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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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クリント・イーストウッドの映画に通底する思想がことごとく安直なリバタリアニズムでしかないことに気付くとき、彼が巧みにエクスプロイトしてきた自由の神話はたちまち色褪せるだろうか。或いはそれでもなお、彼の誣告する正義の力学はこの世界に意味を持ち続けるだろうか。観客や批評家がクリント・イーストウッドの映画を称揚するとき、彼らはしばしば禁欲主義的なナラトロジーを評価する。静謐でそれが故に強固な、そして何より重厚な物語に彼らはこの世界の縮図を見る。それが映画芸術そのもののセントラル・ドグマを指針する画期的な何かであるかのように吹聴しさえする。しかしそうした論陣が見落としがちな単純な事実として、クリント・イーストウッドの映画はその寓意性が故にまさに宗教的なノイズを孕み過ぎている。その意味ではやはり、クリント・イーストウッドの作る車や飛行機やアメリカ軍の映画はおしなべて皆一様に原理主義的なアイコンであり、何かのドグマに接近し得るものと言わざるを得ない。でもそれは映画のドグマではない。それは彼が、というより、アメリカという国そのものが奉ずるある種の神学にまつわるドグマなのだ。そしてもっと言えばそれは神学というよりもむしろ、病理とでも換言すべきものなのだ。荒木飛呂彦はクリント・イーストウッドはもはや一つのジャンルなのだと言った。でもそれは少し違うと思う。クリント・イーストウッドはある種の人々にとっては宗教であり、リバタリアニズムの迂遠な礼賛であり、そしてそれ故に自由という言葉の再定義を我々に迫るものだ。彼が雄弁に唱道するテーマそのものはジョージ・ミラーのポスト・アポカリプスでスチーム・パンクな燃料噴射装置付きの自殺マシーンと何ら変わらないように思えるのにもかかわらず、また、彼の映画からはリベラルホークからオルト・ライトまであらゆる政治的な背景雑音が賢しらにトリミングされているのにもかかわらず、彼がプロットする物語はその枝葉末節から中枢に至るまで全て例外なく、人々が神に対してスケール不変的に支払い続ける負債を所与の事実としてこれを斥けず、むしろ肯定し、そしてその負債を返済する行為こそが我々の自由なのだと説く。神が債権を取り立てて人に試練を与え、与えすぎて時に人を殺めもすることを絶対に譴責してはならない。我々はそれを甘受しなければならない。クリント・イーストウッドの映画においてはそれを超克することこそが人間に許されたほとんど唯一の自由であり、その努力を怠る救いがたき衆生は例外なく自由を脅かす敵である。敵?いや、敵ですらない。天国行き負債完済モノポリーに賭け金をベットしない人間はスプロケット・ホールの向こう側でただ置き去りにされ、瀆神的なファズ・ギターを奏で続ける脳の25フレット目をタライラッハ座標で完璧に撃ち抜くスイング・ジャズの凶悪極まる死の鉄槌でファイナライズされる。クリント・イーストウッドのチェス・ボードには仕掛けがあり、刻まれた軌道に沿ってしか彼らは進むことすらできずオイラーの定理に忠実に人生の終着地点へ最短距離で送り込まれるその瞬間までドーリー・カメラのこちら側で神を、正義を、愛を、そして何より自由をブート・アップし続けねばならない。クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」は例えばそういう映画だ。社会は自由だ。システムがそれを保証するかどうかにかかわらず、本質的にこの世界は自由だ。天啓にも似た突発的な愛国心に駆られてネイビー・シールズに志願するのも自由だ。ロメロとオーウェルの二人のジョージやアントニー・バージェスならそれを殺人マシーンと呼ぶだろうが、クリント・イーストウッドにとってはそれは自由の正当な行使であり、誰憚ることなき神への跪拝なのだ。兵士は神への負債を支払い、天国へ行った。それがこの映画の讃えるドラマだ。イラクでプラスチック爆弾をくくりつけられて爆殺された少年も神への負債を支払い、天国へ行った。それがクリント・イーストウッドがリアリズムの向こう側で敬虔に語る自由のあるべき姿だ。自由だ。全ては自由だ。
ところでノイタミナで2017年の1月〜3月期に放送されたアニメ「クズの本懐」は、そうしたクリント・イーストウッド神学とは別のアプローチでリバタリアンたちの受難を描いた物語だ。このアニメを単に軽佻浮薄なビーバーフリックと考えるか或いは好意的にもストック・エコノミーの闘技場で乱れ飛ぶグリーン・マナリシのセキュリティー・ホールの間隙で奇跡的に組み合わされたポートマントーと考えるかは個人の自由だが、どちらにしろこのアニメの真のテーマは恋愛でもセックスでも人間のクズでもましてや日本の高校生たちのソーシャル・ネットワーキングを巡る社会論などでも全くなくて、他ならぬ自由だ。それもクリント・イーストウッドと同様に、レイシャス・アロイファス・ラファティの「カミロイ人の初等教育」でイマニュエル・カント以降連綿と人類の大脳新皮質にスルー・ホール・マウントされ続けてきた端倪すべからざる純粋実践理性を完膚なきまでに再起不能になるまで情け容赦なく粉砕したような意味での壮絶な自由だ。このアニメのキャラクターたちにとって恋愛とは破壊であり、自由とは収奪するものだ。そして自由とは神に対する負債を死に物狂いで返済する行為と同義であり、そこから逃れる者にはこの世界に居場所はない。彼らはもはやそういう風にしか生きられない。自由を巡って殺し合うことでしか生きていけない。精巧にデザインされたはずのオープン・ワールド・ゲームで神が訛伝した真理の残骸。それは分配の正義を根底から覆す致命的な矛盾なのか?それとも神の荘重なる企図に導かれた未知の宇宙定数なのか?クリント・イーストウッドなら答えは決まっている。クリント・イーストウッドは自由におけるコペンハーゲン解釈をことごとく否定する。それに対するラスコーリニコフ的な逡巡すら彼は断罪する。ある人間はそれを手にいれる。ある人間はそれを失う。ある人間は生き残る。そしてある人間は死ぬ。それが自由だ。そのトートロジーこそが世界の真実だ。天下に並びなき神の理路整然たる統一場理論ディレクターズ・カット完全版だ。ではこのアニメはどうだろうか。緩解されざるオブセッションを抱えた悩めるリバタリアンたちがある共有地で感情とセックスを通貨とした凄惨なゼロサムゲームに興じている。彼らは人体を用いた危険な極限計算を延々と続け、ある意味ではラスコーリニコフ的な演繹、自由のバックドアーを探る邪悪な微分をこの世界に対して挑み続ける。そしてその過程で彼らがプレーするゲームの性質が徐々に変化していく。この時点でこのアニメとクリント・イーストウッドは明確に違ってくる。クリント・イーストウッドにとって世界は静的なものであり全てはすでに完成されている。そこではキャラクターたちは神への負債を所与の事実として受け入れ、その返済のためのニーチェ的な闘争を続ける。他方でこのアニメでは自由はありのままに受け入れるものとしては決して描かれない。このアニメの自由に関する闘争領域は様々なマクガフィンを契機として段階的に別の導関数を持ち始める。つまり、今となっては極めてオールド・スクールな手法、ラスコーリニコフ的な直接話法の内的独白を通じて彼らは自由そのものに闘争を挑むようになるのだ。もちろん、それが故にこのアニメの結論はクリント・イーストウッドのそれよりも残酷なものだとは言える。彼らが支払うべき神への負債はまたぞろ加算され、かつては単純明快なものだったはずの自由の弁証法は難解極まりない異教徒のマントラと化し、全ては寓意性を失い蛮土僻隅の無秩序へと帰っていく。ここには例えばオルト・ライトのポピュリストやブライトバード・ニュースのアジテーターが賢しらにモラルファグするリベラリズムの限界が確かにある。定言命法や個人の自由意思ではポスト・トゥルースのこういったパラドックスは解決することができない。クリント・イーストウッドなら答えはシンプルだ。ラスコーリニコフはあくまでラスコーリニコフに過ぎない。自由を巡る闘争そのものを剔抉してはならないし、その愚挙に及んだ者はこの世界から、少なくともクリント・イーストウッドの想像上のアメリカからたちまち消去され、神への負債は次の犠牲者を探し始める。でもこのアニメは違う。不要だと思われていたキャラクターたちのフィラー・エピソードが集積し彼らの狂気と殺戮の旅がその終着地点へ近づいていくにつれて、作品を統べる多項方程式の知られざる最後の定数が明らかになり、結局はこのアニメもまたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がごとき一つの禍々しい曼荼羅を織りなしていたことに、不可解ながら我々は気付くことになる。様々なディテールが絡まり合い、リバタリアンたちが見出した答えがまさに逆巻く自由の混沌によってしか継起され得ない必然的な結論であったことに我々は最後になってようやく気付く。ある者は神への負債を巡るゲームに勝利し、またある者は無惨にも敗れ去る。ゲームの終わり。しかし終わりはない。どちらの側からも見える景色は一様に超現実的であり、かつてゲームを始めた頃に考えていた終わりとは似ても似つかない。混沌の果てに彼らが見出したものはやはり混沌であり、一度手にしたはずの自由は細切れのペンローズ・タイルとなってまた世界に散らばっていく。彼らは戦うべきゲームが別にあることを、そして今まさに次のゲームが始まりつつあることを知る。最後になって彼らはようやく知る。クリント・イーストウッドが巧みに覆い隠す世界の二周目の姿を彼らはその時ようやく垣間見る。世界は再び混沌に落ち込み、狂気がこの都市を、空を、地平線を、人々の欲望と肉体の痙攣と断末魔の絶叫が乱反射するガラスの箱庭を覆っていく。自由を巡る物語はまたもや不条理で横溢し、ゲームの規則が再び書き換えられる。もちろんこのアニメはそのあとのゲームの姿までは描かない。キャラクターたちが自ら次のゲームへ向けてスタート・ボタンをパンチしたところでこのアニメは突然終わる。そのあとの世界を戦うのは語られざる結末の向こう側の彼らであり、そして、ほかならぬ我々自身なのだ。
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   驟雨に包まれた海辺の沼沢地がおれには地獄の辺土に見えた。ビニール・シートの天蓋は風に煽られればたちまちバッファアンダーランエラーに陥り、その過負荷を地上2メートル分の加速度が乗算された雨水に変換して地面に出力して、そしてヌカルミでできたフロアはパブリック・アドレスの絨毯爆撃がレア社謹製のスーパー・ドンキー・コング式スプライトの大群の魂或いはコーディングされざるその他すべてのものを電子の箔押し加工で浮き彫りにするたびに尊敬措く能わざるポロロッカに見舞われては極小のブロブ片を空間に射出した。オープニング・アクトのどうでもいいジョバーを横目でやり過ごすにはいつもなぜか卓抜したテクニックが必要とされるから、おれはシオドア・スタージョンの「マエストロを殺せ」(柳下毅一郎訳)を読み進めることにして、醜いフルークが謀殺したラッチ・クロウフォードの残響にパワー・アンビエントされ徐々に緩やかにジョン・ゾーン式コブラ・ゲームの棋譜に踊る微分方程式並みの厳正さで発狂していくマジック・リアリズムがなぜかおれの現実にシンコペートしてきてそれは心地よい細切れのアナログ・ディレイのように虚構と現実の懸隔を双方向的に浸食し重大な精神汚染をもたらす。スキッドが弾いていたのはおそらく、周囲24フレット分とあとその先の人生数十年分に壊滅的な打撃をもたらす真に魔術的なファズ・ギターであり、だからこれはノルウェーのデス・メタル・バンドの小説でもよかったしベオグラードのスラムでライバッハのブートレグを聴きながら発狂するムスリムの少年の儚くも妙なるモンタージュでもよかったし、或いは雨の松江のライヴ会場でスタージョンを読みながら無聊をかこつコミュニケーション障害の27歳のおれに降りかかるそのあとの或いはもっとあとの数奇な運命を象る何かであってもよかった。とにかく、おれはおれのビアンカの手が現れるのを待っていた。おれのデス・クリムゾンが、おれの四八(仮)が、おれの超光戦士シャンゼリオンが現れるのを待っていた。それはこの瞬間でなくても或いはそのあと或いはそのまえ或いはそのどちらでもない謎の余剰次元におけるまだ見ぬ邂逅であり、そしてそれはやはりそのときではないはずだったし実際にそうだった。うみのてのライヴが始まった。いつもならDJブースに喜捨されるはずのサブ・ステージがたちまちシールドのスパゲッティで埋め尽くされ、リゼルグ酸ジエチルアミドのグリーン・マナリシがアラモゴルド砂漠に刻まれた巨大なペンタグラムに降臨しB17爆撃機のレギオンを核実験のクレーター上にフルメタルの星座としてバンプ・マッピングするに吝かでない状況が現出する。フェンダー・ジャパンのパステル・カラーのジャズ・マスターは2段直結回路のダーリントン接続でエレクトリック・レディ・ランドのウォッチ・タワーへとたちまちバッド・トリップして頭蓋骨を叩き割る。ラッチ・クロウフォードの残響を電光火花の彼方に垣間見る。光あれ。ディギン・イン・ザ・カーツ。クラークスデール空軍基地でサーキットされたE3のマイクロソフト・ブースでジョーズ・アンリーシュトをはじめてプレイした人たちの気分はたぶん、日本版ローカライズ「ブリー」が800円でディスカウントされている島根のバイブル・ベルトでもきっと、ミッドウェイ・ゲームズのあの邪悪なフェイタリティのグラフィック・アートに忠実にハイウエスト・ニーレングス・インバーティド・プリーツ・スカートで武装した女の子を鋼鉄のソーセージ・スタッファーへと送り込んで切り刻むときですら確実に、きっと確実に、こんな感じでイカレていたのだろう。おれは或いは彼が或いは彼女が或いはその他すべての脳が腐りかけた小心翼々のサタニストたちはみな、寄木細工のアフロ・フューチャリズムが網膜に直接ベクタスキャンするケン・ケリーのマノウォーのジャケット・アートのオイル・ペインティングが如き16ビットのソーフィヤ・セミョーノヴナの下腹部のアルビノの皮膚に欲情して地面に激突してバラバラになる。おれたちはいつもそれが何かとても価値のあるものだと思いたくて、価値のあるものを価値のあるものだと思うおれたちを価値のあるものだと思いたくて、緩やかにオーバードーズし気付いたときにはもう脳ミソがスキャナーズ爆発を起こして粉々に飛び散ってウィーン・アクショニズムで描いたアルタミラ壁画のクローンとして永遠になる。ライヴが終わる。永遠になったおれたちはもう永遠ではない。永遠ではなくてここは邪知甘寧に満ちた死の世界。永遠はない。終わりはない。見えない敵が我々を攻撃する。OBEY, CONSUME, MARRY & REPRODUCE. おれはロディ・パイパーを見つける必要があった。即効性のイデオローグを、陰謀論に跪拝するためのデザイナーズ・ドラッグを、オールトの渦状雲で覆われた電離層にたゆたうソーフィヤ・セミョーノヴナを、おれは見つけ出さねばならなかった。存在しない女。物販で高野京介から手売りでCDを2枚買った。いま手元にはそのときに買ったうみのての「イン・レインボー・トーキョー」(メンバー全員のサイン入り)と、高野京介と1997年の「The End of Youth」がある。ライヴが終わっておれたちはつけ麺を食べて家路について次の日には普段通り仕事をしていた。もう永遠ではなくなっていたから大量のドレーン・チューブを内臓に接続して時空間をネジ曲げようとする不毛な術策を弄することもなかった。フルークとラッチ・クロウフォードの物語はその次の日くらいに終わりを迎えた。暗黒の物語。存在しない女。ビアンカの手、もはやMZ700のポンチ絵と化したソーフィヤ・セミョーノヴナ(であったものの四散した残骸)。農奴解放時代に既にENIACが稼働し、ドストエフスキーがATARI2600をプレイしていたなら、我々はいまごろゆみみミックスのエミュレーションにMODされ電子のカケラになって消えていた。存在しない世界。そうであったはずの世界。高野京介と1997年はスーパーコンボドライヴ(たぶん台湾製)でオン・ザ・フライ書き込みされたバルク品のCD-R(スタック・リングには日立マクセルのロットが刻まれている。きっと中国製)で、人体を油圧サーボアクチュエータで緩やかに確実に死に追いやるときのシーク・ノイズで水晶振動子に焼き尽くされワウフラッターでブランク・スレートを汚染した。存在しない女。高野京介がハイスコアガールのTシャツを着ていたことを思い出した。「おれたちはかつて二次元の住人だった。だから二次元の女しか愛せないのだ」「なるへそ~」「どんなに醜くても、それがおれたちの生きた証だ」この一連のシークエンスで押切蓮介は伝説になった。
「似たようなやつらと何かしでかそうと/大人になってもバカでいようねと/このコード進行が何かのパクリでも/このコード進行がくるりのパクリでも/それでもぼくは/それでもぼくは/おれがロックマン/おれはロックマン/おれがロックマン/おれが」
フルーク、ああフルーク。
おれはもう一度永遠になって、そして、またもとの生活へと戻っていった。
1月4日@出雲APOLLO 

あけましておめでとうございます。唐突で申し訳ないけど、今後の自分の芸術との関わり方を根底から覆すような強烈な体験であったため、何をさしおいて今日観たライヴの話を。

  • 石コロケッタ

 ファンクとアフロビートとフリージャズをゴッタ煮にしてモトローラ68000CPUパワーの極限までスプライト片に細切れに加工したものをリバース・エンジニアリングした感じ・・・もっと言えばMZ-700TinyXEVIOUSみたいな。それでいてデートコースペンタゴンロイヤルガーデンのようなベクトルには向かわないという。もっとわからんか。サックス/ボーカルの人が「タイのゲイ・バーのバック・バンドみたいな感じ」と言っていた。その形容は当意即妙。どこまでもバッド・テイスト原理主義に殉じる姿に拍手喝采。とりあえずとても良い。出雲に巣食うアヴァンギャルドのDNA継承者その1。

  • 安来のオジ

 が本名でエントリー、リアル・フォーク・ブルースを限りなくオーセンティックに。良かった。

  • NEWサザエ

 本日のキュレーター・・・になるのかな?ファンクとジョルジオ・モロダーとシャッグズをゴッタ煮にしてモトローラ以下同文。もっと言えばTinyスペハリ。それでいて旧態依然とした80年代マンセーのリバイバリズムもしくはマニエリスムもしくはコピーキャットに堕さず、あくまで現在進行形のコンテンポラリー・ポップ・ミュージックへと結実させる力業。これに感動しなかったら嘘だ!!!メンバー全員初老、ひとりは還暦。ほとんどフィックスでそして30年目アニヴァーサリー。これはもはや奇跡的という以外の言葉が見つからない。かつてバンドマンであった総ての人はこのことの持つ意味をたちどころに理解できるはずだ。そうでなければいけない。もう最高。出雲に胚胎するアヴァンギャルドの血脈を継ぐものその2。

  • DR.BREAKER

 間違いなく世界に通用する音。安土桃山時代に仮にインダストリアル・ミュージックが奏でられていたなら確実にこういう音になっていたであろうという、時空をねじ曲げる完膚なきまでの轟音核融合。すごすぎ。去年も遠藤ミチロウが松江B1に来たときのオープニング・アクトでその凄さは体験済みだったが、今回はそれらのハードウェア資産を確実に継承したうえで更に上位互換を達成。もう最高。デイメアでもTZADIKでもIpecacでもマンズ・ルーイン(もうないが)でも何でもいいから、とにかくこの音を全世界に紹介して欲しい。現時点で世界最高のヘヴィ・ロックだと本気で思う。スティーヴ・アルビニもリック・ルーヴィンもSOMAPITAもあとニューロシスもナパーム・デスも総ての轟音原理主義者がもう下を向いて黙るしかないほどに凄絶。狂おしいまでに残虐。そしてそれら全部が渾然一体となった末に垣間見るあっち側の世界。骨格を粉砕し脳を掌握し自意識を瓦解させるその総ての究極の更にその先。もうとにかく最高。

  • 山根麻衣

 サプライズ・ゲスト。あの山根麻衣。菅野よう子w/シートベルツの超名曲「BLUE」はプレイしなかったが、そんなもの必要ないくらいの完璧なパフォーマンス。不遜ながら初めてそのご尊顔を拝謁したが、この宇宙のあまねく生命へ全方位で向けられた力強いメッセージのその凄まじい強度にただただ圧倒される。これが!あの!もう言葉が出なかった。最高。

  • クリトリックリス

 真打。もう(ドクターブレイカーをあれだけ誉めそやしておいて何だが)人類がいままで作り得た総ての音楽の中で最高だと本気で思う。リズム・マシンの脱力ペコペコ打ち込みバック・トラックに全身全霊のスポークン・ワードと謎の暗黒舞踏がシンクロナイズし名状すべからざるスカム・ミュージックの桃源郷が雪崩れを打つようにオーディエンスを篭絡する。そこで語られるのは市井の人々の苦しみと悲しみとその間隙で刹那的に飛び散る人生の真実めいたナニモノかの漏電火花の儚い残像。泣ける。本気で泣ける。音楽の意義とか芸術の定義とか人生の意味とかそういうものとは百億光年の隔たりがあるこの日常、我々が泣いたり笑ったり嘆いたりわめいたりブチキレたりオナニーしたりキスしたりセックスしたり産まれたり死んだりするこの日常のグラウンド・ゼロのそのハード・コアで刻まれるクロック周波数の化石の最後の黒い燃えカスが風に乗って運ばれたときに不意に瞬く、生きていかねばならない者たちのちっぽけな覚悟。或いは絶望。或いは焦燥。そして或いは、生の肯定とその孤独の終り。橋本昌和(P. A. WORKS)の傑作TVアニメ『TARI TARI』のテーマは、「文化のあるところに人はあつまる」だという。文化に引き寄せられ、文化に突き動かされ、そこで人と人は出会うべくして出会い、そしてそこから新たな文化が生まれる。涙が出そうだ。それが人の生きる道だと思う。クリトリックリスの音楽はその定理を確かに証明していると思うし、そしてそれゆえにクリトリックリスの音楽は人類史上最高のシティ・ポップスだと心の底から思う。松江ALIVEで彼のライヴを観て以来、ずっとわだかまっていたものが今日再びまみえたことで、ひとつの線につながったような気がした。できるだけ多くの人に彼のライヴを観てほしい。そして、「桐島、バンドやめるってよ」を聴きながらともに笑い、涙しよう。人と人はつながる。そこに音楽があるかぎり。



いささか旧聞ではあるがファミ通No.1289にはSEGA Consumer 30th Anniversary Bookと題されたノベルティが付いていて、読んで字の如くセガの栄枯盛衰を一望できる手軽な資料となっているが、SG-1000からドリームキャストというセガ・ハードの文字通り揺籃期からその晩期までを知る傍証人である佐藤秀樹氏のインタビューが採録されているためにそれなりに読み応えのある内容となっている。

セガといえば、毎度おなじみの広報担当・竹崎忠氏がマントラのように繰り返す「スペック至上の大艦巨砲主義に殉じ/時代を先取りし過ぎた」時代の仇花としてのイメージが固着して久しく、実際にセガのハードコア・ユーザーは時に『セガガガ』に代表される一抹の「自虐史観」めいた諧謔をもクロスオーバーしながら、それらのクリシェをひとつの神話として語ることに憂身をやつしつづけている。もちろん、こうした
DIYゲーム稗史に誇張や虚飾や出典不詳のフォークロアの拡大再生産はつきものではあるものの、しかし、実際にそれらの多くは事実だ。セガはその技術力において独立不羈にして、孤高であった。セガはUFOキャッチャーを発明し、ムービング・キャビネットを発明し、任天堂のバーチャル・コンソール構想を先取りし、ポリゴンで人体を動かした。特にファンタシースター・オンラインとシェンムーはそれぞれMORPGとオープン・ワールド・ゲームの偉大なるパンテオンとして2010年代の現在においてこそ再評価の機運著しく、その光芒は弱まる気配を見せない。本書においても竹崎忠氏はそれらの毎度おなじみの妙に生暖かいセガのプロパガンダを、ひとつの青春の蹉跌として饒舌に語ってはいるのだが…そして、それらは押しなべて紛れもない事実なのだが…しかし、本書の佐藤秀樹氏の御高見を賜れば、それとは別の史観を抱かずにはいられないのではないだろうか?先ずは本書の劈頭を飾る佐藤氏のインタビューを是非一読してみてほしいのだが、佐藤氏がアンロックする事実の数々は先述の竹崎史観を踏まえたセガ礼賛の視座からするとまさにコントロヴァーシーの一語に尽きる。これを読めば、セガの歴史を肯定的に敷衍せんとするユーフォリアに対し誰もがたちどころに若干の疑問符をつけざるを得ない、というのが正直なところだろう。

例えば、セガの美点として誰もが認めるスペック至上主義のテクノロジー信仰はハードコアなプロフェッショナリズムと表裏一体である。確かに、それらの職人気質はマシン・スペックが総てのアーケードにおいてセガの帝国主義的一元支配を可能ならしめた。しかし、アーケードにおいては有効であったインカムの変動に応じてオンタイムで差分を当てるという発想が、当然のことながらコンシューマーの据え置き機においてはまったく当てはまらなかった。そうした厳然たる事実に対する認識が、セガには完全に欠落していた。佐藤氏は語る。「やっぱりセガの本業はアーケードでしたし、それが最先端だったんですよ。セガは基板も作れる技術を持っているので、仕様に合わせて何でもできたんです。(中略)いま思えば、ソフト開発の面では、それがかえって知恵や工夫ということを弱くしてしまう原因のひとつだったのかもしれません。表現が、
CPUのパワー頼みになっていたんですよ」 今にして思えば、これが総てだったのだ。佐藤氏が語るセガ開発史のバックヤードは、そのままプラットフォーム・ホルダー/デベロッパーとしてのセガの限界とイコールであったと思わざるを得ない。更にセガ五番目のハードの名を冠しプレイステーションと壮絶な次世代ハード戦争を演じたセガサターン時代に至り、佐藤氏は畳み掛ける。「セガとしては、人気のあるキラータイトルがセガサターンに来れば、ハードの販売数も伸びて、サードパーティーの注目もさらに集まるわけです。でも、それができなかった。やっぱり、足りなかったのはソフトなんですよ。いくらいいハードを出しても、ソフトにハードを引っ張れるだけの力があるかどうかなんです。極論を言うと、ハードの中身なんて、どうでもいい話なんですよ。ソフトがおもしろくなければ、ユーザーだって買わない」 もちろん、これは市場を握るライトユーザー層に限った話であり、ハードコア・ゲーマーは皆SONYに唾棄しセガに忠誠を誓う敬虔なるクルセイダーズであったことは、誰にも否定しようのない事実ではある。しかし、当然のことながら、ライトユーザーに迎合できずに市場の見えざる手をすり抜け独自路線を疾駆したことが結果的にセガを袋小路へと追いやることとなる。竹崎氏も、セガサターンの敗因について次のとおり語っている。「残念だったのは、最先端のアーケードゲームを家庭で遊べるようにするという理念を実現しようとしたために、セガサターンが”究極の2Dマシン”になったこと。アーケードではすでに3Dポリゴンに風向きが変わり始めていたし、SCEさんは最初から3D表現に特化したマシンを出してきました。セガは、当時のゲーム機の究極進化系を目指して、セガサターンを作ったわけですが、その後の潮流となった”3D特化型マシン”にはしなかった。そこが、よくも悪くも評価の分かれ目のひとつになってしまいましたね」 セガサターンがfatalityした最大の敗因はイチにもニにもこれに尽きる。ビジネスの大前提である、時代の趨勢を見極めることができなかったのだから。…が、これって、サラリと看過して良い問題なのか?時代を読みきれませんでした、で済ませていいことか?私企業としていちばん重要な部分が、セガに足りなかったということは、もっと直視されるべきことではないのか?

このセガの致命的な欠陥は最後の打ち上げ花火にしてセガ・ハード事業の墓標であるドリームキャストにおいても健在であった。完全互換基盤
NAOMIによってアーケードーコンシューマの懸隔は早々にクリア、デベロップメントのコストダウンを実現しサードパーティーへの間口を広げ、持ち前の技術力はGD-ROMやらSH-4やら面妖な規格とCPUに惜しげもなく湯水の如く投入され、まさにセガの壮絶なまでのスペック至上主義の集大成であったが、そこにはなぜかXBOXに先駆けて33.6kppsのモデムが標準装備されていた!ドリームキャストは実は、ネットワークでオンラインゲームをプレイすることに特化されたマシンだったのだ!…而してセガは、ここでも選択を誤る。セガは今日のオンラインゲーム市場の活況を見越して、ドリームキャストの普及がそのインフラ整備に直結すると信じていた。この部分の着想は良い。しかし問題は、往時において、高速回線の普及はこの国のコモンセンスでもなければ国策でもなかったということだ。情報スーパーハイウェイ構想の路傍にあったネット後進国の日本において、テレビも映画もCDも、況やゲームにおいておや、あまねくIPはスタンドアローンで嗜む以外の何者でもなかった。誰もそれに変わるモデルを知らなかったし、考究することすらなかった。それを敢えてやったのがセガだったのだが…しかし、そうしたモデルに完全に呼応するキラータイトルであった『ファンタシースター・オンライン』が歴史的な作品であることは疑うべくもないとしても、時代はオンラインゲームをそこそこプレイできるだけのダム端末よりも、スタンドアローンでコンテンツを楽しめるエントリー・モデルを要請していた。プレイステーション2の最大の売りは、それが簡易のDVDプレーヤー(あまつさえ初期ロットはリージョン・フリー)だったことではなかったか。加えて、時代の覇者たるSONY帝国の最大の強みであったPS時代のソフト・ライブラリをそのまま援用できるという、寸毫の隙もないマーケティングを前にしてはセガ畢生の純白のオベリスクなど鎧冑の一触、セガは完全敗北を喫し、ハード事業から完全撤退を余儀なくされた。ここら辺の時代との噛み合わなさ、隔靴掻痒のニアミスぶりはほとんど奇跡的というか、そこがセガらしさというべきなのだろうが…が、慧眼に乏しいという以前に、単純に企業として当然のことであるPDCAサイクルすら機能していなかったのでは、と思わず訝ってしまうのも仕方ない惨憺たる歴史である。しかもセガはオンラインゲーム市場を醸成するために、一台売るたびに赤字が必定というATARI・任天堂から連なるハード市場の伝統に忠実であったばかりか、更にユーザーのプロバイダー料金すら自社で負担していたというから驚嘆を禁じ得ない。それに留まらず、ユーザーにとってもこの日本初の野心的試行であったMORPGをプレイするために、MODまがいのハッキングスピリットすら要求されたというから、『ファンタシースターオンライン』が10万人稼動の大ヒットゲームとなったのはまさにセガとハードコア・ゲーマーの一蓮托生の血涙の結晶と呼号すべきところではあるが…しかし、単純にビジネスとして見ればそれは頭を抱えるようなコストと時間の、余りに野放図な空費でしかない。

 ここまでやや辛辣にセガのプロパガンダを論難してきたのも、セガが辿ってきた道が今の日本企業の状況と似ていると感じるからだ。ハードコアな技術力があってもユーザーフレンドリーなマーケティングができない。インカムの動きもパッチの当て方もわかっている途上国のシェアは取れても、趨勢が読めない先進国市場では韓国やアメリカの後塵を拝しつづけ、領土拡張は愚か失地回復すらおぼつかない。セガサターンが3D全盛の時代を読み違えて究極の2Dマシン(かつ最強のギャルゲーハード)と化したのと同じ。ドリームキャストがDVD興隆の時代を読み違えてネットワーク特化マシンと化し、気合とヤケクソでネットワーク時代の到来を無理矢理繰り上げようと愚挙妄動を乱発したのと同じ。時代が何を求めているか、ビジネスとしていちばん肝要な部分が見極められず、悪戯に技術力をあさっての方向に浪費するのみ。

 少しネガティヴ過ぎるというご注進もおありだろうから、セガが良かった頃の話も思い出してみよう。とすると実質はメガドライブ時代やアウトランやスペースハリアー時代という紀元前の頃の話ということになるが、それだとさすがに古過ぎるからもうちょっと最近の話に限ると、セガがドリームキャストの生産を中止した直後に、太田出版の『CONTINUE』誌の創刊号に掲載されたコラムを引用してみよう。「2001年3月いっぱいでドリームキャスト生産中止を発表したセガ。こうしたマイナス要素が露呈すると株価は下がるものだが、セガの場合は逆に上がった。それは何故か?そこに、世界一有望なソフトメーカー・セガが誕生したからである。(中略)そして編集部は、セガの新たな挑戦を独占スクープ!それが『回転寿司オーダーシステム』だ。タッチパネル方式のモニターを端末として、メニュー紹介、注文などが各テーブルで可能になるという驚きの一品。モニターには、本物の魚を研究しつくした緻密なCG魚が乱舞。『シェンムー』等で培ったCG技術が回転寿司屋で活かされるという寸法だ。さらに、音声認識機能による注文も可能。『シーマン』気分でナイスなお寿司ライフをエンジョイしよう!」 今でこそ当たり前すぎて(中にはiPadをそのままテーブルに実装している店舗もあるほど)隔世の感があるが、当時としてはこのアイディアはかなり革新的であったことが窺える。何せ、スマートフォンもタブレット端末も、それぞれ実現する技術力がありながら誰も考え付かなかった頃の話。セガのハードコアな技術力は、時代の要請にマッチングさせるよりも、己が解釈で新たな価値を提示することにこそ向いている。これはセガだけじゃない。日本企業総てにいえることかもしれない。でもそれはかつてセガサターンやドリームキャストが無理矢理やってきたようなゴリ押しではいけない。それにはやはり相応のマーケティングが必要だ。そこそこ時代にマッチして、かつ誰も考えなかったアイディア。もちろんそんなものが軽々と出てこないからみんな苦労しているわけだが、知ってのとおりセガは「創造は生命」の社是に忠実に、R-360にしろクレイジー・タクシーにしろ革新的なアイディアを鍛造することにはやたら長けているし、ソニック・ザ・ヘッジホッグやスペースチャンネル5をはじめとして、その時代のアイコンたり得るポップなキャラクターをクリエイトしてうまくパッケージングする手腕についても、実は、ちゃんと備えている(そして意外なことに、SONYは未だかつて一度もそれを作り得ていない)。先述の回転寿司のタブレット式注文端末は、これらのハードコア技術力とキャラクター・マーチャンタイズのストラテジーが見事に融合した結果だと思う。これらが備わって初めて時代に呈示できる新たな価値となり、市場の見えざる手が触れるモノリスたり得る。セガの潜在価値が真に顕現するとき、我々は音速で横スクロールのスプライトを宙返りしながら駆け抜けた青いハリネズミの再臨を目撃するのかもしれない。

 最後に、『ゲームラボ』No.101にてレトロゲームのフライヤーが特集された際にも、「セガのゲームは世界一だった」と激賞して憚らなかった同誌のセガ愛あふれるコメントを引用して、この稿を終えよう。「『ファンタシースター』と言えば泣く子も黙るセガの看板RPGタイトル。オンライン版ではドス黒い欲望の使途(原文ママ)が悪業の限りを尽くしているようだが、この第1作めはチラシから牧歌的。主人公アリサの解説には『笑顔のカワイイ15歳』などと書かれているが、顔色が悪いうえに能面のような無表情・・・。タイロンも筋肉質なようで微妙に貧弱。ミャウはもはや妖怪猫又! セガ万歳!!



よくもここまできたものだ。
貴様等は私の全てを奪ってしまった。
これは許されざる反逆行為といえよう。
この最終鬼畜兵器をもって、
貴様等の罪に私自らが処罰を与える。
死ぬがよい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『怒首領蜂 大往生 ブラックレーベル EXTRA』(5pb.)より


ゆかちだよ☆(>ω・)む~~~ん♪⊂( ^ω^)⊃ こと、みんなのアイドル井口裕香さんの「Grow Slowly」が名曲過ぎて死ねます。ニューヨーク・パンクやHusker Düを彷彿とさせるブリッジ・ミュートの応酬が心地よいハードコアなバック・トラックが鼓膜と三半規管を完膚なきまでにタコ殴りにする超名曲で、これが売れなきゃおかしいよ!!!と裂帛の叫びを思わず他人に、社会に、セカイに、所構わず情動的に張り上げたくなる抗いがたい危険な誘惑で満ち満ちています。声優のアニメソングの販促でありながら、歌なし!メロなし!惹句なし!ただ無造作に溢れ出るディストーション・ギターの洪水と思わしげなゆかち☆(>ω・)の無言のクレショフ実験のみ!!!という、オーレン・アンバーチやKTLのノイズ・コラージュもかくや、という神秘的なティザーもさながら、タイアップ・アニメ『とある科学の超電磁砲S』の孕むお気楽ラッダイト趣味に堕さない程度の心地よい(それ故に真摯でかつ、切実な)科学万能主義批判というディスクールを鮮やかに止揚した歌詞にただ、ひたすらに、滂沱と落涙!!!アニメ本編もJK片脚モギ~~~ッ!!!の驚愕の切株エンジン全開!!!でなぜか(文字通り)出血大サービス!!!で本気でおもしろいよ!!!とにかく!!!歌詞が!!!そしてその歌詞をリニアPCM出力するゆかち☆(>ω・)のロリータ・ボイス!!!が絶望と希望と夢と不安と青春とノスタルジーの撞着語法上等!!!の情景を脳内に巧みにトゥーン・シェーディング!!!「二度と来ない今 確かめて伝わった君の想い/いつかきっと私もあげよう/雲のようにそっとそっと/どこまでもずっとずっと前へ(作詞作曲は今やアニソン・クラスタのイデオローグと化した渡辺翔!!!)」ずっとずっと!!!前へ!!!後ろは振り返らない!!!ただ、ひらすらに、前へ!!!ふっふふーん♪⊂( ^ω^)⊃

まったく、アニメソングは最高だぜ!!!(cv.エレン・イェーガー)


ずっとずっと前へ!!!
心なしか、最近のアニメは斯様な限界バリバリ超絶ヤケクソ超展開をシンギュラリティにカタルシスへと駆け上るタイプの作品が多く、個人的にはたいへん好ましい風潮であると感じる。代表的な例では、今期だけでも『とある科学の超電磁砲S』はもちろん、2013年を代表するメルクマールと呼号すべき傑作『はたらく魔王さま!』における「ウダウダ言ってないで、まずは働け!」という凄まじく合理的でともすればファシズムにすら抵触する狂気(と、勧善懲悪の大義の下に全編に横溢する容赦ない暴力)、宮崎・富野・エヴァンゲリオン・まどか☆マギカに連なる因果と狂気と汎国家的精神疾患のトリプルコンボ日本民族残酷物語の発作的表出のそのlatest stuffである『進撃の巨人』における、「闘え!!!負けたら死ぬ!!!勝ったら生きる!!!闘わなければ、勝てない!!!」という、圧倒的に正しい究極の人生哲学、そしてNice boat.の元永慶一郎が放つ超大作『マジェスティック・プリンス』における「記憶消されて戦争するために生きてきて上司に死ねと言われれば散華する軍畜ですが何か?!」というヤケクソと開き直りの富国強兵翼賛オブセッションがあまりにストレート過ぎてもう一回転してしまった、ジョー・ホールドマンの傑作SF小説『終りなき戦い』にすら匹敵する「闘わないと死んでしまう(が、闘わなくても死んでしまう)壮絶な人生を生きざるを得ない人たち」のやたらコメディタッチな狂気と、まさに千紫万紅百花繚乱、枚挙に暇がないではないか。
これらの傑作群はおしなべて狂気とその狂気に駆り立てられ何かをしなければ気が済まなかった人々の凄惨な愁嘆場を巧みに活写している点で共通しており、即ち、現在の日本の深夜アニメは、多種多様な狂気がリゾーム状に暴走し指数関数的に増幅していく史上かつてない規模の芸術運動であると言えるのだ。ハリウッド映画にはもはや価値はない。いくらダーク・ナイトが、ウォッチメンが、あまつさえオオカミこどもの雨と雪が、いかなハリウッド・ライク/ディズニー・スタイルのドラマツルギーと19世紀ロマン派の誇大妄想的な劇判管弦楽とともに黒船の投錨を喧伝しようが、もはやそんなもには価値がない。そんなものには健全な狂気が宿っていない。もっとも優れた芸術とは即ち、もっとも優れた狂気であり、それ故に完全な芸術とは破綻した哲学であり、社会を瓦解させる凄絶な無秩序の定式化されたその一形態である。それはクリエイターの狂気なのか?思想の自由市場が生み出す構造的な狂気なのか?或いは、作品を批評する側のリテラシーの欠如故の不健全さがもたらす狂気なのか?それとも、日本という国が土着的に継代してきた遺伝的な狂気なのか・・・?わからない。しかしながら、この国では毎週、深夜に、極めてエクスルーシヴな周波数帯域のクローズド・サーキット・テレヴィジョンからより広汎なパブリック・アクセシビリティを誇るネットワーク・メジャーに至るまで、あまねく総てのチャンネルで、行き場を失った破壊的な狂気がモニター上にラスタライズされ、それを我々は網膜上でスキャンし、脳内に再びその像を結ぶ。歪みはその曲率をより強め、周縁部はレンズ・フレアの光の渦にぼかされ、そして狂気は常に肥大化し、我々の社会を、市場を、民主主義を、本来あるべき始原的な姿にバラバラに分解し、その無残な死骸をスナッフする。そのとき我々の脳でこだましている音楽のことを思い浮かべてみてほしい・・・それはパワー・アンビエントなのか?ティム・ヘッカー?SUNN O)))?或いはチップ・チューン?より根源的なもの?ブラック・サバス?ピーター・グリーン?狂気が狂気であるために、我々の脳を健全な狂気へとドライヴさせるために、道徳観念や公序良俗という使い古しのビクトリア朝時代のショート・サーキットをバイパスするために、テクノロジカル・ランドスケープに生きるテクノロジカル原人が平坦な戦場という名のオープン・ワールド・ゲームを無為に、何の目的も、何の喜悦もなく、ただ「プレイするために」プレイするために。そして、「プレイしつづけるために」プレイしつづけるために。我々にはそれが必要だ。狂気が。我々をブーストする狂気が。社会を後戻りできないドンヅマリの限局にまで追い詰める狂気が。そのときになってようやく、我々は次のフェーズに進める。
我々はもう、引き返せない。
深夜アニメという名のスナッフ・ビデオを、CERO Zのbeat'em up横スクロール・アクション・ゲームを。かつて8ビットのドット絵で描き出された集積回路上のバグだらけの女の子とセックスするために、ハッカー・インターナショナルのカートリッジの電子基盤とディスク・システムを受肉させ、FM音源のクワイアとともにCRTの光子のカケラとなって消えていってしまった人々に思いを馳せる。彼らはこんな時代の到来を予見できたろうか。仮にできていたなら、彼らはもっと正しい選択をしていたはずだ。彼らはかつてあった社会をかつてそうあったようにはしなかったはずだし、いまある社会もいまあるようにはしなかったはずだ。だから、この社会は間違っている。この社会には狂気が必要だ。

さあ、直視しよう。
深夜アニメという狂気を。
さあ、享受しよう。
その狂気が放つ、あまりにも正しく、寸毫の隙もない黙示録的な破壊の哲学を。
勝たなければ死ぬ。勝つためには闘わなければならない。だから、闘うのだ。この現実と、この社会と、我々を殺戮するありとあらゆる脅威と。

そしてそのとき、我々は蹂躙しつくされた無限の辺土に佇立しながらアニメソングを聴く。頭蓋骨が共振を起こし総ては原子へと還り蒼穹は力なく崩れ落ち、やがてそれが我々の聴く最後の音となる。アニメソングが終わったら、明かりを消して欲しい。かつてブルースがそうであったように。ドローンがそうであったように。MVYMRがそうであったように。世界を終わらせる音楽。もう終わっていい、と託宣を告げ、晩鐘を打ち鳴らすことを許された音楽。アニメソングは極めて破壊的で、人類が作り得た総ての調性と倍音の中で、最も歪んでいて、そして最も狂っている。狂気に満ちている。我々はもう、引き返せない。深夜アニメを観て、アニメソングを聴く。立体起動装置を駆るミカサ・アッカーマンの微塵の迷いもない双眸、日笠陽子のDischargeが如き破壊的で刹那的な情動で突き動かされ上ずるピッチ。我々はもう、引き返せない。我々に播種された狂気は、もう、誰にも止められない。狂気がこの世界を覆っていく。


さあ、深夜アニメを観よう。


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自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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