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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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「ファーゴ」シーズン3(year3)をAmazon Prime Videoで完走する。
コーエン兄弟がなぜあのような(良くも悪くも)ドストエフスキー的な韜晦に満ちた作品を作り続けて人心を惑乱し続けているのか、その理由がようやくわかったような気がする。コーマック・マッカーシーの小説を映画化したオスカー・ウィナーNo Country for Old Menに特に顕著だが、突然キャラクターが人生についての長広舌を述べ始める毎度おなじみの観客をイラつかせるシークェンス(これは同時にウラジーミル・ナボーコフがドストエフスキーの小説についてボロクソに論難した要素の一つでもある)がなぜ彼らの映画に必要だったかも、このドラマを観ることで初めて理解できたような気がする。
オリジナルの「ファーゴ」を観たのはもう15年も前の話なのでシノプシスすらもう覚えていない・・・それでもダイナーでフランシス・マクドーマンド(そして彼女はこのTVシリーズ全体を貫く共通のアイコンとなる)がカメラの向こう側の我々に対して語った言葉は概略こういうものだった。「なぜ彼らがあのような蛮行に至ったのか?私にはわからない。なぜ善良に生きられないのか?他人の命や財産を平気で奪うのか?私にはわからない」これはそのまま、これ以降のコーエン兄弟の映画に形を変えて現れ続ける一種のオブセッションであったことは疑いようがなく、この一連の「ファーゴ」クローンもまた同じ問いを投げかけることとなり、そしてそれはこの現実とその現実を生きる他ならぬ我々自身の間で果てしなく乱反射を続け、それらは無数の線を描きやがてこの世界を満たしていく。
もちろん、それに異議を唱える者たちは大抵とんでもない悪党として画面の中に現れる(そして死ぬ)。一方で、そうした人間のクズが実際のこの世界のどの類型に当てはまるのかをこの物語は決して断定しない。その理由は簡単だ。第一に、コーエン兄弟は神ではない。誰がクズで、誰が偉大だったか、それを我々はいつも事後的にしか言明できない。そこにはある種のウィトゲンシュタインのパラドックスが存在し、それに言及することが逆にこの物語の強度を高めていたとも言える。そして第二に、世界とはそういうものだからだ。我々は両方の側に属している。善人にも悪人にもなれる。どっちのユアン・マクレガーが正しかったのかはもはや誰にもわからない。が、それでも一つだけ確かなことがあるとしたら、それは悪に与することの方が簡単だということだ。作中のヴァーガが嘯く様々なマニフェストは、悪人が自らをどのように正当化するかを実にわかりやすく教えてくれる。「世の中がおかしくなるのは悪があるからではなく、善があるからだ。だからみんな混乱するんだ」ヴァーガは本当に不快な人物であるが、この言葉には部分的にではあれ、一定の真実が含まれる。そして逆説的に、そう言いながら道を踏み外していく人間の(つまりはヴァーガ自身の)愚かさを証明してもいる。この物語がyear2に続いてまたしてもオープンエンディングで終わったことも理解できる。もはやヴァーガがどうなるかを説明する必要はないのだ。エントロピーに従い唯々諾々と生きる人間はおそらく皆例外なく愚かだ。悪人とか善人とかそういうシンメトリーを持ち出す以前に、彼らは自分がバカだとわざわざ自己申告しているようなものだ。重要なのはこうしたアナロジーであり、この物語の本当の偉大さはここにこそある。
このとんでもなくナスティーなグラインドハウス神学の極め付けは何にも増して素晴らしい。魂の浄化はボウリング場で行われ、レイモンド・スタッシーは猫に生まれ変わり、なぜ我々が易きに流れるべきでなく、困難であろうとも世界を支配する混沌や狂気と闘わねばならないのかを教えてくれるのだ。


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(以下のような記事を投稿することに若干の心苦しさはある。このエントリーを一読する限り、私はゼロ年代以降突如として隆盛を極めたアイドル文化に懐疑的な人物であるかのように思えるが、それは必ずしも真実ではない。そしてノイズ・ミュージックに対して限りなく否定的な保守反動的な人物であるかのようにも思えるが、それもまた同時に真実ではない。BiSは紆余曲折を経て復活し、BiSHは異形のアイドルとしての衣鉢を継ぎ、優れたアイドル・ソングを発表し続けている。非常階段についても、彼らの常に実験的で先進的な存在たらんとするスタンスには敬意を表したい。ただ、そうした思いとは裏腹に、いまのシーンに対する曰く言い難い違和感が抑えようもないこともまた、否定しようのない厳然たる事実である。この文化はうまく機能しているように思える。アーティストもリスナーもパブリッシャーも、全てがハッピーなように思える。一体どこに問題があるというのか?それに対する私の(BiSやBiSHを愛聴する私ではない第二の私の)見解はこうだ。なるほど彼らは(我々は)寸毫の隙もなくハッピーだ。でもそれは表面的な偽りの幸せだ。我々はこの文化の中で、まるでブリューゲルの絵画の登場人物のようだ。これは偽りだ。これは明白な虚構だ。ここには何か、悪しきミス・ディレクションがある。我々はここにおいて三位一体の共犯関係めいた何かに加担している。つまり我々は・・・我々は何かを必死に隠そうとしている。こうした違和感を私はなんとか言語化しなければならなかった。以下に綴る辛辣な、しかし時に憐憫に溢れた、実に直情的な文章は、2018年現在のこの国のサブカルチャーに対する私の両義性に満ちた名状しがたい不安定な感情を記録しようとした試みなのだ。)

AmazonプライムでBiSHの曲を数曲ストリーミングする。これと前後してBrand New BiSの楽曲も聴いていたのだが、やはりBiSは何か「場」のようなものであって例え中の人間が入れ替わろうとBiSという場があり続ける限りはそこで作られる音楽はBiS独自の何かであり続けるのではないかというような気がする。とこう書くとなんかポストモダンっぽくてすごい嫌なんだけど、だからと言ってBiSを神格化する必要はどこにもなく、BiSの持つ「場」は堅牢でこそあれ、そこまで称揚する価値があるかというとそんなことは全くない。メジャーなアイドルには満足できないがそこそこ可愛い姉ちゃんがちょっとニッチな音楽を歌って踊っているステージを遠目で腕組んで見ながら自らの境涯を少しでも美化したいおっさんが勝手に興じていればいい。ただそれだけのものだ。BiSの持つ「場」はBiSHには作り出せない。でもBiSだってそんなに褒められたものではない。BiSはBiSであってそれ以上でも以下でもない。つまりはそういうことだ。私は若い頃の自分の思い出としてBiSに対してそれなりに思うところはあるが、他の人にとってそれがそこまでの価値を持つものだとは思わない。少し嫌な言い方になってしまったし自分だけ傍目八目を決め込むのもフェアじゃないとは思うが、でも多分みんなBiSにワーキャー言ってた一方でやっぱり心のどこかでは違和感があったのではないかと思う。特に私のようにアイドルについては門外漢ではあってもディスクユニオンの新宿エリアを休日ひねもす彷徨しては90年代のインディー・ロックをスナイプすることに血道を上げるような典型的なギークにあっては、なおさら。もっと言えばその違和感はかの大名盤「BiS階段」でも完全に解消されたわけではないのだ。あのアルバムもみんな褒めているし私も愛聴してはいるが、結局はアイドルソングをCDで流している横でJCからメタゾネだのソーダメイザーだのを直列カスケードしただけのとてつもなく頭の悪いペダル・チェインで作った誰にでも出せるディストーション・ノイズを垂れ流して悦に浸っている還暦間近のビートたけし気取りのおっさん(JOJO広重)のマスターベーション以上の何かがあると言われれば、実は、全然ない・・・。ただあの録音で奇跡的だったのは、非常階段の音楽がはっきり言ってキング・オブ・ノイズだとか言って鼓吹するほどの価値もないペラペラの音の塊でしかなかったことを再発見すると同時に、そのゴミのようなノイズに侵食されながらBiSの楽曲のクオリティはオルタナティヴ・ロックに散々振り回されて人生を棒にふる一歩手前のまるでクリトリック・リスの「桐島」と化しつつあるおっさんが作ったおっさんによるおっさんのための痛々しい自己憐憫の域を全く出ないものではあれ、だからこそ、それゆえに、そうして90年代を過ごしていつの間にか人生の終着地点にたどり着いてしまった因果な人々の一つの青春の記録として万感胸に迫るものであったということだった。だからあのアルバムの主役はBiSではなく、非常階段でもなく、90年代という時代から今だに卒業できない全ての「桐島」たちだったのだ。だからBiSの音楽そのものが何かロック史に残るとんでもないパンテオンだなどとはまるで思わないし、「BiS階段」ですら10年後も相変わらず世界に生産されているであろう(そして惨めな、報われない毎日を送るであろう)第二の「桐島」たちが改めて省みるほどの価値があるとは間違っても思わない。そうしてBiSに対して屈折した思いを抱えていたからこそ、BiSHにはどこか期待するものがなかったわけではない。BiSではついに得られなかった音楽的な満足を今度こそ、という思いがまるでなかったわけではない。でもやっている音楽はほとんどBiSと見分けがつかない上にオルタナティヴ・ロックの劣化コピーであるBiSの更にクローンなのでアイデンティティがより希薄になってしまっているというか・・・。まあそれだって「桐島」にとっては十分なものかもしれない。でもそれで本当にいいのだろうか?今、この国では長い雌伏の時を経て冬眠から覚めた掃いて捨てるほどの「桐島」たちが群れをなしてライヴハウスに出没しては、こういうマイナー・アイドルに大枚を投資してしたり顔でのさばっている。大声でMIXを唱和する。サイリウムを振っている。物販でノベルティを山のように買う。この状況が本当に好ましいことか?いまのアイドル・ソングがかつてとは比べ物にならないほど多様性に富んでいることはわかる。でも、だからなんだ?結局「桐島」たちは何に夢中になっているんだ?これはもはや修辞疑問である。答えはもう出ている。「BiS階段」が世に問われたその瞬間に答えは、「桐島」たちに対する最後通告はすでにもたらされていたのだ。こんなに残酷なことがあるだろうか?「桐島」たちの末路がこんな形になるとは夢にも思わなかった。これは大いなる歴史の皮肉だ。資本主義が嫌だった。大人が嫌だった。でもここで行われていることは社会の完全なミニチュアだ。結局、革命は行われなかった。世界は何も変わらなかった。みんなもっと早く夢から醒めるべきだった。でももう戻れない。もう遅過ぎるのだ。

クリント・イーストウッドの映画に通底する思想がことごとく安直なリバタリアニズムでしかないことに気付くとき、彼が巧みにエクスプロイトしてきた自由の神話はたちまち色褪せるだろうか。或いはそれでもなお、彼の誣告する正義の力学はこの世界に意味を持ち続けるだろうか。観客や批評家がクリント・イーストウッドの映画を称揚するとき、彼らはしばしば禁欲主義的なナラトロジーを評価する。静謐でそれが故に強固な、そして何より重厚な物語に彼らはこの世界の縮図を見る。それが映画芸術そのもののセントラル・ドグマを指針する画期的な何かであるかのように吹聴しさえする。しかしそうした論陣が見落としがちな単純な事実として、クリント・イーストウッドの映画はその寓意性が故にまさに宗教的なノイズを孕み過ぎている。その意味ではやはり、クリント・イーストウッドの作る車や飛行機やアメリカ軍の映画はおしなべて皆一様に原理主義的なアイコンであり、何かのドグマに接近し得るものと言わざるを得ない。でもそれは映画のドグマではない。それは彼が、というより、アメリカという国そのものが奉ずるある種の神学にまつわるドグマなのだ。そしてもっと言えばそれは神学というよりもむしろ、病理とでも換言すべきものなのだ。荒木飛呂彦はクリント・イーストウッドはもはや一つのジャンルなのだと言った。でもそれは少し違うと思う。クリント・イーストウッドはある種の人々にとっては宗教であり、リバタリアニズムの迂遠な礼賛であり、そしてそれ故に自由という言葉の再定義を我々に迫るものだ。彼が雄弁に唱道するテーマそのものはジョージ・ミラーのポスト・アポカリプスでスチーム・パンクな燃料噴射装置付きの自殺マシーンと何ら変わらないように思えるのにもかかわらず、また、彼の映画からはリベラルホークからオルト・ライトまであらゆる政治的な背景雑音が賢しらにトリミングされているのにもかかわらず、彼がプロットする物語はその枝葉末節から中枢に至るまで全て例外なく、人々が神に対してスケール不変的に支払い続ける負債を所与の事実としてこれを斥けず、むしろ肯定し、そしてその負債を返済する行為こそが我々の自由なのだと説く。神が債権を取り立てて人に試練を与え、与えすぎて時に人を殺めもすることを絶対に譴責してはならない。我々はそれを甘受しなければならない。クリント・イーストウッドの映画においてはそれを超克することこそが人間に許されたほとんど唯一の自由であり、その努力を怠る救いがたき衆生は例外なく自由を脅かす敵である。敵?いや、敵ですらない。天国行き負債完済モノポリーに賭け金をベットしない人間はスプロケット・ホールの向こう側でただ置き去りにされ、瀆神的なファズ・ギターを奏で続ける脳の25フレット目をタライラッハ座標で完璧に撃ち抜くスイング・ジャズの凶悪極まる死の鉄槌でファイナライズされる。クリント・イーストウッドのチェス・ボードには仕掛けがあり、刻まれた軌道に沿ってしか彼らは進むことすらできずオイラーの定理に忠実に人生の終着地点へ最短距離で送り込まれるその瞬間までドーリー・カメラのこちら側で神を、正義を、愛を、そして何より自由をブート・アップし続けねばならない。クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」は例えばそういう映画だ。社会は自由だ。システムがそれを保証するかどうかにかかわらず、本質的にこの世界は自由だ。天啓にも似た突発的な愛国心に駆られてネイビー・シールズに志願するのも自由だ。ロメロとオーウェルの二人のジョージやアントニー・バージェスならそれを殺人マシーンと呼ぶだろうが、クリント・イーストウッドにとってはそれは自由の正当な行使であり、誰憚ることなき神への跪拝なのだ。兵士は神への負債を支払い、天国へ行った。それがこの映画の讃えるドラマだ。イラクでプラスチック爆弾をくくりつけられて爆殺された少年も神への負債を支払い、天国へ行った。それがクリント・イーストウッドがリアリズムの向こう側で敬虔に語る自由のあるべき姿だ。自由だ。全ては自由だ。
ところでノイタミナで2017年の1月〜3月期に放送されたアニメ「クズの本懐」は、そうしたクリント・イーストウッド神学とは別のアプローチでリバタリアンたちの受難を描いた物語だ。このアニメを単に軽佻浮薄なビーバーフリックと考えるか或いは好意的にもストック・エコノミーの闘技場で乱れ飛ぶグリーン・マナリシのセキュリティー・ホールの間隙で奇跡的に組み合わされたポートマントーと考えるかは個人の自由だが、どちらにしろこのアニメの真のテーマは恋愛でもセックスでも人間のクズでもましてや日本の高校生たちのソーシャル・ネットワーキングを巡る社会論などでも全くなくて、他ならぬ自由だ。それもクリント・イーストウッドと同様に、レイシャス・アロイファス・ラファティの「カミロイ人の初等教育」でイマニュエル・カント以降連綿と人類の大脳新皮質にスルー・ホール・マウントされ続けてきた端倪すべからざる純粋実践理性を完膚なきまでに再起不能になるまで情け容赦なく粉砕したような意味での壮絶な自由だ。このアニメのキャラクターたちにとって恋愛とは破壊であり、自由とは収奪するものだ。そして自由とは神に対する負債を死に物狂いで返済する行為と同義であり、そこから逃れる者にはこの世界に居場所はない。彼らはもはやそういう風にしか生きられない。自由を巡って殺し合うことでしか生きていけない。精巧にデザインされたはずのオープン・ワールド・ゲームで神が訛伝した真理の残骸。それは分配の正義を根底から覆す致命的な矛盾なのか?それとも神の荘重なる企図に導かれた未知の宇宙定数なのか?クリント・イーストウッドなら答えは決まっている。クリント・イーストウッドは自由におけるコペンハーゲン解釈をことごとく否定する。それに対するラスコーリニコフ的な逡巡すら彼は断罪する。ある人間はそれを手にいれる。ある人間はそれを失う。ある人間は生き残る。そしてある人間は死ぬ。それが自由だ。そのトートロジーこそが世界の真実だ。天下に並びなき神の理路整然たる統一場理論ディレクターズ・カット完全版だ。ではこのアニメはどうだろうか。緩解されざるオブセッションを抱えた悩めるリバタリアンたちがある共有地で感情とセックスを通貨とした凄惨なゼロサムゲームに興じている。彼らは人体を用いた危険な極限計算を延々と続け、ある意味ではラスコーリニコフ的な演繹、自由のバックドアーを探る邪悪な微分をこの世界に対して挑み続ける。そしてその過程で彼らがプレーするゲームの性質が徐々に変化していく。この時点でこのアニメとクリント・イーストウッドは明確に違ってくる。クリント・イーストウッドにとって世界は静的なものであり全てはすでに完成されている。そこではキャラクターたちは神への負債を所与の事実として受け入れ、その返済のためのニーチェ的な闘争を続ける。他方でこのアニメでは自由はありのままに受け入れるものとしては決して描かれない。このアニメの自由に関する闘争領域は様々なマクガフィンを契機として段階的に別の導関数を持ち始める。つまり、今となっては極めてオールド・スクールな手法、ラスコーリニコフ的な直接話法の内的独白を通じて彼らは自由そのものに闘争を挑むようになるのだ。もちろん、それが故にこのアニメの結論はクリント・イーストウッドのそれよりも残酷なものだとは言える。彼らが支払うべき神への負債はまたぞろ加算され、かつては単純明快なものだったはずの自由の弁証法は難解極まりない異教徒のマントラと化し、全ては寓意性を失い蛮土僻隅の無秩序へと帰っていく。ここには例えばオルト・ライトのポピュリストやブライトバード・ニュースのアジテーターが賢しらにモラルファグするリベラリズムの限界が確かにある。定言命法や個人の自由意思ではポスト・トゥルースのこういったパラドックスは解決することができない。クリント・イーストウッドなら答えはシンプルだ。ラスコーリニコフはあくまでラスコーリニコフに過ぎない。自由を巡る闘争そのものを剔抉してはならないし、その愚挙に及んだ者はこの世界から、少なくともクリント・イーストウッドの想像上のアメリカからたちまち消去され、神への負債は次の犠牲者を探し始める。でもこのアニメは違う。不要だと思われていたキャラクターたちのフィラー・エピソードが集積し彼らの狂気と殺戮の旅がその終着地点へ近づいていくにつれて、作品を統べる多項方程式の知られざる最後の定数が明らかになり、結局はこのアニメもまたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がごとき一つの禍々しい曼荼羅を織りなしていたことに、不可解ながら我々は気付くことになる。様々なディテールが絡まり合い、リバタリアンたちが見出した答えがまさに逆巻く自由の混沌によってしか継起され得ない必然的な結論であったことに我々は最後になってようやく気付く。ある者は神への負債を巡るゲームに勝利し、またある者は無惨にも敗れ去る。ゲームの終わり。しかし終わりはない。どちらの側からも見える景色は一様に超現実的であり、かつてゲームを始めた頃に考えていた終わりとは似ても似つかない。混沌の果てに彼らが見出したものはやはり混沌であり、一度手にしたはずの自由は細切れのペンローズ・タイルとなってまた世界に散らばっていく。彼らは戦うべきゲームが別にあることを、そして今まさに次のゲームが始まりつつあることを知る。最後になって彼らはようやく知る。クリント・イーストウッドが巧みに覆い隠す世界の二周目の姿を彼らはその時ようやく垣間見る。世界は再び混沌に落ち込み、狂気がこの都市を、空を、地平線を、人々の欲望と肉体の痙攣と断末魔の絶叫が乱反射するガラスの箱庭を覆っていく。自由を巡る物語はまたもや不条理で横溢し、ゲームの規則が再び書き換えられる。もちろんこのアニメはそのあとのゲームの姿までは描かない。キャラクターたちが自ら次のゲームへ向けてスタート・ボタンをパンチしたところでこのアニメは突然終わる。そのあとの世界を戦うのは語られざる結末の向こう側の彼らであり、そして、ほかならぬ我々自身なのだ。


   驟雨に包まれた海辺の沼沢地がおれには地獄の辺土に見えた。ビニール・シートの天蓋は風に煽られればたちまちバッファアンダーランエラーに陥り、その過負荷を地上2メートル分の加速度が乗算された雨水に変換して地面に出力して、そしてヌカルミでできたフロアはパブリック・アドレスの絨毯爆撃がレア社謹製のスーパー・ドンキー・コング式スプライトの大群の魂或いはコーディングされざるその他すべてのものを電子の箔押し加工で浮き彫りにするたびに尊敬措く能わざるポロロッカに見舞われては極小のブロブ片を空間に射出した。オープニング・アクトのどうでもいいジョバーを横目でやり過ごすにはいつもなぜか卓抜したテクニックが必要とされるから、おれはシオドア・スタージョンの「マエストロを殺せ」(柳下毅一郎訳)を読み進めることにして、醜いフルークが謀殺したラッチ・クロウフォードの残響にパワー・アンビエントされ徐々に緩やかにジョン・ゾーン式コブラ・ゲームの棋譜に踊る微分方程式並みの厳正さで発狂していくマジック・リアリズムがなぜかおれの現実にシンコペートしてきてそれは心地よい細切れのアナログ・ディレイのように虚構と現実の懸隔を双方向的に浸食し重大な精神汚染をもたらす。スキッドが弾いていたのはおそらく、周囲24フレット分とあとその先の人生数十年分に壊滅的な打撃をもたらす真に魔術的なファズ・ギターであり、だからこれはノルウェーのデス・メタル・バンドの小説でもよかったしベオグラードのスラムでライバッハのブートレグを聴きながら発狂するムスリムの少年の儚くも妙なるモンタージュでもよかったし、或いは雨の松江のライヴ会場でスタージョンを読みながら無聊をかこつコミュニケーション障害の27歳のおれに降りかかるそのあとの或いはもっとあとの数奇な運命を象る何かであってもよかった。とにかく、おれはおれのビアンカの手が現れるのを待っていた。おれのデス・クリムゾンが、おれの四八(仮)が、おれの超光戦士シャンゼリオンが現れるのを待っていた。それはこの瞬間でなくても或いはそのあと或いはそのまえ或いはそのどちらでもない謎の余剰次元におけるまだ見ぬ邂逅であり、そしてそれはやはりそのときではないはずだったし実際にそうだった。うみのてのライヴが始まった。いつもならDJブースに喜捨されるはずのサブ・ステージがたちまちシールドのスパゲッティで埋め尽くされ、リゼルグ酸ジエチルアミドのグリーン・マナリシがアラモゴルド砂漠に刻まれた巨大なペンタグラムに降臨しB17爆撃機のレギオンを核実験のクレーター上にフルメタルの星座としてバンプ・マッピングするに吝かでない状況が現出する。フェンダー・ジャパンのパステル・カラーのジャズ・マスターは2段直結回路のダーリントン接続でエレクトリック・レディ・ランドのウォッチ・タワーへとたちまちバッド・トリップして頭蓋骨を叩き割る。ラッチ・クロウフォードの残響を電光火花の彼方に垣間見る。光あれ。ディギン・イン・ザ・カーツ。クラークスデール空軍基地でサーキットされたE3のマイクロソフト・ブースでジョーズ・アンリーシュトをはじめてプレイした人たちの気分はたぶん、日本版ローカライズ「ブリー」が800円でディスカウントされている島根のバイブル・ベルトでもきっと、ミッドウェイ・ゲームズのあの邪悪なフェイタリティのグラフィック・アートに忠実にハイウエスト・ニーレングス・インバーティド・プリーツ・スカートで武装した女の子を鋼鉄のソーセージ・スタッファーへと送り込んで切り刻むときですら確実に、きっと確実に、こんな感じでイカレていたのだろう。おれは或いは彼が或いは彼女が或いはその他すべての脳が腐りかけた小心翼々のサタニストたちはみな、寄木細工のアフロ・フューチャリズムが網膜に直接ベクタスキャンするケン・ケリーのマノウォーのジャケット・アートのオイル・ペインティングが如き16ビットのソーフィヤ・セミョーノヴナの下腹部のアルビノの皮膚に欲情して地面に激突してバラバラになる。おれたちはいつもそれが何かとても価値のあるものだと思いたくて、価値のあるものを価値のあるものだと思うおれたちを価値のあるものだと思いたくて、緩やかにオーバードーズし気付いたときにはもう脳ミソがスキャナーズ爆発を起こして粉々に飛び散ってウィーン・アクショニズムで描いたアルタミラ壁画のクローンとして永遠になる。ライヴが終わる。永遠になったおれたちはもう永遠ではない。永遠ではなくてここは邪知甘寧に満ちた死の世界。永遠はない。終わりはない。見えない敵が我々を攻撃する。OBEY, CONSUME, MARRY & REPRODUCE. おれはロディ・パイパーを見つける必要があった。即効性のイデオローグを、陰謀論に跪拝するためのデザイナーズ・ドラッグを、オールトの渦状雲で覆われた電離層にたゆたうソーフィヤ・セミョーノヴナを、おれは見つけ出さねばならなかった。存在しない女。物販で高野京介から手売りでCDを2枚買った。いま手元にはそのときに買ったうみのての「イン・レインボー・トーキョー」(メンバー全員のサイン入り)と、高野京介と1997年の「The End of Youth」がある。ライヴが終わっておれたちはつけ麺を食べて家路について次の日には普段通り仕事をしていた。もう永遠ではなくなっていたから大量のドレーン・チューブを内臓に接続して時空間をネジ曲げようとする不毛な術策を弄することもなかった。フルークとラッチ・クロウフォードの物語はその次の日くらいに終わりを迎えた。暗黒の物語。存在しない女。ビアンカの手、もはやMZ700のポンチ絵と化したソーフィヤ・セミョーノヴナ(であったものの四散した残骸)。農奴解放時代に既にENIACが稼働し、ドストエフスキーがATARI2600をプレイしていたなら、我々はいまごろゆみみミックスのエミュレーションにMODされ電子のカケラになって消えていた。存在しない世界。そうであったはずの世界。高野京介と1997年はスーパーコンボドライヴ(たぶん台湾製)でオン・ザ・フライ書き込みされたバルク品のCD-R(スタック・リングには日立マクセルのロットが刻まれている。きっと中国製)で、人体を油圧サーボアクチュエータで緩やかに確実に死に追いやるときのシーク・ノイズで水晶振動子に焼き尽くされワウフラッターでブランク・スレートを汚染した。存在しない女。高野京介がハイスコアガールのTシャツを着ていたことを思い出した。「おれたちはかつて二次元の住人だった。だから二次元の女しか愛せないのだ」「なるへそ~」「どんなに醜くても、それがおれたちの生きた証だ」この一連のシークエンスで押切蓮介は伝説になった。
「似たようなやつらと何かしでかそうと/大人になってもバカでいようねと/このコード進行が何かのパクリでも/このコード進行がくるりのパクリでも/それでもぼくは/それでもぼくは/おれがロックマン/おれはロックマン/おれがロックマン/おれが」
フルーク、ああフルーク。
おれはもう一度永遠になって、そして、またもとの生活へと戻っていった。


アラン・ムーアが近年のアメコミ・ファンダムについて「今日日アヴェンジャーズの映画をwktkしてるのは30過ぎのノスタルジーマンセーの大きなお友達ばかりでスーパーヒーローコミックはもはや本来の読者たるべき小学生のものではなくなってしまった。クソ嘆かわしい。ていうかグラフィック・ノヴェルっていう言い方痛くねえ?」*と発言していたそうで爆笑だが、別にこれはアメリカに限った話ではなく、NERDなサラリーマンが革命機ヴァルヴレイヴというクソアニメをわざわざモバイル・ストレージして通勤電車の中で不気味な笑みを浮かべて嗜みながら上司からの直電を着拒するという狂気の沙汰のようなCMをパブリック・アドレスしている我が国のアニメ界隈においてもけっして無縁ではあるまい。

変化に順応できない保守的で頑迷な思想的ヒルビリーもしくは改宗した隠遁ヒッピーの普遍的な脊髄反射と決めつけるのは簡単なことだが、アラン・ムーアにしろ富野由悠季にしろ宮崎駿にしろ、それがどんなに凄惨な自己憐憫に裏打ちされたものであれ、深謀遠慮に基づくミス・ディレクションを企図したものであれ、いつの時代もみな押しなべて言っていることは正論ではある。矛先はさまざまなれどいずれの論陣も市場の停滞や硬直化に対する危機感が根底にあり、結局毎度判で押したようにデモグラフィック:ナードな文化はそのうち行き詰るよ、というありきたりなご託宣にたどりつくものではあるにせよ、このアナロジーはさんざ使い古されながらも未だ説得力があるとはいえる。

ただ単にジャンル文化として如何なるクロスオーバーも否定しほとんど民族浄化にも似た強迫観念的なマニエリスムへと没していくことを潔しとする原理主義的なポジションと、より総体的に創造的破壊を是としてあらゆる文化的営為に積極果敢にコミットした総合芸術たらんとするリベラルなポジションのせめぎ合いの中で、その狷介で鼻持ちならない態度からまぎらわしいがアラン・ムーアや富野・宮崎は総じてやはり後者に類別される。

イギリスのニューウェーブSFがそれまでのA・E・ヴォークト的にしてサイエントロジックなウンコ疑似科学的なヒロイックSFを解体しいっぱしのスペキュレイティヴ・フィクションへと転生させたように、『ウォッチメン』はキーン条約を作品世界に仮構することでスーパーヒーローコミックをメタ構造に落とし込みジャンルを一歩上の次元へと引き上げた。それによってもたらされたポスト・モダニックな混乱とフォローワーたちの方法論ばかりが先行した手段と目的の取り違えという頭を抱えるような愚行は歴史につきものの残酷な皮肉であるとしても、そもそもの動機は純粋に、賞味期限をとっくに過ぎたジャンルに同時代性という付加価値をどう付与するか、という極めて建設的なもの。これはガンダムにしてもナウシカにしてもエヴァンゲリオンにしても同じ。セックス・ピストルズにしてもブラック・サバスにしてもニルヴァーナにしても同じ。閉鎖的な村社会と化した文化はムカつくし、意味がない。誰もがカビの繁茂した同じシンタックスの傘の下で、同じネットワークで、同じプラットフォームで、同じオブジェクト指向インターフェースで、同じコンテンツを嗜む。クラウド万歳。ニュースピーク万歳。これじゃスタンドアロンでゲルマニウム・トランジスター・ラジオのエアプレイをカーゴ・カルトしていた紀元前の昔のほうがなんぼか多様で革新的だったじゃねえか。そして人々はヴィデオがレディオ・スターを殺したときにようやく気付く。総ての文化はみな、最初はカウンターだった。付和雷同と右顧左眄の救いようのないチェーン・コンボでスプライトの隙間のヒット・チェックを小突き回すだけのジョバーなシステムからのフェイタリティな解放。あなたがボーン・サックで彼をフィニッシュする瞬間。そのとき、周囲に垂れ込めるハーシュ・ノイズに抗して自らの内部により強力なドローン・ノイズを作り出すとき、その衝動はひとつのサーキットとして形を成す。既成事実とこれを推進する向きとの漠々とした対決。そう、それこそが文化だ。
クロウダディのポール・ウィリアムズもニルヴァーナのSLTSについて同じようなことを言っていた。
停滞と中庸と正統墨守に唾棄し、WYSIWYGの魔手を逃れ、パワー・サプライのない未開の沃野へと敢えて踏み出すこと。ここに大衆性が加わるに如くはないが、或いは変革というアクションそのものが自ずと娯楽性たり得るのかもしれない。

でもここで留意すべきは、これは文化が真に革新的な価値を持ち得るときのあくまで一側面に過ぎないということ。上記に挙げた例はそのハードコアに少なからぬ批評性を抱懐したものであり、その効用が浸潤する速度の差こそあれ皆一様に、ユーザーはこのパッチを実装することで須臾の一瞬ののちに自らをアップデートすることができた。この場合、文化はそれこそ速効性のキラー・ジョイントとして我々の脳を上書きし、我々はそこで批評性という干渉縞の向こう側に新たな地平を垣間見るのだ。

しかしながら、批評性は別にstuffそのものに内在していなくてはならないと決まっているわけではない。あまつさえ批評性は相対的なものでしかないのだから、経年劣化に対する耐性と鋼性にそれを付与するのはたいていの場合、歴史的な文脈や当世社会のパラダイムでしかありえない。 アラン・ムーアだって、小学生に享受される存在としての無慮数千年に渡り連綿と続いてきたヒーロー・パルプの伝統を別に否定しているわけではない。彼は何ら目新しい批評性を持たないジャンル文学は人類の進歩に貢献しないから焚書坑儒しろと言っているわけではないのだ。彼はいい年こいたオッサンがジャンル文学を何か意味があるものとして自己言及性だのシミュラークルだのポスト・モダンの祭壇に上げて玩弄する現状を批判しているのであって、むしろここで論難されているのは「批評性」というテクニカル・タームによって巧みにカモフラージュされた、自らのオーラル・ステージとの離愁に未だに拘泥しつづける者たちの醜い自己憐憫であるといえよう。

このアナロジーを証明する平明にしてそれゆえに極めて致命的な自傷行為となり得る例示はいくらでも思いつける…エヴァンゲリオン以降市場を公然と跋扈した物語の破綻と語り手の凄惨な自己陶酔を糊塗するためだけのオープン・エンディングの粗製濫造(とそれを許したポスト・モダニズム・ジャンキーたち)、グランジ・カルチャーをバロウズ文学やそこから自ずと継起的にサマー・オブ・ラヴの残像と併置させたまでは良かったがメイン・ストリームに対するカウンターというアナロジーに妄執するあまりその音楽性の根本に厳然としてあったはずのブルー・オイスター・カルト性やブラック・サバス性その他もろもろのメタル崇拝をものの見事に見落としてしまった批評家たち(とそれを許した数多のポーザーたち)、等々。これらはほぼ例外なくデベロッパーとエンドユーザーとの醜悪な癒着関係がもたらした文化的な停滞であるといえる。文化の批評性を安易にパブリック・ドメインとしてパッケージしたことによって、そのトリップを永続させんがための両者の利害の一致は結果的に文化の批評性そのものの滅失を招いてしまうのである(批評性は相対的なものであり、つまり後付けのものだということは先に述べたとおり)。

蓋し、批評性とは、最高のトリップをユーザーに約束する強力なデザイナーズ・ドラッグである。少しだけ自分の知覚が拡張されたような気がして、たちまちこれまで自らを囲繞してきた文物や過去が色あせて見える。例えば「けいおん!」等の日常系アニメにおけるアンチ・クライマックスにしてアガペーが横溢し個人的な感情を失った死の世界のヴィジョンに籠絡された人々は、たちまちそれまでの普遍的な文法で書かれてきた物語が前時代的でオールド・スクールに見えて仕方なくなり、「魔法少女まどか☆マギカ」とかも手法としては手垢にまみれていて日常系の革新性には及ぶべくもない、と本気で言っていた論客すらいたものだ。反対に、「魔法少女まどか☆マギカ」の病的なまでの厭世観に耽溺した人々も、同様にその他有象無象が社会性やリアリズムに欠けた茶番劇に見えて仕方がなかったそうな。
でも所詮はドラッグであるから、グラスやコークやアシッドがそうであるように、それがもたらすものが如何なるグッド・トリップであれ、いずれはそこから目覚めなければいけない時間がやってくる。

「大きなお友達」とはしばしばデモフラフィック:キッズな文物に傾倒する成人男性を指す蔑称として使われる。例えばハピネスチャージプリキュアや銀河にキックオフ!をHDDにストレージしていた人間がこれにあたる。反面で、この定義はときに同属嫌悪のネガティヴ・キャンペーンとして悪用されている実態もある。例えば「魔法少女まどか☆マギカや化物語やエウレカセブンを嗜んでいるクールな我々は毎週プリキュアだのアイカツだのに憂き身をやつし続ける大きなお友達みてぇなキメェ連中とは違うんだよ」といった具合に、自らの優越性を賢しらに誇示するために。そしてこの排他的な学閥は押しなべて、「魔法少女まどか☆マギカやエヴァンゲリオンはプリキュアと違って崇高な意味があってとても文学的で哲学的でカックィー」というテーゼを妄信しているものである。要は「あのアニメはあくまで大人向けのものであり、ガキ向けのhenshinアニメに人生を捧げているキモい人たちとはいっしょにしないでください」という免罪符として彼らは批評性ドラッグを濫用しているのだ。権威主義に額づくブタどもが!

冒頭のアラン・ムーアの発言においても、「グラフィック・ノヴェル」というラベリングによってヒーロー・パルプを何か高踏的でアカデミックなものとして過剰に崇拝する批評性ヘッズを痛烈に批判していたはずである。我々はサブカルチャーを批評性ドラッグのキャンディー・マンの魔手から救い出すべきではないのか?そして、デモグラフィック:キッズのアニメはもちろん、あまつさえソフトポルノとしての効能しか持ち得ないエクスプロイテーションのアニメをも不当に蔑視するような「批評性」は、逆に文化を停滞させてしまうのではないのか?さよう、これは修辞疑問である。答えはもはや明白である。

それゆえに「魔法少女まどか☆マギカ」や「YU-NO この世の果てで愛を唄う少女」を言論がことさらに顕揚したように、「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」や「ストライク・ザ・ブラッド」のような傑作エクスプロイテーションにおいても同様の賢慮が注がれることを願ってやまない。両者はテレビアニメという象限における記号的な性表現の可能性を考究し、フリーダム・オブ・スピーチの臨界点までペドファイルやボディ・フラッシュやパンツ・エクスポージングをエクスプロイトせんとした、まさにアニメ表現の人跡未踏のエクストリームを標榜する荘重なる企図である。

したがってわたしは「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」の毎話の劈頭を飾る「BINKAN(機種依存文字)あてんしょん」のベーストラックの耳を聾さんばかりのMVYMRが現代音楽の極北を指針し得るものだと半ば本気で思うし、第6話Cパートの「メタルギア・ソリッド」パスティッシュがシャフトのスタジオ・ワークを完全に凌駕していたことはおろか、さだめしエマニュエル・ルベツキのドーリー・カメラの魔法にすら伍するものであったと信じて疑わない。

「ストライク・ザ・ブラッド」(以下STB)についてはもはやここで駄弁を弄するまでもない天衣無縫の大傑作であるが、その勝因は限られたデベロップ資源を世界最強の吸血鬼や半人半獣キメラやホムンクルスや古代兵器ナラクベーラや空間転移魔法や錬金術師その他もろもろのガジェットが筐底狭しとベルト・スクロールで乱れ飛ぶ複雑なタペストリーを織り成す作業にではなく、パンチラ及びパンモロ及び乳揺れ及びパイスラ及びおっぱい全開のエクスポージングもしくはボディ・フラッシュとニンフェット及びLGBT及び触手及びコスプレ及びツンデレ及びハーレム及びラッキースケベの無限コンボを徹底的に描破し尽すことに注ぎ込んだことの一点に尽きよう。2クールに渡り「まったく、中学生は最高だぜ!」とエンドユーザー(成人男性、誇り高き社会不適合者)が滂沱と血涙を流しながら快哉を叫んだことは想像に難くない。最終回もパンツを両手で握りしめる主人公に女子中学生が「先輩のバカァー!!!」と叫喚しながら刀剣を振り下ろしてエンド・クレジットという寸毫の間隙もない鉄壁のエクストリーム・エロ・スペクタクルであり、全編に渡りエクスプロイテーション精神を貫いた製作陣には惜しみなき賛辞と万雷の拍手を送るほかない。完璧である。本気で傑作だと思う。この作品に限っては、作画が当代において必ずしも秀抜とは言い難い絶妙なスカム・クオリティに統一されていた点が逆説的に背徳性と劣情を昂進する要素のひとつとなったことも特記すべきところだろう。その時点で最高のスペックを誇示するプロダクトが必ずしも時代の覇者たり得ないことは、数多の故事が雄弁に物語っているとおりである。ストーリーそのものをソフト・ランディングさせつつセカンド・シーズンを予感させるオープン・エンディングの余白も残すシリーズ構成の手腕も非の打ち所がない。そして何よりラッダイト的文明批判や鼻クソのような功利主義の垂れ流しや世界を照らすアガペーなどの軽佻浮薄なDIY神学にウツツを抜かすことなく徹頭徹尾エロを貫き通した点が本気で素晴らしい。この作品に関わった人間は全員手のつけようのない天才である。テレビアニメにおけるエクスプロイテーション表現はこのSTBを里程標として更に高次のフェーズへと移行したといえよう。かように本作は総てにおいて一点の死角もない、まさに奇跡的な傑作である。

STBについてもうひとつ付言するなら、STBはセカンド・クールのエンディング・クリップのゲスト・ディレクター及びコンテ・マンにあの長井龍雪を招聘しており、最小限のリソースで最高のクレショフ効果をもたらすことに成功している。ホリゾントの一隅に無造作に打ち捨てられたCRTモニターを少女が無為に眺めていると、スクリーン上にラスタライズされていた男がいつの間にか少女の傍らで佇立している。男は少女の左肩に顔を寄せ、牙をむき、首筋を食む。その一瞬に閃く少女の表情は交歓に打ち震えているようにも思えるし、一方で迫りくるぬばたまの夜がもはや避けようのないものと知悉しつつある者の諦観のようにも思える。いずれにしろ、二人の姿は画角から幻影のように消え失せ、もはやそこに彼らはいない。あとに残されたのは明滅するCRTと、そして二人の絆をつなぎとめていた他愛もないプロップだけ。少女の表情を粗い解像度でラスタライズしていたCRTもやがて暗転し、そこで映像は終わる。完璧だと思う。これほどまでに思弁性と詩情に富んだエンディング・クリップはいまだかつて見たことがない。STBはあくまでエクスプロイテーションであり、それもこのうえなくエクストリームなポルノグラフィーである。しかしそれゆえにオーバードーズ気味の愚昧なポスト・モダン・ヘッズのプレイする空虚な批評性遊戯に抗するメタ批評性を内包する傑作たり得る。同時に、このSTBの放埓にして尾籠なカデンツァが淫蕩と妄動の果てに比類なき気高さを湛える至高のコーダによって掉尾を迎えるさまはどこか象徴的であり、その倒錯したパースペクティヴは言外の意図を我々にはからずも教唆しているようにすら思える。かつて我々はこういったものをこそ、文化や芸術と呼んでいたのではなかったか?

つまりはそう、まさにこれこそが文化なのだ。


* "I haven't read any superhero comics since I finished with Watchmen. I hate superheroes. I think they're abominations. They don't mean what they used to mean. They were originally in the hands of writers who would actively expand the imagination of their nine- to 13-year-old audience. That was completely what they were meant to do and they were doing it excellently. These days, superhero comics think the audience is certainly not nine to 13, it's nothing to do with them. It's an audience largely of 30-, 40-, 50-, 60-year old men, usually men. Someone came up with the term graphic novel. These readers latched on to it; they were simply interested in a way that could validate their continued love of Green Lantern or Spider-Man without appearing in some way emotionally subnormal. This is a significant rump of the superhero-addicted, mainstream-addicted audience. I don't think the superhero stands for anything good. I think it's a rather alarming sign if we've got audiences of adults going to see the Avengers movie and delighting in concepts and characters meant to entertain the 12-year-old boys of the 1950s."
(Alan Moore talks about Fashion Beast, Jacques Derrida and modern superheroes : http://www.theguardian.com/books/2013/nov/22/alan-moore-comic-books-interview)
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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