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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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クリント・イーストウッドの映画に通底する思想がことごとく安直なリバタリアニズムでしかないことに気付くとき、彼が巧みにエクスプロイトしてきた自由の神話はたちまち色褪せるだろうか。或いはそれでもなお、彼の誣告する正義の力学はこの世界に意味を持ち続けるだろうか。観客や批評家がクリント・イーストウッドの映画を称揚するとき、彼らはしばしば禁欲主義的なナラトロジーを評価する。静謐でそれが故に強固な、そして何より重厚な物語に彼らはこの世界の縮図を見る。それが映画芸術そのもののセントラル・ドグマを指針する画期的な何かであるかのように吹聴しさえする。しかしそうした論陣が見落としがちな単純な事実として、クリント・イーストウッドの映画はその寓意性が故にまさに宗教的なノイズを孕み過ぎている。その意味ではやはり、クリント・イーストウッドの作る車や飛行機やアメリカ軍の映画はおしなべて皆一様に原理主義的なアイコンであり、何かのドグマに接近し得るものと言わざるを得ない。でもそれは映画のドグマではない。それは彼が、というより、アメリカという国そのものが奉ずるある種の神学にまつわるドグマなのだ。そしてもっと言えばそれは神学というよりもむしろ、病理とでも換言すべきものなのだ。荒木飛呂彦はクリント・イーストウッドはもはや一つのジャンルなのだと言った。でもそれは少し違うと思う。クリント・イーストウッドはある種の人々にとっては宗教であり、リバタリアニズムの迂遠な礼賛であり、そしてそれ故に自由という言葉の再定義を我々に迫るものだ。彼が雄弁に唱道するテーマそのものはジョージ・ミラーのポスト・アポカリプスでスチーム・パンクな燃料噴射装置付きの自殺マシーンと何ら変わらないように思えるのにもかかわらず、また、彼の映画からはリベラルホークからオルト・ライトまであらゆる政治的な背景雑音が賢しらにトリミングされているのにもかかわらず、彼がプロットする物語はその枝葉末節から中枢に至るまで全て例外なく、人々が神に対してスケール不変的に支払い続ける負債を所与の事実としてこれを斥けず、むしろ肯定し、そしてその負債を返済する行為こそが我々の自由なのだと説く。神が債権を取り立てて人に試練を与え、与えすぎて時に人を殺めもすることを絶対に譴責してはならない。我々はそれを甘受しなければならない。クリント・イーストウッドの映画においてはそれを超克することこそが人間に許されたほとんど唯一の自由であり、その努力を怠る救いがたき衆生は例外なく自由を脅かす敵である。敵?いや、敵ですらない。天国行き負債完済モノポリーに賭け金をベットしない人間はスプロケット・ホールの向こう側でただ置き去りにされ、瀆神的なファズ・ギターを奏で続ける脳の25フレット目をタライラッハ座標で完璧に撃ち抜くスイング・ジャズの凶悪極まる死の鉄槌でファイナライズされる。クリント・イーストウッドのチェス・ボードには仕掛けがあり、刻まれた軌道に沿ってしか彼らは進むことすらできずオイラーの定理に忠実に人生の終着地点へ最短距離で送り込まれるその瞬間までドーリー・カメラのこちら側で神を、正義を、愛を、そして何より自由をブート・アップし続けねばならない。クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」は例えばそういう映画だ。社会は自由だ。システムがそれを保証するかどうかにかかわらず、本質的にこの世界は自由だ。天啓にも似た突発的な愛国心に駆られてネイビー・シールズに志願するのも自由だ。ロメロとオーウェルの二人のジョージやアントニー・バージェスならそれを殺人マシーンと呼ぶだろうが、クリント・イーストウッドにとってはそれは自由の正当な行使であり、誰憚ることなき神への跪拝なのだ。兵士は神への負債を支払い、天国へ行った。それがこの映画の讃えるドラマだ。イラクでプラスチック爆弾をくくりつけられて爆殺された少年も神への負債を支払い、天国へ行った。それがクリント・イーストウッドがリアリズムの向こう側で敬虔に語る自由のあるべき姿だ。自由だ。全ては自由だ。
ところでノイタミナで2017年の1月〜3月期に放送されたアニメ「クズの本懐」は、そうしたクリント・イーストウッド神学とは別のアプローチでリバタリアンたちの受難を描いた物語だ。このアニメを単に軽佻浮薄なビーバーフリックと考えるか或いは好意的にもストック・エコノミーの闘技場で乱れ飛ぶグリーン・マナリシのセキュリティー・ホールの間隙で奇跡的に組み合わされたポートマントーと考えるかは個人の自由だが、どちらにしろこのアニメの真のテーマは恋愛でもセックスでも人間のクズでもましてや日本の高校生たちのソーシャル・ネットワーキングを巡る社会論などでも全くなくて、他ならぬ自由だ。それもクリント・イーストウッドと同様に、レイシャス・アロイファス・ラファティの「カミロイ人の初等教育」でイマニュエル・カント以降連綿と人類の大脳新皮質にスルー・ホール・マウントされ続けてきた端倪すべからざる純粋実践理性を完膚なきまでに再起不能になるまで情け容赦なく粉砕したような意味での壮絶な自由だ。このアニメのキャラクターたちにとって恋愛とは破壊であり、自由とは収奪するものだ。そして自由とは神に対する負債を死に物狂いで返済する行為と同義であり、そこから逃れる者にはこの世界に居場所はない。彼らはもはやそういう風にしか生きられない。自由を巡って殺し合うことでしか生きていけない。精巧にデザインされたはずのオープン・ワールド・ゲームで神が訛伝した真理の残骸。それは分配の正義を根底から覆す致命的な矛盾なのか?それとも神の荘重なる企図に導かれた未知の宇宙定数なのか?クリント・イーストウッドなら答えは決まっている。クリント・イーストウッドは自由におけるコペンハーゲン解釈をことごとく否定する。それに対するラスコーリニコフ的な逡巡すら彼は断罪する。ある人間はそれを手にいれる。ある人間はそれを失う。ある人間は生き残る。そしてある人間は死ぬ。それが自由だ。そのトートロジーこそが世界の真実だ。天下に並びなき神の理路整然たる統一場理論ディレクターズ・カット完全版だ。ではこのアニメはどうだろうか。緩解されざるオブセッションを抱えた悩めるリバタリアンたちがある共有地で感情とセックスを通貨とした凄惨なゼロサムゲームに興じている。彼らは人体を用いた危険な極限計算を延々と続け、ある意味ではラスコーリニコフ的な演繹、自由のバックドアーを探る邪悪な微分をこの世界に対して挑み続ける。そしてその過程で彼らがプレーするゲームの性質が徐々に変化していく。この時点でこのアニメとクリント・イーストウッドは明確に違ってくる。クリント・イーストウッドにとって世界は静的なものであり全てはすでに完成されている。そこではキャラクターたちは神への負債を所与の事実として受け入れ、その返済のためのニーチェ的な闘争を続ける。他方でこのアニメでは自由はありのままに受け入れるものとしては決して描かれない。このアニメの自由に関する闘争領域は様々なマクガフィンを契機として段階的に別の導関数を持ち始める。つまり、今となっては極めてオールド・スクールな手法、ラスコーリニコフ的な直接話法の内的独白を通じて彼らは自由そのものに闘争を挑むようになるのだ。もちろん、それが故にこのアニメの結論はクリント・イーストウッドのそれよりも残酷なものだとは言える。彼らが支払うべき神への負債はまたぞろ加算され、かつては単純明快なものだったはずの自由の弁証法は難解極まりない異教徒のマントラと化し、全ては寓意性を失い蛮土僻隅の無秩序へと帰っていく。ここには例えばオルト・ライトのポピュリストやブライトバード・ニュースのアジテーターが賢しらにモラルファグするリベラリズムの限界が確かにある。定言命法や個人の自由意思ではポスト・トゥルースのこういったパラドックスは解決することができない。クリント・イーストウッドなら答えはシンプルだ。ラスコーリニコフはあくまでラスコーリニコフに過ぎない。自由を巡る闘争そのものを剔抉してはならないし、その愚挙に及んだ者はこの世界から、少なくともクリント・イーストウッドの想像上のアメリカからたちまち消去され、神への負債は次の犠牲者を探し始める。でもこのアニメは違う。不要だと思われていたキャラクターたちのフィラー・エピソードが集積し彼らの狂気と殺戮の旅がその終着地点へ近づいていくにつれて、作品を統べる多項方程式の知られざる最後の定数が明らかになり、結局はこのアニメもまたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がごとき一つの禍々しい曼荼羅を織りなしていたことに、不可解ながら我々は気付くことになる。様々なディテールが絡まり合い、リバタリアンたちが見出した答えがまさに逆巻く自由の混沌によってしか継起され得ない必然的な結論であったことに我々は最後になってようやく気付く。ある者は神への負債を巡るゲームに勝利し、またある者は無惨にも敗れ去る。ゲームの終わり。しかし終わりはない。どちらの側からも見える景色は一様に超現実的であり、かつてゲームを始めた頃に考えていた終わりとは似ても似つかない。混沌の果てに彼らが見出したものはやはり混沌であり、一度手にしたはずの自由は細切れのペンローズ・タイルとなってまた世界に散らばっていく。彼らは戦うべきゲームが別にあることを、そして今まさに次のゲームが始まりつつあることを知る。最後になって彼らはようやく知る。クリント・イーストウッドが巧みに覆い隠す世界の二周目の姿を彼らはその時ようやく垣間見る。世界は再び混沌に落ち込み、狂気がこの都市を、空を、地平線を、人々の欲望と肉体の痙攣と断末魔の絶叫が乱反射するガラスの箱庭を覆っていく。自由を巡る物語はまたもや不条理で横溢し、ゲームの規則が再び書き換えられる。もちろんこのアニメはそのあとのゲームの姿までは描かない。キャラクターたちが自ら次のゲームへ向けてスタート・ボタンをパンチしたところでこのアニメは突然終わる。そのあとの世界を戦うのは語られざる結末の向こう側の彼らであり、そして、ほかならぬ我々自身なのだ。
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   驟雨に包まれた海辺の沼沢地がおれには地獄の辺土に見えた。ビニール・シートの天蓋は風に煽られればたちまちバッファアンダーランエラーに陥り、その過負荷を地上2メートル分の加速度が乗算された雨水に変換して地面に出力して、そしてヌカルミでできたフロアはパブリック・アドレスの絨毯爆撃がレア社謹製のスーパー・ドンキー・コング式スプライトの大群の魂或いはコーディングされざるその他すべてのものを電子の箔押し加工で浮き彫りにするたびに尊敬措く能わざるポロロッカに見舞われては極小のブロブ片を空間に射出した。オープニング・アクトのどうでもいいジョバーを横目でやり過ごすにはいつもなぜか卓抜したテクニックが必要とされるから、おれはシオドア・スタージョンの「マエストロを殺せ」(柳下毅一郎訳)を読み進めることにして、醜いフルークが謀殺したラッチ・クロウフォードの残響にパワー・アンビエントされ徐々に緩やかにジョン・ゾーン式コブラ・ゲームの棋譜に踊る微分方程式並みの厳正さで発狂していくマジック・リアリズムがなぜかおれの現実にシンコペートしてきてそれは心地よい細切れのアナログ・ディレイのように虚構と現実の懸隔を双方向的に浸食し重大な精神汚染をもたらす。スキッドが弾いていたのはおそらく、周囲24フレット分とあとその先の人生数十年分に壊滅的な打撃をもたらす真に魔術的なファズ・ギターであり、だからこれはノルウェーのデス・メタル・バンドの小説でもよかったしベオグラードのスラムでライバッハのブートレグを聴きながら発狂するムスリムの少年の儚くも妙なるモンタージュでもよかったし、或いは雨の松江のライヴ会場でスタージョンを読みながら無聊をかこつコミュニケーション障害の27歳のおれに降りかかるそのあとの或いはもっとあとの数奇な運命を象る何かであってもよかった。とにかく、おれはおれのビアンカの手が現れるのを待っていた。おれのデス・クリムゾンが、おれの四八(仮)が、おれの超光戦士シャンゼリオンが現れるのを待っていた。それはこの瞬間でなくても或いはそのあと或いはそのまえ或いはそのどちらでもない謎の余剰次元におけるまだ見ぬ邂逅であり、そしてそれはやはりそのときではないはずだったし実際にそうだった。うみのてのライヴが始まった。いつもならDJブースに喜捨されるはずのサブ・ステージがたちまちシールドのスパゲッティで埋め尽くされ、リゼルグ酸ジエチルアミドのグリーン・マナリシがアラモゴルド砂漠に刻まれた巨大なペンタグラムに降臨しB17爆撃機のレギオンを核実験のクレーター上にフルメタルの星座としてバンプ・マッピングするに吝かでない状況が現出する。フェンダー・ジャパンのパステル・カラーのジャズ・マスターは2段直結回路のダーリントン接続でエレクトリック・レディ・ランドのウォッチ・タワーへとたちまちバッド・トリップして頭蓋骨を叩き割る。ラッチ・クロウフォードの残響を電光火花の彼方に垣間見る。光あれ。ディギン・イン・ザ・カーツ。クラークスデール空軍基地でサーキットされたE3のマイクロソフト・ブースでジョーズ・アンリーシュトをはじめてプレイした人たちの気分はたぶん、日本版ローカライズ「ブリー」が800円でディスカウントされている島根のバイブル・ベルトでもきっと、ミッドウェイ・ゲームズのあの邪悪なフェイタリティのグラフィック・アートに忠実にハイウエスト・ニーレングス・インバーティド・プリーツ・スカートで武装した女の子を鋼鉄のソーセージ・スタッファーへと送り込んで切り刻むときですら確実に、きっと確実に、こんな感じでイカレていたのだろう。おれは或いは彼が或いは彼女が或いはその他すべての脳が腐りかけた小心翼々のサタニストたちはみな、寄木細工のアフロ・フューチャリズムが網膜に直接ベクタスキャンするケン・ケリーのマノウォーのジャケット・アートのオイル・ペインティングが如き16ビットのソーフィヤ・セミョーノヴナの下腹部のアルビノの皮膚に欲情して地面に激突してバラバラになる。おれたちはいつもそれが何かとても価値のあるものだと思いたくて、価値のあるものを価値のあるものだと思うおれたちを価値のあるものだと思いたくて、緩やかにオーバードーズし気付いたときにはもう脳ミソがスキャナーズ爆発を起こして粉々に飛び散ってウィーン・アクショニズムで描いたアルタミラ壁画のクローンとして永遠になる。ライヴが終わる。永遠になったおれたちはもう永遠ではない。永遠ではなくてここは邪知甘寧に満ちた死の世界。永遠はない。終わりはない。見えない敵が我々を攻撃する。OBEY, CONSUME, MARRY & REPRODUCE. おれはロディ・パイパーを見つける必要があった。即効性のイデオローグを、陰謀論に跪拝するためのデザイナーズ・ドラッグを、オールトの渦状雲で覆われた電離層にたゆたうソーフィヤ・セミョーノヴナを、おれは見つけ出さねばならなかった。存在しない女。物販で高野京介から手売りでCDを2枚買った。いま手元にはそのときに買ったうみのての「イン・レインボー・トーキョー」(メンバー全員のサイン入り)と、高野京介と1997年の「The End of Youth」がある。ライヴが終わっておれたちはつけ麺を食べて家路について次の日には普段通り仕事をしていた。もう永遠ではなくなっていたから大量のドレーン・チューブを内臓に接続して時空間をネジ曲げようとする不毛な術策を弄することもなかった。フルークとラッチ・クロウフォードの物語はその次の日くらいに終わりを迎えた。暗黒の物語。存在しない女。ビアンカの手、もはやMZ700のポンチ絵と化したソーフィヤ・セミョーノヴナ(であったものの四散した残骸)。農奴解放時代に既にENIACが稼働し、ドストエフスキーがATARI2600をプレイしていたなら、我々はいまごろゆみみミックスのエミュレーションにMODされ電子のカケラになって消えていた。存在しない世界。そうであったはずの世界。高野京介と1997年はスーパーコンボドライヴ(たぶん台湾製)でオン・ザ・フライ書き込みされたバルク品のCD-R(スタック・リングには日立マクセルのロットが刻まれている。きっと中国製)で、人体を油圧サーボアクチュエータで緩やかに確実に死に追いやるときのシーク・ノイズで水晶振動子に焼き尽くされワウフラッターでブランク・スレートを汚染した。存在しない女。高野京介がハイスコアガールのTシャツを着ていたことを思い出した。「おれたちはかつて二次元の住人だった。だから二次元の女しか愛せないのだ」「なるへそ~」「どんなに醜くても、それがおれたちの生きた証だ」この一連のシークエンスで押切蓮介は伝説になった。
「似たようなやつらと何かしでかそうと/大人になってもバカでいようねと/このコード進行が何かのパクリでも/このコード進行がくるりのパクリでも/それでもぼくは/それでもぼくは/おれがロックマン/おれはロックマン/おれがロックマン/おれが」
フルーク、ああフルーク。
おれはもう一度永遠になって、そして、またもとの生活へと戻っていった。


アラン・ムーアが近年のアメコミ・ファンダムについて「今日日アヴェンジャーズの映画をwktkしてるのは30過ぎのノスタルジーマンセーの大きなお友達ばかりでスーパーヒーローコミックはもはや本来の読者たるべき小学生のものではなくなってしまった。クソ嘆かわしい。ていうかグラフィック・ノヴェルっていう言い方痛くねえ?」*と発言していたそうで爆笑だが、別にこれはアメリカに限った話ではなく、NERDなサラリーマンが革命機ヴァルヴレイヴというクソアニメをわざわざモバイル・ストレージして通勤電車の中で不気味な笑みを浮かべて嗜みながら上司からの直電を着拒するという狂気の沙汰のようなCMをパブリック・アドレスしている我が国のアニメ界隈においてもけっして無縁ではあるまい。

変化に順応できない保守的で頑迷な思想的ヒルビリーもしくは改宗した隠遁ヒッピーの普遍的な脊髄反射と決めつけるのは簡単なことだが、アラン・ムーアにしろ富野由悠季にしろ宮崎駿にしろ、それがどんなに凄惨な自己憐憫に裏打ちされたものであれ、深謀遠慮に基づくミス・ディレクションを企図したものであれ、いつの時代もみな押しなべて言っていることは正論ではある。矛先はさまざまなれどいずれの論陣も市場の停滞や硬直化に対する危機感が根底にあり、結局毎度判で押したようにデモグラフィック:ナードな文化はそのうち行き詰るよ、というありきたりなご託宣にたどりつくものではあるにせよ、このアナロジーはさんざ使い古されながらも未だ説得力があるとはいえる。

ただ単にジャンル文化として如何なるクロスオーバーも否定しほとんど民族浄化にも似た強迫観念的なマニエリスムへと没していくことを潔しとする原理主義的なポジションと、より総体的に創造的破壊を是としてあらゆる文化的営為に積極果敢にコミットした総合芸術たらんとするリベラルなポジションのせめぎ合いの中で、その狷介で鼻持ちならない態度からまぎらわしいがアラン・ムーアや富野・宮崎は総じてやはり後者に類別される。

イギリスのニューウェーブSFがそれまでのA・E・ヴォークト的にしてサイエントロジックなウンコ疑似科学的なヒロイックSFを解体しいっぱしのスペキュレイティヴ・フィクションへと転生させたように、『ウォッチメン』はキーン条約を作品世界に仮構することでスーパーヒーローコミックをメタ構造に落とし込みジャンルを一歩上の次元へと引き上げた。それによってもたらされたポスト・モダニックな混乱とフォローワーたちの方法論ばかりが先行した手段と目的の取り違えという頭を抱えるような愚行は歴史につきものの残酷な皮肉であるとしても、そもそもの動機は純粋に、賞味期限をとっくに過ぎたジャンルに同時代性という付加価値をどう付与するか、という極めて建設的なもの。これはガンダムにしてもナウシカにしてもエヴァンゲリオンにしても同じ。セックス・ピストルズにしてもブラック・サバスにしてもニルヴァーナにしても同じ。閉鎖的な村社会と化した文化はムカつくし、意味がない。誰もがカビの繁茂した同じシンタックスの傘の下で、同じネットワークで、同じプラットフォームで、同じオブジェクト指向インターフェースで、同じコンテンツを嗜む。クラウド万歳。ニュースピーク万歳。これじゃスタンドアロンでゲルマニウム・トランジスター・ラジオのエアプレイをカーゴ・カルトしていた紀元前の昔のほうがなんぼか多様で革新的だったじゃねえか。そして人々はヴィデオがレディオ・スターを殺したときにようやく気付く。総ての文化はみな、最初はカウンターだった。付和雷同と右顧左眄の救いようのないチェーン・コンボでスプライトの隙間のヒット・チェックを小突き回すだけのジョバーなシステムからのフェイタリティな解放。あなたがボーン・サックで彼をフィニッシュする瞬間。そのとき、周囲に垂れ込めるハーシュ・ノイズに抗して自らの内部により強力なドローン・ノイズを作り出すとき、その衝動はひとつのサーキットとして形を成す。既成事実とこれを推進する向きとの漠々とした対決。そう、それこそが文化だ。
クロウダディのポール・ウィリアムズもニルヴァーナのSLTSについて同じようなことを言っていた。
停滞と中庸と正統墨守に唾棄し、WYSIWYGの魔手を逃れ、パワー・サプライのない未開の沃野へと敢えて踏み出すこと。ここに大衆性が加わるに如くはないが、或いは変革というアクションそのものが自ずと娯楽性たり得るのかもしれない。

でもここで留意すべきは、これは文化が真に革新的な価値を持ち得るときのあくまで一側面に過ぎないということ。上記に挙げた例はそのハードコアに少なからぬ批評性を抱懐したものであり、その効用が浸潤する速度の差こそあれ皆一様に、ユーザーはこのパッチを実装することで須臾の一瞬ののちに自らをアップデートすることができた。この場合、文化はそれこそ速効性のキラー・ジョイントとして我々の脳を上書きし、我々はそこで批評性という干渉縞の向こう側に新たな地平を垣間見るのだ。

しかしながら、批評性は別にstuffそのものに内在していなくてはならないと決まっているわけではない。あまつさえ批評性は相対的なものでしかないのだから、経年劣化に対する耐性と鋼性にそれを付与するのはたいていの場合、歴史的な文脈や当世社会のパラダイムでしかありえない。 アラン・ムーアだって、小学生に享受される存在としての無慮数千年に渡り連綿と続いてきたヒーロー・パルプの伝統を別に否定しているわけではない。彼は何ら目新しい批評性を持たないジャンル文学は人類の進歩に貢献しないから焚書坑儒しろと言っているわけではないのだ。彼はいい年こいたオッサンがジャンル文学を何か意味があるものとして自己言及性だのシミュラークルだのポスト・モダンの祭壇に上げて玩弄する現状を批判しているのであって、むしろここで論難されているのは「批評性」というテクニカル・タームによって巧みにカモフラージュされた、自らのオーラル・ステージとの離愁に未だに拘泥しつづける者たちの醜い自己憐憫であるといえよう。

このアナロジーを証明する平明にしてそれゆえに極めて致命的な自傷行為となり得る例示はいくらでも思いつける…エヴァンゲリオン以降市場を公然と跋扈した物語の破綻と語り手の凄惨な自己陶酔を糊塗するためだけのオープン・エンディングの粗製濫造(とそれを許したポスト・モダニズム・ジャンキーたち)、グランジ・カルチャーをバロウズ文学やそこから自ずと継起的にサマー・オブ・ラヴの残像と併置させたまでは良かったがメイン・ストリームに対するカウンターというアナロジーに妄執するあまりその音楽性の根本に厳然としてあったはずのブルー・オイスター・カルト性やブラック・サバス性その他もろもろのメタル崇拝をものの見事に見落としてしまった批評家たち(とそれを許した数多のポーザーたち)、等々。これらはほぼ例外なくデベロッパーとエンドユーザーとの醜悪な癒着関係がもたらした文化的な停滞であるといえる。文化の批評性を安易にパブリック・ドメインとしてパッケージしたことによって、そのトリップを永続させんがための両者の利害の一致は結果的に文化の批評性そのものの滅失を招いてしまうのである(批評性は相対的なものであり、つまり後付けのものだということは先に述べたとおり)。

蓋し、批評性とは、最高のトリップをユーザーに約束する強力なデザイナーズ・ドラッグである。少しだけ自分の知覚が拡張されたような気がして、たちまちこれまで自らを囲繞してきた文物や過去が色あせて見える。例えば「けいおん!」等の日常系アニメにおけるアンチ・クライマックスにしてアガペーが横溢し個人的な感情を失った死の世界のヴィジョンに籠絡された人々は、たちまちそれまでの普遍的な文法で書かれてきた物語が前時代的でオールド・スクールに見えて仕方なくなり、「魔法少女まどか☆マギカ」とかも手法としては手垢にまみれていて日常系の革新性には及ぶべくもない、と本気で言っていた論客すらいたものだ。反対に、「魔法少女まどか☆マギカ」の病的なまでの厭世観に耽溺した人々も、同様にその他有象無象が社会性やリアリズムに欠けた茶番劇に見えて仕方がなかったそうな。
でも所詮はドラッグであるから、グラスやコークやアシッドがそうであるように、それがもたらすものが如何なるグッド・トリップであれ、いずれはそこから目覚めなければいけない時間がやってくる。

「大きなお友達」とはしばしばデモフラフィック:キッズな文物に傾倒する成人男性を指す蔑称として使われる。例えばハピネスチャージプリキュアや銀河にキックオフ!をHDDにストレージしていた人間がこれにあたる。反面で、この定義はときに同属嫌悪のネガティヴ・キャンペーンとして悪用されている実態もある。例えば「魔法少女まどか☆マギカや化物語やエウレカセブンを嗜んでいるクールな我々は毎週プリキュアだのアイカツだのに憂き身をやつし続ける大きなお友達みてぇなキメェ連中とは違うんだよ」といった具合に、自らの優越性を賢しらに誇示するために。そしてこの排他的な学閥は押しなべて、「魔法少女まどか☆マギカやエヴァンゲリオンはプリキュアと違って崇高な意味があってとても文学的で哲学的でカックィー」というテーゼを妄信しているものである。要は「あのアニメはあくまで大人向けのものであり、ガキ向けのhenshinアニメに人生を捧げているキモい人たちとはいっしょにしないでください」という免罪符として彼らは批評性ドラッグを濫用しているのだ。権威主義に額づくブタどもが!

冒頭のアラン・ムーアの発言においても、「グラフィック・ノヴェル」というラベリングによってヒーロー・パルプを何か高踏的でアカデミックなものとして過剰に崇拝する批評性ヘッズを痛烈に批判していたはずである。我々はサブカルチャーを批評性ドラッグのキャンディー・マンの魔手から救い出すべきではないのか?そして、デモグラフィック:キッズのアニメはもちろん、あまつさえソフトポルノとしての効能しか持ち得ないエクスプロイテーションのアニメをも不当に蔑視するような「批評性」は、逆に文化を停滞させてしまうのではないのか?さよう、これは修辞疑問である。答えはもはや明白である。

それゆえに「魔法少女まどか☆マギカ」や「YU-NO この世の果てで愛を唄う少女」を言論がことさらに顕揚したように、「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」や「ストライク・ザ・ブラッド」のような傑作エクスプロイテーションにおいても同様の賢慮が注がれることを願ってやまない。両者はテレビアニメという象限における記号的な性表現の可能性を考究し、フリーダム・オブ・スピーチの臨界点までペドファイルやボディ・フラッシュやパンツ・エクスポージングをエクスプロイトせんとした、まさにアニメ表現の人跡未踏のエクストリームを標榜する荘重なる企図である。

したがってわたしは「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」の毎話の劈頭を飾る「BINKAN(機種依存文字)あてんしょん」のベーストラックの耳を聾さんばかりのMVYMRが現代音楽の極北を指針し得るものだと半ば本気で思うし、第6話Cパートの「メタルギア・ソリッド」パスティッシュがシャフトのスタジオ・ワークを完全に凌駕していたことはおろか、さだめしエマニュエル・ルベツキのドーリー・カメラの魔法にすら伍するものであったと信じて疑わない。

「ストライク・ザ・ブラッド」(以下STB)についてはもはやここで駄弁を弄するまでもない天衣無縫の大傑作であるが、その勝因は限られたデベロップ資源を世界最強の吸血鬼や半人半獣キメラやホムンクルスや古代兵器ナラクベーラや空間転移魔法や錬金術師その他もろもろのガジェットが筐底狭しとベルト・スクロールで乱れ飛ぶ複雑なタペストリーを織り成す作業にではなく、パンチラ及びパンモロ及び乳揺れ及びパイスラ及びおっぱい全開のエクスポージングもしくはボディ・フラッシュとニンフェット及びLGBT及び触手及びコスプレ及びツンデレ及びハーレム及びラッキースケベの無限コンボを徹底的に描破し尽すことに注ぎ込んだことの一点に尽きよう。2クールに渡り「まったく、中学生は最高だぜ!」とエンドユーザー(成人男性、誇り高き社会不適合者)が滂沱と血涙を流しながら快哉を叫んだことは想像に難くない。最終回もパンツを両手で握りしめる主人公に女子中学生が「先輩のバカァー!!!」と叫喚しながら刀剣を振り下ろしてエンド・クレジットという寸毫の間隙もない鉄壁のエクストリーム・エロ・スペクタクルであり、全編に渡りエクスプロイテーション精神を貫いた製作陣には惜しみなき賛辞と万雷の拍手を送るほかない。完璧である。本気で傑作だと思う。この作品に限っては、作画が当代において必ずしも秀抜とは言い難い絶妙なスカム・クオリティに統一されていた点が逆説的に背徳性と劣情を昂進する要素のひとつとなったことも特記すべきところだろう。その時点で最高のスペックを誇示するプロダクトが必ずしも時代の覇者たり得ないことは、数多の故事が雄弁に物語っているとおりである。ストーリーそのものをソフト・ランディングさせつつセカンド・シーズンを予感させるオープン・エンディングの余白も残すシリーズ構成の手腕も非の打ち所がない。そして何よりラッダイト的文明批判や鼻クソのような功利主義の垂れ流しや世界を照らすアガペーなどの軽佻浮薄なDIY神学にウツツを抜かすことなく徹頭徹尾エロを貫き通した点が本気で素晴らしい。この作品に関わった人間は全員手のつけようのない天才である。テレビアニメにおけるエクスプロイテーション表現はこのSTBを里程標として更に高次のフェーズへと移行したといえよう。かように本作は総てにおいて一点の死角もない、まさに奇跡的な傑作である。

STBについてもうひとつ付言するなら、STBはセカンド・クールのエンディング・クリップのゲスト・ディレクター及びコンテ・マンにあの長井龍雪を招聘しており、最小限のリソースで最高のクレショフ効果をもたらすことに成功している。ホリゾントの一隅に無造作に打ち捨てられたCRTモニターを少女が無為に眺めていると、スクリーン上にラスタライズされていた男がいつの間にか少女の傍らで佇立している。男は少女の左肩に顔を寄せ、牙をむき、首筋を食む。その一瞬に閃く少女の表情は交歓に打ち震えているようにも思えるし、一方で迫りくるぬばたまの夜がもはや避けようのないものと知悉しつつある者の諦観のようにも思える。いずれにしろ、二人の姿は画角から幻影のように消え失せ、もはやそこに彼らはいない。あとに残されたのは明滅するCRTと、そして二人の絆をつなぎとめていた他愛もないプロップだけ。少女の表情を粗い解像度でラスタライズしていたCRTもやがて暗転し、そこで映像は終わる。完璧だと思う。これほどまでに思弁性と詩情に富んだエンディング・クリップはいまだかつて見たことがない。STBはあくまでエクスプロイテーションであり、それもこのうえなくエクストリームなポルノグラフィーである。しかしそれゆえにオーバードーズ気味の愚昧なポスト・モダン・ヘッズのプレイする空虚な批評性遊戯に抗するメタ批評性を内包する傑作たり得る。同時に、このSTBの放埓にして尾籠なカデンツァが淫蕩と妄動の果てに比類なき気高さを湛える至高のコーダによって掉尾を迎えるさまはどこか象徴的であり、その倒錯したパースペクティヴは言外の意図を我々にはからずも教唆しているようにすら思える。かつて我々はこういったものをこそ、文化や芸術と呼んでいたのではなかったか?

つまりはそう、まさにこれこそが文化なのだ。


* "I haven't read any superhero comics since I finished with Watchmen. I hate superheroes. I think they're abominations. They don't mean what they used to mean. They were originally in the hands of writers who would actively expand the imagination of their nine- to 13-year-old audience. That was completely what they were meant to do and they were doing it excellently. These days, superhero comics think the audience is certainly not nine to 13, it's nothing to do with them. It's an audience largely of 30-, 40-, 50-, 60-year old men, usually men. Someone came up with the term graphic novel. These readers latched on to it; they were simply interested in a way that could validate their continued love of Green Lantern or Spider-Man without appearing in some way emotionally subnormal. This is a significant rump of the superhero-addicted, mainstream-addicted audience. I don't think the superhero stands for anything good. I think it's a rather alarming sign if we've got audiences of adults going to see the Avengers movie and delighting in concepts and characters meant to entertain the 12-year-old boys of the 1950s."
(Alan Moore talks about Fashion Beast, Jacques Derrida and modern superheroes : http://www.theguardian.com/books/2013/nov/22/alan-moore-comic-books-interview)
1月4日@出雲APOLLO 

あけましておめでとうございます。唐突で申し訳ないけど、今後の自分の芸術との関わり方を根底から覆すような強烈な体験であったため、何をさしおいて今日観たライヴの話を。

  • 石コロケッタ

 ファンクとアフロビートとフリージャズをゴッタ煮にしてモトローラ68000CPUパワーの極限までスプライト片に細切れに加工したものをリバース・エンジニアリングした感じ・・・もっと言えばMZ-700TinyXEVIOUSみたいな。それでいてデートコースペンタゴンロイヤルガーデンのようなベクトルには向かわないという。もっとわからんか。サックス/ボーカルの人が「タイのゲイ・バーのバック・バンドみたいな感じ」と言っていた。その形容は当意即妙。どこまでもバッド・テイスト原理主義に殉じる姿に拍手喝采。とりあえずとても良い。出雲に巣食うアヴァンギャルドのDNA継承者その1。

  • 安来のオジ

 が本名でエントリー、リアル・フォーク・ブルースを限りなくオーセンティックに。良かった。

  • NEWサザエ

 本日のキュレーター・・・になるのかな?ファンクとジョルジオ・モロダーとシャッグズをゴッタ煮にしてモトローラ以下同文。もっと言えばTinyスペハリ。それでいて旧態依然とした80年代マンセーのリバイバリズムもしくはマニエリスムもしくはコピーキャットに堕さず、あくまで現在進行形のコンテンポラリー・ポップ・ミュージックへと結実させる力業。これに感動しなかったら嘘だ!!!メンバー全員初老、ひとりは還暦。ほとんどフィックスでそして30年目アニヴァーサリー。これはもはや奇跡的という以外の言葉が見つからない。かつてバンドマンであった総ての人はこのことの持つ意味をたちどころに理解できるはずだ。そうでなければいけない。もう最高。出雲に胚胎するアヴァンギャルドの血脈を継ぐものその2。

  • DR.BREAKER

 間違いなく世界に通用する音。安土桃山時代に仮にインダストリアル・ミュージックが奏でられていたなら確実にこういう音になっていたであろうという、時空をねじ曲げる完膚なきまでの轟音核融合。すごすぎ。去年も遠藤ミチロウが松江B1に来たときのオープニング・アクトでその凄さは体験済みだったが、今回はそれらのハードウェア資産を確実に継承したうえで更に上位互換を達成。もう最高。デイメアでもTZADIKでもIpecacでもマンズ・ルーイン(もうないが)でも何でもいいから、とにかくこの音を全世界に紹介して欲しい。現時点で世界最高のヘヴィ・ロックだと本気で思う。スティーヴ・アルビニもリック・ルーヴィンもSOMAPITAもあとニューロシスもナパーム・デスも総ての轟音原理主義者がもう下を向いて黙るしかないほどに凄絶。狂おしいまでに残虐。そしてそれら全部が渾然一体となった末に垣間見るあっち側の世界。骨格を粉砕し脳を掌握し自意識を瓦解させるその総ての究極の更にその先。もうとにかく最高。

  • 山根麻衣

 サプライズ・ゲスト。あの山根麻衣。菅野よう子w/シートベルツの超名曲「BLUE」はプレイしなかったが、そんなもの必要ないくらいの完璧なパフォーマンス。不遜ながら初めてそのご尊顔を拝謁したが、この宇宙のあまねく生命へ全方位で向けられた力強いメッセージのその凄まじい強度にただただ圧倒される。これが!あの!もう言葉が出なかった。最高。

  • クリトリックリス

 真打。もう(ドクターブレイカーをあれだけ誉めそやしておいて何だが)人類がいままで作り得た総ての音楽の中で最高だと本気で思う。リズム・マシンの脱力ペコペコ打ち込みバック・トラックに全身全霊のスポークン・ワードと謎の暗黒舞踏がシンクロナイズし名状すべからざるスカム・ミュージックの桃源郷が雪崩れを打つようにオーディエンスを篭絡する。そこで語られるのは市井の人々の苦しみと悲しみとその間隙で刹那的に飛び散る人生の真実めいたナニモノかの漏電火花の儚い残像。泣ける。本気で泣ける。音楽の意義とか芸術の定義とか人生の意味とかそういうものとは百億光年の隔たりがあるこの日常、我々が泣いたり笑ったり嘆いたりわめいたりブチキレたりオナニーしたりキスしたりセックスしたり産まれたり死んだりするこの日常のグラウンド・ゼロのそのハード・コアで刻まれるクロック周波数の化石の最後の黒い燃えカスが風に乗って運ばれたときに不意に瞬く、生きていかねばならない者たちのちっぽけな覚悟。或いは絶望。或いは焦燥。そして或いは、生の肯定とその孤独の終り。橋本昌和(P. A. WORKS)の傑作TVアニメ『TARI TARI』のテーマは、「文化のあるところに人はあつまる」だという。文化に引き寄せられ、文化に突き動かされ、そこで人と人は出会うべくして出会い、そしてそこから新たな文化が生まれる。涙が出そうだ。それが人の生きる道だと思う。クリトリックリスの音楽はその定理を確かに証明していると思うし、そしてそれゆえにクリトリックリスの音楽は人類史上最高のシティ・ポップスだと心の底から思う。松江ALIVEで彼のライヴを観て以来、ずっとわだかまっていたものが今日再びまみえたことで、ひとつの線につながったような気がした。できるだけ多くの人に彼のライヴを観てほしい。そして、「桐島、バンドやめるってよ」を聴きながらともに笑い、涙しよう。人と人はつながる。そこに音楽があるかぎり。





ウィ~ア~~メガネブッウ~~~~♪


後景に佇立する巨大資本のマノ・ネグラが商魂たくましく如何なる奸智を巡らそうとも、或いはそれが純然たるスカム・カルチャーの泥濘から派生した偶発的な市場汚染のほかの何者でもなかろうとも、我々をここ数ヶ月ほど夜を日に継いで執拗にパワー・アンビエントしつづけた一連のティーザーに瀰漫する終末的な狂気からは、より正確には、そこでパブリック・アドレスの絶え間ざる絨毯爆撃により我々の鼓膜を完膚なきまでに焼尽しつづけた真に呪術的にして退廃的な(そして今にして思えばそれゆえに抗いがたくシンボリックで何にもまして崇高な)詠唱と調性とその倍音に横溢する名状すべからざる恐怖からは、とはいえ、男娼ハーレムを賢しらにエクスプロイトしようというこの国の深夜アニメ生物圏にとってはもはや何億回目かのお定まりの凡庸な意図しか感じられなかった。あまねく異文化衝突における最初の邂逅とは得てしてそのようなものだ。その前後と現在に至るまでのクロノロジカル・テーブルを改めて鳥瞰すれば、洋の東西を問わず今世紀の人類がものしたあらゆる芸術作品の中でも恐らく最高の(あえて強調しておこう、最高の)到達点であろうことはもはや疑うべくもない大傑作『進撃の巨人』がアニメ界隈に与えた影響と衝撃、そしてもはやプレート・テクトニクスと形容すべきパラダイム・シフトの凄絶ぶりは筆舌に尽くしがたく、その燦然たる光芒は未だに褪色することがないが、一方であのような凄まじいモノリスの顕現が容易ならざるものであることは余人においてその圧倒的な完成度をもって逆説的に垂訓されたものでもあるので、カーゴ・カルトめいたユーフォリアは半ば諦念を抱きつつ巧みに抑止され、市場の期待値の推移は隠微なものに留まっていた。価値あるものは確かにもたらされた。儚くも妙なる誣告者の託宣に導かれ、唯々諾々とひねもす安寧を貪っていられた黄金の2クール。我々はそれが二度とは繰り返されないベル・エポックであることを惜しみながらも、他方でそのことに安堵すらしていた・・・あのような奇跡的な体心立法格子構造を持った芸術は、至高であるがゆえに孤高であらねばならない!それがこの世界を統べるドグマであり、我々にとって冒すべからざる神秘だった。そうであったはずだった。

が、イコノクラスムはいつも唐突に、何の前触れもなく、企図されざるいくつかの偶然を経由してほとんど統計的なノイズのようにして去来する。そこには何も期待はなかった。クラウド・コンピューティングとソーシャル・ネットワーキングがもたらした隷属と偏向の快楽はやがて、閾下の認知バイアスとしてのある種の神学としてかたちをなす。それは人類史的には大きな損失であり退化であるが、そんなことはどうでもいい。その神学のもとではあらゆる芸術はこの世界に生まれ出た時点で須臾の一瞬のうちに墓標と化す。それが生まれる前からオッズやトマト・メーターはもう決まっていて、それはほぼ例外なく投じられたバジェットの量に比例し、新たな価値はその言葉のうえでは実は矛盾であって既に誰かに定められた価値でしかない。たいていはその運命に抗うことはおろか無知の無知の陥穽から這い出ることすら叶わない。我々はその神学の裏に確かにエルゴード的仮定の冷徹さを認めてはいる。それと同時に諸行無常の残響を、しょせんタイプライターをめちゃくちゃにパンチするしか能のない数百億匹のチンパンジーのうちの一匹でしかない自らの鏡像を認めてもいる。だからそこには何も期待はなかった。重要な点なので何度もパラフレーズし、強調することにしよう。そこには何も期待はなかった。というより、期待できる要素がどこにもなかった。デイ・グローで塗りたくられたギーク・ボーイたちのペップラリー?だからどうした。Yaoiカップリングの拡大再生産は佃煮にして売れるほど見てきた。テニスと水泳とバスケット・ボールの次はメガネ?エクスプロイテーションの供犠がまたぞろ俎上に加えられただけの話。さよう、そこには何も期待はなかった。『進撃の巨人』のような奇跡の傑作からは懸絶された、アニメ生物圏の生態系の最下層にまたもや投げ捨てられるフィラー。誰もがそう思った。だからそこには何も期待はなかった。クソ長い前置き終り。

メガネブ!をポルノグラフィーだと考えていた人々の懸念はまず最初の一秒で粉砕される。オープニング・テーマのパワー・ポップは最初の一小節でヴォコーダーかと聞き紛う奇怪な歌唱法をもって我々の鼓膜をジャミングし、カンのモンスター・ムービーのアート・ワークを彷彿とさせるスーパー・ロボットが画面に踊る。それらは我々を困惑させる。岸誠二がスタイルとして確立した、オープニング・フッテージの序盤でキャラクターの一枚絵を付けパンなどで強調するスター・システムは今日のアニメ・ファンにとって見慣れたものだが、ここではそれが完璧に実践されているのみならず、ピエト・モンドリアンは知らずともシャフトのアニメなら浴びるほど観ている今日のアニメ・ファンにとっては既視感すら惹起するコンポジション美術的な演出手法も、それがやはり完璧に、不必要なまでに過剰に踏襲されている。これもまた我々を困惑させる。そのフッテージのそこここで、主人公は救いがたい狂人なのではないかと我々に外挿させるに足る暗示的なカットが青春学園マンガのクリシェとエイゼンシュタイン式モンタージュの効果的な引用により印象的に描出される。のちほど我々は登場人物のほとんど全員が狂人であることを知ることとなるが、いずれにしろそれはやはりここでも我々を困惑させる。何より重要な点は、このアニメにはナラトロジーの主体でありなおかつ男娼たちの寵愛を一心に受けることとなるべき女性キャラクターはもちろんのこと、そのようなベンチマークがなくともハーレムのめくるめくハング・アウトを心行くまでシミュレートするために男性キャラクターたちに用意された完全無欠な超人たちという設定さえも、恐らく、画面はおろかスプロケット・ホールの中にすら登場しないだろうという点である。これは、このアニメがポルノグラフィー、とりわけyaoiワークスに固有の性質の大部分を備えておらず、仮にそうであったとしてもその集合において限りなく異端であることを示している。

このアニメの本編に触れる際には、やはり「日常系」なるジャーゴンにまつわる甲論乙駁のかまびすしい議論の応酬に陥るべきではない。だから日常系の定義を巡る問題についてはここでは簡潔に一望するに留め、暫定的な解釈を素描することのみに傾注しよう。未だ論争は尽きぬものの、日常系とは、奇人たちの非日常的な日常を活写した作品群の集合を指すテクニカル・タームであることはほとんど疑うべくもない。これが論理矛盾を孕んだ定義であることを論難する向きは、更に煩雑で思わせぶりな言葉を指向性破片型地雷のようにバラまくことに執心しているが、それは日常系がセカイ系の対極概念として派生したカテゴライズに過ぎないという(限りなく真実に近い)可能性を必死に覆い隠すか議論から遠ざけようという不毛な努力の表象であって、そこに有用なアナロジーはほとんどない。ここで問題なのは、日常系が非日常を描いたものであるなら、剣と魔法と弾道ミサイルとスーパー・ロボットと量子力学的蓋然性増幅装置が飛び交う他の有象無象と弁別することが不可能となるという点だが、ほんとうにそうなのだから仕方ない。あなたが知っている日常系アニメのことを思い出してみてほしい。言語に絶する奇癖や超人的な能力を備えた変態や天才たちが織り成す日常などは、我々の営む日常とはおおよそ異なるものであるから、それらは例外なく非日常なのだ。この定義に従えば、例えばロックスター・ゲームズのオープン・ワールド・ゲームの歴史的傑作『グランド・セフト・オート』シリーズも日常系となるし、杜王町のスタンド使いたちの出会いと別れとその対消滅を描いた『ジョジョの奇妙な冒険』第四部も日常系となる。我々が日常系にカテゴライズしている作品のほとんどが、諸要素を希釈していけば究極的にはGTAに到達するということは驚きだが、そもそも「日常」から完全に乖離した芸術というものは初期ウィトゲンシュタイン及びスタニスワフ・レムの認識的崩壊天体工学の視座からして人類には作り得ないのであるから、本来であれば「日常系」の対極にあたる集合などは存在しないはずなのである。

或いは、単純に「日常系」をアヴァンギャルド・アートとして、あたかも映像におけるドローン表現の極北であるかの如く吹聴するポジション・トークすら存在する。与太話を延々と繰り返すだけのアンチ・クライマックスの構造がミニマリズムでパワー・アンビエントでカット・アップでOn the CornerでEarth2だと言うのだ。この定義は理解しがたい。確かに、京都アニメーションはフィックスの画面とカーテン・ショットを巧みに併用することであたかも言外の意味がそこにあるかのような錯覚をもたらす演出手法をかなり意図的に実践している。それはアートなのかもしれない。それは単なる女子高生のキャッキャウフフの会話劇ではなく、何か壮大で崇高で文明批判的でヒューゴー・ガーンズバック連続体の向こう側にあるウンタラカンタラかもしれない。が、例えばEarth2のヘヴィ・ドローンが音楽消費大系を根底から塗り替える革命的な意味を持った最大の理由は、当時のサブ・ポップ周辺のシーンやオルタナティヴ界隈でもっとも発言力のあったイギリスの評論家やそもそものヘヴィ・メタル・ミュージックの伝統を総て無視してディラン・カールスンのオブセッションを虚飾なく表現するというルビコン・リバーを渡った英断にこそあったのであって、日常系アニメがネットのマジョリティに阿諛し市場の見えざる手の先縦に倣い、直視したくない現実に煩わされず頭を使わずにBGVのように嗜めるガールズ・トークの粗製濫造によってもたらしたものがそれと同等の価値を持つものだとは、少なくともわたしには思えない。もちろん、そうして完成した表現そのものは小津安二郎やウィリアム・バロウズに或いは伍する可能性があるかもしれない。でも、それは現代美術という権威主義にアニメが跪いた以上の何の印象も与えない。だって肝心の中身、作り手のメッセージとか、そういうの微塵も感じないもの。それでいいのか?さよう、エクスプロイテーションやポルノグラフィーとしてソフィスティケイトされることは、別に悪いことじゃない。総ての文化に貴賎はない。しかし、富野由悠季の警句は表層こそオールド・スクールであれ、そこに底流する真意はその硬度を今日においてむしろより強めつつあるように思える。「アニメだって文化だろう?文芸だろう?娯楽だろう?それがここまで下卑てていいのか?一番趣味が悪いところに照準をあわせて、商売をしようというのでは、病人を増やすだけじゃないか?」
だから我々は吾妻ひでおの、発せられると同時に我々に条件反射的なレイズヘルを継起した完璧な印象批評に対して、何も言い返すことができない。「空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も見てる人々もそんなに現実がイヤなのか?」

賢明なるプラグマティストは「空気系」という死語の存在をここで指摘するものと思うが、ここでは割愛し、次の一文を附言するに留めよう。『びんちょうタン』や『かみちゅ!』がUHFアナログ地上波に乗ってCRT上にラスタライズされていた時代といまとでは、何かが決定的に異なっている。それが何かは、今日のアニメのトレンドにコミットすることで我々が無意識にアジャイル・デベロップしている形而上のソフトウェアであるとしておこう。これについてはメガネブ!を解題するにあたり重要な点でもあるので、後述することとし、そこでは我々が尊敬措くあたわざるものとして崇拝してやまない『化物語』シリーズを心苦しくも批判的に検討することとしよう。

そろそろ話をメガネブ!に戻そう。未だ議論の余地は有り余るほどにあるものの、ひとまずメガネブ!を広義の日常系として定義しておこう。でもメガネブ!のスタイルは明らかに『けいおん!』サーガとは異なる。もちろん『きんいろモザイク』のそれとも異なる。むしろメガネブ!と日常系を結節するミッシング・リンクとして真っ先に思い浮かぶのは、なもりの『ゆるゆり』だ。ごらく部(メガネ部)なる面妖なソロリティ(フラタニティ)に集う選民としてのローライズにホモセクシュアルな複数の女子(男子)という設定、更に作品のアクセントとして杉浦綾乃(鈴木徹)というわかりやすいツンデレ、そして真にホモセクシュアルであることを自認するキャラクターに物語を占有する契機はほとんど与えられず、あまねく肉欲の意思表示は直接的なデノテーションのかたちをとりながら常にスリー・フォールド・レピティションの袋小路へと追いやられる。両者の特質として重要な点は、どちらもホモセクシュアリティが前提であることを公式設定とすることによって、逆説的にyaoiワークスで散見されるようなヘテロセクシュアル作品のカップリング化が必然的に誘引する背徳感を中和すると同時に、健全なコメディと軽度のサタイアを演繹する確固たる地歩を得ることに成功している点だ。これらが通常の日常系とは異なったスタイルを持った作品であることには、特に留意する必要がある。日常系の作品の多くはそのレイド・バックを目的としたスタイルゆえに、あらゆるショック・バリューを嫌い、スラップスティックやファルスはおろか健全なコメディであることすら放棄しているからだ。日常系はまさに書き割りのようなのっぺりとした平坦な戦場を歩く。平坦な戦場を歩くこと。しかしメガネブ!や『ゆるゆり』はそれを第一義とはしていない。

これらの懸隔はメガネブ!と『ゆるゆり』がLGBTフィクションであることに依拠している。ただし、ホモセクシュアリティを巡るLGBTテーマのコメディとして眺望したときに、メガネブ!と『ゆるゆり』が明確な相違を示すことは強調しておく必要があるかもしれない。それらのコメディに供物として捧げられる文物の差異を言明してみると、メガネブ!は『ゆるゆり』とは異なり、ホモセクシュアリティすらコメディの対象として相対化していることがわかる。メガネブ!ではホモセクシュアリティという営為そのものが他の要素と平等に玩弄され脱構築される。それらにまつわる人々の葛藤や感情の機微などは描かれたとしても単に表層的なものでしかなく、作品のハード・コアを為すことはありえない。これはまず、『ゆるゆり』が掲載されているコミック百合姫のようなホモセクシュアリティ・オリエンテッドの媒体ではマーケットに反逆する行為であるがゆえに困難である。倉田嘘の『百合男子』は男性側のyuriマーケットをサタイアとして相対化することでメタLGBTジャンルの勃興に成功した記念碑的な作品だが、『百合男子』が嘲弄する対象はあくまで男性でありながらフィメール・オリエンテッド・フィクションに耽溺してしまう倒錯心理に葛藤しつづける異端の狂人たちであり、けしてyuriそのものではない。しかし、メガネブ!はそうした聖域を設けない。

ここまで語ったことをひとまずまとめてみよう。メガネブ!は広義の日常系に分類され得る。しかし、日常系のアンチ・クライマックスのドグマに反するばかりか、コメディに対してそこそこのスペックを誇示するシリアル・ペリフェラル・インターフェイスを備えている。この意味で日常系の中においてメガネブ!は異端である。
また、メガネブ!は明白にLGBTテーマのポルノグラフィーであるかのようにパブリック・アドレスするhypeに幾分かは忠実に、そしてそれを受けた市場のほとんど予想どおりに、LGBTフィクションとしての要素を持つ。しかし、そこではホモセクシュアリティはたちまち相対化され、コメディのビッグ・チャップによって等しく情け容赦なく粉砕される。この意味でLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションの中においてメガネブ!は異端である。

これは我々を困惑させる。我々の当初の悲観的な予測とはうらはらに、これはどうやら何か意味がありそうなのに、それを指し示す解は日常系からもLGBTフィクションからも、そしてそれら総ての集合のいかなる類縁性からも導き出されないようだ。が、逆にそれは消去法によってただひとつの解しかあり得ないことを教えてくれる。メガネブ!がLGBTテーマすら止揚し、ときに破壊しながらyaoiの沃野を爆走していくダイナミズムは結果的に、そのハード・コアで逆巻く原理を我々にワイヤー・タップしてくれる。そして更にその方程式の両辺にもうひとつの変数を加えてみれば、半ばレンズ・フレアにまみれたものではあれ、ひとつのヴィジョンが我々の前に立ち現れるはずだ。まずは先に引用した吾妻ひでおの慧眼に満ちた発言にもう一度言及する必要がある。吾妻ひでおが論難する日常系の空虚さとは、ドラマツルギーをあらかた虐殺し尽くしたアンチ・クライマックスの構造にではなく、あらゆる感情の存在の否認にこそ見出される。デベロッパーやパブリッシャーはそれらの中で意識的に御しがたい感情の増幅や減衰を放棄し、スタンドアロンの閉回路と化した世界観を呈示する。そしてエンドユーザーもそのスノードームを望んでいる。でもこれは歴史上のあまねくポルノグラフィーにとって普遍的な性質でもあるから、別にそれはそれで問題ないのかもしれない。ポルノグラフィーに高位の物語性だの崇高な意味だのは必要ない。日常系にもそれが言えるかもしれない。だから日常系ユーザーはそのことにさえ自覚的であれば、誰の非難を甘受する必要もないのかもしれない。しかし、ここで注意すべきなのは、日常系は感情がウィンターミュートした世界をあらかじめ仮構しながら、それでいて「愛」だの「優しさ」だの抽象的な概念に対してやたら饒舌であるという点だ。このことが孕む凄まじい危険性をご理解いただけるだろうか。ここで日常系が振りかざす「愛」というのは、もちろん個人的な恋愛感情のことではなく、セックスのコノテーションでもない。それはアガペーと呼ばれる神学的な概念のことだ。日常系のキャラクターたちは皆押しなべて、ほとんど例外なく、このアガペーのドグマに忠実に、隣人を愛し他人を思いやり自己犠牲すら厭わない。万人に平等な愛。世界を包囲する愛。だから、そこには何もない。

そこには何もない。なぜなら前提としてあるべき個人の感情がそこには介在しないからだ。それは自由とは言わない。我々は世界のための愛とかいうよくわからない概念のために生きているわけでもなければ、世界を統べるメイン・フレーム・コンピュータを通じて愛という感情を知悉しているわけでもない。しかしながらこの不可解な思想が日常系ではほとんど自明のこととして公然とhypeされる。或いは現代社会に生きる迷える衆愚は、そうした概念があたかも存在しているかの如く錯覚していたいのかもしれない。が、それに何の意味がある?

このよくわからない奇怪な信仰をもっとも老獪なニュースピークで喧伝しているのが『化物語』シリーズだ。ここでこのアニメを批判的に検討することをお許しいただきたい。わたしは未だにこのシリーズのファンであるし、今日のアダルト・ゲーム市場の醇風美俗を圧縮し巧みにエクスプロイトすることに成功している様には少なからぬ賛意を示したいし、それこそ最初はジョナス・アカーランドのあの人類史上最高のミュージック・ビデオであるラムシュタインの『Pussy』に通ずる何かを感じもしたことを白状しなければならない。このアニメには当初はさまざまな退廃の装置とそのあからさまな直喩が用意され、我々はそこで展開されるペドフィリアや近親相姦、チャイルド・ポルノとビッチ・ロボトミーの完全ハーレムといったありとあらゆる性のオペランドの氾濫に戦慄した。それはある意味で革命だった。このアニメによってフィジカル・パッケージのインカムでバジェットを回収するビジネス・モデルがより高次のステージへ移行したばかりか、それまであのような背徳とは無縁であった市井の有為の人々をアニメ宇宙の暗黒空間へと引きずり込むことに成功したのだ。アララギ君をピボットとしためくるめくセックス・ファンタジーへと、想像の翼をはためかせ我々はいつでもダイヴできる。用意された諸要素はそう思わせるに足るものだった。

しかし、実際にはそうはならなかった。我々がそこで豊麗高雅なるファッキン・スラットと狂気の殺戮の旅路に出ることはついぞなかった。代わりに我々に突きつけられたのは、聖人君子たるアララギ君の穴だらけの良識と功利主義を長広舌によってひたすら正当化するのみのアララギDIY神学のプロパガンダだ。それは何かの冗談のようだ。あれだけ淫蕩の限りを尽くしたアララギ君ではあったが、最後には掌を返したように、日常系の総てのキャラクターたちと同様に、世界を優しく包み込み万人を照らすアガペー、他人を尊び、等しく敬い、それで解決不能の事態があれば自己犠牲すら厭わないというアクロバティックな道徳精神をもって我々を調伏せんとする。そしてアララギ君とそのプレイメイトたちは、おのおのがその不可解な神学に納得して、大して起伏もない物語を経由して、やがてもとの日常へと戻っていく。それは何かの冗談のようだ。我々がいままで観てきた退廃の物語は、実は日常系アニメだったのだ。

『化物語』シリーズや日常系アニメに通底するこのアルゴリズムは世界の至るところで繁茂しつつある・・・特に顕著なのは、インターネット・ソサエティだ。思想の自由市場を極限にまで加速させた末にソーシャル・ネットワーキングが実現した恐るべき集団の狂気。幾原邦彦がネット言論をして「その清廉潔白さたるや吐き気を催すほど」と指摘した、あの小手先の理論武装と出来合いの倫理感と根拠のない示威衝動にまみれた「善人」たち。彼らは世界が理路整然として秩序だったウェルメイドの閉回路であることを信じて疑わず、そこに唯一絶対のドグマがあることを信じて疑わず、だからそこで暮らす総ての人々が完全無謬でなければならないと信じて疑わない。現実の人々の行動様式や愚かさや不完全さについては黙して語らず。自分たちに照らし合わせてどうか、という反省的な契機すら持たず。彼らは世界が正しい方向に向かうためには必ず供犠と贖罪が必要なのだと公言して憚らない。アララギ君のように、日常系アニメのように、世界を救済する絶対原理としてのアガペーを公然と提唱することに何ら疑問を持たない。フランク・ダラボンの『ミスト』に出てきたあのムカつくミセス・カーモディを思い出してみよう。「善人」はいつの間にか、世界を救うために糾問と弾圧と人身御供が必要だと盲信する人々の別名になりつつある。でもアララギ君や日常系アニメはこの不条理に触れないんだな。アララギ君はただおまえらはいまのままでいいだの仮に何かあっても自己犠牲が世界を救うだの美辞麗句を振りかざして事足れりとするばかり。そんなアニメに、わたしは何の意味も見出せない。

最後に改めて問おう。メガネブ!のハード・コアにあるものが何であったか、日常系としてもLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションとしても異端であるこのアニメの根幹を為すものがいったい何であったか。やはり逆説的に、『化物語』シリーズや日常系アニメが陥る終末思想とは対極の概念をメガネブ!に外挿してみよう。アララギ君や日常系アニメを苛む病理、アガペーに隷属された絶対に正しい善人たち。その対極にあるもの。さあどうだろう。スケスケメガネなる奇怪なガジェットの製作に日々没頭するヒマラヤ第三工業高校のメガネ部員たちは字義どおりの狂人であり、常人に理解しがたい行為を平然と為す奇怪な集団であるからこそ、そしてアニメもそのことに自覚的であるからこそ、メガネブ!のキャラクターはあの忌々しいドグマから完全に自由な存在であるかのように思われる。ここでは狂気を制御するものはない。その狂気がもたらすかもしれない凄惨な苦痛を避けるためのケヴォーキアン式安楽死セットはここにはない。ただ狂気が狂気としてそこにある。それによって或いは、あの装置が我々を防護するどころか、束縛するパノプティコンと化していたことに、そのときはじめて気付くことになるかもしれない。メガネブ!はその禍々しい狂気によって、あのふざけたコマンドラインを粉々に破壊するのだ。その狂気を、例えばアララギ君は、例えばナンJ民は、例えばネット・トラフィックに巣食うお気軽レイシストたちは、「バカ」と呼ぶかもしれない。バカ。

バカであることに自覚的であること、バカであることを恐れないこと、バカであることを直視すること。メガネブ!は確かにただのLGBTフィクションと日常系の最悪の組み合わせかもしれない。でも、少なくともこれらのことをちゃんと実践している。自らの狂気とちゃんと向き合っている。これがどんなに尊いことか。この世界にアガペーなど存在しない。そればかりか、世界は完全なものですらあり得ない。P2Pのコミュニケーションすら往々にしてうまくいかない。それは我々が少なからずバカであるからだ。メガネブ!は我々を困惑させる。それは、そこに我々の姿を垣間見るからだ。我々の世界を矛盾と理不尽で覆い尽くす最大のセキュリティ・ホールは、実は我々自身だ。そのことに自覚的な人々はいったいどれだけいるだろう?それは或いは我々人類の限界を超えた問題なのかもしれない。しかし、だからこそ我々はバカについてもっと真剣に考えなければならない。メガネブ!はCGレンダリング・テクノロジーとアンチ・エイリアシングの魔法を惜しみなく投入し、バカ・シンギュラリティを極限までブーストする。こうしたほとんど狂気に近い浪費を、我々は最大限のリスペクトを込めて、「バカ」と呼ぶべきである。彼らは、ヒマラヤ第三工業高校メガネ部は、全身全霊でバカをやっているのだ。それは誰にも汚せない。これもまたひとつの世界のかたちだからだ。そして我々はそのとき、我々の世界を狭めていたアガペーという名の「壁」を突き破って現れた、あの巨人の正体をはじめて知ることとなるのだ。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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