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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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アラン・ムーアが近年のアメコミ・ファンダムについて「今日日アヴェンジャーズの映画をwktkしてるのは30過ぎのノスタルジーマンセーの大きなお友達ばかりでスーパーヒーローコミックはもはや本来の読者たるべき小学生のものではなくなってしまった。クソ嘆かわしい。ていうかグラフィック・ノヴェルっていう言い方痛くねえ?」*と発言していたそうで爆笑だが、別にこれはアメリカに限った話ではなく、NERDなサラリーマンが革命機ヴァルヴレイヴというクソアニメをわざわざモバイル・ストレージして通勤電車の中で不気味な笑みを浮かべて嗜みながら上司からの直電を着拒するという狂気の沙汰のようなCMをパブリック・アドレスしている我が国のアニメ界隈においてもけっして無縁ではあるまい。

変化に順応できない保守的で頑迷な思想的ヒルビリーもしくは改宗した隠遁ヒッピーの普遍的な脊髄反射と決めつけるのは簡単なことだが、アラン・ムーアにしろ富野由悠季にしろ宮崎駿にしろ、それがどんなに凄惨な自己憐憫に裏打ちされたものであれ、深謀遠慮に基づくミス・ディレクションを企図したものであれ、いつの時代もみな押しなべて言っていることは正論ではある。矛先はさまざまなれどいずれの論陣も市場の停滞や硬直化に対する危機感が根底にあり、結局毎度判で押したようにデモグラフィック:ナードな文化はそのうち行き詰るよ、というありきたりなご託宣にたどりつくものではあるにせよ、このアナロジーはさんざ使い古されながらも未だ説得力があるとはいえる。

ただ単にジャンル文化として如何なるクロスオーバーも否定しほとんど民族浄化にも似た強迫観念的なマニエリスムへと没していくことを潔しとする原理主義的なポジションと、より総体的に創造的破壊を是としてあらゆる文化的営為に積極果敢にコミットした総合芸術たらんとするリベラルなポジションのせめぎ合いの中で、その狷介で鼻持ちならない態度からまぎらわしいがアラン・ムーアや富野・宮崎は総じてやはり後者に類別される。

イギリスのニューウェーブSFがそれまでのA・E・ヴォークト的にしてサイエントロジックなウンコ疑似科学的なヒロイックSFを解体しいっぱしのスペキュレイティヴ・フィクションへと転生させたように、『ウォッチメン』はキーン条約を作品世界に仮構することでスーパーヒーローコミックをメタ構造に落とし込みジャンルを一歩上の次元へと引き上げた。それによってもたらされたポスト・モダニックな混乱とフォローワーたちの方法論ばかりが先行した手段と目的の取り違えという頭を抱えるような愚行は歴史につきものの残酷な皮肉であるとしても、そもそもの動機は純粋に、賞味期限をとっくに過ぎたジャンルに同時代性という付加価値をどう付与するか、という極めて建設的なもの。これはガンダムにしてもナウシカにしてもエヴァンゲリオンにしても同じ。セックス・ピストルズにしてもブラック・サバスにしてもニルヴァーナにしても同じ。閉鎖的な村社会と化した文化はムカつくし、意味がない。誰もがカビの繁茂した同じシンタックスの傘の下で、同じネットワークで、同じプラットフォームで、同じオブジェクト指向インターフェースで、同じコンテンツを嗜む。クラウド万歳。ニュースピーク万歳。これじゃスタンドアロンでゲルマニウム・トランジスター・ラジオのエアプレイをカーゴ・カルトしていた紀元前の昔のほうがなんぼか多様で革新的だったじゃねえか。そして人々はヴィデオがレディオ・スターを殺したときにようやく気付く。総ての文化はみな、最初はカウンターだった。付和雷同と右顧左眄の救いようのないチェーン・コンボでスプライトの隙間のヒット・チェックを小突き回すだけのジョバーなシステムからのフェイタリティな解放。あなたがボーン・サックで彼をフィニッシュする瞬間。そのとき、周囲に垂れ込めるハーシュ・ノイズに抗して自らの内部により強力なドローン・ノイズを作り出すとき、その衝動はひとつのサーキットとして形を成す。既成事実とこれを推進する向きとの漠々とした対決。そう、それこそが文化だ。
クロウダディのポール・ウィリアムズもニルヴァーナのSLTSについて同じようなことを言っていた。
停滞と中庸と正統墨守に唾棄し、WYSIWYGの魔手を逃れ、パワー・サプライのない未開の沃野へと敢えて踏み出すこと。ここに大衆性が加わるに如くはないが、或いは変革というアクションそのものが自ずと娯楽性たり得るのかもしれない。

でもここで留意すべきは、これは文化が真に革新的な価値を持ち得るときのあくまで一側面に過ぎないということ。上記に挙げた例はそのハードコアに少なからぬ批評性を抱懐したものであり、その効用が浸潤する速度の差こそあれ皆一様に、ユーザーはこのパッチを実装することで須臾の一瞬ののちに自らをアップデートすることができた。この場合、文化はそれこそ速効性のキラー・ジョイントとして我々の脳を上書きし、我々はそこで批評性という干渉縞の向こう側に新たな地平を垣間見るのだ。

しかしながら、批評性は別にstuffそのものに内在していなくてはならないと決まっているわけではない。あまつさえ批評性は相対的なものでしかないのだから、経年劣化に対する耐性と鋼性にそれを付与するのはたいていの場合、歴史的な文脈や当世社会のパラダイムでしかありえない。 アラン・ムーアだって、小学生に享受される存在としての無慮数千年に渡り連綿と続いてきたヒーロー・パルプの伝統を別に否定しているわけではない。彼は何ら目新しい批評性を持たないジャンル文学は人類の進歩に貢献しないから焚書坑儒しろと言っているわけではないのだ。彼はいい年こいたオッサンがジャンル文学を何か意味があるものとして自己言及性だのシミュラークルだのポスト・モダンの祭壇に上げて玩弄する現状を批判しているのであって、むしろここで論難されているのは「批評性」というテクニカル・タームによって巧みにカモフラージュされた、自らのオーラル・ステージとの離愁に未だに拘泥しつづける者たちの醜い自己憐憫であるといえよう。

このアナロジーを証明する平明にしてそれゆえに極めて致命的な自傷行為となり得る例示はいくらでも思いつける…エヴァンゲリオン以降市場を公然と跋扈した物語の破綻と語り手の凄惨な自己陶酔を糊塗するためだけのオープン・エンディングの粗製濫造(とそれを許したポスト・モダニズム・ジャンキーたち)、グランジ・カルチャーをバロウズ文学やそこから自ずと継起的にサマー・オブ・ラヴの残像と併置させたまでは良かったがメイン・ストリームに対するカウンターというアナロジーに妄執するあまりその音楽性の根本に厳然としてあったはずのブルー・オイスター・カルト性やブラック・サバス性その他もろもろのメタル崇拝をものの見事に見落としてしまった批評家たち(とそれを許した数多のポーザーたち)、等々。これらはほぼ例外なくデベロッパーとエンドユーザーとの醜悪な癒着関係がもたらした文化的な停滞であるといえる。文化の批評性を安易にパブリック・ドメインとしてパッケージしたことによって、そのトリップを永続させんがための両者の利害の一致は結果的に文化の批評性そのものの滅失を招いてしまうのである(批評性は相対的なものであり、つまり後付けのものだということは先に述べたとおり)。

蓋し、批評性とは、最高のトリップをユーザーに約束する強力なデザイナーズ・ドラッグである。少しだけ自分の知覚が拡張されたような気がして、たちまちこれまで自らを囲繞してきた文物や過去が色あせて見える。例えば「けいおん!」等の日常系アニメにおけるアンチ・クライマックスにしてアガペーが横溢し個人的な感情を失った死の世界のヴィジョンに籠絡された人々は、たちまちそれまでの普遍的な文法で書かれてきた物語が前時代的でオールド・スクールに見えて仕方なくなり、「魔法少女まどか☆マギカ」とかも手法としては手垢にまみれていて日常系の革新性には及ぶべくもない、と本気で言っていた論客すらいたものだ。反対に、「魔法少女まどか☆マギカ」の病的なまでの厭世観に耽溺した人々も、同様にその他有象無象が社会性やリアリズムに欠けた茶番劇に見えて仕方がなかったそうな。
でも所詮はドラッグであるから、グラスやコークやアシッドがそうであるように、それがもたらすものが如何なるグッド・トリップであれ、いずれはそこから目覚めなければいけない時間がやってくる。

「大きなお友達」とはしばしばデモフラフィック:キッズな文物に傾倒する成人男性を指す蔑称として使われる。例えばハピネスチャージプリキュアや銀河にキックオフ!をHDDにストレージしていた人間がこれにあたる。反面で、この定義はときに同属嫌悪のネガティヴ・キャンペーンとして悪用されている実態もある。例えば「魔法少女まどか☆マギカや化物語やエウレカセブンを嗜んでいるクールな我々は毎週プリキュアだのアイカツだのに憂き身をやつし続ける大きなお友達みてぇなキメェ連中とは違うんだよ」といった具合に、自らの優越性を賢しらに誇示するために。そしてこの排他的な学閥は押しなべて、「魔法少女まどか☆マギカやエヴァンゲリオンはプリキュアと違って崇高な意味があってとても文学的で哲学的でカックィー」というテーゼを妄信しているものである。要は「あのアニメはあくまで大人向けのものであり、ガキ向けのhenshinアニメに人生を捧げているキモい人たちとはいっしょにしないでください」という免罪符として彼らは批評性ドラッグを濫用しているのだ。権威主義に額づくブタどもが!

冒頭のアラン・ムーアの発言においても、「グラフィック・ノヴェル」というラベリングによってヒーロー・パルプを何か高踏的でアカデミックなものとして過剰に崇拝する批評性ヘッズを痛烈に批判していたはずである。我々はサブカルチャーを批評性ドラッグのキャンディー・マンの魔手から救い出すべきではないのか?そして、デモグラフィック:キッズのアニメはもちろん、あまつさえソフトポルノとしての効能しか持ち得ないエクスプロイテーションのアニメをも不当に蔑視するような「批評性」は、逆に文化を停滞させてしまうのではないのか?さよう、これは修辞疑問である。答えはもはや明白である。

それゆえに「魔法少女まどか☆マギカ」や「YU-NO この世の果てで愛を唄う少女」を言論がことさらに顕揚したように、「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」や「ストライク・ザ・ブラッド」のような傑作エクスプロイテーションにおいても同様の賢慮が注がれることを願ってやまない。両者はテレビアニメという象限における記号的な性表現の可能性を考究し、フリーダム・オブ・スピーチの臨界点までペドファイルやボディ・フラッシュやパンツ・エクスポージングをエクスプロイトせんとした、まさにアニメ表現の人跡未踏のエクストリームを標榜する荘重なる企図である。

したがってわたしは「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」の毎話の劈頭を飾る「BINKAN(機種依存文字)あてんしょん」のベーストラックの耳を聾さんばかりのMVYMRが現代音楽の極北を指針し得るものだと半ば本気で思うし、第6話Cパートの「メタルギア・ソリッド」パスティッシュがシャフトのスタジオ・ワークを完全に凌駕していたことはおろか、さだめしエマニュエル・ルベツキのドーリー・カメラの魔法にすら伍するものであったと信じて疑わない。

「ストライク・ザ・ブラッド」(以下STB)についてはもはやここで駄弁を弄するまでもない天衣無縫の大傑作であるが、その勝因は限られたデベロップ資源を世界最強の吸血鬼や半人半獣キメラやホムンクルスや古代兵器ナラクベーラや空間転移魔法や錬金術師その他もろもろのガジェットが筐底狭しとベルト・スクロールで乱れ飛ぶ複雑なタペストリーを織り成す作業にではなく、パンチラ及びパンモロ及び乳揺れ及びパイスラ及びおっぱい全開のエクスポージングもしくはボディ・フラッシュとニンフェット及びLGBT及び触手及びコスプレ及びツンデレ及びハーレム及びラッキースケベの無限コンボを徹底的に描破し尽すことに注ぎ込んだことの一点に尽きよう。2クールに渡り「まったく、中学生は最高だぜ!」とエンドユーザー(成人男性、誇り高き社会不適合者)が滂沱と血涙を流しながら快哉を叫んだことは想像に難くない。最終回もパンツを両手で握りしめる主人公に女子中学生が「先輩のバカァー!!!」と叫喚しながら刀剣を振り下ろしてエンド・クレジットという寸毫の間隙もない鉄壁のエクストリーム・エロ・スペクタクルであり、全編に渡りエクスプロイテーション精神を貫いた製作陣には惜しみなき賛辞と万雷の拍手を送るほかない。完璧である。本気で傑作だと思う。この作品に限っては、作画が当代において必ずしも秀抜とは言い難い絶妙なスカム・クオリティに統一されていた点が逆説的に背徳性と劣情を昂進する要素のひとつとなったことも特記すべきところだろう。その時点で最高のスペックを誇示するプロダクトが必ずしも時代の覇者たり得ないことは、数多の故事が雄弁に物語っているとおりである。ストーリーそのものをソフト・ランディングさせつつセカンド・シーズンを予感させるオープン・エンディングの余白も残すシリーズ構成の手腕も非の打ち所がない。そして何よりラッダイト的文明批判や鼻クソのような功利主義の垂れ流しや世界を照らすアガペーなどの軽佻浮薄なDIY神学にウツツを抜かすことなく徹頭徹尾エロを貫き通した点が本気で素晴らしい。この作品に関わった人間は全員手のつけようのない天才である。テレビアニメにおけるエクスプロイテーション表現はこのSTBを里程標として更に高次のフェーズへと移行したといえよう。かように本作は総てにおいて一点の死角もない、まさに奇跡的な傑作である。

STBについてもうひとつ付言するなら、STBはセカンド・クールのエンディング・クリップのゲスト・ディレクター及びコンテ・マンにあの長井龍雪を招聘しており、最小限のリソースで最高のクレショフ効果をもたらすことに成功している。ホリゾントの一隅に無造作に打ち捨てられたCRTモニターを少女が無為に眺めていると、スクリーン上にラスタライズされていた男がいつの間にか少女の傍らで佇立している。男は少女の左肩に顔を寄せ、牙をむき、首筋を食む。その一瞬に閃く少女の表情は交歓に打ち震えているようにも思えるし、一方で迫りくるぬばたまの夜がもはや避けようのないものと知悉しつつある者の諦観のようにも思える。いずれにしろ、二人の姿は画角から幻影のように消え失せ、もはやそこに彼らはいない。あとに残されたのは明滅するCRTと、そして二人の絆をつなぎとめていた他愛もないプロップだけ。少女の表情を粗い解像度でラスタライズしていたCRTもやがて暗転し、そこで映像は終わる。完璧だと思う。これほどまでに思弁性と詩情に富んだエンディング・クリップはいまだかつて見たことがない。STBはあくまでエクスプロイテーションであり、それもこのうえなくエクストリームなポルノグラフィーである。しかしそれゆえにオーバードーズ気味の愚昧なポスト・モダン・ヘッズのプレイする空虚な批評性遊戯に抗するメタ批評性を内包する傑作たり得る。同時に、このSTBの放埓にして尾籠なカデンツァが淫蕩と妄動の果てに比類なき気高さを湛える至高のコーダによって掉尾を迎えるさまはどこか象徴的であり、その倒錯したパースペクティヴは言外の意図を我々にはからずも教唆しているようにすら思える。かつて我々はこういったものをこそ、文化や芸術と呼んでいたのではなかったか?

つまりはそう、まさにこれこそが文化なのだ。


* "I haven't read any superhero comics since I finished with Watchmen. I hate superheroes. I think they're abominations. They don't mean what they used to mean. They were originally in the hands of writers who would actively expand the imagination of their nine- to 13-year-old audience. That was completely what they were meant to do and they were doing it excellently. These days, superhero comics think the audience is certainly not nine to 13, it's nothing to do with them. It's an audience largely of 30-, 40-, 50-, 60-year old men, usually men. Someone came up with the term graphic novel. These readers latched on to it; they were simply interested in a way that could validate their continued love of Green Lantern or Spider-Man without appearing in some way emotionally subnormal. This is a significant rump of the superhero-addicted, mainstream-addicted audience. I don't think the superhero stands for anything good. I think it's a rather alarming sign if we've got audiences of adults going to see the Avengers movie and delighting in concepts and characters meant to entertain the 12-year-old boys of the 1950s."
(Alan Moore talks about Fashion Beast, Jacques Derrida and modern superheroes : http://www.theguardian.com/books/2013/nov/22/alan-moore-comic-books-interview)
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ウィ~ア~~メガネブッウ~~~~♪


後景に佇立する巨大資本のマノ・ネグラが商魂たくましく如何なる奸智を巡らそうとも、或いはそれが純然たるスカム・カルチャーの泥濘から派生した偶発的な市場汚染のほかの何者でもなかろうとも、我々をここ数ヶ月ほど夜を日に継いで執拗にパワー・アンビエントしつづけた一連のティーザーに瀰漫する終末的な狂気からは、より正確には、そこでパブリック・アドレスの絶え間ざる絨毯爆撃により我々の鼓膜を完膚なきまでに焼尽しつづけた真に呪術的にして退廃的な(そして今にして思えばそれゆえに抗いがたくシンボリックで何にもまして崇高な)詠唱と調性とその倍音に横溢する名状すべからざる恐怖からは、とはいえ、男娼ハーレムを賢しらにエクスプロイトしようというこの国の深夜アニメ生物圏にとってはもはや何億回目かのお定まりの凡庸な意図しか感じられなかった。あまねく異文化衝突における最初の邂逅とは得てしてそのようなものだ。その前後と現在に至るまでのクロノロジカル・テーブルを改めて鳥瞰すれば、洋の東西を問わず今世紀の人類がものしたあらゆる芸術作品の中でも恐らく最高の(あえて強調しておこう、最高の)到達点であろうことはもはや疑うべくもない大傑作『進撃の巨人』がアニメ界隈に与えた影響と衝撃、そしてもはやプレート・テクトニクスと形容すべきパラダイム・シフトの凄絶ぶりは筆舌に尽くしがたく、その燦然たる光芒は未だに褪色することがないが、一方であのような凄まじいモノリスの顕現が容易ならざるものであることは余人においてその圧倒的な完成度をもって逆説的に垂訓されたものでもあるので、カーゴ・カルトめいたユーフォリアは半ば諦念を抱きつつ巧みに抑止され、市場の期待値の推移は隠微なものに留まっていた。価値あるものは確かにもたらされた。儚くも妙なる誣告者の託宣に導かれ、唯々諾々とひねもす安寧を貪っていられた黄金の2クール。我々はそれが二度とは繰り返されないベル・エポックであることを惜しみながらも、他方でそのことに安堵すらしていた・・・あのような奇跡的な体心立法格子構造を持った芸術は、至高であるがゆえに孤高であらねばならない!それがこの世界を統べるドグマであり、我々にとって冒すべからざる神秘だった。そうであったはずだった。

が、イコノクラスムはいつも唐突に、何の前触れもなく、企図されざるいくつかの偶然を経由してほとんど統計的なノイズのようにして去来する。そこには何も期待はなかった。クラウド・コンピューティングとソーシャル・ネットワーキングがもたらした隷属と偏向の快楽はやがて、閾下の認知バイアスとしてのある種の神学としてかたちをなす。それは人類史的には大きな損失であり退化であるが、そんなことはどうでもいい。その神学のもとではあらゆる芸術はこの世界に生まれ出た時点で須臾の一瞬のうちに墓標と化す。それが生まれる前からオッズやトマト・メーターはもう決まっていて、それはほぼ例外なく投じられたバジェットの量に比例し、新たな価値はその言葉のうえでは実は矛盾であって既に誰かに定められた価値でしかない。たいていはその運命に抗うことはおろか無知の無知の陥穽から這い出ることすら叶わない。我々はその神学の裏に確かにエルゴード的仮定の冷徹さを認めてはいる。それと同時に諸行無常の残響を、しょせんタイプライターをめちゃくちゃにパンチするしか能のない数百億匹のチンパンジーのうちの一匹でしかない自らの鏡像を認めてもいる。だからそこには何も期待はなかった。重要な点なので何度もパラフレーズし、強調することにしよう。そこには何も期待はなかった。というより、期待できる要素がどこにもなかった。デイ・グローで塗りたくられたギーク・ボーイたちのペップラリー?だからどうした。Yaoiカップリングの拡大再生産は佃煮にして売れるほど見てきた。テニスと水泳とバスケット・ボールの次はメガネ?エクスプロイテーションの供犠がまたぞろ俎上に加えられただけの話。さよう、そこには何も期待はなかった。『進撃の巨人』のような奇跡の傑作からは懸絶された、アニメ生物圏の生態系の最下層にまたもや投げ捨てられるフィラー。誰もがそう思った。だからそこには何も期待はなかった。クソ長い前置き終り。

メガネブ!をポルノグラフィーだと考えていた人々の懸念はまず最初の一秒で粉砕される。オープニング・テーマのパワー・ポップは最初の一小節でヴォコーダーかと聞き紛う奇怪な歌唱法をもって我々の鼓膜をジャミングし、カンのモンスター・ムービーのアート・ワークを彷彿とさせるスーパー・ロボットが画面に踊る。それらは我々を困惑させる。岸誠二がスタイルとして確立した、オープニング・フッテージの序盤でキャラクターの一枚絵を付けパンなどで強調するスター・システムは今日のアニメ・ファンにとって見慣れたものだが、ここではそれが完璧に実践されているのみならず、ピエト・モンドリアンは知らずともシャフトのアニメなら浴びるほど観ている今日のアニメ・ファンにとっては既視感すら惹起するコンポジション美術的な演出手法も、それがやはり完璧に、不必要なまでに過剰に踏襲されている。これもまた我々を困惑させる。そのフッテージのそこここで、主人公は救いがたい狂人なのではないかと我々に外挿させるに足る暗示的なカットが青春学園マンガのクリシェとエイゼンシュタイン式モンタージュの効果的な引用により印象的に描出される。のちほど我々は登場人物のほとんど全員が狂人であることを知ることとなるが、いずれにしろそれはやはりここでも我々を困惑させる。何より重要な点は、このアニメにはナラトロジーの主体でありなおかつ男娼たちの寵愛を一心に受けることとなるべき女性キャラクターはもちろんのこと、そのようなベンチマークがなくともハーレムのめくるめくハング・アウトを心行くまでシミュレートするために男性キャラクターたちに用意された完全無欠な超人たちという設定さえも、恐らく、画面はおろかスプロケット・ホールの中にすら登場しないだろうという点である。これは、このアニメがポルノグラフィー、とりわけyaoiワークスに固有の性質の大部分を備えておらず、仮にそうであったとしてもその集合において限りなく異端であることを示している。

このアニメの本編に触れる際には、やはり「日常系」なるジャーゴンにまつわる甲論乙駁のかまびすしい議論の応酬に陥るべきではない。だから日常系の定義を巡る問題についてはここでは簡潔に一望するに留め、暫定的な解釈を素描することのみに傾注しよう。未だ論争は尽きぬものの、日常系とは、奇人たちの非日常的な日常を活写した作品群の集合を指すテクニカル・タームであることはほとんど疑うべくもない。これが論理矛盾を孕んだ定義であることを論難する向きは、更に煩雑で思わせぶりな言葉を指向性破片型地雷のようにバラまくことに執心しているが、それは日常系がセカイ系の対極概念として派生したカテゴライズに過ぎないという(限りなく真実に近い)可能性を必死に覆い隠すか議論から遠ざけようという不毛な努力の表象であって、そこに有用なアナロジーはほとんどない。ここで問題なのは、日常系が非日常を描いたものであるなら、剣と魔法と弾道ミサイルとスーパー・ロボットと量子力学的蓋然性増幅装置が飛び交う他の有象無象と弁別することが不可能となるという点だが、ほんとうにそうなのだから仕方ない。あなたが知っている日常系アニメのことを思い出してみてほしい。言語に絶する奇癖や超人的な能力を備えた変態や天才たちが織り成す日常などは、我々の営む日常とはおおよそ異なるものであるから、それらは例外なく非日常なのだ。この定義に従えば、例えばロックスター・ゲームズのオープン・ワールド・ゲームの歴史的傑作『グランド・セフト・オート』シリーズも日常系となるし、杜王町のスタンド使いたちの出会いと別れとその対消滅を描いた『ジョジョの奇妙な冒険』第四部も日常系となる。我々が日常系にカテゴライズしている作品のほとんどが、諸要素を希釈していけば究極的にはGTAに到達するということは驚きだが、そもそも「日常」から完全に乖離した芸術というものは初期ウィトゲンシュタイン及びスタニスワフ・レムの認識的崩壊天体工学の視座からして人類には作り得ないのであるから、本来であれば「日常系」の対極にあたる集合などは存在しないはずなのである。

或いは、単純に「日常系」をアヴァンギャルド・アートとして、あたかも映像におけるドローン表現の極北であるかの如く吹聴するポジション・トークすら存在する。与太話を延々と繰り返すだけのアンチ・クライマックスの構造がミニマリズムでパワー・アンビエントでカット・アップでOn the CornerでEarth2だと言うのだ。この定義は理解しがたい。確かに、京都アニメーションはフィックスの画面とカーテン・ショットを巧みに併用することであたかも言外の意味がそこにあるかのような錯覚をもたらす演出手法をかなり意図的に実践している。それはアートなのかもしれない。それは単なる女子高生のキャッキャウフフの会話劇ではなく、何か壮大で崇高で文明批判的でヒューゴー・ガーンズバック連続体の向こう側にあるウンタラカンタラかもしれない。が、例えばEarth2のヘヴィ・ドローンが音楽消費大系を根底から塗り替える革命的な意味を持った最大の理由は、当時のサブ・ポップ周辺のシーンやオルタナティヴ界隈でもっとも発言力のあったイギリスの評論家やそもそものヘヴィ・メタル・ミュージックの伝統を総て無視してディラン・カールスンのオブセッションを虚飾なく表現するというルビコン・リバーを渡った英断にこそあったのであって、日常系アニメがネットのマジョリティに阿諛し市場の見えざる手の先縦に倣い、直視したくない現実に煩わされず頭を使わずにBGVのように嗜めるガールズ・トークの粗製濫造によってもたらしたものがそれと同等の価値を持つものだとは、少なくともわたしには思えない。もちろん、そうして完成した表現そのものは小津安二郎やウィリアム・バロウズに或いは伍する可能性があるかもしれない。でも、それは現代美術という権威主義にアニメが跪いた以上の何の印象も与えない。だって肝心の中身、作り手のメッセージとか、そういうの微塵も感じないもの。それでいいのか?さよう、エクスプロイテーションやポルノグラフィーとしてソフィスティケイトされることは、別に悪いことじゃない。総ての文化に貴賎はない。しかし、富野由悠季の警句は表層こそオールド・スクールであれ、そこに底流する真意はその硬度を今日においてむしろより強めつつあるように思える。「アニメだって文化だろう?文芸だろう?娯楽だろう?それがここまで下卑てていいのか?一番趣味が悪いところに照準をあわせて、商売をしようというのでは、病人を増やすだけじゃないか?」
だから我々は吾妻ひでおの、発せられると同時に我々に条件反射的なレイズヘルを継起した完璧な印象批評に対して、何も言い返すことができない。「空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も見てる人々もそんなに現実がイヤなのか?」

賢明なるプラグマティストは「空気系」という死語の存在をここで指摘するものと思うが、ここでは割愛し、次の一文を附言するに留めよう。『びんちょうタン』や『かみちゅ!』がUHFアナログ地上波に乗ってCRT上にラスタライズされていた時代といまとでは、何かが決定的に異なっている。それが何かは、今日のアニメのトレンドにコミットすることで我々が無意識にアジャイル・デベロップしている形而上のソフトウェアであるとしておこう。これについてはメガネブ!を解題するにあたり重要な点でもあるので、後述することとし、そこでは我々が尊敬措くあたわざるものとして崇拝してやまない『化物語』シリーズを心苦しくも批判的に検討することとしよう。

そろそろ話をメガネブ!に戻そう。未だ議論の余地は有り余るほどにあるものの、ひとまずメガネブ!を広義の日常系として定義しておこう。でもメガネブ!のスタイルは明らかに『けいおん!』サーガとは異なる。もちろん『きんいろモザイク』のそれとも異なる。むしろメガネブ!と日常系を結節するミッシング・リンクとして真っ先に思い浮かぶのは、なもりの『ゆるゆり』だ。ごらく部(メガネ部)なる面妖なソロリティ(フラタニティ)に集う選民としてのローライズにホモセクシュアルな複数の女子(男子)という設定、更に作品のアクセントとして杉浦綾乃(鈴木徹)というわかりやすいツンデレ、そして真にホモセクシュアルであることを自認するキャラクターに物語を占有する契機はほとんど与えられず、あまねく肉欲の意思表示は直接的なデノテーションのかたちをとりながら常にスリー・フォールド・レピティションの袋小路へと追いやられる。両者の特質として重要な点は、どちらもホモセクシュアリティが前提であることを公式設定とすることによって、逆説的にyaoiワークスで散見されるようなヘテロセクシュアル作品のカップリング化が必然的に誘引する背徳感を中和すると同時に、健全なコメディと軽度のサタイアを演繹する確固たる地歩を得ることに成功している点だ。これらが通常の日常系とは異なったスタイルを持った作品であることには、特に留意する必要がある。日常系の作品の多くはそのレイド・バックを目的としたスタイルゆえに、あらゆるショック・バリューを嫌い、スラップスティックやファルスはおろか健全なコメディであることすら放棄しているからだ。日常系はまさに書き割りのようなのっぺりとした平坦な戦場を歩く。平坦な戦場を歩くこと。しかしメガネブ!や『ゆるゆり』はそれを第一義とはしていない。

これらの懸隔はメガネブ!と『ゆるゆり』がLGBTフィクションであることに依拠している。ただし、ホモセクシュアリティを巡るLGBTテーマのコメディとして眺望したときに、メガネブ!と『ゆるゆり』が明確な相違を示すことは強調しておく必要があるかもしれない。それらのコメディに供物として捧げられる文物の差異を言明してみると、メガネブ!は『ゆるゆり』とは異なり、ホモセクシュアリティすらコメディの対象として相対化していることがわかる。メガネブ!ではホモセクシュアリティという営為そのものが他の要素と平等に玩弄され脱構築される。それらにまつわる人々の葛藤や感情の機微などは描かれたとしても単に表層的なものでしかなく、作品のハード・コアを為すことはありえない。これはまず、『ゆるゆり』が掲載されているコミック百合姫のようなホモセクシュアリティ・オリエンテッドの媒体ではマーケットに反逆する行為であるがゆえに困難である。倉田嘘の『百合男子』は男性側のyuriマーケットをサタイアとして相対化することでメタLGBTジャンルの勃興に成功した記念碑的な作品だが、『百合男子』が嘲弄する対象はあくまで男性でありながらフィメール・オリエンテッド・フィクションに耽溺してしまう倒錯心理に葛藤しつづける異端の狂人たちであり、けしてyuriそのものではない。しかし、メガネブ!はそうした聖域を設けない。

ここまで語ったことをひとまずまとめてみよう。メガネブ!は広義の日常系に分類され得る。しかし、日常系のアンチ・クライマックスのドグマに反するばかりか、コメディに対してそこそこのスペックを誇示するシリアル・ペリフェラル・インターフェイスを備えている。この意味で日常系の中においてメガネブ!は異端である。
また、メガネブ!は明白にLGBTテーマのポルノグラフィーであるかのようにパブリック・アドレスするhypeに幾分かは忠実に、そしてそれを受けた市場のほとんど予想どおりに、LGBTフィクションとしての要素を持つ。しかし、そこではホモセクシュアリティはたちまち相対化され、コメディのビッグ・チャップによって等しく情け容赦なく粉砕される。この意味でLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションの中においてメガネブ!は異端である。

これは我々を困惑させる。我々の当初の悲観的な予測とはうらはらに、これはどうやら何か意味がありそうなのに、それを指し示す解は日常系からもLGBTフィクションからも、そしてそれら総ての集合のいかなる類縁性からも導き出されないようだ。が、逆にそれは消去法によってただひとつの解しかあり得ないことを教えてくれる。メガネブ!がLGBTテーマすら止揚し、ときに破壊しながらyaoiの沃野を爆走していくダイナミズムは結果的に、そのハード・コアで逆巻く原理を我々にワイヤー・タップしてくれる。そして更にその方程式の両辺にもうひとつの変数を加えてみれば、半ばレンズ・フレアにまみれたものではあれ、ひとつのヴィジョンが我々の前に立ち現れるはずだ。まずは先に引用した吾妻ひでおの慧眼に満ちた発言にもう一度言及する必要がある。吾妻ひでおが論難する日常系の空虚さとは、ドラマツルギーをあらかた虐殺し尽くしたアンチ・クライマックスの構造にではなく、あらゆる感情の存在の否認にこそ見出される。デベロッパーやパブリッシャーはそれらの中で意識的に御しがたい感情の増幅や減衰を放棄し、スタンドアロンの閉回路と化した世界観を呈示する。そしてエンドユーザーもそのスノードームを望んでいる。でもこれは歴史上のあまねくポルノグラフィーにとって普遍的な性質でもあるから、別にそれはそれで問題ないのかもしれない。ポルノグラフィーに高位の物語性だの崇高な意味だのは必要ない。日常系にもそれが言えるかもしれない。だから日常系ユーザーはそのことにさえ自覚的であれば、誰の非難を甘受する必要もないのかもしれない。しかし、ここで注意すべきなのは、日常系は感情がウィンターミュートした世界をあらかじめ仮構しながら、それでいて「愛」だの「優しさ」だの抽象的な概念に対してやたら饒舌であるという点だ。このことが孕む凄まじい危険性をご理解いただけるだろうか。ここで日常系が振りかざす「愛」というのは、もちろん個人的な恋愛感情のことではなく、セックスのコノテーションでもない。それはアガペーと呼ばれる神学的な概念のことだ。日常系のキャラクターたちは皆押しなべて、ほとんど例外なく、このアガペーのドグマに忠実に、隣人を愛し他人を思いやり自己犠牲すら厭わない。万人に平等な愛。世界を包囲する愛。だから、そこには何もない。

そこには何もない。なぜなら前提としてあるべき個人の感情がそこには介在しないからだ。それは自由とは言わない。我々は世界のための愛とかいうよくわからない概念のために生きているわけでもなければ、世界を統べるメイン・フレーム・コンピュータを通じて愛という感情を知悉しているわけでもない。しかしながらこの不可解な思想が日常系ではほとんど自明のこととして公然とhypeされる。或いは現代社会に生きる迷える衆愚は、そうした概念があたかも存在しているかの如く錯覚していたいのかもしれない。が、それに何の意味がある?

このよくわからない奇怪な信仰をもっとも老獪なニュースピークで喧伝しているのが『化物語』シリーズだ。ここでこのアニメを批判的に検討することをお許しいただきたい。わたしは未だにこのシリーズのファンであるし、今日のアダルト・ゲーム市場の醇風美俗を圧縮し巧みにエクスプロイトすることに成功している様には少なからぬ賛意を示したいし、それこそ最初はジョナス・アカーランドのあの人類史上最高のミュージック・ビデオであるラムシュタインの『Pussy』に通ずる何かを感じもしたことを白状しなければならない。このアニメには当初はさまざまな退廃の装置とそのあからさまな直喩が用意され、我々はそこで展開されるペドフィリアや近親相姦、チャイルド・ポルノとビッチ・ロボトミーの完全ハーレムといったありとあらゆる性のオペランドの氾濫に戦慄した。それはある意味で革命だった。このアニメによってフィジカル・パッケージのインカムでバジェットを回収するビジネス・モデルがより高次のステージへ移行したばかりか、それまであのような背徳とは無縁であった市井の有為の人々をアニメ宇宙の暗黒空間へと引きずり込むことに成功したのだ。アララギ君をピボットとしためくるめくセックス・ファンタジーへと、想像の翼をはためかせ我々はいつでもダイヴできる。用意された諸要素はそう思わせるに足るものだった。

しかし、実際にはそうはならなかった。我々がそこで豊麗高雅なるファッキン・スラットと狂気の殺戮の旅路に出ることはついぞなかった。代わりに我々に突きつけられたのは、聖人君子たるアララギ君の穴だらけの良識と功利主義を長広舌によってひたすら正当化するのみのアララギDIY神学のプロパガンダだ。それは何かの冗談のようだ。あれだけ淫蕩の限りを尽くしたアララギ君ではあったが、最後には掌を返したように、日常系の総てのキャラクターたちと同様に、世界を優しく包み込み万人を照らすアガペー、他人を尊び、等しく敬い、それで解決不能の事態があれば自己犠牲すら厭わないというアクロバティックな道徳精神をもって我々を調伏せんとする。そしてアララギ君とそのプレイメイトたちは、おのおのがその不可解な神学に納得して、大して起伏もない物語を経由して、やがてもとの日常へと戻っていく。それは何かの冗談のようだ。我々がいままで観てきた退廃の物語は、実は日常系アニメだったのだ。

『化物語』シリーズや日常系アニメに通底するこのアルゴリズムは世界の至るところで繁茂しつつある・・・特に顕著なのは、インターネット・ソサエティだ。思想の自由市場を極限にまで加速させた末にソーシャル・ネットワーキングが実現した恐るべき集団の狂気。幾原邦彦がネット言論をして「その清廉潔白さたるや吐き気を催すほど」と指摘した、あの小手先の理論武装と出来合いの倫理感と根拠のない示威衝動にまみれた「善人」たち。彼らは世界が理路整然として秩序だったウェルメイドの閉回路であることを信じて疑わず、そこに唯一絶対のドグマがあることを信じて疑わず、だからそこで暮らす総ての人々が完全無謬でなければならないと信じて疑わない。現実の人々の行動様式や愚かさや不完全さについては黙して語らず。自分たちに照らし合わせてどうか、という反省的な契機すら持たず。彼らは世界が正しい方向に向かうためには必ず供犠と贖罪が必要なのだと公言して憚らない。アララギ君のように、日常系アニメのように、世界を救済する絶対原理としてのアガペーを公然と提唱することに何ら疑問を持たない。フランク・ダラボンの『ミスト』に出てきたあのムカつくミセス・カーモディを思い出してみよう。「善人」はいつの間にか、世界を救うために糾問と弾圧と人身御供が必要だと盲信する人々の別名になりつつある。でもアララギ君や日常系アニメはこの不条理に触れないんだな。アララギ君はただおまえらはいまのままでいいだの仮に何かあっても自己犠牲が世界を救うだの美辞麗句を振りかざして事足れりとするばかり。そんなアニメに、わたしは何の意味も見出せない。

最後に改めて問おう。メガネブ!のハード・コアにあるものが何であったか、日常系としてもLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションとしても異端であるこのアニメの根幹を為すものがいったい何であったか。やはり逆説的に、『化物語』シリーズや日常系アニメが陥る終末思想とは対極の概念をメガネブ!に外挿してみよう。アララギ君や日常系アニメを苛む病理、アガペーに隷属された絶対に正しい善人たち。その対極にあるもの。さあどうだろう。スケスケメガネなる奇怪なガジェットの製作に日々没頭するヒマラヤ第三工業高校のメガネ部員たちは字義どおりの狂人であり、常人に理解しがたい行為を平然と為す奇怪な集団であるからこそ、そしてアニメもそのことに自覚的であるからこそ、メガネブ!のキャラクターはあの忌々しいドグマから完全に自由な存在であるかのように思われる。ここでは狂気を制御するものはない。その狂気がもたらすかもしれない凄惨な苦痛を避けるためのケヴォーキアン式安楽死セットはここにはない。ただ狂気が狂気としてそこにある。それによって或いは、あの装置が我々を防護するどころか、束縛するパノプティコンと化していたことに、そのときはじめて気付くことになるかもしれない。メガネブ!はその禍々しい狂気によって、あのふざけたコマンドラインを粉々に破壊するのだ。その狂気を、例えばアララギ君は、例えばナンJ民は、例えばネット・トラフィックに巣食うお気軽レイシストたちは、「バカ」と呼ぶかもしれない。バカ。

バカであることに自覚的であること、バカであることを恐れないこと、バカであることを直視すること。メガネブ!は確かにただのLGBTフィクションと日常系の最悪の組み合わせかもしれない。でも、少なくともこれらのことをちゃんと実践している。自らの狂気とちゃんと向き合っている。これがどんなに尊いことか。この世界にアガペーなど存在しない。そればかりか、世界は完全なものですらあり得ない。P2Pのコミュニケーションすら往々にしてうまくいかない。それは我々が少なからずバカであるからだ。メガネブ!は我々を困惑させる。それは、そこに我々の姿を垣間見るからだ。我々の世界を矛盾と理不尽で覆い尽くす最大のセキュリティ・ホールは、実は我々自身だ。そのことに自覚的な人々はいったいどれだけいるだろう?それは或いは我々人類の限界を超えた問題なのかもしれない。しかし、だからこそ我々はバカについてもっと真剣に考えなければならない。メガネブ!はCGレンダリング・テクノロジーとアンチ・エイリアシングの魔法を惜しみなく投入し、バカ・シンギュラリティを極限までブーストする。こうしたほとんど狂気に近い浪費を、我々は最大限のリスペクトを込めて、「バカ」と呼ぶべきである。彼らは、ヒマラヤ第三工業高校メガネ部は、全身全霊でバカをやっているのだ。それは誰にも汚せない。これもまたひとつの世界のかたちだからだ。そして我々はそのとき、我々の世界を狭めていたアガペーという名の「壁」を突き破って現れた、あの巨人の正体をはじめて知ることとなるのだ。


以前このブログでも書いたようにマンガ『神のみぞ知るセカイ』はまぎれもない傑作なのだが、じゃあその凄さっていったいなんだろうと考えたとき、それは、キモオタギャルゲーマーがリアル女子を攻略するというプロットやそれ故のメタ視点がもたらす歪んだ快楽といったところよりもむしろ、それらの間隙にさりげなく併置される「日常」のディテールにこそ見出されるように思う。このマンガがすごいのは物語のグリーン・バックに過ぎないような微細な部分、それこそフラグとフラグの間に生じたモーション・ブラーのようなところで奇妙なフックを作ることにより、有象無象の創作物が軽々に陥るニュー・スピーク文法のナラトロジーを巧みに回避している点だ。

もちろん、枝葉末節や余計な虚飾を排してルートの分岐を簡略化することは、いいことだ。言いたいことがシンプルでまだるっこしくなくていい。当の『神のみぞ知るセカイ』の主人公・桂木だって、「たかが情報に無駄な演出が多すぎるんだ、お前ら」とあまねくオールド・スピークに手厳しい。そのご託宣に忠実に、プロットとシノプシスをシンプルに希釈し、寓意を明確にした物語はまさに「寓話」だ。そうして無駄な演出を削ぎ落としたミニマリズムは、わかりやすく簡便で、だからこそ凄まじい汎用性と互換性をもって肌のレヴェルで我々に迫る。このことが持つメリットは言うまでもない。アレハンドロ・ホドロフスキーの野心的な実験映画やレイ・ブラッドベリの詩情に満ちた短編小説が常にあらゆる時代で崇拝されているのも、それらが例外なく寓話であるからだ。

寓話。それはある意味で、人類がこのセカイの混沌をコードによって定位していく過程で生み出した完璧なテクノロジーであり、迷える下々のランダム・アクセスを容易ならしめる形而上のアンティキテラ・マシンだ。それは人々を接続するネットワークたり得る。人々の意識を平準化するクラウドたり得る。わかりやすく簡便で、この世界に偏在する。そして、わかりやすく簡便であるからこそ、それはときにもっとも肝要な部分を、わかりやく簡便であるがゆえに、狂おしいまでにあっけなく見失う。あまりに定式化された物語は、その理路整然とした無謬性ゆえに、ときにこの現実世界において何の実効性も持ち得ない。驚くべきことだが、無駄なものをことごとく排除することによって我々はこの世界の寓意に漸近するどころか、またぞろ別の矛盾と戦わざるを得なくなってしまう。この場合、オッカムの剃刀は単に、この世界を永遠に分割しつづけるのだ。その果てに我々がセカイのドグマに触れることは、恐らくない。

わかりやすい例を言おう。かつて現代思想のポストモダンと呼ばれる人々は、「大きな物語の喪失」なる驚異的な学説を提唱していて、世界中のちょっとオタクっぽい(でもハッカーになるほどのギーク・ファシリティもない)キモキモしい学生とかは押しなべてこれを本気で信じていた(時期があった)。曰く、20世紀以前の世界はツリー状の、トップダウンで勧善懲悪でとかく単純な図式の「大きな物語」に支配されていた。昔の人ってバカだよねぇ!でもヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』が予見したように、テクノロジーの発達やら何やらで様子が変わってきて、「大きな物語」は瓦解し、世界はもっと複雑で多様な、細分化されたしみゅらーくるだの何だのが跋扈するややこしいものになったんだ!…とかいう。未だにこれを妄信している人もいるし、確かにこのロジックはシンプルで明快で、世界の中枢に埋もれた何か、核心めいたものに我々がたどり着いたかのような錯覚をもたらした。そういう見方があるというのはほんとうに革命的なことだったのだ。しかし、シンプルで明快であるからこそ、この寓話には致命的な欠陥があった。このロジック全体が「大きな物語の喪失」というひとつの寓話に内包された別の「大きな物語」であることに、賢明なる読者諸氏ならばもうお気づきであろう。「大きな物語の喪失」は世界の真実に近づくどころか、寓話のミニマリズムが仕掛けた原始的なブービー・トラップにまんまと引っかかってしまったわけだ。

更に言えば、寓話の問題点はその解釈が話者の企図するとおりに恣意的にいくらでも上書きされ得るということだ。それゆえに、寓話はときに批判的な視座を失う。宗教団体や国家が古来より安易に寓話を濫造してきたことは偶然じゃない。我々が政府や大企業のプロパガンダに常に何かの寓話的な構造を見出すことは偶然じゃない。わかりやすい二極分化された世界、その中でわかりやすく行動し、そしてわかりやすく教訓を明示するキャラクターたち。もうおわかりだろう。寓話は寓話の示唆する解釈に対して、批判的な契機を持ち得ない。単純であるがゆえに、一度サーキットしだしたら歯止めが利かなくなる。共産主義国家は計画経済や農村回帰政策が頓挫しそうになると、それは「みんな」が思っていることが一致していないからだと考えた。だから、「みんな」の意志に面従腹背していると思われる人物をランダムに抽出し、適当に殺した。寓話に反するもの、その教義どおりの結果にならないものはことごとく排除し、この世界から消去していった。寓話に則った世界にするために、寓話どおりにならないものは全部。その寓話の欠陥自体には誰も目を向けることなく。そこではバカは死なないと直らないとされた。そして次々と人々の間に境界線が引かれ、よくわからないままにただ死んでいった。これは人類史上最大のミス・ディレクションだ。間違っても、人々は最初はそれらの寓話がこのようなことをもたらすとは思いもしなかったからだ。

そんなのポル・ポトだのコルホーズだのグラーグだのの昔話じゃないか、鉄のカーテンも遠くになりにけり、と思う向きもあるかもしれない。でも、それはウソだね。寓話はいつの時代にも語られる。そして我々はそのトラップにときに篭絡される。さあ、いまのこの国はどうだ。寓話は世界を新しくかつわかりやすく再定義するその代償に、恐るべき陥穽から我々の目を逸らしてしまう。原発推進派も脱・原発も、さまざまなセクトがそれぞれに正当性を誇示し、我々の前に好餌をぶら下げている。ある人は政治には安定が必要だという。文句を言う奴は黙っとけ、ということだ。これは鉄のカーテンの向こう側でかつて語られた物語と、いったいどう違うというのだろう。

でも一方でこういう反論もあるかもしれない。寓話が世界を完全に語るものではないとして、じゃあいったい何がそれをするのか、ということだ。でもそれはそれこそGod only knows.我々は神様じゃないのでわからない。でも逆説的にものごとを考えることはできる。

エル・トポやホーリー・マウンテンが単なるカルト・クラシックとしてしか膾炙され得ないのは何故だろう?それらの美しい散文詩に事たれりとするのを潔しとせず、我々が常にウーリー・ロメルのブギーマンだのサムシング・ウィアードだのビデオ・ナスティー筆頭のレイプ・リベンジ・ムービーだの、出来損ないのオルタナティヴに血道を上げるのは何でだろう?
更に別の例。シャフトのテレビアニメ、とりわけ武内宣之が関わった作品は完璧な「寓話」だ。スタイリッシュで洗練されていて、ムダな部分がどこにもない。でも、エロゲー人脈で完璧にクリエイトしたそれらの寓話が、実相寺アングルが全編に横溢しよりアナーキーでとりとめのない庵野秀明のエヴァンゲリオン・サーガに死んでも追いつけないのは何故なんだろう?さあ、よく考えてみよう。

話が長くなるので結論だけ。結局、世界の真実なんてどうでもいいことなのだ。世界が瀕する重大な問題、危急存亡の瀬戸際、そんな話はありていの「寓話」として我々の近傍に常に、ウィルスのように繁茂しつづける。でも、それがどうした。そんなものなくても我々の生活は回っていく。「寓話」の外で語られる物語は山のようにある。それらは決してスタイリッシュではない。とりとめもない。往々にしてくだらない。でも、世界の真実としてまことしやかに語られるあらゆる寓話よりも、もっとリアリティがあるし、もっと切実なものとして心に響く。なぜならそれらは現実の日常に確かに顕現する、この世界の矛盾や理不尽が姿を変えたものであるからだ。この世界を寓話が語り得ないのは、実のところ世界が単純なものではあり得ないからであり、世界が寓話ではないからだ。世界にはムダが多い。世界はよくわからない。リアルなんてクソゲーだ。でも、だからこそ、我々はスタイリッシュな寓話ではなく、とりとめもない日常のディテールにこそ、この世界の断片を見出せる。

『神のみぞ知るセカイ』の凄みはそこにある。『神のみぞ知るセカイ』では、原理主義的サタニスト集団ヴィンテージと穏健派の権謀術数渦巻く闘争が物語の上位レイヤーとして君臨しながら、結局はそんなものが実にどうでもいいことであるということが巧みに語られる。我々にとっても、そして、登場人物たちにとっても。特に19巻のラスト、女神編の大団円はまさに筆舌に尽くしがたい。そこで描かれたのは悪魔たちの壮絶なバトルとその帰結ではなく、物語の主軸とはまったく関係のないところでひっそりと始まりひっそりと終わった、ひとりの少女の失恋の物語だった。このマンガの凄さはここにある。セカイなんて結局のところどうでもいいことなのだ。悪魔たちのハルマゲドンを巡る叙事詩的な物語は、ここではひとりの少女の日常にすら劣る。いや、あるいは、逆のことも言えるのではないだろうか?
『神のみぞ知るセカイ』では、出会いと別れの刹那的な感情の変化の中で人がどのようにふるまい、そして、そこで彼らがどのような選択をしたのか、それらが世界の覇権を巡る壮絶なパワー・ゲームの行方などそっちのけで執拗に淡々と描かれていく。我々が演繹する日常と何も変わらない、市井の人々の懊悩と挫折と、その超克の物語。我々は狂おしいまでに、このくだらない日常の理不尽なフラグに振り回され、ときに残酷なチート攻撃に晒されながらも、この日常で確かに泣いて笑っている。死海文書やセフィロトの樹から遠く離れた世界の僻陬で営まれる、この塵のような日常。おれやあなたの、その人生の物語。それは確かに、クソゲーかもしれない。矛盾や理不尽なバグまみれのマスター・アップが間に合わなかった失敗作かもしれない。でも、それはごまかせないし、消せない。我々は日常という名の横スクロールのアクション・ゲームを、残機1で闘うしかない。難易度はSUPER HARDしか選べない。下手したら死ぬかもしれない。たいていのことは取り返しがつかずに、大きな後悔として心に傷痕を残し、往々にして総てはうまくいかない。だから、それゆえに、殺人鬼がチェーンソーを持って追っかけてこなくても、怪獣が町を破壊しなくても、巨大隕石が地球に激突しなくても、誰かと出会ったり別れたりを繰り返すこの日常こそが最大のスペクタクルなのだ。それがクソゲーだろうが何だろうがどうでもいい。それでも我々はそのゲームをプレイしつづけなければならない。
日常というクソゲーをつかまされ延々とプレイしつづけるほかない少年少女たちが、それでも常に最良の選択をしながら必死で生きていく。『神のみぞ知るセカイ』はそれを圧倒的な迫真性と切実さをもって我々の眼前に突きつける。それはだから、どんな寓話よりも強靭な物語としてまさにこの世界に屹立し得る。寓話の外で語られる、とるにたらない日常の物語であるからこそ、どんな寓話よりも確実に、この世界の矛盾や理不尽を圧倒的な現実として我々に明示する。我々は或いは、そんなものからは目を背けたいのかもしれない。寓話が絶え間ざる繁栄を享受するのは、それがシンプルで明快な形で現実をうまく覆い隠してくれるからだ。でも…それに何の意味がある?我々はやはり、この現実というクソゲーと闘うべきではないのか?そこにしか道はないのではないか?
リアルなんかクソゲーだ。そして、総てはそれを認識することから始まる。
DO THE RIGHT THING! 


そして最後に。
『神のみぞ知るセカイ』の女神編は作者の若木民喜先生が公言しているとおり、当初は小阪ちひろ(cv.阿澄佳奈)のキャラソン候補曲に過ぎなかった「初めて恋をした記憶」の歌詞から帰納法的に物語を逆算していく形で描かれた。最初のキャラソン・コンペでこの曲が外れたために、若木先生は曲の権利を買ってデッド・ストックにしてまでこの「初めて恋をした記憶」を『神のみぞ知るセカイ』エクスクルーシヴの楽曲にしようと画策していたというから、その妄執は察するに余りある。そして結果的に女神編は「初めて恋をした記憶」の壮大なプリクエルとしてマンガ史に残る大傑作となり、更には誰もが不可能と思っていたテレビアニメ第3シーズンの実現へと疾風怒濤の如く階段を駆け上がる。
すべては、このエンディングのために。
ニコニコ動画の公式放送に踊る惹句が、総てを物語っている。若木先生も女神編の連載終盤には、ひとつのことを描き切ることのみを目標にしていたという。アニメも同様に、1期と2期では回収しきれなかったエピソードを「そういうこともあったなぁ…」という主人公のダイジェスト回想形式という逆SPTレイズナー方式で早々に解決、あとはOVAを観て補完しろという壮絶な一見さんお断り商法、倉川アッカリーンのエピソードもオミットしてさすがに「これじゃ神のみファンすら楽しめない出来損ないファン・ノベルティじゃないか!」と義憤の念に駆られもしたものだが、総ては最終話のBパートの10分間のためにあったと思えば、もう総て許す!
結論。アニメ最終話、最高だった!マングローブ、よくやった!Bパートの演出・作画はもう、非の打ち所がない!完璧だ!
さすがにラストのBパートを楽しむために1期・2期に加えOVA2巻も観ておかなければならない敷居の高さは清濁併せ呑めるダイハードな神のみファンでもなかなかキツイものがあるが、あのラストのちひろの1枚絵を観たらもう何も言えない!

彼女には翼もない。特別な何かもない。
でも、それでも生きていくしかない。この日常で。この不思議な地球で。
ひとりの少女の覚悟の物語。そして、ひとりの少年の失敗の物語。
すべては、このエンディングのために。


素晴らしいアニメを作ってくれて、ほんとにありがとう。





ノイタミナ枠最高傑作の呼び声高い「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」のハリウッド・リメイクとして巷間で話題の『SUPER 8』を観ました。学校の文化祭に出品するためにゾンビ映画を撮りつづける超平和バスターズの面々が周囲の無理解や自我の発動に戸惑い葛藤しつつもそれらの障害を超克して成長していく様を描いた初恋と青春と二次性徴炸裂のノイタミナ完全オリジナルテレビアニメと思いきや、ぜんぜん違いましたよ!
ていうかコレ、普通の人が観たら全員怒るよ!おれはおもしろいと思ったけど・・・


どこがどう問題なのかというと、もちろん最後のオチもそれはそれでいろんな意味ですごいし(どれくらいすごいかというとシャマラン映画がぜんぶ傑作に思えるくらいすごい。ていうか会社もこんな脚本によく金出しましたね。)、その全人類脱力のオチのあとのエンド・クレジットで延々と垂れ流されるアレも身の周りにいる人間を誰でもいいから適当に殴り殺したくなってくるほどの怒りと殺意を観る者の脳裏に植えつける凶悪なドゥーム映像ですさまじいのですが、最大の問題点はそうやってあらかた観客をブチ切れさせたあとに劇場の大迫力のPAの凶暴な重低音に乗せて放たれる「マイ・シャローナ」の殺傷力にあるのではないでしょうか。わたしがそのとき感じていたのは、人生の無常でした。

『SUPER 8』を観た誰もに同意していだけると思うのですが、この映画はラストまではほとんど完璧なジュヴィナイルで、映画としても超一級品の大傑作なのです。子どもの邪悪さと表裏一体の無邪気さに少年少女の淡い初恋の想い出がオーバーラップしてスティーヴン・キングの散文世界のキャッスルロックに迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせる完璧な脚本と演出に血と肉片のシャワーと宇宙人を巡るスチームでバチェラーなミステリーが絡み合い渾然一体となった極上の映画体験!ここまでは完璧!しかし、ここまで至高のパゴダを精巧に積み上げておきながら、J・J・エイブラムスとスティーヴン・スピルバーグはそれらのカタルシスを全部帳消しにするすさまじい脱力オチを投下し、エンド・クレジットで観客の神経を逆撫でし、最後に「マイ・シャローナ」を爆音で流すという観客をナメまくった暴挙に出ます。思うに、これはこういうことなのではないでしょうか。

この映画を楽しみにしていた人たちというのは、基本的に孤独でオタクで外界に出て外部とコミュニケーションするのがイヤだけどeBayやヤフオクでコレクターズ・アイテムをスナイプすることにかけては膨大な時間と金を浪費し日夜オタクワールドのタオ(道)の探求に血道を上げる、ある意味で愚直でバカでアホな求道者であるはずです。普通の人と彼らが明らかに違う点は、前者が普通の日常を普通に送るためにはそれ相応の負担をするのも詮無きことと考えているのに対し、後者はそういう負担をするくらいなら自らのオタク・キングダムの領土拡張と失地回復の孤独な闘争に心血を注いだ方が絶対に良いと考え、基本的にそれ以外のことに関しては心の余裕がなく無頓着である、ということです。彼らはオタク・ギャラクシーのフォースに導かれるがままに「普通」という浮世を捨ててキップルに溢れた自らの内宇宙へと出奔した、孤独な旅人です。たまに子どもの頃を思い出したり昔の友人が普通に幸せに過ごしているのを横目に見たりして「普通」の生活が恋しくなってしまうときもありますが、この道に来るために訣別してきたものがあまりに多すぎるためにもう今更ひきかえせないので、鉄の掟で自らを戒め、再び踵を返してタオの探求に舞い戻るのです。このような孤独な殉教者たちが唯一心の拠り所とするのが、自らが「普通」の生活と引き換えに追い求めるキップル、即ちガラクタです。彼らにとって唯一絶対の価値は、それがモノであり、それにプレミアムが付随していて、そしてそれを所有しているということです。彼らは孤独なのでモノとして所有していないと自らの手の内にあることを理解できず安心できないのです。彼らは自らに欠損している他人への/からの愛情というピースを補うために、昔子どもの頃に一瞬だけ味わったそれらのピースを見よう見真似で想像しながら、その「想像上の安らぎ」に合致するアウラをモノに見出し、それを必死で所有しようとするのです。これがフェテシズムというものです。「普通」の人なら安らぎというものが所有しようと思っても所有できないものであるということをうすうす知っていますから、こういう愚挙妄動に走ることはないのですが、孤独な旅人はそれがわからないので膨大な時間と金をつぎ込んで必死に「安らぎ」という名のデッドストックを捜し求めるのです。


そういう孤独な人たちにとって、『SUPER 8』は安らぎの処方箋となる貴重なキップルであるはずでした。彼らの想像上の少年時代の想像上のユートピアで想像上のゾンビ映画作りと想像上の初恋に興じることができる、夢のような映画のはずでした。でも、実際はそうじゃありませんでした。

ラスト5分間まで映画は完璧な安らぎ処方箋でしたが、最後の最後でとんでもないクソなオチがぜんぶなし崩しにして、エンド・クレジットではそのクソが更に肥大化し、そして最後には「マイ・シャローナ」が爆音で流れました。孤独で繊細な彼らは、泣き出してしまったかもれしません。こんなクソはおれが望んでいたものじゃないと。ここに安らぎなんかないと。
しかし、これで良かったのかもしれません。
わたしが最後の「マイ・シャローナ」を聴きながら感じた絶望的な虚無感とやるせなさは、かつて訣別したはずの「普通」という名の病理が、実はもっとも得難い宝物であって、そしてそれを手に入れるために引き返すにはあまりに遠くに来すぎたことに気付いてしまったときの耐え難い苦痛に似ていました。いつのことからかはもう忘れたけど、わたしたちは「普通」というものに見切りをつけ、それよりももっと価値のあるものを探す孤独な旅、無限のタオを歩き続ける孤独な人生を選びました。それが悪い選択だったかどうかは、はっきり言ってわからない。でも「普通」の生活を送る幸せな人々を見ていてたまに思うのは、あのとき、自分が飲んだピルが別のピルだったなら、ひょっとしたら、もしかしたら、いまとは違う人生もあったかもしれないということ。でももう戻れない。失ってしまったものがあったとして、それを取り返すにはもうあまりに遠くに来すぎてしまった。

「マイ・シャローナ」の誰かをブチ殺したくなるような脳天気なコーラスを聴きながら、あの日「普通」と訣別した総ての孤独な旅人は、もうあの頃には戻れない、「普通」には戻れないという厳然たる事実を改めて噛み締めることになるはずです。そして、そのとき彼らは、何を思うのでしょうか。

『SUPER 8』で活写される少年少女の交感の情景は、ある意味で孤独なタオを歩む旅人たちがかつて夢見て、そして叶えられなかったファンタジーであり、過去にも未来にも存在しないものです。わたしたち孤独な旅人は孤独のあまり、ついそのことを忘れてしまいます。そんなものがアニメやゾンビ映画の中にしか存在しないことを、この現実の中にはそんなものなどどこにも存在しないということを、わたしたちは忘れてしまうのです。そうでもしないと寂しくてやっていけないからです。タオを行く苛烈な旅路は、孤独で、孤独で、とても孤独なものだからです。

でもわたしたちはそのことを思い出さなければいけません。「想像上の安らぎ」などどこにも存在しないということ。あったとしてもそれは「普通」の生活という、人類が為しえたものの中でもっとも困難で厳しい営為の中でしか実現できないということ。そして、もうその「普通」には戻れないということ。

思えばスピルバーグの『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスは、『SUPER 8』で謳われていたキモキモしいオタク像を徹頭徹尾貫き通したパーフェクト・ヲタでしたが、それでも嫁さんと子供がいて未確認飛行物体と第三種接近遭遇を果たすまでは普通の生活をしていました(後半でついに愛想つかされちゃいましたが)。おそらくこの映画が作られた70年代はまだ、こういう重度のオタクでも人並みに家庭をもって普通の生活を送ることが許されていたのでしょうが、残念ながら21世紀の昨今、そのハードルはけわしく厳しく果てしなく高いものだと言わざるを得ません。

『SUPER 8』のラストが物語っていたのは、そうしたあまりに厳しい、残酷な現実でした。

現実を見ろヲタども。もうオマエらに普通の生活は無理だということにいい加減気付け。そして、目の前のタオをただ突き進むがいい

最後にジョー少年が宇宙人に言い放ったのは、或いは、こういう言葉だったのかもしれません。



いろんな意味で『SUPER 8』は涙なくして見れない大傑作なので超オススメです!

なんの予備知識がなくても楽しく見れる映画ですが、一応ヲタ道というタオに人生を捧げたオタクの悲惨な日常がどんなものかを理解していればより一層楽しめると思いますので、事前に見ておくといい映画を簡単にリストアップしておきます。

  • 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』 古典。必須。基礎中の基礎なので見てない人はとにかく見ましょう。
  • 『ゾンビ』 古典。必須。基礎教養。これ見てないとか話にならないのでとにかく見ましょう。
  • 『バッド・テイスト』のメイキング・ドキュメンタリー『グッド・テイスト』 インディーズで映画をつくるということがどういうことか、そしてオタクが底辺から這い上がるにはどれだけ努力が必要か。これを見れば総てわかる!ほんとに!マジで!涙なしでは見れない傑作中の傑作なのでみんな見ましょう。(旧版DVDをオークションで購入すれば見れます)
  • 『未知との遭遇』 古典。
  • スピルバーグの方の『宇宙戦争』  大傑作。ワーキングクラスブルーカラー親父(トム・クルーズ)の孤独!そしてダコタ・ファニング!
そして、
  • 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

いつだって、いつまでだって、なかよしなんだ!

みんなもこっち側に来なよ!!!(涙を流しながら!!!)





ダレン・アロノフスキ監督、ミッキー・ローク主演の『レスラー』(The Wrestler)を観ました。
 
 
ミッキー・ロークの感慨なきを得ない文字通り「真に迫った」迫真の演技が話題と涙と絶賛の嵐を呼び起こし世界中を席巻、アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた(結局オスカーは逃したけどゴールデン・グローブを受賞)のをはじめとしてヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を受賞するなど各所で激賞された映画で、それ以外にもいろいろな人が褒めちぎっていたのでさまざまな先入観が働いてつい気負って観てしまったのですが、そういったバイアスすら観ているうちにいつの間にか氷解してあわよくば壁を乗り超えて魂の内側に問いかけてくるような、それだけの破壊力を持った作品でした。要するに、最高だったです。


 
ミッキー・ロークと言えば個人的には「落ち目の俳優」というか「Bクラスの住人」のイメージしかなかったのですか、世間一般でもやはりそういった認識だったようで、かつて木曜洋画劇場でもミッキー・ロークはシルヴェスター・スタローンの『追撃者』の予告編の中で「ナンパの参考書」とネガティヴ・チャントされ、スタローンを引き立てるための添え物ジョバー的な扱いでした。「ナンパなチャラ坊はスタローンに土下座!」という名惹句における「ナンパなチャラ坊」というタームには少なからずミッキー・ロークに対する暗喩も含まれていたはずです。別冊映画秘宝の『底抜け超大作』で藤原章氏がかなり辛辣にミッキー・ロークをコキおろしていたのも、『レスラー』での絶賛を通過した今となってはかなり隔世の感がありますが、とまれ、かつてミッキー・ロークはその言葉のあらゆる意味において「落ち目の俳優」だったのです。

それから幾星霜、ミッキー・ロークはこの『レスラー』で不撓不屈の役者根性を炸裂させて見事に復活したわけですが、まぁその辺りのバックグラウンドはこの映画の講釈の話の妻としていままで何億回も言われてきたと思うしニワカ知識の自分では手に余るので繰り返しません。でも当然、ミッキー・ロークの演技がすばらしいことに変わりはありません。
 

 
ただいまいち「ミッキー・ロークすげぇ!!!」の評価が先行し過ぎて、作品そのものに対しては「(話が)安い」「ソープドラマみたい」「ミッキー・ロークが出ていなかったらビデオ・スルー」という批判があるやもしれないのが辛いところではあります。確かにプロットは平凡過ぎるほど平凡だし、脚本そのものはソープドラマと言われても仕方ないのですが、中盤で安易な予定調和が出尽くして油断させておきながら終盤のアヤトーラー戦の「ラム・ジャム」に向かうにつれてその総てが破綻していくという構成が見事で、こうした梯子を急に外されるような急勾配のドミナント・モーションは昨今のドラマツルギーの中でもかなり新しい戦術だと思います。ここ50年ばかりずっと文学や映画は「平凡なジャンル・ストーリーを如何に超克していくか」「真の写実主義とは何か」という強迫観念に苛まれつづけてきて、そしてそれに対する解答がしかも判を押したようにいつも「脱構築」で共通していたわけでクソおもしろくも何ともなかったのですが、ついにこの『レスラー』で別の形で解答が示されたと言っても言い過ぎではないと思います。個人的には「そうか!こういう手があったか!」と思わず膝を叩いたほどに、この脚本は「新しい」と思います。あまり小難しい話はわかりづらいし自分でもあまりよくわかっていないので自粛しますが、とにかく、ここら辺の構成の妙はもっと評価されて良いです。けっして「ミッキー・ロークの演技」だけが見所の映画ではないです。


 
カメラワークも斬新と言えば斬新です。最近の映画では(たぶん)画面にリアリティを出すためにPOV(主観視点)の方法論を応用して敢えて手ブレを宥恕しているやり方が一般的だと思うのですが、この『レスラー』では実は手ブレは自粛されています。サード・パーソン・ビュー(第三者視点)で後ろから人物を据えてステディ・カムみたいなカメラで長々と追いかけていくショットが基本で、そのカメラワークは手ブレを是認するPOVの「作為的な煩雑さ」とは無縁の、むしろ「洗練さ」や「作り物っぽさ」が際立ったものです。実際、この映画のカメラワークはドキュメンタリーっぽい映像を企図したような、「カメラでただ撮っただけ」的な俯瞰の画作りも念頭にはあるとは思うのですが、一方でこのサード・パーソン・ビューの映像は技術的にはかなりすごいものがあると思います。画素を粗くすることでそれが目立ちませんが、『レスラー』のサード・パーソン・ビューは、カメラが”映ってはいけないもの(goof)”を映さないようにするための動線やイマジナリー・ラインの問題などを総て考慮に入れた、とてもスムーズで計算されたカメラワークだと思います。

現代の映画文法下ではたぶん、カメラはなるべく画面からその痕跡を「消す」ことが美徳とされているのだと思います。POVのように積極的に手ブレを起こし主観視点に近づけようという努力はその現われだし、その方がより「リアル」だとされているのだろうし、反対に手ブレを起こさない固定の画角の中で流麗に被写体を捉え続けるカメラワークは「オールド・ハリウッド」で「リアルじゃない」とされているのだと思います(たぶんこの「手ブレ方法論」をハリウッドに持ち込んだのはスピルバーグの『プライベート・ライアン』あたりが最初だと思います)。

でも『レスラー』のサード・パーソン・ビューは洗練されたカメラワークで「映画における『リアルっぽさ』」を担保するはずのPOVの手ブレはことごとく排除されていますが、実際にはとてもリアルに映ります。これも現代の映画文法に対する新たな問題提起だと言えると思います。小中千昭先生によると、「映画において重要なことは『本当のこと』ではなく『本当に見えること』」なのだそうです(箴言!)。『レスラー』のカメラワークはそのことを改めて思い出させてくれる示唆的なカメラワークであると言えましょう。
 
 
 
あと、ミッキー・ロークの演技もさることながら、マリサ・トメイの演技もすばらしいです!この映画の撮影中には既に40歳を越えていましたがおっぱいとケツ出して場末のおばさんストリッパーの哀愁を見事に演じ切っていてとても良いです!マリサ・トメイがミッキー・ロークとビールを飲みながら80年代トークをしてRATTをいっしょに合唱するシーンはこの映画のハイライトのひとつです。二人のセリフも「80年代のメタルは最高だったが、ニルヴァーナが全部ブチ壊しやがった!!!90年代の音楽はクズ。」という点で共通していて何とも言えず爆笑です(ウィキペディアによると、この一連の80年代マンセートークは、アクセル・ローズから特別に「Sweet Child O'mine」を無償で使っていいよ、とドナーされたことに対するヨイショの側面も強いようです)。
"Goddamn they don't make em' like they used to."
"Fuckin' 80's man, best shit ever!"
"Bet'chr ass man, Guns N' Roses! Rules."
"Crue!"
"Yeah!"
"Def Lep!"
”Then that Cobain pussy had to come around & ruin it all.″
"Like theres something wrong with just wanting to have a good time?"
"I'll tell you somethin', I hate the fuckin' 90's."
″Fuckin' 90's sucked.″
″Fuckin' 90's sucked.″
Cf:  http://www.imdb.com/title/tt1125849/quotes


しかし、このセリフもザ・ラム(もしくはミッキー・ローク)の栄枯盛衰の歴史を後継に鑑みると、手放しでは笑えないのが切ないです。
 
 
あと、ミッキー・ロークが近所の子供に「ゲームしようぜ!」と言うときのセリフがどうしてもヒアリングできなかったのですが、あそこでは”Wanna play Nintendo ?”と言っているようです。なるほど。
またあのシーンでザ・ラムと近所のガキがプレイしているハードも何なのか自分にはよくわからず、PCエンジン?と思っていたのですがセリフどおりNES (Nintendo Entertainment System)で、ファミコンの北米市場向けローカライズ製品のようです。
 
 
 

 
 
・・・で、まぁ、少し言いたいことがとっちらかってしまいましたが、とにかく良い映画でした。個人的にも今の自分の境遇と照らし合わせるととても他人事とは言えないのですが、それだけにザ・ラムの不屈の魂には訴えかけられるものがありました。プロットが平凡だろうが話が昼ドラみたいだろうが何だろうが、「だが、そこが良い!」 と言いたいです。
 
ザ・ラムやパムや映画の中に出てくる現職のプロレスラーたちはみな、何かを自分で決断して、そして信じる道に向かってひた走っていくからすばらしいのです。成功している人間がすばらしいとか、泣けるとか好きとか惚れたとか純愛とか桜がどうとかその程度のことがすばらしいとか、そういったものとは別の尺度で生きているからこそ、彼らはすばらしいのです。あいつらは失敗者だとか負け犬だとかムダなことをしているとか後ろ指をさされながらも信じた道を歩んでいることに貴賎はないはずということを彼らは知っていて、そして同時にそれは外の現実に自らが適応できないことに対する深い苦しみの裏返しであることもまた知っていて、そしてそれでも前を向いて生きていくからこそ彼らはすばらしいのです。
 
この映画の構成の妙についてさっき少し触れましたが、この映画のある種ソープドラマ的な脚本が総て破綻するのは、ザ・ラムがアヤトラーとの20年振りのリ・マッチのリングに上がり、画面がいきなり地方プロレスの日常を追ったドキュメンタリーが如き俯瞰の遠巻きの画に変わってからです。そこでのザ・ラムのスピーチが総ての予定調和をここで一気になし崩しにしてしまうのです。




“I just wanna say to you all tonight, I'm very, very grateful to be here.
A lot of people told me that I'd never wrestle again and that's all I do.
You know, if you live hard and play hard and you burn the candle at both ends, you pay the price for it. You know in this life you can loose everything that you love, everything that loves you.
Now I don't hear as good as I used to, and I forget stuff. And I ain't as pretty as I used to be. But god damn it, I'm still standing here and I'm "The Ram."
 You know as time goes by -- as time goes by, they say: "He's Washed Up." "He's Finished." "He's A Loser." "He's All Through." You know what? The only one that's going to tell me when I'm through doing my thing is you people here. You people here -- You people here are the ones who are worth bringing it for because you're my family."

 


この映画でおそらくもっとも感動的なシーンのひとつですが、このザ・ラムの長広舌がそれまでのモーメンタムを覆し、かつザ・ラムを、パムを、そしてブルース・スプリングスティーンがエンド・クレジットで歌ったような世界の総ての「レスラー」たちの存在を、ここで肯定するのです。その様が何とも言えずにすばらしく、なにものにも変え難いもののように思え、そして最後のラム・ジャムのあとに、リングを取り巻く残響が心の中で響くのを誰もが感じるはずです。「いや、俺は聴こえなかった」とか言う人にはたぶん、この映画は必要ありません。でもいつか必ず必要になるときが来るはずで、そしてその人にもいつか聴こえてくるはずです。
あなたは聴こえましたか?
 
 
 
とにかく、最近の日本のマンガに見られるような犬のクソが入った腐ったカレーライスのような女々しさとは百億光年の隔たりがある映画を観たいなら絶対にオススメです。木曜洋画風に言うなら、 「ナンパなチャラ坊はミッキー・ロークに土下座!」です。おれもザ・ラムのように、堂々と信念に向かってくじけずに生きて最後は燃え尽きて決死のラム・ジャムを炸裂させてリングで死にたいです。

 
 
 
 
ザ・ラムはミッキー・ロークだけでなく、おれやあなたの、この世界でもがきつつも何かに抗いながら生きている総ての人々のドッペルゲンガーであるように思えてなりません。


 
 
ワン・トリック・ポニーや一本足の犬や片腕の男や片脚の男を見たなら、それはおれです。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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