクリーンの中で撒き散らされた大量の血糊とラテックス製の肉片はインディペンデントで糟糠を舐める数多の製作者、そしてその何倍もの数の映画少年たちに希望と夢とその前例を与えた。つまり、グラインドハウスとそれに連なる80年代以降のビデオ・バブルで雨後の筍の如く濫造された二束三文のゴミ映画は総て「ゾンビ」によってもたらされたものだと云えるのだ。「プラネット・テラー」のその後景にあるのは悠久なるトラッシュの飢餓地帯であり、「ゾンビ」という名の革命が播種した遺伝子の二重螺旋である。「プラネット・テラー」はジョージ・A・ロメロに捧げられたものであるとも云えるのだ。
 
 
その意味で、ジョージ・A・ロメロは明らかに、現代映画史における巨人である。塩化ビニルとポリカーボネートの泥濘の中に屹立する遥かな弧峰である。
 
 
しかし、「プラネット・テラー」に魅了され換骨奪胎され生気を吸い取られた現代の映画少年たちが、仮にジョージ・A・ロメロの作品群を通過していなかったとして、追体験的にジョージ・A・ロメロの映画を、とりわけ氏の最新作にあたるこの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」を観たとき、果たして彼らはどんな心象を抱くのだろうか?本論が提起する第一にして最大の疑問はまさしくそこにある。

 
 
 
結論から言うと、この「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は、映画としては正直言ってあまりおもしろくない。きっと「プラネット・テラー」を観てジョージ・A・ロメロという名の無間地獄に引き込まれた者たちにとっては、吟味の価値のない褪色しきった過去の遺物であるとしか写らないだろう。スティーブン・スピルバーグやピーター・ジャクソンといった映画の天才たちと同じくらいジョージ・A・ロメロを愛し、尊敬しているわたしでさえそう思った。あんまりおもしろくないと。しかし、それはある意味では何を今更というレヴェルの話である。ジョージ・A・ロメロを愛してやまない人々にとってそんなことは論を待たず自明のこと、予想通りであり、むしろおもしろかったら逆に怖というくらいに、そのマンネリのぬるま湯は規定路線であるとともに、過熱することが許されない永遠のマニエリスムですらある。マンネリズムとはそもそも、ひとつのジャンルの洗練を意味するポジティヴなタームであり、それは必ずしも悪いことばかりではない。
 
ジョージ・A・ロメロというひとは、もうずいぶん前から、或いはもっと始原的には「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」や「ゾンビ」の頃から、自らが産み出したリビング・デッド映画のエピゴーネン(それはもはや、シークエルですらないのである)を自らが作り続けることを運命付けられた映画作家なのだ。その手腕はまさに洗練の極みに達し、涅槃の境地と言っても良い。それが必ずしもおもしろい映画を作る純粋な映画作家としての手腕の熟達を意味しないことに関して何か言うやつがいるようだが(ていうか必ずいるが)、そういう無知蒙昧な人間にはだからどうした、と言って唾棄しておけばよろしい。
 
 
無知?映画をあくまで映画として、そのコンテクストを無視して評価することの何がおかしいのか?
いや、それが凡百のド凡人の手によるただのおもしろくない映画であったなら、そのアプローチは間違っていない。要するに、それがロメロの作品であるということが問題なのだ。ジョージ・A・ロメロは抗い難い磁場を孕んだひとつの奇跡であり、それを通過した人間にとってはまさしく家族のような存在だからだ。そう、ジョージ・A・ロメロは映画ファンにとって家族のような存在なのだ。生物学的な血縁関係などは遺伝子のバーコードに過ぎない。問題はどれだけの愛情を注ぎ、そしてそれを尽きることなく継続してきたか、ということだ。
「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は確かにおもしろくない。おもしろくないが、ロメロだからそれでいいのだ。ロメロが撮っていなければ、この映画は恐らくB級と言うほどではないが、まあヘンテコリンな一風変わった二流ホラー映画くらいに片付けられていただろう。しかし、ロメロが撮っている、ということが重要なのだ。そして、ロメロだから許されるのだ。
仮にあらゆる意味で最低のダメ人間がいて、それがあなたの家族だったとき、あなたは簡単に彼を見限ることができるだろうか?これはむしろ哲学、否、神学に近い根源的な問いである。

 
 
「死霊のえじき」のDVDに収録されたドキュメンタリーをご覧になられた方なら、この意味を理解して頂けるだろう。「死霊のえじき」はあのリック・ベイカーにも「どうやって撮ったんだ?」と言わしめたトム・サヴィーニの凄惨な特殊メイク、絶望的な暗澹たる世界観、そしてジョセフ・ピラトーの断末魔の叫びと、見所は多いがいざ映画として評価すれば、残念ながらやはり二流半の作品である。それはあの映画に携わった総ての人間がわかっていたことだ。恐らく、ロメロにさえそれは解っていた。ロメロは映画監督としてはそれほど悪いわけではないが、一流ではないと。この映画もゾンビ映画としては及第点だが、純粋な作品として評価すると、やはり二流だと。ロメロはリビング・デッドという自らが産み出したモチーフに耽溺し、逆に取り憑かれたのだと。しかし、それが何だと言うのか?

「撮影に関わったひとたちはまるで、兄弟のようだった。」
感慨深く往時を振り返る出演者たち。金で切り結ばれた商売の関係ではなく、血よりも濃く硬い絆で結ばれたスタッフと俳優・・・それはジョージ・A・ロメロだからこそ導出できた空間だった。メジャー配給の映画製作に疑問を持ち、郷里ピッツバーグでインディペンデント映画を作りつづけることを選んだその人生。出資者に「制作費を増やすから残酷描写をPG指定に抑えるか、或いはその半分以下のバジェットでR指定にするか」の二者択一を迫られ、用意した膨大な脚本を映像化することをあきらめて、後者を選んだその矜持。その総てが映画ファンの誇りであり、伝説そのもの。

「ピッツバーグの人たちには『ゾンビ愛』があるのよ」
笑顔でそう語る夫人のクリスティーン。それは冗談でも比喩でもなく、ロメロのその人間性とときに頑迷なまでに屈強な作家精神に対する周囲の評価を端的に表したものに過ぎない。彼は映画の持つメッセージ性のその可能性を信じた。だからこそメジャー資本の映画作りには馴染めなかった。それが故に資金を調達できず、ときに自分が表現したいものを作ることができなくなったこともあった。それでも媚を売り体制に阿諛することは絶対になかった。
 
「映画を愛する」ことは簡単だ。しかし、それを商売にしながらその本質を忘れることなく、貫き通すことは難しい。ロメロは映画作家としては二流かもしれないが、映画の恋人としては超一流だった。彼ほど映画を愛した人間はいない。だからこそ彼のその少年のような純粋な双眸に多くの映画ファンや同業者は心を打たれ、敬服するのだ。だから、ロメロは家族なのだ
 
 
ロメロは信念の人だが、その信念を商業ベースで堅持できるほど要領が良い人ではない。作る映画も決しておもしろいわけではない。「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」以降、その演出力は右肩下がりだと評価が固まって久しいが、長い沈黙を経て発表した「ランド・オブ・ザ・デッド」や「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」を観てもその評価は覆ることはなかった。彼は不器用な人間である。そのポーズが結果的にカッコよければまだ体裁も保てるのだが、天然で不器用なのでときには目を覆いたくなることもある。
 
しかし彼は映画を撮り続けている。「ゾンビ」のリメイクのヒットやホラー映画の何回目からのブームの到来で久々に自らにスポットが当たるようになっても、体制に迎合することなくメジャー・スタジオに媚を売ることもなく、その信念と兄弟仁義に貫かれた、ただ少しだけ不器用な監督人生を続けている。だからこそ彼は偉大なのだ。クェンティン・タランティーノは語る。ジョージ・A・ロメロの「A」とは「A fuckin genius」のAだと。

 
かつてこれほどまでに愛され、暖かく見守られつづける映画監督がいただろうか?現在の映画産業が死屍累々の何百何千という使い捨てトラッシュの集積が支える構造を持って発展してきたからこそ、ジョージ・A・ロメロはそのアイコンであり、そしてある種の人々にとってはかけがえのない家族なのだ。タランティーノやロバート・ロドリゲスやピーター・ジャクソンやギレルモ・デル・トロはそんなロメロの映画を観て育ち、明日の成功を夢見てインディペンデントで頑張ってきたからこそ、みなロメロを心の師匠だと思っている。
ゾンビによって我々を魅了し、かつ同時に魅入られてしまった男。その不器用さとそして純粋さに、かつて映画に魂を売り渡した誰もが共感を覚えずにはいられない。かくしてロメロは世界中で愛されつづけている。


 
 
 
 
さて、内容に関してだが、信念の人、ロメロの批判精神はやはり止まらない。「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」ではメディア・リテラシーを軽んじる軽佻浮薄な現代人に警鐘を打ち鳴らす。民主主義社会が標榜する情報公開とその流通の理想はインターネット時代を経て完成されたかに見えるが、実際は奔流と化した情報の波に足元をさらわれ、むしろ健全に機能しているとは言いがたい。ロメロはゾンビ映画の体裁をとりながら、情報飽和社会を生きる我々を痛烈に風刺しているのである・・・というのはいわゆる「ロメロ信者」のお決まりの拡大解釈かもしれないが、問題はいずれにしろ、一般の観客はそんなものなど求めていないということである。みんなが観たいのはザック・スナイダーの「ドーン・オブ・ザ・デッド」のような痛快なアクション活劇であり、陰惨で絶望的な終末世界を40年前の「ゾンビ」と変わらぬ(むしろ劣化している)淡々としたテンションで即物的に描写した社会風刺映画など望んでいないのである。これは前作「ランド・オブ・ザ・デッド」でも同じで、ユニヴァーサル資本の大作映画でありながらロメロはジョン・カーペンターのスネーク・シリーズのような舞台設定とガジェットを用意し、実に淡々とした、悪く言えば冗長な社会風刺映画を上梓し、興行的にあまり芳しい結果を残せなかったばかりか、「ゾンビ映画のゴッドファーザーが『満を持して』放つゾンビ映画の決定版』を望んだ多くの映画ファンからも嘲笑を買ってしまった。ロメロは自分のニーズを知りながらそれに応えることはしないのだ。或いは、ほんとうによくわかっていないのか。
 
それでもロメロはメッセージ性を重視する。古色蒼然としていようが内容を置いてきぼりにしようが、彼は執拗なまでにメッセージに固執する。だからロメロに何の思い入れもない普通の映画ファンからしてみれば彼の映画は「?」でしかない。
この圧倒的なまでの不器用さを短所ととるか「味」ととるかは個人の問題だが、わたしは諸手を挙げて支持する。ロメロに普通の映画を望むのが間違っている。「ランド・オブ・ザ・デッド」の、夜空に打ち上げられた花火を見上げるゾンビたちのシーンを観ただけで「キタキタキターーーー!!!!」となるのが正しいロメロ映画鑑賞法であり、例えば本作ではリドリーの邸宅に大挙して押し寄せる「ノロノロゾンビ」の監視カメラ越しの映像に瀰漫する得も言われぬ終末観とか、サミュエルおじさんのつるはしグサッ!!!とか、ラストに意味深に映し出される「目から上だけゾンビねえちゃん!!!」とかに「いや~~~~~んさすがロメロ先生!!!」と悶絶すればよろしいかと思います。

 
 
尚、前作「ランド・オブ・ザ・デッド」で主役級の登場人物から黒人を外し、敢えてビッグ・ダディという新キャラを登場させて帳尻を合わせるという変則ワザを繰り出してきたロメロじいさんだが、今回では遂にその変則ワザさえ放棄し、黒人は中盤に出てくるヤクザまがいの自警団員(vigilante)に留めている。これは恐らく、第二次大戦以降の富の一極集中により訪れた50年代の狂乱の繁栄からカウンター・カルチャーの勃興と合わせてレイシズムが終焉に向かうと思われていた60年代~70年代では「黒人が主人公」の方法論が鮮烈で、かつ有効だったのに対して、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」ではあれから30年以上経って結局現実が何も変わらなかっことに対するロメロ自身の諦観にも似た絶望が現れているのだと思う。相変わらず横行する人種差別、白人優位の悪しきポピュリズム。何も変わっていない社会に際して、今一度黒人と白人が分け隔てなく活躍する映画を撮っても無意味である。映画に於けるアンチ・レイシズムのメタファーとしての黒人重用はもはやパターン化して形骸しか残っていないからだ。そんなことをするよりも、現実を冷徹に、克明に描き切ったほうが良い。だからロメロは今回はストレートに、ストリート・ギャングが如き黒人の集団を登場させた。市民を守るはずの州兵が武力を利用して略奪を繰り返し、家族を殺し合う、崩壊した白人たちのソサエティとは対照的に、この世界では彼らのみが秩序を維持し統率がとれた集団であるかのように描かれるのだ。

 
 
 
あと、主演のミシェル・モーガン(Michelle Morgan)、かわいくないですか?ぼくはそう思います!
 
 
 
ロメロは現在、最新作「...OF THE DEAD」を準備中。タイトルは「サバイバル・オブ・ザ・デッド」になるらしい。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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