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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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君はエロゲカウントダウンを知っているか?!

というよりも先ず、あなたはそもそもエロゲーという術語について、どれだけのことをご存知だろうか。もちろん、東浩紀の一連の書籍によって、『Clannad』『Air』『リトルバスターズ!』といったKeyアニメの隆盛によって、或いは、大ヒット作『Angel Beats!』『Fate / Zero』『魔法少女まどか☆マギカ』のシナリオライターを輩出した未開の/それでいて肥沃な知的リソースの宝庫として、少なからぬ知識はお持ちのことと思う。が、それらは結局のところ、直近10年足らずの間にこの国のコンテンツ市場において権勢を振るいながら未だにその実態が詳らかにされることのないそのシャドー・キャビネットに関する、アイアン・マウンテン報告にも似た実しやかなフォークロアの断片的な集積に過ぎないのではないか。それほどまでに「エロゲー」界隈に関する情報はエクスクルーシヴで、そしてつかみどころがない。To Heartはわかる。同級生2もかろうじて。ヒラコーのマンガで多少のことは。が、ガイナックスが脱衣ゲームのデベロッパーとして、糊口を凌ぐどころか多くのアニメファンをリップオフしていた事実はあまり知られていない。と、例えばこんな具合に。
が、斯様な状況にありながらも、「エロゲー」のエクスクルーシヴ文化圏にエンドユーザー側からの「批評」のファクターを持ち込み、実践し、その有用性を広く世に知らしめた先駆的なサイトが、かつて存在した。それが「エロゲカウントダウン」だ。エロゲカウントダウンという字面からは思わずドゥームズデイ・クロック(世界終末時計)が如きエロゲー文明圏の終焉を予見する黙示録的な何かを連想してしまうが、実態としてはオールタイム・ベスト形式のエロゲーランキングであり、サイト管理人のある嗜好に基づき精選されたエロゲーソフトが列挙され、そのランキングは新たなキラーソフトの登場によって随時書き換えられる。当時から今日に至るまで世界のヘゲモニーとして君臨しつづける「泣きゲー」「シナリオ至上主義」に昂然と反旗を翻し、「エロゲーとは、エロいゲームのことであり、いかなシナリオが優れ心の琴線に触れるものであろうと、エロくなければ意味がない」というストレートエッジを標榜するその思想性において際立っていた。それ故にKanonもファントムも、エロゲカウントダウンの前では語るに値しない塵埃でしかない!サイト晩期には「西暦3003年のエロゲーマーへ」と題された、サイト設立からエロゲー批評サイトの興隆までを包括する壮大なエッセイが著され、その中で管理人は自身の「エロゲーマーとしての限局」と巨大掲示板の台頭による批評サイト文化の衰退を危惧し、来る後進に対しエロゲカウントダウンの意思を継代せんとした。管理人の名はPEROといった。
その一連の歴史を知る研究者のある見解によれば、エロゲカウントダウンの意思は現在、確実に受け継がれ、エロゲカウントダウンはそうしたフラタニティにとりある種の聖典なのだという。別の研究者はPERO氏のレビューにおける「教育欲」を指摘し、その功績を評価している。ここで驚くべきは、この「教育欲」とはゲーマーに向けられたものではなく、デベロッパー、パブリッシャー(ソフトハウス)の啓蒙を企図したものだったというのだ。エロゲカウントダウンはエンドツーエンドのプロバイダー中立主義に忠実に、市場の見えざる手に依拠しない別の形による、エンドユーザーからパブリッシャーへの意思表示チャンネルを批評サイトという形式をもって確立していたというのだ。この仮説はにわかには信じがたいものだが、確かに、PERO氏が貫いたストレートエッジと、「泣きゲー」優勢の市場の評価に逆行する動き、即ちプリミティヴなエロゲーのリバイバルがサブジャンルとして定着した事実は、偶然にしては出来すぎている。が、エロゲカウントダウンは現在では更新を停止し、そのほとんどのテキストは404 Not Foundの彼方へと消尽してしまったため、それを確かめる術はもはやない。あれからPERO氏はどうしているのだろうか・・・?

さて、エロゲカウントダウンの自然消滅から幾星霜、ある革新的なマンガが週間少年サンデーで連載を開始した。それが『神のみぞ知るセカイ』である。
このマンガは近年稀に見る傑作である!ギャルゲーに全人生を捧げるキモオタ高校生が、ある事情によりリアル女子をギャルゲーのテクニックを駆使して攻略することになる!という設定自体は当たり障りないが、この作品が凡百の有象無象と一線を画すのはその計算しつくされたプロセスとディテールである。主人公はリアル女子をことごとくギャルゲー文法に落としこみ、あまねく要素を記号化し、あらゆるイベントをフラグとして分岐図にマッピングし、一挙手一投足から心の機微に至るまで、その総てを完全に脱構築していく!リアルなんてクソゲーだ!彼にとってリアルの女子とは不完全極まりないバグの集積でしかなく、リアルの女子と過ごす日常とは差分を当てることすら叶わぬ五流サードパーティのデジタル・ガービッジに過ぎない。彼にはテキストと回収すべきフラグと乗るべきルートと、ハンドヘルド・マシンのUMDディスクのシーク速度しか見えない。ゲームは精巧な芸術品だ。なかんずくフラグとルート分岐とユーザー・インターフェースが完全にデザインされたゲームは、この世界の唯一の希望だ。反対に、曖昧なフラグをバラまくばかりで迂遠なルートしか提供することがなく、悪辣なゲームバランスを誇示するこの「現実」は、まさにクソゲーだ。テレビアニメ一期の最終回で、彼は遂に液晶モニターの中にデヴィッド・クローネンバーグのSF映画のように取り込まれ、リアルの肉体を捨て、ゲームの世界へと旅立っていく!そう、彼は集積回路の夢旅人。
・・・これがいかに病的な作品であるか、おわかりいただけるだろうか。が、それゆえに、だからこそ、この作品は傑作である。確かに、かなり切実に、リアルはクソゲーだ。このロジックに誤謬はまったくない。世界はクソゲーだ。世界は不完全だ。他方でこの作品がすごいのは、そのロジックの更にその先を提示している点だ。さよう、世界はクソゲーだ。が、それがどうした。完全な世界はどんな世界だ?理想の世界はどんな世界だ?総てが完全になった世界は、それで終わってしまう。完成したら止まってしまう。だから、不完全が理想なんだ。
少年マンガが世界に対して、極めて有効な哲学を提示した瞬間である。ジャレッド・ダイアモンドが「最適分断原理」と呼んだロジックをここまで的確に言明した作品は、ちょっと他に思いつかない。

このマンガの主人公はギャルゲーを記号化しルートを解析する手法を応用して、現実社会の価値観や行動原理をことごとく相対化していく。これがまさにスペクタクルだ!が、彼はことギャルゲーのレゾンデートルに関わるテーマについては、ギャルゲーのロジカルな解析分類学がまるで通用しない、という矛盾とも戦うことになる。これがもっとスペクタクルだ!「数学が完全無謬の多面体である、ということを否定する事実を認めざるを得ないことは、耐え難い苦痛である」と言ったのは、テッド・チャンだったか。ギャルゲーでも同様の論理矛盾が厳然として存在する。ギャルゲーをギャルゲーたらしめる定義というものが、実はどこにも存在しない!我々は恣意的にギャルゲーをギャルゲーたらしめているに過ぎない!我々のパラドックスはこうではなかったか。規則はギャルゲーを規定できない。総てのギャルゲーが、規則に対応され得るから。

ギャルゲーとは何か。ギャルゲーとはそもそも、何であったか。

我々はこの崇高な問題提起をかつてどこかで見たことがある。

そう、更新されつづけるホメオタイプが如き不定形を描きながら、それでも屈強な信念を貫く永久運動機関が如き姿を。市場の見えざる手に安易に阿諛せず、己の真理を曲げない、ストレートエッジに突き動かされる青い情動を。

そう。

エロゲカウントダウン。


『神のみぞ知るセカイ』の作者とエロゲカウントダウンのPERO氏が同一人物であるという断定的な事実は存在しない。我々は両者の記述の類縁性から、推測することしかできない。
が、エロゲーを記号化し、プリミティヴ・エロゲーの再評価を行い、かつ、インフレーションの果てにエロゲーマーとしてのアイデンティティを保つことができなくなったPERO氏と、ギャルゲーを記号化し、日常をギャルゲーのレトリックで解体し、結果的にギャルゲーの無謬性を誇るどころかギャルゲーの論理矛盾というゲシュタルト崩壊を招いてしまう『神のみぞ知るセカイ』の主人公は、とても似ている。
それに限らず、何よりも重要な点は、PERO氏も『神のみぞ知るセカイ』の若木民喜先生も、エロゲー/マンガへの愛深き故の冷徹なまでの解析分類の果てに、余人の未だ到達すべからざる領域へと躊躇せず踏み込み、毀誉褒貶激しく問題提起を果敢に行っているということである。
若木民喜先生のブログHoney Dippedは(ここでもガンバ大阪、ビートルズ、Dead or Alive Xtremeのトピックなどがエロゲカウントダウンと共通している点を参考までに挙げておく)ときに同業他者やパブリッシャーへの挑戦的な言動にまでタコメーターが振り切れるストレートエッジぶりで、それ故に批判も多いが、このスタンス、批評者としての信念に殉じる姿に、感動を覚えずにはいられない。
特にすごいのが、若木先生は「アートは独りよがりだから文化としてはダメだ」という持論をたびたび強弁している点である。商業として流通する大衆芸術のほうが、ハイアートよりも上なのだ。普通はこれとは真逆のことを考える。大衆芸術は商魂たくましく、市場に振り回され芯がないが、ハイアートは洗練されていて市場とは無関係で純粋でだからこそ素晴らしい、と。が、そうではないのだ。そんなもんはオナニーだ!若木先生はそうおっしゃるのだ。目からウロコが落ちるようだ。

このまま行くと、不特定多数に発信できる雑誌は消滅し、高いレベルでマンガ家を縛るシステムがなくなり、漫画家は完全に偏在化して自分のことだけを見てくれるファンのためだけに描くようになる。この状態だと最高レベルの才能でも国民的な作家になれないし、今までだと雑誌というプレッシャーのおかげで成長できたはずの才能が中途半端なまま終わってしまう。特にエロパロ美少年美少女を描けないタイプの作家がマンガで食っていくことができなくなる(今でも食っていけないけど)。今でも、マンガは自律的アートの世界になってきてる。アートになると文化としては一段落ちてしまう。
 


この気概!アート至上主義、反資本主義の世論に真っ向から反駁するこのスタンス!このストレートエッジ!
『神のみぞ知るセカイ』は現在、エルフの大ヒット・コンシューマ・エロゲー『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』へのオマージュであることを作者自らが公言している壮大なタイムパラドックス巨編へ突入、エロゲカウントダウンの批判精神を全国の少年少女読者たちへ播種しつづけている。



・・・というわけで『神のみぞ知るセカイ』22巻が発売されました。初回限定版には『マジカルスター かのん100%』OVAが同梱されているのですが、これが傑作です。神アニメです。夏アニメで人気爆発している東山奈央さん(ちーちゃん、由比ガ浜、そしてかのんとキャリアの中で当たり役しかない)がまたしてもあなたのハートを完全制圧します!!!たまこまーけっとのモチ屋の娘も超ロリロリ女の子で出演、可愛すぎて観てるこっちが死んでしまいそうです。ぽよよんろっくのキャラクターデザインもまさに前人未到の領域へ達しており、本気で凄まじいアニメなので全人類必見です!キャラソンのクオリティには定評のある『神のみぞ知るセカイ』シリーズですが、今回もすごすぎ!エンディングの「君色ラブソング」は本気で名曲!フッテージも控え目にいって今期(の総てのアニメの中で)最高傑作!!!

女神編のラストの大団円のおかげで2期のちひろ編のBlu-rayは価格が高騰した。ので、超絶プレミア価格になる前に万難を排して手に入れること!


マジで、本気でオススメだぜ!!!
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最近、二百年に一度のフィリップ・K・ディック大洪水に見舞われていて、スーパー堤防の建築を是非にも急がなければ!と、その建材としてディックの本を買い集めては読みまくっています。スーパー無駄遣い?う~~ん少し否定はできないかも。。。
でもディックの本は本気でおもしろいし、図書館で借りてもどうせまた買い直しちゃうの目に見えているくらいクソおもしろいので、やはり長期的には買った方が安上がりだと我が脳内事業仕分け委員会は判断、事業の続行を決定しました!

というわけで絶賛ディック読書週間突入中なのですよ。ただ唯一の難点は、名前がディックだけに「イエス!アイラヴ・ディック!」と声を大にして高唱できないことですが・・・
え?「ていうかディックって誰や」、ですって? ご存知、ないのですか?!


フィリップ・K・ディックとわたしとの最初の出会いは、遡ること小学生の頃でした。
本屋で『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を買って、スターウォーズみたいなスペースオペラかもしくは攻殻機動隊のようなサイバーパンクSFだと思って読んでみたら、そのどちらでもなく、何がおもしろいんだかさっぱり判らなくて途方に暮れました。
当時、わたしは小学校の図書室で昼休みに『人物20世紀』という、2000ページ以上はあろうかという凄まじい大著をちびちびと読むのが好きでした(大友克洋が世界的に高く評価されている偉大な芸術家であるということや、リキテンシュタインがアメコミのような画を描いて発表したら画壇からコテンパンに批判されたことをわたしはその本で学んだ)。20世紀を代表する各方面の重要人物について列記した本なので、当然フィリップ・K・ディックのことも載っていたのですが、その中でディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に関して、「あの小説を書いたとき、わたしは新婚で、妻と生活していてとても幸せだった。あの小説は、そのときの幸せな気持ちを表現したものだ(要約)」と書いてあって、当然わけがわからず、更に頭の中がラビリンスになりました。
それからほどなくして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を映画化したリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』を観たのですが、小学生ながら「原作とは別物だ!」と思いました。名画は名画だし、ヴァンゲリスのサウンドトラックも素晴らしかったけど、原作の雰囲気は微塵もないように感じました。でも、当時はガキだったので、わかりやすい『ブレードランナー』の方が好きでした。

それから高校生になったとき、『高い城の男』を読みました。ディックの本だし、歴史改変SFの名作と称揚されていたので、一応読んでみようと思ったのです。でもやっぱり、何がなんだかわけがわからず、小学生の頃に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み終えたときと同じく、途方に暮れました。
あと、この本を部室で寝転がりながらダラダラと読んでいたら、部活の先輩(女性)から、「何しに部活来てんの?」と言われたことがあります。少しだけ怖かったです。その人は2コ上で、確か神奈川県の大学に進学したはずですが、今どこでどうしてるかは知りません。でも比較的仲良くしていただいた先輩だし、どちらかというと尊敬できる先輩でした。そういう意味でも『高い城の男』は思い出の一冊です。わけわかんなかったことも含めて。ていうか内容より「何しに部活来てんの?」の一言の方が印象に残っています。



・・・わたしにとってフィリップ・K・ディックとはそういう存在でしかなく、当然、好きな作家でもなかったのですが、このまえたまたま、買ったまま読まずに放置していた彼の短編集を読んでみたところ、あまりにもおもしろくてびっくりしました。話の組み立てがしっかりしてるし、アイディアも素晴らしいし、何より全編を覆う暗いオゾンにグッときました。
そう、この人の小説、基本的に、暗いのです。3ページに一回くらい、ほほえましいユーモアが挿入されていてその暗さが中和されるのですが、小説全体を覆う空気はとてつもなくシニカルで冷たいです。基本的に人類や社会に対するスタンスが辛口で、救いがないです。少なくとも彼の小説の登場人物は凄まじいまでに前途暗澹たる絶望的な未来社会を生きていることが多いです。しかも例外なく彼らは「善人」ではないです。浮気もするし不平不満は垂れるしズルはするし軽犯罪も平気で犯すし、基本的に楽に生きることしか考えてないです。そう、ちょうどわたしたちのように。そして時に、結末もハッピーエンドではないです。ていうかほとんどハッピーエンドではない気がします。ハッピーエンドで終わる作品もあるのですが、ハッピーエンドのように見えても、よく考えてみたらほんとうにそうか?と首をかしげてしまうような、そのくらいグラついたハッピーエンドです。
たぶん、小学生や高校生の頃はこの暗い空気感や、口をへの字に曲げたような鼻持ちならない狷介な心理描写がよくわかんなかったんでしょう。一度クセになると、そういった部分に病み付きになってしまうのですが・・・。フィリップ・K・ディックの愛好者が世界中に尽きることなく、死後何十年を経ても尚わたしのように新たなファンを獲得しつづけている理由は、そこにあると思います。
事実、フィリップ・K・ディックの小説はハリウッドでことあるごとに映画化されています。遂にはスピルバーグでさえ映画化してしまったほど。ここまでスプロケット・ホールに愛されている作家は、スティーヴン・キングとディックだけでは?



さて、さっき「彼の小説は基本的に暗く、人類や社会に対するスタンスは辛口で、救いがない」と書きましたが、でも彼の小説を読んで不快になることはまったくないです。時に凄まじく絶望的なエンディングに慄然とすることはあっても、切歯扼腕に堪えぬほどの嫌悪感を抱くことはないです。彼の描く作品世界はどこまでも暗く、絶望的で、登場人物も最終的にこれといった救済を受けることはなく、時として以前よりも状況が悪くなっていることもあるのに、でも読後感は悪くないです。なぜか?
彼の最高傑作のひとつとして挙げられることの多い『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文は、以下のようになっています。


つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?
 



さぁ、わかります? わかんない、という人は、「人間」という言葉をあなたの名前に置き換えてもう一度読み直してみるといい。


あなたが塵から作られたことを、あなたはよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、あなたはまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、あなたがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切り抜けられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?
 


わたしがフィリップ・K・ディックの小説に完全にノックアウトされたのは、この序文を読んだときです。ディックによると、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』で言いたいことはぜんぶこの序文で書き切ってしまったと。あとに連なる300ページの物語は、その序文を語るための背景でしかないと。おそらく、ディックのほかの作品にもそれが充分すぎるほどに言えると思います。彼の作品は暗いし、救いがないし、冷たいし、登場人物に時にありうべからざるまでに凄絶な試練を与え、時にそれを救わない。しかし、先人たちの愚行によって朽ちた地獄の世界の中を何とかして生き延びようとしているポスト・アポカリプトの物語の中で展開される彼の主張は、だからこそ、ポスト・アポカリプトの物語であるからこそ、「諦めるながんばれ!まだ終わりじゃない!」というヤケクソなオプティミズムで漲っている。彼の作品の根底にあるのはそれなんです。

「おれたちはまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、おれたちがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切り抜けられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?」
ちょうど『ユービック』で、グレン・ランシターがジョー・チップに「へこたれるなよ、ジョー!」というメッセージを送ったように・・・ 彼は人類のあらゆる可能性を、最後の最後まで諦めない。絶望的な未来が待っていることはわかっている。わかっているけど、決して最後まで諦めない。諦めるな、まだ終わりじゃない、さぁもう一度立って闘え。彼のメッセージはとてつもなく重く、そして尊い。「ライオン」でシェリル・ノームとランカ・リーが、「何しにうまれたの?何しにここにいる?生き残りたい、生き残りたい」と歌ったように。草薙素子が、「何が望みだ?俗悪メディアに洗脳されながら、種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べることか?後進国を犠牲にして?お前にだってゴーストがあるだろ。脳だってついてる。電脳にもアクセスできる。未来を創れ」と言ったように。

フィリップ・K・ディックの小説とは、要するに、そういう小説なのです。



最後に、短編集『ゴールデン・マン』にディックが寄せた序文から印象的な部分を引用したいと思います。フィリップ・K・ディックがどのような信念を持って作品を書き続けたか、これを読めばたちどころに理解できるはずです。そして書店へ行ってディックの本を探しているあたながいるはず・・・かも。


あのころ、クレオとわたしは月九十ドルで生活し、図書館から借りた本の返却期限が遅れても罰金さえ払えず、雑誌を読みたくても買う金がないので図書館へ行くしかなく、文字どおりにドッグフードで飢えをしのいでいた。だが、きみにはこのことを知っておいてほしいーーーきみがSF作家であってもなくても、これからどんな人生を送ろうとしているにしても、とりわけきみがいま二十代で、かなり貧しく、そしてたぶん絶望に満たされかけているなら、よけいにそうだ。不安はいっぱいあるだろうし、それが正当な不安である場合は多い。アメリカでは、いまも人びとが飢えている。七〇年代のなかばになっても、まだわたしは家賃が払えなかったし、クリストファーを医者に診てもらう金がなかったし、車も、電話も持っていなかった。クリストファーとその母親が去っていったその月、わたしが稼いだ金はたったの九ドルで、それがつい三年前のことなんだ。文無しのわたしに金を貸してくれたエージェントのスコット・メレディスの親切がなければ、とても食いつなげなかったろう。一九七一年には、本当に友人たちの家をめぐり歩いて、食べ物のほどこしを乞うありさまだった。いっておくが、べつに同情がほしいわけじゃない。こんな話をするのは、かりにきみがいまそんな立場にあるとしてだが、きみの危機や苦境がいつまでもつづくものでないことを教えたいからだ。きみが勇気と分別と生きる意欲によってたぶんそれを乗り切れるだろうことを知らせたいからだ。
無教育な街娼たちが、言語に絶するひどい暮らしの中で生き抜いていくのを、わたしはこの目で見てきた。麻薬で脳が燃え尽きた人たち、自分の身になにが起こったかに気づくだけの思考力は残された人たちの顔を、この目で見てきた。切り抜けられないものを切り抜けようとする不器用な努力を、この目で見てきた。
ハイネの『アトラス』という詩にこんな行があるーーー「わたしは担いきれないものを担う」そのつぎの行はーーー「そして体の中ではいまにも心臓がはり裂けそうだ!」しかし、そればかりが人生じゃないし、わたしの小説にしろ、ほかのだれのにしろ、そればかりが小説のテーマでもないーーーたぶん、フランスのニヒリスティックな実存主義者をべつにすればね。一六世紀のスーフィー教徒の詩人カビールはこう書いているーーー「もし、生き抜いてつかんだものでなければ、それは真実ではない」
だから、生きぬけ。つまり、最後まで行きつくんだ。そのとき、はじめて理解ができる。途中じゃわからない。

(フィリップ・K・ディック 『ディック傑作集3 ゴールデン・マン』 浅倉久志・訳 早川書房 pp33-34)

 

・・・というわけで、フィリップ・K・ディックはわたしの中で最高のツンデレラなのです。



怪虫がー!!!チキン・ジョージがー!!!池垣くんがー!!!
「ぼ、ぼくの手!!!」

楳図をワールドワイドに喧伝したこのPVだけでわたしは満足です。ラウドロックだかなんだかヘッドバンガーズボールがなんだか、どうでもいいですけど、がんばってください。楳図マニア、とりわけ池垣くんが死ぬシーンで涙にむせんだ人ならばこの映像がいかに魂魄に迫るものか、おわかりいただけるでしょう。
「勉強はできないけど、やるぞ!」
ちょうど枕頭に「漂流」の2巻がいつも置いてあるので、感懐もまたひとしおというものです。


・・・おい、上原さくらも混じってないか???


Link : http://umezz.com/mt/archives/001329.html

youkaihunter2.JPG

「妖怪ハンター」を読むたび、神とは何か、と考えさせられる。

神は、いる。
神を信じない人は、実証的に自らの生活を敷衍する、という営為とほとんど無縁のひとだと思う。唯物論者のみなさん、科学至上主義のみなさんは、科学というのが果たしてどの程度の階位の「神」か、多くの場合、まるで知らないのだと思う。科学は"quid?"について、あらかじめ「人間原理」という逃避を持ち出して、その問いに答えることを「放棄」している。だから、科学というのは人間の識閾の外では何も語り得ない。だから、その外にあるものを語り得ない。そういう意味で、科学が万能だと信じている驕慢なみなさんは、真の神についてもう少し、敬意を払ったほうがいい。神の非在を証明することのできない懐疑論の無限ループが存在する以上、神がいる、と考えたほうが、自然なことが世の中には在りすぎるほどにある。それに気付いていないひとは、幸福な人々か、いや、まったくもって不幸な人だとも言える。レバレッジ経済の崩壊で市場万能論者、新自由主義者はこの世から一掃されつつあるが、さて、科学妄信者諸君はいつまでそこに安座しているつもりかな。ひょっとして、核戦争が起こるまで気付きませんか?そんなはずはないですよね。

そんなことはさておき、「闇の客人」のセリフがこころにひっかかって、初見からずっと突き刺さっている。

「鬼・・・そう 鬼とはもともと『隠』だった。目に見えぬ おそろしい神霊を 鬼と呼んだのだ・・・・・」



外来的なgodの概念はわたしにはア・プリオリなものではない。わたしが信じているのは土着的な「カミ」の存在だ。わたしはhate godだが、他方で、「カミ」をずっとずっと怖れている。

我々の血肉の一部として共犯関係にあり、空気の中に、思弁の中に、ありとあらゆる我々の近傍に存在し、また、我々がけっしてそこから離れることのできない存在。それは我々の与り知らぬものであり、我々はそれに触れてはならない、その土地に足を踏み入れてはならない。禁忌はそこから生まれ、規則が派生し、文明は紡がれてきた。ひとたびその禁忌を忘れたなら、ひとはどこまでも驕り、そして、カミの怒りに触れ、滅ぶ。

よくある話ではないか。


巷で話題の西部謙司・著の「サッカー戦術クロニクル ~トータルフットボールとは何か?~」を読了。
帯には「戦術をここまで語った本はありません!!!」と殺気立った売り文句が踊っているが、まぁ、誇張ではないだろう。リヌス・ミケルスの1974年のオランイェは耳にタコができるほどどっかで聴いたことある話ばかりだが、ほかと違うのは「でもこいつらより先にトータルフットボールをやっていたチームはあったのだ」という展開へ接続させることを前提に書いていること。「戦術を語る」と大々的に喧伝しながらも、裏では「サッカーは戦術ではない」という素晴らしいスタンスをハッキリと提示しているあたり、すごいと思う。確かに、そういう意味ではいままでのサッカー本ではなかった種類の本である。オシム監督の影響が伺える。

いちばん心を打ったのは、第二章の「ACミランのルネッサンス」。靴のセールスマンから果てはアッズーリの監督にまで上り詰めたアリゴ・サッキの殺人機械の話である。これは、サッカーファンなら概要くらい最低でも知っているだろう有名な話だが、知っているつもりが実は肝心な部分を見落としていたりするもので、サッキのACミランが世界に衝撃を与えた驚愕の4-4-2がどのようなものだったかをここまで体系化してロジカルに説明した文書をわたしは読んだことがない。是非一読するべきである。日本のサッカー界でもプレスやハードワークの重要性を説くことはもはやトレンドとなっているが、どうも本質を見誤ってはいないか、という感がある。コンパクトフィールドもフォアチェックも目的ではなく手段である。そのことをこの章ではこれでもか、とばかり言っている。特に「サッキのプレッシングとは、いわば敵陣でのカテナチオであったのだ」という文章には、思わず胸が切なくなり、心が震えた。
ACミランはバレージとルート・フリットとファン・バステンがいたから機能したのだ。
1974年のオランイェはクライフがいたからこそ機能したのであり、モウリーニョのチェルシーはドログバとマケレレ頼みだ。
この本を読めばそれが痛いほどわかる。あのオシム監督もリスペクトしているというアルゼンチンの名将メノッティ監督の名言が心に残る。「サッカーが進化するのではなく、サッカーをやる人が進化するのだ」。また、オシム監督はこうも言っておられたはずだ。「人があってはじめてシステムが生まれる。システムが人を超えてはならないのだ」。

ヨハン・クライフが率いたアヤックスとバルサの3-4-3の基本理念は、「プレッシングなぞクソだ!!!そんなものテクニックさえあればどうにでもなる」。サッカーとは戦術のスポーツではない。クライフはサッキ以降、プレッシングの病理に苛まれた現代サッカー、ハードワークとスプリントのサッカーを「ノーテクニック」と一蹴した。

当然、個人技で劣っているチームがそれを補うためにシステムを使って連携していくのであり、わたしはシステムを否定しない。徹底的に計算されたオートマティズム、ロバノフスキーやサッキやモウリーニョのサッカーも観ていて楽しい。「ジャイアント・キリングこそサッカーの醍醐味である」を標榜するわたしとしては、たとえノーテクニックでもきちんと組織サッカーを忠実にやろうとするチームを絶対的に支持する。
しかし、そこに人がいることを忘れてはならない。システムありきではなく、まず人ありきでなければならない。システムが人を支配するのではなく、人のもとにシステムを造らなければならない。サッカーだけではない、実社会でもそうだろう?そう思わないか?後輩の出来が悪いのは、上回生がちゃんと教えてないからだろ。しかる前にきちんと教育しろよ。そうしないと出来るものも出来んだろうが・・・おっとっと。


ヴンダーチームとマジック・マジャールに言及し、かつそれにスコットランド・サッカーをリンクさせるという独自の仮説も提唱している辺り、戦術論を超えてサッカー史の研究としても興味深い。とにかく、この内容で1500円は安いと断言する。初心者にはやや敷居が高く、サッカーファンには既出ネタばかり、という「帯に短しタスキに長し」感は否めないが、一読の価値はある一冊である。
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自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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