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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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映画秘宝5月号は平成ベスト10特集だった。1位は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」。まぁ当然でしょうね・・・。編集部の独断と偏見と最初から銘打っているので個人的に首肯しかねる部分もあるにはあるが(特に「この世界の片隅に」がランクインしているのは解せない。悪い映画ではないが・・・)、全体的には共感する部分の多いベスト10であった。特に柳下毅一郎が「ダークナイト」ではなく「バットマン・リターンズ」を選んだことには心から敬意を評したいと思う。また、中盤の平成ロボット特集は本当に必読。むしろこれを読むために買った方がいいとすら思える!

映画秘宝に影響されて自分も平成映画のベスト10を考えた。
が、30年間のベストとなると本当に難しい・・・。もうほとんど直感で選んだようなものだが、自分に対する記録として、以下に私のベスト10を記す。

1位「スターシップ・トゥルーパーズ」(ポール・ヴァーホーヴェン)
 →永遠の傑作。人生が変わった。読む人間を一人残らず軍国主義のブラックホールに引きずり込む(ある意味では)右翼SFの金字塔としての価値しかない原作にリスペクトを一切払わず、むしろ原作に込められた戦争マンセーの要素を徹底的にバカにすることで結果的にありとあらゆるナショナリズムに引導を渡す暴力の一大スペクタクルを作り上げてしまった、映画史に残るとんでもない偉業。戦争に大義もクソもねえ!!!という当たり前の(しかしみんな賢しらに気づかないふりをしている)事実をここまで明快に叩きつけた映画は他に存在しない。「デス・レース2000年」と並び立つ問答無用の大傑作。
2位「愛のむきだし」(園子温)
 →永遠の傑作。言葉では説明しようのないいわく言いがたい衝動を誰かに叩きつけることをこの社会は決して認めない。わけのわからないもの、残酷なもの、汚いものを写した映画を多くの人は認めない。映画に限らず音楽でも普段の会話でもなんでも、とにかく人の前でそういうことをやってはいけないと大人は言う。個性が大事だとかうわべでは言いながら、普通ではないことをやる人間をこの社会は決して認めない。でもこの映画はそういったタブーを全部やった。普通ではないこと、誰もがあえて言わないこと、見ようとしないこと、聞こうとしないことをこの映画は全部描き切った。そして、それでいいんだよ!と胸を張って言ってくれた。自分が社会に対して抱いていた閉塞感を同じように共有する人間が確かにいると言うこと。そう思うことは決して間違ったことではないのだと言うこと。そう言ったことをこの映画が全て代弁してくれた。だからこの映画の輝きは永遠のものだ。それが他の人々にとってはどうしようもなく醜いものであったとしても。
3位「ヒルズ・ハブ・アイズ」(アレクサンドル・アジャ)
 →ゼロ年代に濫造されたリブートの中で、こいつ(アジャ)だけは本物だった。ロブ・ゾンビの「ハロウィン」リブートもザック・スナイダーの「ドーン・オブ・ザ・デッド」リブートもそれなりに良かったが、真にシネマティックに最高に面白い映画を作れたのはこいつ(アジャ)だけだった。永遠の傑作。
4位「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(ジョージ・ミラー)
 →これを外すわけにはいかない・・・。
5位「ファイト・クラブ」(デヴィッド・フィンチャー)
 →人生が変わった。この物語が持つ強靭なメッセージに圧倒された。ラストに流れるPixiesのWhere is my mind?に頭を撃ち抜かれた。自分はインディー・ロックのすごさをこの映画から教わったわけでは決してないが、インディー・ロックから受けた自分の衝撃を見事に体現し、そしてフィードバック・ループのように増幅させたのは間違いなくこの映画だった。この物語の根底にある哲学は紛れもないインディー・ロックであり、グランジそのものだ。
6位「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(若松孝二)
 →映画のパワーを見せつけるとんでもない傑作。映画ってディテールでも役者の演技でもないんだよ!よくわからないエネルギーが渾然一体となった結果フィルムに刻まれたとにかくすごいとしか言いようのない何かこそが映画なんだよ!ということを教えてくれる偉大な作品。
7位「トゥモロー・ワールド」(アルフォンソ・キュアロン)
 →今やオスカー・ウィナーとなったアルフォンソ・キュアロンの隠れた傑作として知られる作品だが、やはり序盤でジュリアン・ムーアがマッドマックス軍団に襲撃されて死ぬまでとラストの市街戦のシークェンスにおけるエマニュエル・ルベツキのカメラワークを抜きにしてこの映画は語れない。ここでのルベツキの仕事は映画における撮影の技術史の一つの頂点であり、これがあるのとないのとでは映画の評価が全く変わってくるとすら言えるし、何よりそこで描破されたのは単なるアクロバットやクレショフ効果ではなく、混沌と言う名のこの時代の真実そのものなのだ。
8位「ウォッチメン」(ザック・スナイダー)
 →この映画が傑作だとは間違っても思わないが、冒頭10分間のイントロダクションは確実に時代を超える。
9位「DEAD OR ALIVE 犯罪者」(三池崇史)
 →ラストの荒唐無稽さが語り草となっているが、三池崇史の凄みは幕間のどうでもいいモーション・ブラーのような部分にこそ滲み出るのであり、特に粒子の荒い映像をコラージュするセンスにかけては当代随一の才能を持っていたことは、実はあまり語られない。というよりこの技術自体が90年代を最後に完全に失われてしまった。技術というより単なるトレンドだったのかもしれない。でも、あの手法だけが描き出せたこの世界の真実めいた何かは確実にあったのだ。この技術はもっと継承されるべきだと本気で思う。
10位「マーターズ」(パスカル・ロジェ)
 →映画の定義について考えさせられた作品。映画って結局、何か物とか人が映って物語めいたものが動いていればそれだけで成立するんだと言うことをここまで明らかにしてくれた作品はあまりない。この映画を構成する全てが常軌を逸しているように見えるのは監督が狂っているからではなく、そもそも映画という営為そのものが構造的な欠陥をはらんでいるからではないかとすら思えてくるほどに言葉の持つそのあらゆる意味において本当に異常な作品である。こんなに支離滅裂な物語であるにも関わらず、なぜかホラー映画として成立してしまっていることにいつ観ても驚きを禁じ得ない。意欲的なリブート以外でホラー映画のエポックとなり得る作品に出会うことは本当に稀になってしまったが、この作品が何かホラー映画のフロンティアめいた領域を切り開いてしまったことは確かな事実である。まあ、あまりにも前衛的すぎて誰も衣鉢を継がなかったことは残念だが・・・。この作品の直接的なフォローワーって何だろう?マンブルゴアか?いずれにせよ、それまでとそのあとのホラー映画のミームのどこにも接続していない正真正銘のカルト映画であり、この衝撃は永遠に不滅のものであるように思えてならない。


(以上、俺のベスト10)

こういうベスト10選びは小野耕世が言うように一種のお祭りなので、抜け落ちとか選ぶのを忘れた映画とかいろいろあろうが、まあこれも人生の年輪の一つと考えれば・・・。
俺も随分と歳をとりました。
最近はAmazonプライムで映画を観ることが増え、Blu-rayで買う映画は概ね60年代〜80年代の旧作ばかりでしかもシュリンクさえ開封せずに積んでいることが多いと言う有様ではある。
最近はネットフリックスの映画が批評的にも成功を収めるようになり、映画を巡る環境は確実に変わってきている。
そして、それは年々良くなっていると思っている。
まあ、シネコンでかかる映画といえばたいていがアメコミ映画ばかりになってきたような気もしてちょっとナード・オン・ナードに世界全体が寄りすぎてないかとも思うが、しかしそれでもworld will be elevatedなのです。MCUやジェームズ・ワンには全くスウィングできないが、カート・ディガーのままでも何か楽しくない。時代も変われば映画も変わるし、自分も変わっていく。近づいたと思えば遠ざかり、違うと思っていたことが実は正解だったりする。オールタイム・ベストなんてほとんどあってないようなもの・・・。ポール・ヴァーホーヴェン原理主義者であっても「グレート・ウォーリアーズ」を延々と観るだけの毎日で本当に良いのかと思う時もある。だからブラムハウス版ハロウィンもとても楽しみではある。

ということで、探求の旅はまだまだ続く。


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埼玉の深谷にあるミニシアター深谷シネマにて白石和彌の「止められるか、俺たちを」を観る。まず深谷に行くのに西日暮里で山手線に乗り換え赤羽から更に高崎線で1時間かかる。電車賃が意外と高くて蓋し埼玉は秘境であるという思いを新たにする。深谷シネマは深谷駅北口から徒歩7分ほど。上映まで時間があったので近くのラーメン屋(店の名前は忘れた・・・)でつけ麺を食べる。映画館は煉瓦造りの古い建物を市民有志で改造したもので、もう使われなくなった煙突などがそのまま残っている。看板がなければここに映画館があるなど誰も思わない・・・。料金は1,100円と良心的。このスクリーンでは「止められるか、俺たちを」がこの日から1週間ほど上映されるのだ。客はまばらだがそれだけに居心地よく観ることができた。何より都内でとっくの昔に打ち止めとなった作品がソフト化までのブランクの間に劇場で観ることができる機会は貴重である・・・。

それにしてもなぜ俺はこの 映画を観たくなったのか?映画秘宝の2018年ベスト&トホホでは三留まゆみとなんと小野耕世がベストに入れ、モルモット吉田は第1位、一方で多田遠志がワースト3に選出していた以外は実は箸にも棒にも引っかかっていない・・・(本当はあと数人のよく知らない人がベスト10に推挽してはいる)。ただ、別冊映画秘宝「サスペリアMAGAZINE」のクロス・レヴューでモルモット吉田の寄稿文のタイトルが「止められるか、魔女たちを」だったのが妙にカッコよく思え、それで俺はこの映画に抗いがたい何かを感じたのだった。このタイトルを考えた人本当に天才だと思う・・・。そのタイトルの由来については映画秘宝2018年11月号68ページの特集記事において解題があり、それによれば若松孝二の実現しなかった暴走族映画のタイトルが「止められるか、俺たちを!」だったのだ、と言うことである。他方で本作のパンフレットの若松組座談会ではもともと事務所に持ち込まれた暴走族の写真集のタイトルだったとか、足立が若松を代弁して語った言葉が下敷きなのだとか異説もある。いずれにしろこのタイトルが最高にかっこいいことはもはや疑いようがないので起源についてはもはやどうでもいい話だ・・・。

この映画を語るにあたって軽視してはならない事実の一つに、この映画を2018年に世に問うと言うことはこの映画を観る者の大部分は実は、あの時代を直接的には知らないのだ、と言うことがある。あの時代のサブカルチャーの推進力がそれこそ本当に誰にも手のつけようがないほどに凄まじかったのだと21世紀に生きる我々は(60年代なんてその時代に生きたことすらないのに。と言うよりも、或いはそれゆえに)美化してしまいがちだ。現代に生み出される文物に心の底からスウィングできない層というのはいつの時代にもいる。時代と同化できず、こぼれ落ち、町の片隅や別の時空の記憶の中についこの時代の空気とは別の何かを探してしまう人間はいつだって存在する。そして、サブカルチャーの冥府魔道に迷い込んでこの時代から弾き飛ばされて結局どこにも帰る場所がなくなってしまった奇特な人間は必ずや、この映画を観て心にとんでもない傷跡を刻みつけられることになる。なぜ自分はこの時代を享受できないのか?なぜ自分にとって現在は居心地が悪く、こんなに生きるのが辛いのか?もちろん憐憫な無用である。この映画もそうした救いようのない衆生を慰めるものでは決してない。なぜなら結局、今となっては全てがファンタシーだからだ。これはある意味では、この時代に居場所をなくすこと以上に残酷なことだ。新宿のゴールデン街はもはや、この映画で描かれたような場所ではありえない。今の世の中にインディーズ映画を作ろうとしても、あの頃のような空気は絶対に実現しえない。そもそもこんなことが実際に起こったかどうかすら定かではない。画面の中に描かれたこと以外は実は何一つ起こらなかったのかもしれない。しかしそれよりもなお悲惨な事実は、この映画が紛れもなく青春映画の傑作であると言うことである。何者でもない若者たち。空中に浮かんでは弾けていく泡のように儚いひとときの共同体。セックス。パンクと言う言葉がまだ存在しなかった頃の仇花めいたものとしての革命(と言う名のパンク的な何か)。この映画には青春というものを構成するありとあるイディオムが全て詰まっていて、それでいて一つの無駄もない。そして、この映画は青春を通じて我々が辿り着くその末路すら冷徹に描き切る。青春とは破壊である。青春とは自殺である。青春とは隣近所や町で出くわす人間だか警官だかをかたっぱしから殴り殺したくなる衝動のことであり、また同時にそれが絶対に実現されることのない絵空事であることをあまりにも厳然と突きつける情け容赦なき死神である。それゆえに、この映画が終わった後に残されるのは映画館の暗闇に佇む、何も持たない、何者でもない我々自身なのだ。最高の青春映画であるがゆえに、この映画は我々を救わない。その内側には実は何もない。この映画は過去をむやみやたらに美化するものでもなく、現代に居場所のない惨めな人々に福音を与えるものでもない。この映画はただ、エンド・マークの向こう側に我々を取り残すことで我々を攻撃するのだ。それは言い換えれば、映画が円環を為さず完結することなく現実にはみ出して我々を攻撃することによってそこで描かれた青春が我々に、映画を観る我々に仮託されると言うことだ。映画が現実の中に溶け出し裏返しになる。映画の中に流れる時間はそのまま我々の生きるこの時代の空気の中に流れ込む。この世界が以前とは全然違って見える。世界の景色が全く変わってしまう。或いはそれはマヤカシかもしれない。そんなものはただの錯覚に過ぎないのかもしれない。しかし、この映画によってもたらされる傷や痛みは本物だ。世界が実のところ何も変わっていなくとも我々はこの映画から攻撃されることで別の何かに変形する。それだけは事実だし、それはこの現実に起こったことだし、我々に起こったことは誰にも否定できないし誰にも変えられない。この映画が我々に見せる景色はそう言うものだ。この映画を観終わった後に起こることはつまりはそう言うことだ。

後には何も残らず、ただ周囲のいろいろなものを犠牲にして混沌を撒き散らし人生を取り返しのつかないところにまでネジ曲げて去っていく青春という化け物。それはいつだって我々のそばにいる。それはいつでも我々の、我々自身の心の中から現れる。この映画を観終わったその時から、我々の心にその化け物が巣喰い始める。その化け物はいつか、空間を食い破りこの時代に再び出現するだろう。その化け物は青春の魔力によって社会や日常をまた攻撃し始めるだろう。言うまでもなく我々はもはや化け物そのものであり、かつてあったようにはもう戻らない。そしてその時我々は、化け物となることによって初めて、ようやくこの時代に自らの居場所を見出すのだ。

 




「ファーゴ」シーズン3(year3)をAmazon Prime Videoで完走する。
コーエン兄弟がなぜあのような(良くも悪くも)ドストエフスキー的な韜晦に満ちた作品を作り続けて人心を惑乱し続けているのか、その理由がようやくわかったような気がする。コーマック・マッカーシーの小説を映画化したオスカー・ウィナーNo Country for Old Menに特に顕著だが、突然キャラクターが人生についての長広舌を述べ始める毎度おなじみの観客をイラつかせるシークェンス(これは同時にウラジーミル・ナボーコフがドストエフスキーの小説についてボロクソに論難した要素の一つでもある)がなぜ彼らの映画に必要だったかも、このドラマを観ることで初めて理解できたような気がする。
オリジナルの「ファーゴ」を観たのはもう15年も前の話なのでシノプシスすらもう覚えていない・・・それでもダイナーでフランシス・マクドーマンド(そして彼女はこのTVシリーズ全体を貫く共通のアイコンとなる)がカメラの向こう側の我々に対して語った言葉は概略こういうものだった。「なぜ彼らがあのような蛮行に至ったのか?私にはわからない。なぜ善良に生きられないのか?他人の命や財産を平気で奪うのか?私にはわからない」これはそのまま、これ以降のコーエン兄弟の映画に形を変えて現れ続ける一種のオブセッションであったことは疑いようがなく、この一連の「ファーゴ」クローンもまた同じ問いを投げかけることとなり、そしてそれはこの現実とその現実を生きる他ならぬ我々自身の間で果てしなく乱反射を続け、それらは無数の線を描きやがてこの世界を満たしていく。
もちろん、それに異議を唱える者たちは大抵とんでもない悪党として画面の中に現れる(そして死ぬ)。一方で、そうした人間のクズが実際のこの世界のどの類型に当てはまるのかをこの物語は決して断定しない。その理由は簡単だ。第一に、コーエン兄弟は神ではない。誰がクズで、誰が偉大だったか、それを我々はいつも事後的にしか言明できない。そこにはある種のウィトゲンシュタインのパラドックスが存在し、それに言及することが逆にこの物語の強度を高めていたとも言える。そして第二に、世界とはそういうものだからだ。我々は両方の側に属している。善人にも悪人にもなれる。どっちのユアン・マクレガーが正しかったのかはもはや誰にもわからない。が、それでも一つだけ確かなことがあるとしたら、それは悪に与することの方が簡単だということだ。作中のヴァーガが嘯く様々なマニフェストは、悪人が自らをどのように正当化するかを実にわかりやすく教えてくれる。「世の中がおかしくなるのは悪があるからではなく、善があるからだ。だからみんな混乱するんだ」ヴァーガは本当に不快な人物であるが、この言葉には部分的にではあれ、一定の真実が含まれる。そして逆説的に、そう言いながら道を踏み外していく人間の(つまりはヴァーガ自身の)愚かさを証明してもいる。この物語がyear2に続いてまたしてもオープンエンディングで終わったことも理解できる。もはやヴァーガがどうなるかを説明する必要はないのだ。エントロピーに従い唯々諾々と生きる人間はおそらく皆例外なく愚かだ。悪人とか善人とかそういうシンメトリーを持ち出す以前に、彼らは自分がバカだとわざわざ自己申告しているようなものだ。重要なのはこうしたアナロジーであり、この物語の本当の偉大さはここにこそある。
このとんでもなくナスティーなグラインドハウス神学の極め付けは何にも増して素晴らしい。魂の浄化はボウリング場で行われ、レイモンド・スタッシーは猫に生まれ変わり、なぜ我々が易きに流れるべきでなく、困難であろうとも世界を支配する混沌や狂気と闘わねばならないのかを教えてくれるのだ。




(以下のような記事を投稿することに若干の心苦しさはある。このエントリーを一読する限り、私はゼロ年代以降突如として隆盛を極めたアイドル文化に懐疑的な人物であるかのように思えるが、それは必ずしも真実ではない。そしてノイズ・ミュージックに対して限りなく否定的な保守反動的な人物であるかのようにも思えるが、それもまた同時に真実ではない。BiSは紆余曲折を経て復活し、BiSHは異形のアイドルとしての衣鉢を継ぎ、優れたアイドル・ソングを発表し続けている。非常階段についても、彼らの常に実験的で先進的な存在たらんとするスタンスには敬意を表したい。ただ、そうした思いとは裏腹に、いまのシーンに対する曰く言い難い違和感が抑えようもないこともまた、否定しようのない厳然たる事実である。この文化はうまく機能しているように思える。アーティストもリスナーもパブリッシャーも、全てがハッピーなように思える。一体どこに問題があるというのか?それに対する私の(BiSやBiSHを愛聴する私ではない第二の私の)見解はこうだ。なるほど彼らは(我々は)寸毫の隙もなくハッピーだ。でもそれは表面的な偽りの幸せだ。我々はこの文化の中で、まるでブリューゲルの絵画の登場人物のようだ。これは偽りだ。これは明白な虚構だ。ここには何か、悪しきミス・ディレクションがある。我々はここにおいて三位一体の共犯関係めいた何かに加担している。つまり我々は・・・我々は何かを必死に隠そうとしている。こうした違和感を私はなんとか言語化しなければならなかった。以下に綴る辛辣な、しかし時に憐憫に溢れた、実に直情的な文章は、2018年現在のこの国のサブカルチャーに対する私の両義性に満ちた名状しがたい不安定な感情を記録しようとした試みなのだ。)

AmazonプライムでBiSHの曲を数曲ストリーミングする。これと前後してBrand New BiSの楽曲も聴いていたのだが、やはりBiSは何か「場」のようなものであって例え中の人間が入れ替わろうとBiSという場があり続ける限りはそこで作られる音楽はBiS独自の何かであり続けるのではないかというような気がする。とこう書くとなんかポストモダンっぽくてすごい嫌なんだけど、だからと言ってBiSを神格化する必要はどこにもなく、BiSの持つ「場」は堅牢でこそあれ、そこまで称揚する価値があるかというとそんなことは全くない。メジャーなアイドルには満足できないがそこそこ可愛い姉ちゃんがちょっとニッチな音楽を歌って踊っているステージを遠目で腕組んで見ながら自らの境涯を少しでも美化したいおっさんが勝手に興じていればいい。ただそれだけのものだ。BiSの持つ「場」はBiSHには作り出せない。でもBiSだってそんなに褒められたものではない。BiSはBiSであってそれ以上でも以下でもない。つまりはそういうことだ。私は若い頃の自分の思い出としてBiSに対してそれなりに思うところはあるが、他の人にとってそれがそこまでの価値を持つものだとは思わない。少し嫌な言い方になってしまったし自分だけ傍目八目を決め込むのもフェアじゃないとは思うが、でも多分みんなBiSにワーキャー言ってた一方でやっぱり心のどこかでは違和感があったのではないかと思う。特に私のようにアイドルについては門外漢ではあってもディスクユニオンの新宿エリアを休日ひねもす彷徨しては90年代のインディー・ロックをスナイプすることに血道を上げるような典型的なギークにあっては、なおさら。もっと言えばその違和感はかの大名盤「BiS階段」でも完全に解消されたわけではないのだ。あのアルバムもみんな褒めているし私も愛聴してはいるが、結局はアイドルソングをCDで流している横でJCからメタゾネだのソーダメイザーだのを直列カスケードしただけのとてつもなく頭の悪いペダル・チェインで作った誰にでも出せるディストーション・ノイズを垂れ流して悦に浸っている還暦間近のビートたけし気取りのおっさん(JOJO広重)のマスターベーション以上の何かがあると言われれば、実は、全然ない・・・。ただあの録音で奇跡的だったのは、非常階段の音楽がはっきり言ってキング・オブ・ノイズだとか言って鼓吹するほどの価値もないペラペラの音の塊でしかなかったことを再発見すると同時に、そのゴミのようなノイズに侵食されながらBiSの楽曲のクオリティはオルタナティヴ・ロックに散々振り回されて人生を棒にふる一歩手前のまるでクリトリック・リスの「桐島」と化しつつあるおっさんが作ったおっさんによるおっさんのための痛々しい自己憐憫の域を全く出ないものではあれ、だからこそ、それゆえに、そうして90年代を過ごしていつの間にか人生の終着地点にたどり着いてしまった因果な人々の一つの青春の記録として万感胸に迫るものであったということだった。だからあのアルバムの主役はBiSではなく、非常階段でもなく、90年代という時代から今だに卒業できない全ての「桐島」たちだったのだ。だからBiSの音楽そのものが何かロック史に残るとんでもないパンテオンだなどとはまるで思わないし、「BiS階段」ですら10年後も相変わらず世界に生産されているであろう(そして惨めな、報われない毎日を送るであろう)第二の「桐島」たちが改めて省みるほどの価値があるとは間違っても思わない。そうしてBiSに対して屈折した思いを抱えていたからこそ、BiSHにはどこか期待するものがなかったわけではない。BiSではついに得られなかった音楽的な満足を今度こそ、という思いがまるでなかったわけではない。でもやっている音楽はほとんどBiSと見分けがつかない上にオルタナティヴ・ロックの劣化コピーであるBiSの更にクローンなのでアイデンティティがより希薄になってしまっているというか・・・。まあそれだって「桐島」にとっては十分なものかもしれない。でもそれで本当にいいのだろうか?今、この国では長い雌伏の時を経て冬眠から覚めた掃いて捨てるほどの「桐島」たちが群れをなしてライヴハウスに出没しては、こういうマイナー・アイドルに大枚を投資してしたり顔でのさばっている。大声でMIXを唱和する。サイリウムを振っている。物販でノベルティを山のように買う。この状況が本当に好ましいことか?いまのアイドル・ソングがかつてとは比べ物にならないほど多様性に富んでいることはわかる。でも、だからなんだ?結局「桐島」たちは何に夢中になっているんだ?これはもはや修辞疑問である。答えはもう出ている。「BiS階段」が世に問われたその瞬間に答えは、「桐島」たちに対する最後通告はすでにもたらされていたのだ。こんなに残酷なことがあるだろうか?「桐島」たちの末路がこんな形になるとは夢にも思わなかった。これは大いなる歴史の皮肉だ。資本主義が嫌だった。大人が嫌だった。でもここで行われていることは社会の完全なミニチュアだ。結局、革命は行われなかった。世界は何も変わらなかった。みんなもっと早く夢から醒めるべきだった。でももう戻れない。もう遅過ぎるのだ。

クリント・イーストウッドの映画に通底する思想がことごとく安直なリバタリアニズムでしかないことに気付くとき、彼が巧みにエクスプロイトしてきた自由の神話はたちまち色褪せるだろうか。或いはそれでもなお、彼の誣告する正義の力学はこの世界に意味を持ち続けるだろうか。観客や批評家がクリント・イーストウッドの映画を称揚するとき、彼らはしばしば禁欲主義的なナラトロジーを評価する。静謐でそれが故に強固な、そして何より重厚な物語に彼らはこの世界の縮図を見る。それが映画芸術そのもののセントラル・ドグマを指針する画期的な何かであるかのように吹聴しさえする。しかしそうした論陣が見落としがちな単純な事実として、クリント・イーストウッドの映画はその寓意性が故にまさに宗教的なノイズを孕み過ぎている。その意味ではやはり、クリント・イーストウッドの作る車や飛行機やアメリカ軍の映画はおしなべて皆一様に原理主義的なアイコンであり、何かのドグマに接近し得るものと言わざるを得ない。でもそれは映画のドグマではない。それは彼が、というより、アメリカという国そのものが奉ずるある種の神学にまつわるドグマなのだ。そしてもっと言えばそれは神学というよりもむしろ、病理とでも換言すべきものなのだ。荒木飛呂彦はクリント・イーストウッドはもはや一つのジャンルなのだと言った。でもそれは少し違うと思う。クリント・イーストウッドはある種の人々にとっては宗教であり、リバタリアニズムの迂遠な礼賛であり、そしてそれ故に自由という言葉の再定義を我々に迫るものだ。彼が雄弁に唱道するテーマそのものはジョージ・ミラーのポスト・アポカリプスでスチーム・パンクな燃料噴射装置付きの自殺マシーンと何ら変わらないように思えるのにもかかわらず、また、彼の映画からはリベラルホークからオルト・ライトまであらゆる政治的な背景雑音が賢しらにトリミングされているのにもかかわらず、彼がプロットする物語はその枝葉末節から中枢に至るまで全て例外なく、人々が神に対してスケール不変的に支払い続ける負債を所与の事実としてこれを斥けず、むしろ肯定し、そしてその負債を返済する行為こそが我々の自由なのだと説く。神が債権を取り立てて人に試練を与え、与えすぎて時に人を殺めもすることを絶対に譴責してはならない。我々はそれを甘受しなければならない。クリント・イーストウッドの映画においてはそれを超克することこそが人間に許されたほとんど唯一の自由であり、その努力を怠る救いがたき衆生は例外なく自由を脅かす敵である。敵?いや、敵ですらない。天国行き負債完済モノポリーに賭け金をベットしない人間はスプロケット・ホールの向こう側でただ置き去りにされ、瀆神的なファズ・ギターを奏で続ける脳の25フレット目をタライラッハ座標で完璧に撃ち抜くスイング・ジャズの凶悪極まる死の鉄槌でファイナライズされる。クリント・イーストウッドのチェス・ボードには仕掛けがあり、刻まれた軌道に沿ってしか彼らは進むことすらできずオイラーの定理に忠実に人生の終着地点へ最短距離で送り込まれるその瞬間までドーリー・カメラのこちら側で神を、正義を、愛を、そして何より自由をブート・アップし続けねばならない。クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」は例えばそういう映画だ。社会は自由だ。システムがそれを保証するかどうかにかかわらず、本質的にこの世界は自由だ。天啓にも似た突発的な愛国心に駆られてネイビー・シールズに志願するのも自由だ。ロメロとオーウェルの二人のジョージやアントニー・バージェスならそれを殺人マシーンと呼ぶだろうが、クリント・イーストウッドにとってはそれは自由の正当な行使であり、誰憚ることなき神への跪拝なのだ。兵士は神への負債を支払い、天国へ行った。それがこの映画の讃えるドラマだ。イラクでプラスチック爆弾をくくりつけられて爆殺された少年も神への負債を支払い、天国へ行った。それがクリント・イーストウッドがリアリズムの向こう側で敬虔に語る自由のあるべき姿だ。自由だ。全ては自由だ。
ところでノイタミナで2017年の1月〜3月期に放送されたアニメ「クズの本懐」は、そうしたクリント・イーストウッド神学とは別のアプローチでリバタリアンたちの受難を描いた物語だ。このアニメを単に軽佻浮薄なビーバーフリックと考えるか或いは好意的にもストック・エコノミーの闘技場で乱れ飛ぶグリーン・マナリシのセキュリティー・ホールの間隙で奇跡的に組み合わされたポートマントーと考えるかは個人の自由だが、どちらにしろこのアニメの真のテーマは恋愛でもセックスでも人間のクズでもましてや日本の高校生たちのソーシャル・ネットワーキングを巡る社会論などでも全くなくて、他ならぬ自由だ。それもクリント・イーストウッドと同様に、レイシャス・アロイファス・ラファティの「カミロイ人の初等教育」でイマニュエル・カント以降連綿と人類の大脳新皮質にスルー・ホール・マウントされ続けてきた端倪すべからざる純粋実践理性を完膚なきまでに再起不能になるまで情け容赦なく粉砕したような意味での壮絶な自由だ。このアニメのキャラクターたちにとって恋愛とは破壊であり、自由とは収奪するものだ。そして自由とは神に対する負債を死に物狂いで返済する行為と同義であり、そこから逃れる者にはこの世界に居場所はない。彼らはもはやそういう風にしか生きられない。自由を巡って殺し合うことでしか生きていけない。精巧にデザインされたはずのオープン・ワールド・ゲームで神が訛伝した真理の残骸。それは分配の正義を根底から覆す致命的な矛盾なのか?それとも神の荘重なる企図に導かれた未知の宇宙定数なのか?クリント・イーストウッドなら答えは決まっている。クリント・イーストウッドは自由におけるコペンハーゲン解釈をことごとく否定する。それに対するラスコーリニコフ的な逡巡すら彼は断罪する。ある人間はそれを手にいれる。ある人間はそれを失う。ある人間は生き残る。そしてある人間は死ぬ。それが自由だ。そのトートロジーこそが世界の真実だ。天下に並びなき神の理路整然たる統一場理論ディレクターズ・カット完全版だ。ではこのアニメはどうだろうか。緩解されざるオブセッションを抱えた悩めるリバタリアンたちがある共有地で感情とセックスを通貨とした凄惨なゼロサムゲームに興じている。彼らは人体を用いた危険な極限計算を延々と続け、ある意味ではラスコーリニコフ的な演繹、自由のバックドアーを探る邪悪な微分をこの世界に対して挑み続ける。そしてその過程で彼らがプレーするゲームの性質が徐々に変化していく。この時点でこのアニメとクリント・イーストウッドは明確に違ってくる。クリント・イーストウッドにとって世界は静的なものであり全てはすでに完成されている。そこではキャラクターたちは神への負債を所与の事実として受け入れ、その返済のためのニーチェ的な闘争を続ける。他方でこのアニメでは自由はありのままに受け入れるものとしては決して描かれない。このアニメの自由に関する闘争領域は様々なマクガフィンを契機として段階的に別の導関数を持ち始める。つまり、今となっては極めてオールド・スクールな手法、ラスコーリニコフ的な直接話法の内的独白を通じて彼らは自由そのものに闘争を挑むようになるのだ。もちろん、それが故にこのアニメの結論はクリント・イーストウッドのそれよりも残酷なものだとは言える。彼らが支払うべき神への負債はまたぞろ加算され、かつては単純明快なものだったはずの自由の弁証法は難解極まりない異教徒のマントラと化し、全ては寓意性を失い蛮土僻隅の無秩序へと帰っていく。ここには例えばオルト・ライトのポピュリストやブライトバード・ニュースのアジテーターが賢しらにモラルファグするリベラリズムの限界が確かにある。定言命法や個人の自由意思ではポスト・トゥルースのこういったパラドックスは解決することができない。クリント・イーストウッドなら答えはシンプルだ。ラスコーリニコフはあくまでラスコーリニコフに過ぎない。自由を巡る闘争そのものを剔抉してはならないし、その愚挙に及んだ者はこの世界から、少なくともクリント・イーストウッドの想像上のアメリカからたちまち消去され、神への負債は次の犠牲者を探し始める。でもこのアニメは違う。不要だと思われていたキャラクターたちのフィラー・エピソードが集積し彼らの狂気と殺戮の旅がその終着地点へ近づいていくにつれて、作品を統べる多項方程式の知られざる最後の定数が明らかになり、結局はこのアニメもまたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がごとき一つの禍々しい曼荼羅を織りなしていたことに、不可解ながら我々は気付くことになる。様々なディテールが絡まり合い、リバタリアンたちが見出した答えがまさに逆巻く自由の混沌によってしか継起され得ない必然的な結論であったことに我々は最後になってようやく気付く。ある者は神への負債を巡るゲームに勝利し、またある者は無惨にも敗れ去る。ゲームの終わり。しかし終わりはない。どちらの側からも見える景色は一様に超現実的であり、かつてゲームを始めた頃に考えていた終わりとは似ても似つかない。混沌の果てに彼らが見出したものはやはり混沌であり、一度手にしたはずの自由は細切れのペンローズ・タイルとなってまた世界に散らばっていく。彼らは戦うべきゲームが別にあることを、そして今まさに次のゲームが始まりつつあることを知る。最後になって彼らはようやく知る。クリント・イーストウッドが巧みに覆い隠す世界の二周目の姿を彼らはその時ようやく垣間見る。世界は再び混沌に落ち込み、狂気がこの都市を、空を、地平線を、人々の欲望と肉体の痙攣と断末魔の絶叫が乱反射するガラスの箱庭を覆っていく。自由を巡る物語はまたもや不条理で横溢し、ゲームの規則が再び書き換えられる。もちろんこのアニメはそのあとのゲームの姿までは描かない。キャラクターたちが自ら次のゲームへ向けてスタート・ボタンをパンチしたところでこのアニメは突然終わる。そのあとの世界を戦うのは語られざる結末の向こう側の彼らであり、そして、ほかならぬ我々自身なのだ。
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自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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