「ねえ、生きるってことは、罰なんだね」
「そうか・・・
僕らははじまりから総て、罰だったんだ」
「ゆり、やっとわかったよ。どうして僕たちが世界に残されたのかが」
「おしえて」
「君と僕はあらかじめうしなわれた子どもだった。
でも、世界中のほとんどの子どもたちはぼくらといっしょだよ。
たった一度でもいい、誰かの愛してるっていう言葉が必要だったんだ」
「たとえ運命が総てをうばったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。
わたしたちはそれをするために、世界に残されたのね」
「愛してるよ」
「愛してるわ」
「君たちはけっして呪いから出ることはできない。
僕がそうであるように。
箱の中の君たちが何かを得ることなどない。
この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵一つ残せないのさ。
君たちはぜったいに幸せになんかなれない」
「冠ちゃん、これがピングドラムだよ」
「君も僕たち兄弟も、過去に呪われているんだ」
僕の愛も、君の罰も、総て分け合うんだ。
ほんとうに、とんでもないアニメだった。
屈指の名エピソードである20話「選んでくれてありがとう」のこどもブロイラーのシークエンスで背筋が凍りついた。観た人は全員そうだろうが、あそこの陽鞠のセリフにいつだって総てを根こそぎ持っていかれるんだ。ああ、ほんとうに、ほんとうにとんでもないアニメだ。
「地上で最初の男と女の話、わたし、知ってたよ。
二人は罰を受けたんだ。
生きるってことは、罰なんだね」
ここまで重いセリフはいまだかつて聞いたことがない!
生きるってことは、罰!罰なんだ!君の人生もおれの人生も、オマエもテメェも総ての人生も、みんな罰なんだ!
一生懸命生きてる君の人生に意味なんかない。
一生懸命メンヘルを演じてる君の人生にももちろん意味なんかない。
なぜなら総ては罰だからだ。
あんたたちの人生は全部、罰なんだ。
ああ、こんなことを真剣に言ってるアニメは、いや、アニメに限らずとも世界中のどのメディア・アートを見渡しても、ごく一部の重度の極右自由主義思想を罹患した残念極まりない傲岸なアイン・ランド主義者を除いては、なんてことだ、おそらくピングドラムだけだ。いや、それも違う。ランディアンはおそらく総ての人生を肯定する。彼らは無理矢理にでも人生を肯定し、仮に失敗したとしてもそれは個人の責任だから仕方ないと唾棄する。だとしたら、こんなドグマを真剣に称揚した人間は有史上でもポル・ポトくらいだ。笑ってはいけない。泣いてはいけない。ピングドラムとポル・ポトがここでつながる。
ピングドラムは更にたたみかける。
22話で真砂子はピングフォースを「美しい棺」だと言っていた。あそこは素晴らしい組織だった。素晴らしい、フェイクだけどしかしほんとうに価値のある「家族」を演繹できる、素晴らしい空間だった。でも、それは美しい棺なんだと。高倉夫婦が引き起こした陰惨なテロ事件、そして現に高倉冠葉が加担する第二のホロコースト、それらを覆い隠した上での見せかけの美しさに過ぎないんだと。他方でそれは、はからずもピングフォースが指弾してきた「この世界」の愚かさと醜さと同じだ。こどもブロイラーで虐殺され透明にされてゆく子どもたちの存在を無視しつづけるこの世界と、ピングフォースはいっしょだ。この世界は美しい棺なんだ。
「あれは呪いなの!わたしたちは過去に呪われているの!」
23話で更に真砂子は、それをフーディーニの魔法と呼んだ。フーディーニの詐術で世界を変えることなどできない。騙されてはいけない。それは見せかけの美しさであり、その箱は棺に過ぎない。
もっと踏み込もうか。
彼らが囚われる美しい棺、彼らを呪う過去、そして彼らを支配する運命は、総てひとつの概念でつながれている。彼らが必死に追い求め、総てを犠牲にしてでも手に入れようともがき、そして、絶対に手に入れることができないもの。
そう、彼らを苦しめるほんとうの呪いは「家族」なんだ。ほんとうの美しい棺とは、家族のことなんだ。
家族っていうのは、呪いなんだ。
サネトシが批判するのも、おそらくはそこだ。家族という呪いに振り回され、総てを搾取され死んでいく哀れな人々。多蕗も時籠も荻野目りんごも高倉兄弟も夏目真砂子も、総て家族という美しい棺に魅せられ、篭絡され、そして総てを奪われて死んでいくんだ。荻野目りんごの畢生の賭けによって運命の乗り換えが成功するまで、彼らの運命の至る場所はそこにしかなかったのだ。ああ、この腐った世界!
でも、幾原邦彦はサネトシじゃない。ポル・ポトでもないしニーチェでもない。幾原邦彦は、ここで世界を呪わない。
例えばBlu-ray第1巻のライナーノーツに収録されている幾原邦彦のインタビューによれば、少なくとも彼がクリエイションを試行した時点では、ピングドラムの根本に底流するテーマはそこまで厭世的なものじゃないということはわかる。彼は別に世界を呪いたくてこのアニメを作ったわけじゃない。家族という欺瞞を喝破するためだけに作ったわけでもない。彼は次のように述べている。
「自分にとって最も大切なコミュニティは何か」を誰もが自覚する日はそう遠くないと思う。そこでは、恋愛なんかは、人生において劇的なディテールの中心ではなくなってたりね。90年代は「私はここにいますよ」という物語が多かったと思うけど、僕はそれはもういいんだ。それよりね、いまの僕はコミュニティの再確認をやってみたいと思っている。
(中略)
ここ15年くらいの変化にはすさまじいものがあるでしょう。国家の定義も変わっていこうとしているし、経済も国家を越えたり・・・こういうことは個人的なコミュニティにも返ってくるだろうし、移民が増えている状況も、国家における家族のあり方を問うものだと思う。もうずっと前から「お金じゃない」ってみんな言ってるでしょ。でも誰もそれに変わるものを見つけられないし、説得力のある提示ができない。だからね、「愛だ」みたいなドラマが流行った時代があったんだと思うよ。逆説的にね、「お金じゃない、愛だ」って。みんな頭で切り分けてたんだよ。「フィクションの中では愛、でも現実は」ってね。でもいまの時代、「もう、頭の中で切り分けるのは息苦しい」と、みんな思い始めてるんじゃないかな。「お金じゃない」ということを、いよいよ実感させてほしいという状況に来ているような気がする。「新しい幸せの定義」みたいなものを教えて欲しいというかね。
でもね、そのお金に変わる「新しい幸せの定義」で大失敗してるわけじゃないですか、それが近代の若者の歴史でもあるし。振り返ると、とても肯定できるものじゃない。でも「自分にはまったく無関係だ」という態度はフェアじゃない。例えばね、他人に構わず正しいことを言う人って、いつの時代でもいるでしょう。そういう人は必ず失敗すると思うんです。今回意識したのは、やはり「正しいことを言う人」です。正しいことを言って、失敗していく人。普通の人には揺らぎの幅みたいなものがあって、そこがセーフティとして機能する。正しさを認識していても、怖ろしい現実を見て見ぬふりして生きていける。だけど、なかには絶対に見て見ぬふりができなくて、正しいことしか受け容れない人がいる。彼らは傷ついて、上手くやれないことが多い。いや、まず上手く生きられない。僕はその人たちのことを単純に否定したくないんです。彼らのことを、メディアは良く言わないでしょう。「曖昧にできず、正しく生きようとした人だ」とは言わない。むしろ狂人と呼ぶよね。自分を騙せずに極論に行ってしまう人・・・今回はそこも否定せずに描きたいと思う。この社会にはいろんな矛盾や理不尽な話がいっぱいある。そのなかで傷つきながら、最小のコミュニティの中でかばいあう。たとえそのコミュニティが罪の場所だとしても、他の場所で生きるという選択肢は彼らにはなかった。世間では、おそろしい毒壷であっても、彼らにとっては、記憶の故郷であるという・・・その不幸と極限の感情を描きたい。
(キングレコード「輪るピングドラム」Blu-ray第1巻 ライナーノーツより抜粋)
ここで彼が言う「コミュニティ」という言葉の解釈には少し注意が必要かもしれない。特に先進国下で観測されるような、家族秩序の再編成によって形成され、内ゲバと離合集散と褪色と心変わりを繰り返すアメーバ状のコミュニティ、そうした出来合いのコミュニティについては。
どちらにしろ、デッドヘッズでヘルズ・エンジェルズなヒッピー・コミューンからマンソン・ファミリーやオウムやピングフォースに至る実践的な原理主義集団まで、そういう類のコミュニティは総て、家族という概念を巡る果てしない拡大解釈と絶望的な論理後退へと突き進む不毛な闘争の仇花であって、そして、それらはほぼ例外なく、従前の家族(或いは国家)というガラクタにうんざりした人々、幾原が実に的確に言明するところの「正しいことを言う人」が家族のオルタナティヴを求めて必死にもがくのだけれど、だけど結果として他ならぬ家族のクローン、それもかなりツギハギだらけの劣化版を作り上げていくという、(他人からしてみれば)凄惨なサタイア、壮絶なエディプス・コンプレックスを歴史として内包しているものだ。
そして幾原はこれを、無碍に否定できないと言うんだ。
でもそれは誰だってそうだ。幾原だけじゃなくて、90年代に、もっといえば16年前にあの騒動を通過した文化人はみんなこの「コミュニティ」という概念と向き合わざるを得なくなって、そして何らかの回答を迫られたからだ。それはあなただってそうだし、おれだってそうだ。なぜなら、16年前のあの事件よりももっと凄まじい現実をおれたちは見ているからだ。それが何なのかはあえて言うまでもない。
お金じゃない!お金で買えないものはないなんてもう言わないよ絶対!
ワールドトレードセンターの灰燼と噴煙の中からスタートしたゼロ年代を経て、リーマン・ショックとあの地震があった。原発がメルトダウンを起こして日本中が21世紀のスキッツォイドマンになって混沌こそ我が墓碑銘となり、ビン・ラディンは死んだ。要するに、あまりにマンガみたいで現実離れしたことが起こりすぎたのでみんなメンヘルになって自閉症になって半死半生のウォーキング・デッド状態になったんだ。その結果、みんな貴賎を問わず自分なりに反省して、もっと別の答えを見つけたがってる。そしてみんなほぼ例外なく、何らかの形で既存のコミュニティを再編成しなければならないと本気で考えるようになっている。これは幾原だけじゃないしおれだけでもない、ほとんど総ての人々がそうなんだ。あなただって身に覚えあるだろう?
でも、大変だ!コミュニティを再編成!何かすごそう!でも、いったいどうやって?
幾原によれば、どうするも何も、もう時代の要請で再編成は始まってるんだ、と言うんだ。学研「オトナANIMEDIA vol.2」のインタビューのなかで幾原は次のように述べている。
「家族」なんていうのは、それこそ『サザエさん』みたいに、幻想の日本の家庭として置かれている部分もあるじゃないですか。これから少子化がどんどん進んで、世界的な状況も鑑みると、更に「家族の形」は細分化していかざるを得ないはずですよね。それこそ、片親しかいない家庭も当たり前の話で。ものすごく複雑になっていくと思う。お父さんが連れてきた兄弟とか、いろんな国籍の家族があったり。そうなったら、それが僕たちの日常になるわけじゃないですか。すでにその渦中にいる人もいると思う。
だから、どこかしら「自分たちの未来についての話である」と感じてもらえるものであればなぁ、と思っているんですよ。あの震災で感じた部分も、そういうことじゃないのかな、って気がした。「僕たちの愛しいものは永久に存在しているものじゃない」ということを実感してしまった。言葉ではわかっていたんだけど、みんなそれを思い知ったと思う。「明日なくなるかもしれない」ということを身にしみて理解したというかね。例えば今後、さらに日本の経済が下り坂になっても、それでも「愛しいもの」はあってね。みんな今までは「勝ち組だ、負け組だ」って話ばかりしてきたんだけど、そんなことはもういい・・・それよりも、「明日、大事な人と会えなくなってしまうかもしれない」と考えた時に、何かそこで愛しいものが切実にあぶり出されてくる感覚があると思うんだ。
(学研「オトナANIMEDIA vol.2」 p.8)
ああ、これをただ単に「家族を大事にしよう」とか「絆」とか、ひとまとめのクリシェにしてシュガー・コーティングしてしまえれば、現実はどんなにか楽だろう。幾原だってこういうことを言っているけど、でも実際はかなり現状に対して悲観的な部分があるんだろうと思う。サネトシの最後の遠吠えが不気味な余韻を残すのもたぶんそのせいだ。それにそれは、たぶんいまを生きるおれたち自身にも心当たりがあり過ぎるほどにある分、余計に切実な問題だ。よく考えてみてほしい。いまある既存のコミュニティはあまりに身勝手で実に不道徳な欲望まみれの合従連衡の果てにズタボロになった賞味期限切れの腐肉なんだ。それを大事にしようも何も、先ずは大事にしてこなかったいままでの己の不見識を、おれたちは何をさしおいても清算しなきゃならない。
そもそも、家族って何だ?
ほんとうの家族って何だ?というより、おれたちにとって家族って何だ?
みんなそれがわからなかったし、今でもよくわかってない。
この残酷で理不尽で気まぐれなシステムに支配された世界で、家族は別におれたちにとって絶対の護法となるわけじゃない。それは時に人だって殺す。家族は世界を必ずしも良い方向には導かないし、もっと言えばおれたちを幸せにしてくれるわけでもない。それはある意味でおれたちを縛りつづける呪いなんだ。
おれたちはぜんぜん自由じゃない。この社会はぜんぜん自由じゃない。与えてくれるのは概念としての自由だけ、お定まりの説法と穴だらけの自由崇拝と、功利主義のあまりに不確実な取り扱い説明書だけ。家族はそのなかで自由という脅威からおれたちを守ってくれるわけでもなければ、対抗しうる別の何かを示してくれるわけでもない。何も救わないし何も教えないし何も与えない。ただそこにあるだけ。ただそこに存在するだけ。理由なんて誰も知らない。とにかく、それが何らかの契約であるということはおぼろげながらもみんな知ってる。でも、誰もその正しい使い方を、それがそこにあるほんとうの理由を誰も知らない。みんな社会はクソだとか世界はゴミだとか他人はクズだとかそういう話だけはとても能弁だ。この社会のネットワークを絶えず蚕食しつづける膨大なパケットとそれらを許容するにはあまりに脆弱過ぎる、おれたち自身に実装されている二十万年来の生物学的ビンテージ付きの使い古しのバッファのこと。この社会を汚染しつづける機能和声の呪いの詠唱とそれに呼応するように不気味なバイオリズムを刻む謎めいたストック・エコノミーのフォークロアと、高速道路のコンクリートの曲線が発信しつづけるテレビ・アイドルの生理周期のcsvデータのこと。でも、誰もほんとうに肝心なことを語らない。家族って何だ?家族って何なんだ?そして家族は、いまだにただそこにありつづける。ただ、それだけ。
家族なんていつだってリセット可能だし、いつだって再生できるし、そして、その終わりは突然やってくる。
ああ、おれはだいぶ前からそのことに気付いていた。おれだけじゃない、みんなそうだろう、みんなだって、とっくの昔に気付いていたはずなんだ!でも、誰も言わなかった!どうでもいいことばかりしゃべって、ほんとうに肝心なことを何一つ言ってくれなかった!
「もう、家族ごっこは終わりだ」
「これがわたしと晶ちゃんの、絆だったから。でも、返すね」
この社会を取り巻き、至るところに濫立するアプリケーションのことをあなたはどう思ってる?
それらがおれたちの忠僕であって、あくまでおれたちの便益に資するための何がしかであると本気で思ってる?
おれだって昔はそう思っていた。この世界が、都市が、無線LANが、高圧電線が、その他もろもろのありとあらゆるドローンがもたらす最高の便益。それがこの世界の希望で、だからこそこの世界は美しいと思っていた。
そして、今でもそう思っている。
今でもこの都市は最高で、この都市がもたらすアプリケーションはいつだってrili badassでgood stuffでleaning on the everlasting armsなんだって思ってる。たぶんあなただってそうだと思う。そしてたぶんこの完璧なシステムの中から脱け出すことなんて絶対にできないし、もとよりそんなことをする気もないということも。
じゃあ話を変えようか。
あなたは家族と言うアプリケーションのことを、どう思ってる?
おれはずいぶん前からこのアプリケーションを使ってない。いや、正確には、はじめからよく使い方がわからなかった。そのやり方は学校で教わるわけじゃない。インターネットにも書いてない。そのアプリケーションは非常によくできたhi-rezなFPSで、どうやらプレーヤーがシステムの要求する総ての動作を実際に演繹していかなきゃならないらしい体感型ロールプレイング・ゲームであると同時に育成シミュレーションでもあってもっと言えば冗長なサウンド・ノベルらしい。でも、それが何のためなのか、最終的に何のためにそんなアプリケーションを起動しているのか、誰もわからない。なぜか誰も知らない。今じゃ専用回線のトラフィックも閑古鳥でたいていの人はログアウトしてしまった。たまにログインして入ってみたとしよう。そのとき、おれたちは出くわすかもしれない。奇跡的にプレーしつづけてきた一部のニッチなハードコア・ゲーマーが、誰もいない広大な都市のコンクリートの回廊のそのタナゴコロで、慎ましくも清廉な「家族」を演じつづけている光景に。
そしてそのとき、おれたちは何を思うだろう?
改めて、家族とはおれたちを縛りつづける呪いなんだ。
おれたちがいままでこの最小のコミュニティをブッ壊れるがままに放置しておいた理由だって、みんな呪いから逃れたかったからなんだ。
みんなサネトシのように、高倉夫婦のように、この家族というオールドスクールな旧弊が、イヤでイヤでたまらなかったんだ。
でも、幾原邦彦はこの世界を呪わない。高倉兄弟はこの世界から見捨てられても、運命から総てを奪われても、それでもこの世界を呪わない。
なぜか?
その理由を知る前に、先ず、運命の乗り換えが万能の護法ではなく、その効果が極めて限定的であることは留意しておく必要がある。
荻野目りんごのプロジェクトMはとっくの昔に失敗し、高倉兄弟は運命の乗り換えの代償として透明な存在になり、相変わらずサネトシはこの世界を呪いつづけて、そらの孔分室で、スカイメトロの雑踏のなかで、この世界の僻陬で、次の電車が来るのを、そして、桃果が再び降臨するのを、ただひたすら待ち望んでいる。
それらは別に世界をより良い場所にアップデートしたわけじゃない。
彼らは運命の乗り換えによって世界を今よりももっと良いものに変えたわけじゃない。
最大のパラドックスはここにこそある。
結果的に、運命の乗り換えは何を救ったのか?
別の言葉で言い換えよう。
運命の乗り換えは、この世界の罰と呪いに対して、いったい何をしたのか?
ピングドラムは、家族の物語だ。
より正確には、家族という呪いから逃れようと必死にもがく者たちのその凄惨な闘争の物語だ。
改めて、家族というのは、おれたちを縛りつづける呪いだ。
おれたちはもうずいぶん前から、これがイヤでイヤでたまらなかった。ずっとこれをどうにかしてやりたかった。サネトシだってそうだった。多蕗だってそうだった。時籠だってそうだった。そして、桃果ですらきっとそうだった。
桃果だってサネトシと同じく、この世界が間違っていること、自分たちが生きるこの世界が必ずしも美しいものでないことをよく知っていた。どうにかしなきゃならないと思っていた。
でも、桃果は世界を壊さなかった。
生きることは罰だ。そして、家族とは呪いだ。おれたちはもうずっと長い間、こいつらに苦しめられてきた。
でも、それがどうした。
・・・ああ、桃果、これがピングドラムだったんだね。
運命を乗り換えることで彼らは呪いから脱したわけでも、それに抗する別の力を手に入れたわけでもない。世界のシステムを変えたわけでも、それに代わる別の何かを作り上げたわけでもない。
ただ彼らは、それぞれの罰を、それぞれの呪いを、自らの決断で引き受けたのだ。
彼らは自らに課された罰を、自らが進むこれからの残酷な運命を、自らの決断で選び取ったのだ。
彼らはそういう決意をしたのだ。
生きることは罰だ。家族は呪いだ。運命はクソで世界はクソで総ては残酷だ。
でも、それがどうした。
このアニメが素晴らしく、何にもまして気高いのは、高倉兄弟が自己犠牲によってピングドラムを一巡させるからでも、荻野目りんごが命を賭して運命を乗り換えるからでもなくて、実は、最終的に多蕗と時籠が結ばれるからかもしれない。
運命の輪でつながれた二人は、自らの罰と呪いを自らが引き受けたことで、結果的にほんとうの「家族」になった。ああ、おれは、彼らのことを思うと涙が止まらない。彼らは運命の重力場から逃れ過去の呪いから解き放たれたわけじゃない。そうじゃない。彼らはそれらの罰と呪いを自らの決断で選び取ったんだ。そうしてはじめて彼らは自分たちが生まれたほんとうの理由に気付いたのだ。自分たちがこの世界に残されたほんとうの理由。
「たとえ運命が総てを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せになれるわ」
ああ、だから、おれは彼らのことを思うと、涙が止まらない。
即ち、総てはこういうことである。
ほんとうの「家族」とは、自らに課された罰と、その呪いを、一様に引き受ける場である。
総ての罰も、総ての呪いも、そして、総ての愛も、全部分け合うんだ。
これが答えだ。
だから多蕗と時籠は家族として永遠に結ばれる。そして冠葉と晶馬と陽鞠のニセモノの家族も、ピングドラムを分け合ったあの瞬間において、ほんとうの家族として永遠に結ばれつづけるのだ。
そして、おれたちはいつか、それをしなきゃならない。
もうすぐ決断を迫られるときが来る。
この世界でおれたちが課された罰と、呪いを、引き受けるかどうか。
或いは、世界を壊すのか。
あんたはそのとき、どっちを選ぶ?
あらかじめ失われた総ての子どもたちへ、運命の至る場所から。
家族という呪い、おれたちをときに機能不全へと至らしめるこの奇妙なバグにうんざりしていた総ての友達に。或いは、スクリーミング・フィストに失敗してスプロールから追放された総ての流刑者たちに。
生きることは罰で、そして家族は呪いだ。
でも、それがどうした。
僕の愛も、君の罰も、総て分け合うんだ。
これが答えだ。
幾原邦彦の胡乱で面妖で朴訥で、ときに狂おしいまでに儚いこのマカロニ・ウエスタンを、おれはこれから何度となく観返しつづけることだろう。
家族という呪いを引き受け、生きるという罰を自らが選び取るそのときまで。おれもいつか、誰かとピングドラムを分け合う。おれたちの愛も、おれたちの罰も、その総てを分け合うんだ。
この不思議な地球で。
なんでここまですごいアニメが作れるのだろう。このアニメは間違いなく、日本の、東アジアの、世界の、人類の、地球の、その総ての歴史を塗り替える。
ふだんおれたちが生きているこの社会には、実体はおぼろげで視認することはできないけれど、それでもおれたちとその行動を厳然と連綿と縛り続けている「何か」が存在する。おれたちを制限し、支配する「何か」が、名前も形もわからないけれど、確かに存在する。
そういう社会規模の支配や隷属や束縛のことを聞くと、例えばビッグブラザーのように極端なパノプティコンをつい連想してしまうし、人々は自由やその対極の概念の話をすると常に所得がどうとか格差がどうとか、ファシズムがどうとか末期資本主義の優生思想がどうとか言い出したがる。でも、ここでおれが言う「支配」はもっと別のものだ。電話回線が、サーバーが、無線LANが、もしくは銀行の預金口座が、常にセンサーシップの網にかけられ、都市に張り巡らされた無数の監視カメラが、空港のスキャナーが、もしくは、アフガニスタン上空を飛行する無人ドローン爆撃機が、悪夢のような超監視社会を築き上げた現代のアメリカの例を持ち出すのは簡単なことだーーー でも、おれがここで言いたい「支配」とは、そんなものとはもっと別のものだ。そういったことのもっと根源的な、或いは、もっと上位の構造のことだ。おれたちはビッグブラザーなどなくても、NSAなどなくても、常に、いつだって、何かに制限され、支配されつづけているのだ。
それは或いは生物学的な限界と呼んでも良い。なぜおれたちは肉を喰うのか。内臓はなぜあんなにまで異様な相貌をしているのか。なぜ生殖器とそうした脆弱なインターフェースを介した不可解な交感システムが、未だにおれたちの性行動を支配しているのか。なぜ細胞は突然変異を起こすのか。なぜ身体は発汗し、スマートフォンのディスプレイ上に生命の痕跡を残すのか。そうした生物学的な限界、身体的な限界、物理的な限界がおれたちを律している。でもそれ以上に重要なのは、そういったコードを飛び越えた更に上位のレイヤーのことだ。そうした不文律が存在することを、おれたちはもうずっと前から知っている。そうした因果律が、残酷な不均衡の予感とその意味論的な不可避性が、ずっと昔からここに存在することを、おれたちはずっとずっと前から知っている。なぜそれがそこにあるのか。なぜおれたちはそれに支配されているのか。支配されつづけるのか。なぜそれは不滅なのか。なぜそれはそこにありつづけるのか。でも、誰もその答えを知らない。
おれたちの社会の上位レイヤー。世界を動かす不滅のドグマ。
それは何によってもたらされたのか。おれたちの行動を、思考を、支配しつづけるもの。それは誰が、何のためにもたらしたのか。
例えば生物学的な限界は一見すると、絶対に超えることのできないものであるように思われる。内臓や脳細胞の形状や数量やその機能、骨格の強度、生の一回性。
でも、おれたちはこれまで、何度も何度もそれを改変してきた。身体的な限界を超えるために何度も何度も試行錯誤を繰り返してきた。それによってもたらされた変化は体毛や天然痘に関わることだけじゃない。その叡智はもうすぐ、内臓や皮膚の構造やニューロンの配列を変え、生体コンピュータを可能にし、全人類の意識をP2Pでクラウドする。それはもうすぐ、人々の意識を変える。
おれが言いたいのはそういう「支配」のことだ。
シュメール人が象形文字を発明したとき、人類はどう変質したか。
中国の宦官が木片から紙を発明したとき、この世界はどう変質したか。
グーテンベルクが活版印刷を可能にしたとき、おれたちの身体が、生物学的な限界が、そして文化の構造そのものが、どう変質したか。
微分積分法が発見され、蒸気機関が発明され、モールス信号が発明され、内燃機関が発明され、バベッジ計算機が発明され、タイプライターが発明され、電話が発明され、人々が空を飛ぶようになり、エニグマ暗号機が解読され、AK47が発明され、トランジスタが発明され、NESが発明され、ゲームボーイが発明され、インターネットが発明され、磁気メディアが光学メディアになり、やがて光学メディアさえも初期クラウドの蒼穹の中に包摂され物理メディアそのものが過去のものとなり、スマートフォンが発明され、知的財産の概念そのものを殺すその他もろもろのクラウドの叡智がもたらされたとき、そのとき、その瞬間、そしてそれ以降、人類は、この世界は、どのように変質したか。
そのとき、人類は確かに変わったはずなのだ。人類はそういった文物によって絶えず変質し、別のフェーズへと進化していったはずなのだ。そう、まさに、田蕗圭樹が荻野目りんごに言ったように、人は自転車が乗れなかった頃のことをもはや思い出すことができない。自転車が乗れなかった頃のように自転車に乗ることなどできない。人類はもう戻れない。引き返せない。かつてそうあった頃のようには。
そうした変化が、人類を変質し、変容させ、何かを進化させその代償に何かを退化させるそうした変化が、それこそが、おれたちを支配している。それは空気のようにおれたちの周りに偏在している。ノヴァ警察が総てを見ている。おれたちは言語ウィルスから逃れることができない。帝国は終滅することがない。
おれたちは何かの上位レイヤーに、ドグマに、ウィルスに、システムに、支配されつづけている。そう、まさにそれはウィルスなのだ。おれたちはJ-POPというウィルスからも逃れることはできない!君はJ-POPが嫌いで、僕はLove Songが嫌いだ じゃあこの詩はなんて言うんだい?
ほんとはJ-POPが好きで、ほんとはLove Songが好きだった
おれたちを支配しつづけるもの。おれたちを変質し、いまとは違う別の何かへ導くもの。それはやがておれたちの生物学的な限界すら超える。身体の構造を、遺伝子の構造を、いずれは作り変え人類というカテゴリーそのものをアップデートする。おれたちの身体はいずれデッド・メディアになる・・・かつて身体が、内臓が、皮膚が、生殖器が、肛門が、メディアとしての機能を具備していたことを、おれたちは遠い未来のクラウド上の博物館の中でようやく気付くことになるのだ・・・。
いずれにせよ、おれたちを支配しつづけるものはおれたちが既に作り出したものだ。或いは、作り出すように何かから促されたものだ。おれたちがもたらし、そしておれたちを包囲するありとあらゆる物理アプリ。おれたちが牛乳パックを発明し、割り箸を発明し、キングサイズのタバコを発明したとき、世界は確かに変わった。人類がフットボール中継を発明し、ファストフード・チェーンを発明し、フリートウッド・マックがヘヴィ・ロックを発明したとき、世界は確かに変わった。そしてそれがおれたちを包囲し、おれたち自身を変えた。おれたちを支配しつづけるもの。おれたちが世界の混沌の中から見出した因果律。それがおれたちを支配しつづける。物理アプリとして、上位レイヤーとして、永遠不滅のドグマとして。
かつて、おれたちがいまのおれたちのようではなかったころ、まだ人間ですらなかったころ、誰かが、名前もなかった誰かが、この世界のシステムを決めた。この世界の上位レイヤーを規定し、この世界のコードを作り出した。猛禽類の骨を空中に放り投げたとき、星空の下でこの世界の混沌を定位させる方法を探り当てたとき、彼が、名前も顔も知らない誰かが、この世界を変えた。そのとき彼が播種したものは、やがておれたちの周りに偏在し、おれたちを包囲するようになった。彼は世界の調停者であり、世界の発見者であり、世界のゴッドファーザーであり、そして、或いは、名前を呼ぶことすら憚られるーーー
いずれにせよ、おれたちはかつて誰かが発見したシステムに則ってたくさんの物理アプリを作り出した。そして、それに包囲されつづけている。それに支配されつづけている。総てはかつてこの世界を画期した名前も顔も知らない誰かがもたらしたもの。そのシステムが、コードが、おれたちをいまも支配しつづけている。
かつて誰かが見出した世界のシステム、誰かが播種した起動プログラムに沿って物理アプリを生産し、この世界を包囲しつづけるもの。
それは例えば、おれたちの暮らすこの町、都市に偏在している。都市に、そこで暮らす人間の営為に、自動車のバッテリーの電圧の周波数が作り出すチャンバー・ミュージックに、総ての物理アプリにおれたちはこの世界の発見者の言葉を見出している。おれたちを縛りつづけ、世界を支配しつづける、人類が作り出した都市とそこから同心円状に撒き散らされ何らかの網を張り巡らしおれたちを包囲する都市の無数のドローンたち。都市は、それが内包する物理アプリは、おれたちの生活を変え、行動を支配し、思考をコントロールし、その総ての帰趨を決する。かつて動き始めたシステムは、物理アプリを通じていまも常にどこででもおれたちを取り囲んでいる。おれたちが暮らす都市の光景。おれたちが暮らす都市の夕暮れ。おれたちが暮らす都市の電光。おれたちが暮らす都市の影。システムはいつも、どこにでも、そこにある。いつもおれたちを見ている。
都市に垂れ込める空気を、都市の水道水に横溢するアウラを、路面を濡らす雨水とそこに映る電光を、ビニール傘と水滴の曲率が作り出すこの世界のもうひとつの真実を、おれたちはもう一度思い出してみるべきかもしれない。それらが何を意味していたか。それらが何を指し示し、そして、それらがどこへおれたちを導いたのか。或いは、どこへ導こうとしているのか。
そこには世界の発見者のあの日の情景が、いまも偏在している。
だから、都市や工場は、高速道路が素描する蝸牛や原子力発電所のプラントや汚水処理施設は、或いは、電信柱が作り出す終末論的な柱廊は、単にその世界の経済モデルやその世界の住人の深層心理を射影するのみの存在なんかではない。それらはおれたちの便益に供し、おれたちに消費されるだけの存在などではない。おれたちがそれらから受け取るシグナルは、そんなに安易で平易で軽易なものではない。
おれたちは何度も、何度も何度も受信しているのだ。テクノロジーが、都市が、煙突が、排気塔が、炎上しながら崩落するワールドトレードセンターが、水素爆発を起こした原子力発電所が、放擲されたまま誰も立ち入ることがないチェルノブイリの観覧車が、世界に発信したシグナルを。この世界に常駐するドローンの羽音を。
そこには世界の発見者のあの日の情景が、いまも、未だに、絶えることなく息づいている。
おれたちが消費し、おれたちが語り、おれたちがセックスし、そして、おれたちがこの世界からフェード・アウトするとき。その総てを契機するマクガフィンは、いつも、常に、どこにでも、おれたちの隣にいたのだ。ドローンが語りつづける都市のマントラ、世界の発見者の正嫡たる物理アプリ、おれたちを支配しつづけるもの。
運命のベルが鳴る。
それは、16年前のあの事件が起こったときにも、高倉陽鞠が復活したときにも、常に、いつだって、そこにあったのだ。
東京上空を飛行する大量のヘリコプター、スカイメトロのネットワーク、改札ゲートの開閉音、公園の遊具、高層マンションの非常階段、都市の電光、この世界が、この都市が、かつて世界を発見した誰かがもたらした永遠不滅のドグマが、おれたちを取り囲むありとあらゆる物理アプリが、おれたちをずっとずっと支配しつづけていた。
幾原邦彦は、いったいどこからこの物語の着想を得たのだろうか。
世界を統べる強大なパワーやコントロールが存在し、人々はそこで踊りつづける傀儡でしかないことに気付いていたアニメ作家は、もっと前にもいた。例えば富野由悠紀は傑作「ターンエー・ガンダム」において、UKUSAを機軸とした20世紀の政治・経済システムとそのワールド・オーダーが消滅した社会を本気で描こうとした。そこから21世紀を生きるおれたちの道標を、本気で導き出そうとした。「オーバーマン キングゲイナー」もその延長線上で、グローバリズムの果てにエスニック・アイデンティティが消尽しつつある未来社会の人々が、まさに先祖帰りのようにもう一度自らの民族的出自と帰属する「場」の概念を取り戻し、すがろうとする姿を巧みに描写していた。ほんとうの故郷を目指してエクソダスする人々は、いったい何の比喩だったのだろうか。自らの文化を再発見し、前時代的な文明の名残を求めて先祖帰りをしようとしたあの人々は、富野にとっていったい何の象徴だったのだろうか。コントロールは、世界を支配するシステムは、おれたちを変える。おれたちの行動を支配する。でもおれたちは、果たしてシステムに隷属することしかできないのだろうか。さあ、あの人々は、いったい何から「エクソダス」したがっていたのだろうか?
幾原邦彦が描く高倉兄弟も、哀れな荻野目りんごも、皆必死に何かからエクソダスしたがっている。世界を支配する上位レイヤーの残酷な気まぐれから、そのコントロールの魔手から、ドローンの追随から。しかもコントロールへの反駁という目的が、いつしかコントロールを先読みして確率を変動させる禁断の護法を得ることへ転化し、物語は彼らの破滅的な未来とその終末的な情景を予感させながらも、急転直下の律動を刻んで、運命の至る場所へと突き進んでいく。
そして幾原邦彦はおそらく、世界を統べるコントロールが、コードが、上位レイヤーが、エシュロンが如き陰謀論的な何かでも、セフィロトの樹を巡る超越的な教義でもなく、おれたちを取り囲むこの都市と、おれたちを取り囲む地下鉄ネットワークや、高圧電線や、無線LANがもたらした何かであることを知っている。この世界の、この時代の文物が、おれたちを支配している。地下鉄サリン事件が、人々が作り出した都市の病理が、おれたちを支配しつづけている。未だにおれたちは、そこから逃れることができない。そして更に、そこから逃れでたとしても、それには代償が必要なのだ。その代償が何なのか、知る由もない。ただおれたちはそれを知ったときには、都市の骨盤のそのたなごろの中で白骨化して横たわっている。おれたちがフェードアウトしようとも、彼らは永遠に不滅なのだ。
この世界を統べるシステム。おれたちを支配しつづける何か。
あなたはそこから脱出したいと思う?ならご勝手に。でも、出来ないと思う。
だって、おれはそれでもまだ、この都市がもたらす便益に与りたいと本気で思っているからだ。この都市がもたらす幻影に、この都市がもたらす文物に、この都市がもたらすロール・プレイング・ゲームに。
あなただってそうじゃないか?
この素晴らしいアニメだって、結局はーーー !
ニンセイでは、総てがもっと、単純だった。
そうなのだ。おれたちはずっとそうだったのだ。
ごらん。Amazonウィジェットの配列が総てを決めるいまの社会を。シリアルナンバー入り限定パッケージと180gのクリアビニールを求めてeBayをさまよう人々を。3月11日を契機として、サード・サマー・オブ・ラブを求めてfacebookとtwitterの脆弱なネットワークの中に繁茂しはじめたネオ・ラッダイトたちを。スマートフォンのフラッシュメモリ上を走査しpdfファイルを個々人にローカライズしカットアップするアプリが、脳の中にインプラントされた生体コンピュータの個体認証暗号システムの作り出す完全計画経済が、もうすぐ現実のものとなる。
いまもそのときも、ずっとずっと、その方が単純なのだ。
そのときにもおれはこのアニメを、愛しているだろうか。おれは友人を、家族を、恋人を、愛しているだろうか。
きっと愛しているだろう。
システムがそうさせるからだ。
或いは、この世界の調停者、この世界の発見者、この世界のシステムを作り上げた名前も顔も知らない誰かが、ずっとずっとそうさせてきたからだ。
そして、その方がずっと単純だ。
ノイタミナ枠最高傑作の呼び声高い「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」のハリウッド・リメイクとして巷間で話題の『SUPER 8』を観ました。学校の文化祭に出品するためにゾンビ映画を撮りつづける超平和バスターズの面々が周囲の無理解や自我の発動に戸惑い葛藤しつつもそれらの障害を超克して成長していく様を描いた初恋と青春と二次性徴炸裂のノイタミナ完全オリジナルテレビアニメと思いきや、ぜんぜん違いましたよ!
ていうかコレ、普通の人が観たら全員怒るよ!おれはおもしろいと思ったけど・・・
どこがどう問題なのかというと、もちろん最後のオチもそれはそれでいろんな意味ですごいし(どれくらいすごいかというとシャマラン映画がぜんぶ傑作に思えるくらいすごい。ていうか会社もこんな脚本によく金出しましたね。)、その全人類脱力のオチのあとのエンド・クレジットで延々と垂れ流されるアレも身の周りにいる人間を誰でもいいから適当に殴り殺したくなってくるほどの怒りと殺意を観る者の脳裏に植えつける凶悪なドゥーム映像ですさまじいのですが、最大の問題点はそうやってあらかた観客をブチ切れさせたあとに劇場の大迫力のPAの凶暴な重低音に乗せて放たれる「マイ・シャローナ」の殺傷力にあるのではないでしょうか。わたしがそのとき感じていたのは、人生の無常でした。
『SUPER 8』を観た誰もに同意していだけると思うのですが、この映画はラストまではほとんど完璧なジュヴィナイルで、映画としても超一級品の大傑作なのです。子どもの邪悪さと表裏一体の無邪気さに少年少女の淡い初恋の想い出がオーバーラップしてスティーヴン・キングの散文世界のキャッスルロックに迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせる完璧な脚本と演出に血と肉片のシャワーと宇宙人を巡るスチームでバチェラーなミステリーが絡み合い渾然一体となった極上の映画体験!ここまでは完璧!しかし、ここまで至高のパゴダを精巧に積み上げておきながら、J・J・エイブラムスとスティーヴン・スピルバーグはそれらのカタルシスを全部帳消しにするすさまじい脱力オチを投下し、エンド・クレジットで観客の神経を逆撫でし、最後に「マイ・シャローナ」を爆音で流すという観客をナメまくった暴挙に出ます。思うに、これはこういうことなのではないでしょうか。
この映画を楽しみにしていた人たちというのは、基本的に孤独でオタクで外界に出て外部とコミュニケーションするのがイヤだけどeBayやヤフオクでコレクターズ・アイテムをスナイプすることにかけては膨大な時間と金を浪費し日夜オタクワールドのタオ(道)の探求に血道を上げる、ある意味で愚直でバカでアホな求道者であるはずです。普通の人と彼らが明らかに違う点は、前者が普通の日常を普通に送るためにはそれ相応の負担をするのも詮無きことと考えているのに対し、後者はそういう負担をするくらいなら自らのオタク・キングダムの領土拡張と失地回復の孤独な闘争に心血を注いだ方が絶対に良いと考え、基本的にそれ以外のことに関しては心の余裕がなく無頓着である、ということです。彼らはオタク・ギャラクシーのフォースに導かれるがままに「普通」という浮世を捨ててキップルに溢れた自らの内宇宙へと出奔した、孤独な旅人です。たまに子どもの頃を思い出したり昔の友人が普通に幸せに過ごしているのを横目に見たりして「普通」の生活が恋しくなってしまうときもありますが、この道に来るために訣別してきたものがあまりに多すぎるためにもう今更ひきかえせないので、鉄の掟で自らを戒め、再び踵を返してタオの探求に舞い戻るのです。このような孤独な殉教者たちが唯一心の拠り所とするのが、自らが「普通」の生活と引き換えに追い求めるキップル、即ちガラクタです。彼らにとって唯一絶対の価値は、それがモノであり、それにプレミアムが付随していて、そしてそれを所有しているということです。彼らは孤独なのでモノとして所有していないと自らの手の内にあることを理解できず安心できないのです。彼らは自らに欠損している他人への/からの愛情というピースを補うために、昔子どもの頃に一瞬だけ味わったそれらのピースを見よう見真似で想像しながら、その「想像上の安らぎ」に合致するアウラをモノに見出し、それを必死で所有しようとするのです。これがフェテシズムというものです。「普通」の人なら安らぎというものが所有しようと思っても所有できないものであるということをうすうす知っていますから、こういう愚挙妄動に走ることはないのですが、孤独な旅人はそれがわからないので膨大な時間と金をつぎ込んで必死に「安らぎ」という名のデッドストックを捜し求めるのです。
そういう孤独な人たちにとって、『SUPER 8』は安らぎの処方箋となる貴重なキップルであるはずでした。彼らの想像上の少年時代の想像上のユートピアで想像上のゾンビ映画作りと想像上の初恋に興じることができる、夢のような映画のはずでした。でも、実際はそうじゃありませんでした。
ラスト5分間まで映画は完璧な安らぎ処方箋でしたが、最後の最後でとんでもないクソなオチがぜんぶなし崩しにして、エンド・クレジットではそのクソが更に肥大化し、そして最後には「マイ・シャローナ」が爆音で流れました。孤独で繊細な彼らは、泣き出してしまったかもれしません。こんなクソはおれが望んでいたものじゃないと。ここに安らぎなんかないと。
しかし、これで良かったのかもしれません。
わたしが最後の「マイ・シャローナ」を聴きながら感じた絶望的な虚無感とやるせなさは、かつて訣別したはずの「普通」という名の病理が、実はもっとも得難い宝物であって、そしてそれを手に入れるために引き返すにはあまりに遠くに来すぎたことに気付いてしまったときの耐え難い苦痛に似ていました。いつのことからかはもう忘れたけど、わたしたちは「普通」というものに見切りをつけ、それよりももっと価値のあるものを探す孤独な旅、無限のタオを歩き続ける孤独な人生を選びました。それが悪い選択だったかどうかは、はっきり言ってわからない。でも「普通」の生活を送る幸せな人々を見ていてたまに思うのは、あのとき、自分が飲んだピルが別のピルだったなら、ひょっとしたら、もしかしたら、いまとは違う人生もあったかもしれないということ。でももう戻れない。失ってしまったものがあったとして、それを取り返すにはもうあまりに遠くに来すぎてしまった。
「マイ・シャローナ」の誰かをブチ殺したくなるような脳天気なコーラスを聴きながら、あの日「普通」と訣別した総ての孤独な旅人は、もうあの頃には戻れない、「普通」には戻れないという厳然たる事実を改めて噛み締めることになるはずです。そして、そのとき彼らは、何を思うのでしょうか。
『SUPER 8』で活写される少年少女の交感の情景は、ある意味で孤独なタオを歩む旅人たちがかつて夢見て、そして叶えられなかったファンタジーであり、過去にも未来にも存在しないものです。わたしたち孤独な旅人は孤独のあまり、ついそのことを忘れてしまいます。そんなものがアニメやゾンビ映画の中にしか存在しないことを、この現実の中にはそんなものなどどこにも存在しないということを、わたしたちは忘れてしまうのです。そうでもしないと寂しくてやっていけないからです。タオを行く苛烈な旅路は、孤独で、孤独で、とても孤独なものだからです。
でもわたしたちはそのことを思い出さなければいけません。「想像上の安らぎ」などどこにも存在しないということ。あったとしてもそれは「普通」の生活という、人類が為しえたものの中でもっとも困難で厳しい営為の中でしか実現できないということ。そして、もうその「普通」には戻れないということ。
思えばスピルバーグの『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスは、『SUPER 8』で謳われていたキモキモしいオタク像を徹頭徹尾貫き通したパーフェクト・ヲタでしたが、それでも嫁さんと子供がいて未確認飛行物体と第三種接近遭遇を果たすまでは普通の生活をしていました(後半でついに愛想つかされちゃいましたが)。おそらくこの映画が作られた70年代はまだ、こういう重度のオタクでも人並みに家庭をもって普通の生活を送ることが許されていたのでしょうが、残念ながら21世紀の昨今、そのハードルはけわしく厳しく果てしなく高いものだと言わざるを得ません。
『SUPER 8』のラストが物語っていたのは、そうしたあまりに厳しい、残酷な現実でした。
「現実を見ろヲタども。もうオマエらに普通の生活は無理だということにいい加減気付け。そして、目の前のタオをただ突き進むがいい」
最後にジョー少年が宇宙人に言い放ったのは、或いは、こういう言葉だったのかもしれません。
いろんな意味で『SUPER 8』は涙なくして見れない大傑作なので超オススメです!
なんの予備知識がなくても楽しく見れる映画ですが、一応ヲタ道というタオに人生を捧げたオタクの悲惨な日常がどんなものかを理解していればより一層楽しめると思いますので、事前に見ておくといい映画を簡単にリストアップしておきます。
- 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』 古典。必須。基礎中の基礎なので見てない人はとにかく見ましょう。
- 『ゾンビ』 古典。必須。基礎教養。これ見てないとか話にならないのでとにかく見ましょう。
- 『バッド・テイスト』のメイキング・ドキュメンタリー『グッド・テイスト』 インディーズで映画をつくるということがどういうことか、そしてオタクが底辺から這い上がるにはどれだけ努力が必要か。これを見れば総てわかる!ほんとに!マジで!涙なしでは見れない傑作中の傑作なのでみんな見ましょう。(旧版DVDをオークションで購入すれば見れます)
- 『未知との遭遇』 古典。
- スピルバーグの方の『宇宙戦争』 大傑作。ワーキングクラスブルーカラー親父(トム・クルーズ)の孤独!そしてダコタ・ファニング!
- 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』
いつだって、いつまでだって、なかよしなんだ!
みんなもこっち側に来なよ!!!(涙を流しながら!!!)
最近あたまの中でSoundgardenの「Black Hole Sun」が大量に垂れ流されるのはなぜでしょうか。この曲がもちろん、ゾンビ化したジョゼフ・ピラトーが地下核シェルターの暗渠をのたうち回るかのような永遠の退廃美と、全人類が一人残らず全員絶滅したあとに人知れずターンテーブルの上を虚しく回転するブルー・ホライズン社のブルースのレコードのドス黒いビニールの化学臭のような絶望的なアウラを湛える超名曲であることに変わりはないし、加えてビデオ・クリップが人類史上に残る超・超・超名作なのでまったく問題はないのですが。いやほんと超名曲。
まぁ要するに、人は死んでも名曲は死なないということですよ。「ハードコアは絶対に死なないが、おまえは死ぬ」ってサブ・ポップのどっかのバンドも言ってましたよ!
ところで、超名曲といえば最近「アニメ歌年鑑1989」(GEOで50円で買った)を聴いていたら、一曲目がおぼっちゃまくんの主題歌の「ぶぁいYai Yai」でした。この曲がどんなに壮絶なエピファニーに溢れた一大叙事詩であるかは、リリックを一読すれば自明のことですのであまり多くは語りませんが、まぁとにかく聴いてみてください。あたまの中で壮大なオデュッセイアが花開き、アイーダを絶唱しイカロスの翼をはためかせながら地面に激突しているあなたがいるはずです。リッチな挨拶そう、ともだちんこ!
作詞は小林よしのりだそうです。この人、つくづく思うのですが昔はほんとに天才だったんですね!
歌っているのはいんぐりもんぐりというバンドで、ライナーノーツによると出自はアマチュア高校生バンドだったそうです。同じく彼らが歌うエンディング・テーマの「一度だけI LOVE YOU」もアンダートーンズとスティッフ・リトル・フィンガーズのレコードを部屋に飾りながら学研のBOMを読んでオナニーしている男子中学生の光景が目に浮かぶような名曲で、最高です。
まぁ要するに何が言いたいかというと、名曲はいつの時代も色あせることはないということです。音楽はほんとにいいものですね!
極寒の山陰地方にもようやく春の萌芽が訪れて人心健やかならんことを切に祈る毎日ではありますが、ありますが、皆さんご存知のとおり、3月11日に東北地方を中心に大地震が起こり、それに付随した大津波でたくさんの方が亡くなられました。謹んで犠牲者の皆様のご冥福をお祈りいたします。
とうぜんジャンキーもこの災厄にはびっくりしました!びっくりしましたが、しかし島根はまったくもっていつもと変わらぬ通常営業で津波のツの字も放射性物質のひとカケラもどこ吹く風でみんな普通の生活をつづけていたので、まったく実感が沸かなかったしいまでも沸かないし、そりゃいろいろ思うところもありますがいまこのタイミングで何を言っても軽佻な発言にしかならないと思うし、とりあえず福島第一原発が最初の水素爆発を起こしたときにNHKの女性アナウンサーが上ずった声で「建物の外には出ないでください!」と伝えていたのをカーラジオで聴きながら「何かとんでもないことが起こったし何かとんでもないことが起こっているがなぜ島根はこんなに平和なのだろうこれから日本は終わるんだろうか日本は滅びるんだろうかていうか今日先輩と松江で飲むんだけど大丈夫だろうかとにかく何かとんでもないことが起こったし何かとんでもないことが起こっているがしかし、自分はどうすることもできない」と漠然と思ったことくらいしか、いまは言えないです。
そのあとにドン・デリーロの『アンダーワールド』という小説を読んでいて思ったのですが、ソ連が原爆実験を成功させたときもこういう感じだったんでしょうか。或いはソ連がスプートニク一号を打ち上げたときも、ケネディがキューバ近海の海上封鎖を敢行したときも、そしてケネディがテキサス州で暗殺されたときも、世界はちょうどこういう感じだったんでしょうか。世界が終わるという何かおぼろげな感触が実体を伴い輪郭をとり形となって浮かび上がり、現実に確実にそこに存在しているという名状すべからざる感覚。恐怖とも絶望とも違う、どこかあわただしく、ドライブインシアターに足を運ぼうかという獏とした日常のリズムとビットレートを突如として塗り替えられたことで感じる、「なぜいまになって」、「なぜおれなんだ」という、怒りにも似た自分勝手な感覚。
「なぜいまなんだ!そしてなぜおれなんだ!普通の生活がしたかっただけなのに!なぜいまになって!」という、極めて身勝手で、どうしようもなく、そしてだからこそ普遍的である意味でもっとも倫理的な感覚。
少なくとも、あの日フクシマの原発が水素爆発を起こしたときにおれが感じていたものは、そういう感覚でした。皆さんはどうだったでしょうか。オーバーフローする情報に対処することができなくて、一方でそこから目を逸らして一時的に現実から離反してしまうことが罪であるようにすら感じられる感覚。普段の日常で、おれたちはいつだって現実からスタンドアロンしてきたし、そうすることで保たれる自我もあるというのに、それが罪であるように感じられる感覚。おれが感じたのは、そういう感覚でした。
皆さんはどうだったでしょうか。
とにかくいまは、被災地の復興と被災者の方のこれからの人生の幸福を祈るばかりです。
ところで前掲の『アンダーワールド』、とてもおもしろい小説でしたよ。ジャイアンツの逆転優勝に沸くスタジアムで時のFBI長官エドガー・フーバー・ジュニアがソ連の原爆実験成功の報を受けた場面から始まる、めくるめく20世紀アメリカ残酷物語!これが教科書では教えない世界史の裏側!
・・・というのとはちょっと違うんですが、まぁだいたい似たようなもんです。ていうかもっと言えば「信仰」の物語じゃないかと。「生きていればきっと報われる」というお題目に振り回され、その信仰の対象は野球ボールだったりローリング・ストーンズだったりたセルゲイ・エイゼンシュタインの門外不出の非公開映画だったり街角に顕現する聖人の幻だったり或いは核爆発のきのこ雲だったり、ひとによっていろいろだけど、そういう信仰にすがりながらもいつも裏切られてイテコマされて、それでも敬虔な殉教者として激動の時代を生きた20世紀の典型的な市井の人々の物語。
作中、「希求する」という言葉の語源は「絶対に手に入らない」ことを意味するラテン語である、という言及がありますが、これがある意味で作品全体を統括しているキーセンテンスであるように感じられます。「何かを狂ったように求めながら結局、ほんとうに欲しいものは何ひとつ手元に残らない」、というあまりに重過ぎる現実。
この現実を前にして、じゃあおれたちはいかに生きるべきか?
20世紀は科学がもたらした浮ついた新興宗教に人々が振り回され、あれこれ搾取された挙句に結局ほんとうに必要なものは何一つ手に入れることができずに死んでいった時代だったのですが、じゃあこれからもそうなのかというと、まぁかなり確実にそうなりそうだし、実際そうなりつつあります。例えばパソコンや携帯の使い方もろくにわからないおじいちゃんおばあちゃんがいて彼らはフェイスブックやツイッターのログインの仕方もわからないしもっと言えばそれらのサーヴィスがもたらす便益がどういうものかも知らないのに、そういう現実があるのに、ていうか世界の大部分が未だにそんな感じなのに、何かインターネットが世界全体を統べるパワーであって真実であってそれさえあれば何とかなるよ大丈夫だよフェアトレードで風評被害も防げるし放射線測定データも開示しようよいぇーーーいと大騒ぎしている悲惨な人が今回の原発事故に際していっぱい発生しましたが、まぁ、要するにみんなインターネットという霊媒にすがりたいのです。そしてそれに関してはおれも人のこと言えないし自分もすがりたい人たちの仲間みたいなものだし、何というかみんな不安なのです。だからそういう人たちを責めるのは酷なことかもしれないです。実際自分もその一人だし。
でも、そういう行いはこれからの21世紀をよりよい時代にしていくためにも、正さなくてはなりません。
また、○○○とか×××とかゴミみたいな小説しか読んだことなくてバロウズとかバラードの小説すら読んだことないくせに何か知ったような口きいて善と悪は不可分で世界は複雑にできていて人生はたいへんなんだ!とか、紀元前の昔からわかっていた事実を自慢げに吹聴してナンタラカンタラいうアニメにはまって「おテツガク」してる残念な人が大勢いてturdっぷりが甚だしいですが、まぁ、これも、要するにみんなアニメという霊媒にすがりたいのです。いやアニメというかシャフトに。なんかクールでスノッブでテリトリアルでカックィーものが欲しいんです。これだっておれは人のこと言えないです。だからそういう人たちを責めるのは酷なことかもしれないし、実際自分もその一人だし、要するに誰だって信仰にすがりたいのは山々なんです。そしてそんなものにすがってもほんとうに欲しいものは絶対に手に入らないことをしりながら、すがってしまうんです。献金してしまうんです。現実とオハナシを取り違えてひきこもったりVIPPERになったり髪をブリーチにして唯みたいな髪型になって女装(ていうかコス)という倒錯行為に走ってしまったりしてしまうのです。これは病気です。でもそれを責める権利は、もはや現在、誰にもないです。みんな多かれ少なかれ精神的にイカレているしどいつもこいつもメンヘル気取りだし困ったもんです。そして最悪なことに、それを誰も批判することができないのです。いまの世界、みんなが自分の驕慢さを上手に隠す術を知っているからです。それはインターネットで適当になんか調べてその知識を披瀝してれば自分が公正で独立不羈の完璧なジャーナリズムの構成員であるような符牒を手に入れられるからです。それはラノベとかセカイ系とか、聴いただけで虫唾が走るような腐ったゴミ文化だけの責任ではなくて、すげースケールのでかい話をすれば米ソデタントとかケネディ暗殺とかレーガン暗殺とかプラザ合意とかスターウォーズ構想とかハリバートン社の株価とかイラクの農村に撃ち込まれた劣化ウラン弾の残留放射能とか、この世界の上部構造と下部構造のありとあらゆる歴史の断片が連なってこういう世界をつくってしまったことから生じる問題なので、みんながそういう病気になってしまうのは仕方ないといえば仕方ないです。
でも、そういう行いはこれからの21世紀を、これからの日本を、ていうかこれからの人類全体をよりよいものにしていくためにも、正さなくてはなりません。
とりえあずみんな、パソコンや携帯の電源を一度切って、もっと本読みましょ。もっと本読んで勉強しましょ。そりゃアニメは楽しいしニコ動も楽しいしおれだって一日中プリキュア観たいですよ。でもやっぱり本を読んで教養を得なければ、個人がそういう努力をしなければ、世界はよりよいものになんかなりませんよ。ジュリアン・アサンジも言ってたでしょうが。「それはあなたたち次第です」と。
だから、だから、がんばりましょ。そこからじゃないと、何もはじまんないですよ。
あと、ぜんぜん関係ないけどこの前Dioの『Dio at Donington UK : Live 1983 & 1987』を聴きました。去年ディグ&リリースされたライヴ2枚組で超カッコいいジャケットのデジパックに加えてそれぞれのライヴの実際のツアーパスのラミネート製レプリカが付いてきて超最高なのですが、肝心の内容も超リアルガッデムファッキン最高で頭蓋骨が割れるほどカッコいいです。ほんとうに、ありえないほどカッコいいです。特にディスク2の87年のモンスターズ・オブ・ロックの音源がシュプリームギブアシットリアルガッデムカッコいいです。やっぱDioはカッコいいし永遠にロックだし、おれもロックンロールの精神を忘れたらいかんぜよと思ったですバイ!!!ていうかもう、これがロックの代名詞ということでいいのでは…。歌唱にしろMCにしろペース配分とか関係なく最初から最後までフルスロットルで充電満タンパワー爆発しています。素ですごいです。あの身体のどこからこれほどまでのエネルギーが産まれてくるのでしょうか。真剣に、カッコいいという言葉では済まされないほど果てしなくカッコいいです。とりあえず「ロックが好き」という人でこれ聴いてないとか素で信じられないというくらいの超絶名盤なので、是非チェックしてほしいです。Dio rules!!! \m/
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EARTH "EARTH 2 -SPECIAL LOW FREQUENCY VERSION-"
FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME ONE"
FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME TWO"
BLUE CHEER "VINCEBUS ERUPTUM"
MELVINS "LYSOL"
SIGH "GALLOWS GALLERY"
伊東美和 「ゾンビ映画大事典」
「悪魔のいけにえ」
「バッド・テイスト」
「愛のむきだし」
「マーターズ」