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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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(以下のような記事を投稿することに若干の心苦しさはある。このエントリーを一読する限り、私はゼロ年代以降突如として隆盛を極めたアイドル文化に懐疑的な人物であるかのように思えるが、それは必ずしも真実ではない。そしてノイズ・ミュージックに対して限りなく否定的な保守反動的な人物であるかのようにも思えるが、それもまた同時に真実ではない。BiSは紆余曲折を経て復活し、BiSHは異形のアイドルとしての衣鉢を継ぎ、優れたアイドル・ソングを発表し続けている。非常階段についても、彼らの常に実験的で先進的な存在たらんとするスタンスには敬意を表したい。ただ、そうした思いとは裏腹に、いまのシーンに対する曰く言い難い違和感が抑えようもないこともまた、否定しようのない厳然たる事実である。この文化はうまく機能しているように思える。アーティストもリスナーもパブリッシャーも、全てがハッピーなように思える。一体どこに問題があるというのか?それに対する私の(BiSやBiSHを愛聴する私ではない第二の私の)見解はこうだ。なるほど彼らは(我々は)寸毫の隙もなくハッピーだ。でもそれは表面的な偽りの幸せだ。我々はこの文化の中で、まるでブリューゲルの絵画の登場人物のようだ。これは偽りだ。これは明白な虚構だ。ここには何か、悪しきミス・ディレクションがある。我々はここにおいて三位一体の共犯関係めいた何かに加担している。つまり我々は・・・我々は何かを必死に隠そうとしている。こうした違和感を私はなんとか言語化しなければならなかった。以下に綴る辛辣な、しかし時に憐憫に溢れた、実に直情的な文章は、2018年現在のこの国のサブカルチャーに対する私の両義性に満ちた名状しがたい不安定な感情を記録しようとした試みなのだ。)

AmazonプライムでBiSHの曲を数曲ストリーミングする。これと前後してBrand New BiSの楽曲も聴いていたのだが、やはりBiSは何か「場」のようなものであって例え中の人間が入れ替わろうとBiSという場があり続ける限りはそこで作られる音楽はBiS独自の何かであり続けるのではないかというような気がする。とこう書くとなんかポストモダンっぽくてすごい嫌なんだけど、だからと言ってBiSを神格化する必要はどこにもなく、BiSの持つ「場」は堅牢でこそあれ、そこまで称揚する価値があるかというとそんなことは全くない。メジャーなアイドルには満足できないがそこそこ可愛い姉ちゃんがちょっとニッチな音楽を歌って踊っているステージを遠目で腕組んで見ながら自らの境涯を少しでも美化したいおっさんが勝手に興じていればいい。ただそれだけのものだ。BiSの持つ「場」はBiSHには作り出せない。でもBiSだってそんなに褒められたものではない。BiSはBiSであってそれ以上でも以下でもない。つまりはそういうことだ。私は若い頃の自分の思い出としてBiSに対してそれなりに思うところはあるが、他の人にとってそれがそこまでの価値を持つものだとは思わない。少し嫌な言い方になってしまったし自分だけ傍目八目を決め込むのもフェアじゃないとは思うが、でも多分みんなBiSにワーキャー言ってた一方でやっぱり心のどこかでは違和感があったのではないかと思う。特に私のようにアイドルについては門外漢ではあってもディスクユニオンの新宿エリアを休日ひねもす彷徨しては90年代のインディー・ロックをスナイプすることに血道を上げるような典型的なギークにあっては、なおさら。もっと言えばその違和感はかの大名盤「BiS階段」でも完全に解消されたわけではないのだ。あのアルバムもみんな褒めているし私も愛聴してはいるが、結局はアイドルソングをCDで流している横でJCからメタゾネだのソーダメイザーだのを直列カスケードしただけのとてつもなく頭の悪いペダル・チェインで作った誰にでも出せるディストーション・ノイズを垂れ流して悦に浸っている還暦間近のビートたけし気取りのおっさん(JOJO広重)のマスターベーション以上の何かがあると言われれば、実は、全然ない・・・。ただあの録音で奇跡的だったのは、非常階段の音楽がはっきり言ってキング・オブ・ノイズだとか言って鼓吹するほどの価値もないペラペラの音の塊でしかなかったことを再発見すると同時に、そのゴミのようなノイズに侵食されながらBiSの楽曲のクオリティはオルタナティヴ・ロックに散々振り回されて人生を棒にふる一歩手前のまるでクリトリック・リスの「桐島」と化しつつあるおっさんが作ったおっさんによるおっさんのための痛々しい自己憐憫の域を全く出ないものではあれ、だからこそ、それゆえに、そうして90年代を過ごしていつの間にか人生の終着地点にたどり着いてしまった因果な人々の一つの青春の記録として万感胸に迫るものであったということだった。だからあのアルバムの主役はBiSではなく、非常階段でもなく、90年代という時代から今だに卒業できない全ての「桐島」たちだったのだ。だからBiSの音楽そのものが何かロック史に残るとんでもないパンテオンだなどとはまるで思わないし、「BiS階段」ですら10年後も相変わらず世界に生産されているであろう(そして惨めな、報われない毎日を送るであろう)第二の「桐島」たちが改めて省みるほどの価値があるとは間違っても思わない。そうしてBiSに対して屈折した思いを抱えていたからこそ、BiSHにはどこか期待するものがなかったわけではない。BiSではついに得られなかった音楽的な満足を今度こそ、という思いがまるでなかったわけではない。でもやっている音楽はほとんどBiSと見分けがつかない上にオルタナティヴ・ロックの劣化コピーであるBiSの更にクローンなのでアイデンティティがより希薄になってしまっているというか・・・。まあそれだって「桐島」にとっては十分なものかもしれない。でもそれで本当にいいのだろうか?今、この国では長い雌伏の時を経て冬眠から覚めた掃いて捨てるほどの「桐島」たちが群れをなしてライヴハウスに出没しては、こういうマイナー・アイドルに大枚を投資してしたり顔でのさばっている。大声でMIXを唱和する。サイリウムを振っている。物販でノベルティを山のように買う。この状況が本当に好ましいことか?いまのアイドル・ソングがかつてとは比べ物にならないほど多様性に富んでいることはわかる。でも、だからなんだ?結局「桐島」たちは何に夢中になっているんだ?これはもはや修辞疑問である。答えはもう出ている。「BiS階段」が世に問われたその瞬間に答えは、「桐島」たちに対する最後通告はすでにもたらされていたのだ。こんなに残酷なことがあるだろうか?「桐島」たちの末路がこんな形になるとは夢にも思わなかった。これは大いなる歴史の皮肉だ。資本主義が嫌だった。大人が嫌だった。でもここで行われていることは社会の完全なミニチュアだ。結局、革命は行われなかった。世界は何も変わらなかった。みんなもっと早く夢から醒めるべきだった。でももう戻れない。もう遅過ぎるのだ。
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遅ればせながらあけましておめでとうございます。といっても今日は旧暦の1月1日でいわゆる旧正月ということらしいのですが。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

わたくしジャンキーはというと、おりしもBBCやCNNで報道されているエジプトの反政府運動の感慨なきを得ない激動の光景を横目に見ながら、歴史というのはまさにリアルタイムで更新されつづける「いま」の積み重ねなのだなぁと、幾星霜の人類史の悠久に遠く思いを馳せる毎日です。去年、2009年を振り返ったエントリーでは「ゼロ年代とはいわば喪失のディケイドであった」、と、一抹の抒情すら目に浮かべながら訥々と語っていられたものですが、そんなノスタルジアなどもはや昔日のことであるとすら言えるほどに、カレンダーをめくりあらたなジュウ年代へと足を踏み出した2010年は一転して変化の嚆矢というものが識閾下から目に見える形で浮かび上がってきた1年であったようにも感じられます。ジュリアン・アサンジ率いるアナーキスト集団ウィキリークスの面目役如の活躍はその好例として挙げることができましょう。そしてここへきてチュニジアのジャスミン革命と、それに端を発して派生的に勃発した親米政権打倒を唱道するエジプトの混乱です。特にエジプトの例では、その革命の波がアラブ世界に燎原の火の如く播種されイスラム社会全体を包括する大いなるパラダイム・シフトのグラウンド・ゼロであるということもさることながら、国家がツイッターやフェイスブックをブロックすることでレジスタンスの指揮系統を寸断する策を弄したことでも歴史的な意義を持つ事件であったということ。インターネット時代の自由と民主主義の問題を超越して、情報それ自体の単体の「価値」を巡るクリエイティヴ・コモンズの定義とそのコモンセンスに関して重要な問題提起を為したエポック・メイキングな契機としてこのエジプトの革命を敷衍することは、もはや当然のことのように思われます。「過去の人」「90年代の人」「フィニッシュト」というネガティヴ・チャントも可能だったデヴィッド・フィンチャーが、同じく90年代で終わった人とも言えなくもないトレント・レズナーと手を組んで製作し、「web1.0時代の人間が作ったweb2.0時代の伝記映画」とも評され各国で激賞されている『ソーシャル・ネットワーク』が全米で公開されたのも、この2010年のことでした。
2010年から始まった新たなディケイドは、喪失の時代を超克した21世紀の人びとの、ジェイムズ・グレアム・バラードに倣ってパラフレーズするならば「version2.0にアップデートされた」テクノロジカル・ランドスケープ原人たちのストライク・バックが期待される、「変化」のディケイドとなるのかもしれません。

 

…さて、前置きはこのくらいにして、2010年に発表された音楽作品の中から、ジャンキーの個人的なベストテンを選出したいと思います。
対象となるのは2010年に発表された音楽作品の中から2010年以前の音源のリイシューや過去音源のコンピレーション、また既発作品の初CD化などのアップ・コンバートを除いたCD、アナログ作品です。(ちなみに去年のランキングはこんな感じでした。)

それでは発表します。

2010年ジャンキー的大衆音楽作品10選

10 Grinderman : Grinderman2
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ニック・ケイヴ!ということであとは何も説明は要らない。カッコよろしい。低音厨としてはベースの音がゴリゴリしていて大変よろしい。とくと味わうがいい。人間凶器のくすぶる咽頭のその限りなく邪悪な、メルトダウン寸前の釣り糸が肌に食い込むようなギリギリの静謐さを、絞扼される首の筋肉と血管の痙攣の周波数が奏でる断末魔のオーケストラを。
ちなみにiTunes版のボーナス・トラック「Super Heaten Child」にはロバート・フリップ御大が参加している。



9 Fatso Jetson : Archaic Volumes
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独特のケーデンスを持った奇妙な味わいのロックで、たぶん人を選ぶ音かもしれない。ハマる人はハマるだろう。おれはハマった。
ところで、ときどき考えることがある。ロックは果たして通俗化したのだろうか?ロックは以前とは別の文化に様変わりし、或いは、より下方へと堕落してしまったのだろうか?この漠然とした疑義は音楽ファンにとっては一般的なものであるかもしれない。しかし、それは論理矛盾を含んでいる。そもそもロックとは通俗的なものでなかったのか、というと、ロックはもとをたどれば文化未満の未成熟文化(サブ・カルチャー)として開闢したものであったのだから、絶対的にいつの時代も通俗的であったと考えるほうが自然だ。だからロックがあたかもかつては生活風俗とは弁別されねばならないハイ・アートであったかのごとく主張する連中は、収益最大化の果てに巨大資本にロックを売り渡したと現状を嘆く前に、ロックとはそもそも何であったか、そしてそれがいま、かつてとは違う形に変わってしまったとして、なぜそうした変化が起こったのか、その問題の本質をもう一度真摯に考え直す必要がある。それに関する個人的な意見はこうだ。ロックはそもそも通俗的なものであったし、いまでさえそれはそうである。大衆のものであるという意味では何も変わっていない。かつてと同様にいまでもそれはティーンエイジャーの所有物である。しかし、人びと(実際のティーンエイジャーと、イニシエーションを通過してもなおティーンエイジャーを気取っていたい夢見る人びと)がロックに求めたその効用は、確かに変わってしまったかもしれない。以前のロックとはピューリタン的な厳粛さ、旧態依然とした因循姑息な社会の状況やその閉塞感に対するカウンター・カルチャーとしてティーンエイジャーが行使できる「拒否権」としての効用を持っていた。それがいまでは、果たしてそうとは言えなくなってしまった。反抗すべき問題は昔と変わらず存在するけれど、その本質は以前とは別のものに変わっているし、闘うべき相手は以前のように「頑迷な大人や社会」と言う風なステロタイプでは割り切れなくなってきた。そしてロックはそれに対して有効な拒否権ではなくなっている。じゃあいまロックに求められている真の効用とは何か?
その答えのひとつが、このFatso Jetsonの音楽かもしれない。千変万化を繰り返すロックのアルゴリズムの、枝葉末節に分岐した挙句にからまりあって解読不可能になったその成れの果て。
ロックとはもはや、そういった遺伝子の突然変異体が究極的にどこまで進化していくのか、その諸相を試験管の中で観察するだけの、限りなく退屈な文化になってしまったのかもしれない。
でもそれもけっして悪いことではない、というのがおれの意見だ。もしかしたらそれらのアルゴリズムの順列可能性は、また新たな別のブレイクスルーを含んでいるかもしれないからだ。ミーム学(Memetics)を紐解くまでもなく、あるミームが常に自らに利する局面を考えるものであることは言うまでもないが、無数の自らの子どもたちが結果的にどのようにこのゲームを勝ち抜いていくのか、それは或いはミーム自身にもわかっていないことかもしれない。だからおれはその歴史的な分岐点を見届けるという行為を、価値の低いものだとは思わない。ロックのアルゴリズムが結果的に何を産み落とすのか、その帰趨が決するのは一万年もあとのことではなく、おそらく近い未来、とても近い未来の話だ。そのとき、その変化が到来するとき、我々はそれをどんな気持ちで迎えるだろう。
おれはいま、それにすごい興味がある。


8 Church of Misery : Live at Roadburn 2009
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カッコいい!!!
まぁカッコいいことは聴く前からわかっていたんですが。カッコいいです。シンセサイザーの使い方というものをおれは全くわかっていなかった。あれは楽器ではなく、兵器だったのだ。



7 Yawning Man : Nomadic Pursuits
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これは泣けたなー!泣ける音楽という意味ではいちばん泣けたかも。ラクダが落陽を背に稜線を闊歩する様が、暮れなずむタンジールの港町の阿片窟のイカガワシサが、そして総ての過去を放擲してツイッターにログインして「民主化、万歳!」と快哉を叫ぶには余りにも過去の重みが大き過ぎる、と言わんばかりの哀愁を浮かべて眉間に皺を寄せキングサイズのタバコをさびしげにふかすエジプトの老人の姿が、いまにも浮かぶようではないかね。どうかね。
そのもろもろの意味において、おれは泣けた。良い音楽だった。

6 Burzum : Belus
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このミュージシャンの来歴がどんなものであるか、それはインターネットで検索すればすぐにわかることであるし、それらの否定しようのない事実をみんな当然踏まえた上でこの音楽と向き合っているわけであるから、良心の呵責だとか罪の意識だとかをことさらに騒ぎ立てて作品の評価と結びつけることもどうかとは思う。みんな既にそういった初期段階を超越した地平でこのミュージシャンの作品に向き合っていると思うのだ。少なくともそういった用意があってこの音楽に向き合っているはずだ。もちろん、「刑に服している最中にレコードなんか出してんじゃねぇ」という道義的な指弾には首肯せざるを得ないが。
しかし、それとは別に、この作品は、その言葉のあらゆる意味において完璧なメタルであった。混じり気のない、遠慮会釈のない、或いは、ウソ・イツワリのない、完璧なメタル・ミュージックだった。これは「メタル」という言葉から想起され得る総ての要素が詰め込まれた音楽なのだ。少なくともおれにとっては。
これから「メタルとは何か?」と訊かれたら、おれはこのCDを手渡そうと思う。



5 Electric Wizard : Black Masses
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カッコいいなぁ。
さっきのロックの終末論の話に戻るが、要するにいまのロックは半死半生だと。そして考えられる順列可能性の中のまだ演繹されていない末端の部分にしか探求すべき余地はないという状況がある一方で、もうひとつの延命策として、とことんまで様式化し尽すという道もあると。これをマニエリスムと呼ぶ。
ストーナーやドゥームはこの様式化が臨界点の域にまで推し進められているジャンルだ。そしてそれに対する是非はというと、もう個人の嗜好のレヴェルの問題でしかないと思う。
それが好きか嫌いか。
そしておれはこういう音楽は好きだ。


4 Swans : My Father Will Guide Me Up A Rope To The Sky
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これはファンタジー・ミュージックだ。ロックとかそういう文脈からは切り離して考えるべき音楽だ。でもそれはそうとしてもこれは純粋に音楽として最高レヴェルの作品だ。それは否定しようがない。
Swansは言うまでもなくアメリカのアンダーグラウンドの闇の重鎮であり、多くの名盤をものしてきた伝説的な存在である。それ故にYoung Godからリイシューされている過去の音源は総て押さえておくべきだ。その探求の旅路はきっと新たな発見と刺激に溢れたものになるに違いない。実際、Swansの過去の作品の中にはいまなお燦然と輝きつづけるものがある一方で、未だに大衆音楽のコンテキストの中でその成分を分解することができていないものも数多い。
そしてこのSwansのニュー・アルバムはSwansにまだ触れたことのない子どもたちへの最良のガイド・ブックであるばかりでなく、おそらくそのディスコグラフィーの中でもとりわけてそのクオリティを強弁しておかなければならない、重要な作品であるとも思う。
個人的にはこの音楽の何がそこまで人を惹きつけるのか、その原理をまだ完全に理解できていない。
きっと他の誰もがそうだと思う。
Swansのもたらした闇はどこまでも黒く、深い。



3 Gnaw Their Tongues : L'Arrivee De La Terne Mort Triomphante
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出たー!!!
怒りと絶望と悪意と憎しみが入り混じった完膚なきまでのホラー・ミュージックであり、聴いた誰もが「みんなおらといっしょにぱらいそさ、行ぐだ!」 と雄たけびを上げるや否やその五体を無惨にもグチャグチャに情け容赦なく切り裂かれてしまうことだろう!亡者たちが飛び出したハラワタを抱え泣き叫びながらさまようあの地獄と言う名の暗黒の沼沢地の風景をこれほどまでに活写した音楽が、かつてあったろうか・・・?
仮にあなたがまだ聴いていないと言うなら、万難を排してでも聴くべきだ!地獄絵図という言葉から想起され得る総ての要素が詰め込まれた恐怖と苦しみのトーチャー・ガーデンがあなたを待っている。振り返ればもと来た道はなく、眼前を埋め尽くす処刑器具にあなたはただ為す術もなく身を任せることしかできない。そして苦しみ抜いた先に待っているのは、やはり地獄・・・


 
2 High On Fire : Snakes for the Divine
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カッコいいーーー!!!
へヴィ・ロックの究極がここにある。バンド・サウンドが鳴らすことのできる暴力的な音楽のひとつの臨界点として、このレヴェルに達することは今後不可能に近いものと思われる。かように完膚なきまでの名盤であるから、爆音ロックに人生を捧げた諸氏は是非にも頭を垂れてウーファーの前で白骨化しなければならない!
このへヴィ・ロックは、テクノロジカル・ランドスケープの住人たちのための完璧なサウンド・トラックだ。魂にニトロが注入され脳の内燃機関の鋼鉄のマフラーの中をドス黒い高熱の排気ガスが通過していくその温度を、肌で、鼓膜で、とくと感じるがいい!



1 静寂 : You Should Prepare To Survive Through Even Anything Happens(何があっても生き抜く覚悟の用意をしろ)
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ブルースが何なのか、考え出すとキリがないし、hypeの極みを尽くしたバイヤーの醜悪なアオリに乗っかるのも気がひけるし、そもそも、そんなことを頭でこねくりまわして考えなくともそれ以前に、いやそういうレヴェルを超越して、やはりこの音楽は最高の芸術だ。しかし、それと同時に、それでも尚、この音楽ウィルスは「考えるのをやめるな。思考を止めるな。頭で理屈をこねくり回すことを止めてはならない!」と頭蓋骨の中の脂肪の塊にプログラミングしつづける。それは人間であることの証明であるからだ。我々は音楽を聴き音楽とは何かを考え、それでもわからないからまた音楽を無心に聴くところまで立ち戻り、そしてまた音楽とは何かを考えるのだ。我々はまだそのマンダラの途上にいるのだ。
疑似科学を垂れ流すのはやめろ!くだらないおためごかしの新興宗教のお題目のような精神論を振りかざすのはやめろ!そんなのは病人を増やすだけだ。「難しいことはわかんないけど、とりあえず音楽は素晴らしい」などと、腐った気休めを言うのはやめろ!おまえのそのニヤついた教祖ヅラを見るのは飽きた!もう、飽きた!おれたちは別の道を進む!さもなければおまえは化石になって過去の地層に埋もれてしまうぞ!考えることをやめるな!
おれたちは自分の頭でものを考えて悩み苦しみ、また幼かった頃の原点に立ち返り、そしてそれでもわからないからまた考えるのだ。それがおれたちのやり方だ。
音楽を巡る脳ミソと魂の遍歴はまだまだつづくのだ。この不可思議な儀式にまつわる広大な大伽藍を我々はまだまだ血反吐を吐きながら歩まねばならない。それはおそらく総てのアルゴリズムが演繹されるまで、総ての言葉が消費し尽くされるまで、星の数ほどの死体とそれに群がる蠅の羽音の記憶にさいなまれながらつづけられるのだ。ハノイの塔の円盤はいまもってまだ動きつづけている!
考えることをやめるな!考えることをやめるな!
何があっても生き抜く覚悟の用意をしろ!




・・・というわけで、2010年の個人的な第1位は、静寂の『You Should Prepare to Survive Through Even Anything Happens 何があっても生き抜く覚悟の用意をしろ』でした。

今年は個人的には豊作でした!良いCDがいっぱいあって楽しかったです。基本的に1位から5位までは順不同で、どれが1位になってもおかしくなかったです。総合的に今後の歴史的な評価とかを踏まえるとやはり静寂に軍配が上がったかなと。でも、どれもほんとに良かったです。ベスト5は万人に薦められる最高の名盤揃いです!





以下、次点。

Melvins : Bride Screamed Murder
Brant Bjork : Gods & Goddesses
Sigh : Scenes from Hell
静寂 : Mail from Fushitsusha
MGMT : Congraturations
Boris & Ian Astobury : BXI
22-20s : Shake / Shiver / Moan
Harvey Milk : A Small Turn of Human Kindness
Ambarchi / Orourke / Haino : Tima Formosa
Helmet : Seeing Eye Dog
Cathedral : The Guessing Game


Melvinsは良かったけど、やはり90年代に彼らがものしてきた名盤の数々と比較するとどうしても見劣りしてしまうのは仕方ないです。いや何十枚もアルバムを出してきて尚ここまでクオリティの高いものを出してくる時点で充分すごいのですが。ある意味で贅沢な不平を言っているのかもしれません。もう少しパンチがあればなーとか、そういう戯言はしょせんアマチュアの感想なのかもしれません。ところどころ「おおっ!」と瞠目させる音を出しつづけられる限り、Melvinsはアルバムを出すべきだし現役でありつづけるべきだし、我々も素直に頭を垂れて傾聴しなければなりません。これも修行です。
カテドラルの2枚組は、もう少しなんとかならんかったかなーという感も。でも2枚組でボリューミー
なので文句を言うのは贅沢というものですね。これも修行です。



あと、リイシュー賞をあげるとしたら、Floorの奇跡のボックス『Below & Beyond』をリリースしたRobotic Empireに捧げようと思います。フロリダ・デザート・ロックの至宝Floorの伝説の名盤『Floor』『Dove』をコンパイルしていて巨大ブックレットもついてしかもあのリーズナブルな価格設定で、非の打ち所のないボックス・セット。リイシューの鑑です。

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リイシューだとThe Headsの名盤『Relaxing with...』の2枚組リイシューも最高でした!ていうかディスク2の方が若干良いです。めくるめくへヴィ・ディストーションのメタリック・サイケデリアに神経組織が雪崩を打つように壊滅していきます!いますぐアマゾンで買って爆音で聴いて脳をオーバードライブされましょう!




・・・そして2010年最高の楽曲は、やはり池田彩さんの「Alright! ハートキャッチ・プリキュア!」で決定でしょう!ハイ!ハイ!リアルガッデム!!!




ということで、今日はこの辺で。最後は2010年を代表する名言でお別れしましょう。

I'm CEO ...bitch!

じゃなかった、

History will win.
The world will be elevated to a better place.
Will we survive?
That depends on you.
(Julian Assange)
 



ジュリアン・アサンジの伝記映画が作られる頃には、おそらく映画を含め総ての芸術は無料で嗜むものとなり、プロダクト・プレイスメントの広告収入にバジェットの大部分を負うために映画のCM化は加速していくことでしょう。映画に登場するパソコンのディスプレイはすべてサムスン社製になり、俳優たちは全員iPODを聴きながら画面に登場します。また音楽でも、エミネムがマクドナルドのテキサス・バーガーの不味さを指摘しようものならそのリリックは検閲されポリティカリー・コレクトの振るいにかけられることでしょう。逆にアクセスが増えれば万々歳なのでいままで検閲の対象となっていたポルノグラフィやスプラッターはどんどん解禁されていくはずです。企業様の文句さえ言わなければいいので、例えばポール・バーホーベンにとっては天国のような時代がやってきます。それが良いか悪いかは別として。

そして、それでも、我々は生き抜くでしょう。
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お久しぶりです。
最近(ここ1年くらい)ピーター・グリーンのニワカファンになって爾来、関連作品を地道に渉猟しているのですが、このたびようやくエディ・ボイドのアーリー・ワークを聴きました。エディ・ボイドとピーター・グリーンのコンビネーションは大きく分けてブルー・ホライズンから出たのとそうでないのとに大別されると思いますが、ブルー・ホライズンから出た音源を全部コンパイルして一網打尽に出来るコンピレーションがこの『The Complete Blue Horizon Sessions』です。
内容はというと、一言で言うととても良いです。極上です。
特筆すべきはとっくの昔に廃盤になっている『7936 South Rhodes』が全曲まとめて収録されていることですが、これがほんとに良いです。オーセンティックなブルーズ・マナーを遵守しつつも、当時の技術的なフロンティアとしてのレス・ポールの強烈なサステイン(ピーター・グリーンのトレード・マークですね)が自己主張し過ぎることなく同居していて、後年徐々にへヴィ・メタリックに進化していくフリートウッド・マックの壮絶なライヴ・パフォーマンスへの嚆矢とも解釈できるし、あるいはこれこそブリティッシュ・ブルーズそのものと言いきってもいいかもしれません。
ブルー・ホライズン社の閨閥(マイク・ヴァーノン一派)を中心としてピーター・グリーン、ジョン・マクヴィー、そしてダニー・カーワンの面々は本場の黒人ブルーズ・マンたちと次々と邂逅を果たし、多くのジャム・セッションをものしていきますが(詳しくは『Blues Jam in Chicago』のvolume oneとvolume twoを聴いてください。こちらも最高です)、そこで醸成されたブリティッシュ・ブルーズの概念は、結果的にへヴィ・メタルやハード・ロックとして後年呼号されることになるラウドな産業音楽のアーキタイプとなったのではないでしょうか。以前もブログで似たようなことを書きましたが、やはりどうもそんな気がします。

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とにかくこのCDに収録されている『7936 South Rhodes』は、ピーター・グリーンのギター・ワークの中ではOtis Spannの『The Biggest Things Since Colossus』と双璧を成す白眉編です。レス・ポールをどうセッティングすればこのように甘美でかつ電撃のように鋭利なサステインを作ることが出来るのか、ほんとうに不思議です。
あと、ボーナストラックとして入っている「The Stroller」「No Place Like Home」という曲のギター・ワークも、クレジットでは"unknown"となっているし、一聴してみて明らかにピーター・グリーンのそれではないのですが、トイ・ピアノのような愛すべきチープさがあって良いです。



ところでピーター・グリーンとエディ・ボイドのコンビネーションでは『7639 South Rhodes』以外に『Eddie Boyd and His Blues Band featuring Peter Green』が有名ですが、個人的にはここでのパフォーマンスは、少なくともピーター・グリーン個人のそれに限って言うなら、あまり良くないと思います。へヴィ・メタリックな部分を伴わない、舶来文化の直訳段階としてのブリティッシュ・ブルーズの雰囲気が好きな人には良いかもしれないですが、ピーター・グリーンの電光火花が瞬くような卓抜したサステインを堪能したい人にはあまり薦めません。


とりあえず、ピーター・グリーンにメロメロです。まだぜんぜんニワカですが、これからもピーター・グリーン道を探求していきたいです。


「作品」とは何だろうか?

人はなぜ書を編み、詩を吟じ、ものを象るのだろうか。文明が開闢して爾来、古代から今日に至るまで幾星霜つづいてきた芸術という営為のその根元は、果たしていったいどこにあるのだろうか・・・?


作品に接する、ということは会話の中で他人の言葉を聴き取るという営為に近いものがあるとかねがね思ってきた。というのは、我々は周囲の事象や状況が確かに変化したと感じるとき、その論理的な帰結を常に考究しつづけるように運命づけられていて、それ故に何か「音が鳴っている!」「字が並んでいる!」「画が描かれている!」と反射的に感じるとき、脳はきっとその何らかの「意味」とか「理由」めいたものを求めるようにサーキットされているものだと思うからだ。なぜそこで音が鳴り、字が踊り、モノが描かれ象られているのだろうか・・・そのことの意味や理由を納得のいくかたちで「理解」することは即ち、誰かが何かについて語っているその言葉を単なる音韻の羅列から理路整然とした意味の集合、因果律へと落とし込もうという作業そのものではなかろうか。
「なぜ我々はモノを理解したがるのか?モノに意味を求めたがるのか?」という問いをトートロジーだと考えればそれらは遡及不可能な大前提である。したがって総てのモノや現象というものは総じて他者の「問いかけ」であり、我々はその問いかけの真意を理解しようとしなければならない。例えば温度や天候の変化や四季の移ろいや光陰は神(と、便宜上しておく者)という話者のひとり語りであって神の他者に対する「問いかけ」である。動物の移動や咆哮はその主体たる動物によって為される他者への「問いかけ」である。そして、話者が発する声とは、それが憑拠とする言語を我々が理解していようがいまいが等しく、他者に対して「問いかけ」られたものなのである。

改めて、「作品」とは何か・・・?
「作品」とは作者という話者のひとり語りであり、彼の他者に対する「問いかけ」の一様式である。では、それと他の「問いかけ」とを隔てる懸隔とは何か?端的に言うならば、その「問いかけ」の構造やそれに対するアルゴリズムがより煩雑で難解なものを我々は「作品」と呼ぶのではないだろうか。もしくは、作者と我々との間で交わされるコミュニケーションにおいて作者が何らかのポーズによってある傾向の解答を否定し、またある傾向の解答を奨励するようなものをそう呼ぶのではないだろうか。人という作者が何かを「思わしげ」に我々の前に差し出すとき、その「問いかけ」に対する我々の解答としてもっとも原始的なものは拒まれる。「それは紙だ」「それは石だ」「それは画布だ」「それは塩化ビニルだ」「それはポリカーボネイトだ」もしくは、「それは便器だ」。作者が「イヤ、そうではない」と答えたとき、そのときその「問いかけ」はもっと別の意味を持つものとして解釈され、そしてその別の意味を探求する新たなサーキットを我々は走り始める。
そういったものを我々は「作品」、「芸術」と呼んでいるのではないだろうか?

そしてその「問いかけ」の意味を理解するためには、「それは音の塊だ」「それはヴァイナルだ」という原始的な解答やトートロジーとは違った解答を見出すためには、我々はその話者が話す言語や作品に底流するコードを渉猟し習得しなければならない。もちろん、そういった言語学とは無関係に、その「問いかけ」に「無為に傾聴する」という視座もあってしかるべきである。それを否定するつもりはないが、しかし、それは相対主義やテクスト主義の真髄とは異なるものであると感じる。通底コード(実際には、「~の、ようなもの」でしかないことは否定できないにしろ)を見出すことは「問いかけ」に対する複数ある解釈のうちのただひとつを絶対的なものとして定めることではなく、「問いかけ」の意味を理解するためのサーキットを明確にしようという行為である。そのサーキットが間違っていても、我々はそれをマチガイであると自覚することでまた何かを学ぶことが出来るはずである。

 

最近、60年代のブリティッシュ・ブルーズを積極的に聴くようになった。ブリティッシュ・ブルーズを好きになったのだ。それは恐らく、ブリティッシュ・ブルーズを解凍するのに適した拡張子が脳内で結線されたからではないかと思う。例えば子どものころ、わたしにとってのその母国語はNHKの『みんなのうた』でありJ-POPであった。対してアメリカやイギリスのロックは、これは最初はグランジ・メタルやニューヨーク・アヴァンギャルドといった「方言」の習得から始まったのだけれど、やがて母国語の規模に伍するまでのサーキットをわたしの脳内に結線した。いわば第一外国語だ。そしてわたしの脳の中に今、新たなサーキットが敷設され張り巡らされつつある。ブリティッシュ・ブルーズという第二外国語だ。

新しい言語を知ることで、それまでは単なる音の塊にしか聴こえなかったものにもある程度の意味を読み取ることができるようになる。また、かつて知っていた言語やコードで読み取っていた「問いかけ」をその言語で読み込むことで別の意味が姿を現すことがある。ブリティッシュ・ブルーズの魅力を知ることで、それまで「ロック」という言語とアルゴリズムでしか希釈することのできなかった音楽もまた違った顔を見せる。

(ブリティッシュ・ブルーズはいわゆるプリミティヴな意味でのブルーズではないが、それが何だと言うのか。別の言語によって話されたものに触れ、それに啓蒙され、その中のいくつかのことを自らの血脈の中に受け容れ、継承した。ブリティッシュ・ブルーズとはその力動を刻銘に記録したドキュメントだ。それがホンモノであるかニセモノであるかという議論は必要ではあるが、しかしけっして総てではない。)


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例えば、The Groundhogsの『Split』はブルーズ・ロックのクラシックとして高く評価されている名盤だが、わたしがこれまで習得していた第一外国語である「ロック」リージョンの語法ではSplitクワドロジーを収録したA面にその高度を認めていたように思う。対して、ブリティッシュ・ブルーズの哲理を習得した新しい視座から見ると、エポック・メイキングなA面と比べてよりトラディショナルでより地味で後退的なB面の価値もまた同様に素晴らしいものであるように思えてくる(特にアルバムの掉尾を飾る「Groundhog」は、オリジナル・フリートウッド・マックの「The World Keep on Turning」や「Trying So Hard to Forget」で聴かれるようなミニマリズムの極致を鼓膜に打刻する、鳥肌が立つようなホワイト・ブルーズの名演だと思う)。

この時期のイギリスのブルーズ・ロックを巡る状況・・・大きなメタモルフォーズと地殻変動を前にした奇妙な緊張感やクロスオーヴァーの熱気に包まれ、新たなメソッドが積極的に試されては一方は淘汰され他方はその土壌に根付きはじめていた・・・、それは別の見方をすればイギリスの若者たちがそれまで用いていた言語が異文化衝突によって部分的に書き換えられ、結果的に土着言語と舶来言語の私生児としての有象無象のヴァリエーションが燎原の火の如く励起していった時代でもあったことを、そのとき衝突した二つの言語を同時にフィルタリングすることによって21世紀の日本の片田舎でうかがい知ることが出来る。いままで軽んじるか、或いは食わず嫌いを決め込み無視していた文化に触れることによって新たな視界が開け、それまで使い方や読み方のわからなかったサーキットに電流が走る感覚にリスニング・アドベンチャーの醍醐味を感じずにはおれない。二つの異なる言語やアルゴリズムが衝突し、互いの染色体を交換し全く新しい私生児を作り上げていくこの過程は極めて「スリリング」だ。

 ところで、

エリック・クラプトンとピーター・グリーンのどちらが好きか?


、という問いは例えば冷やし中華とザルソバのどちらが好きか?と問われているようなものでそもそも答えようがないが、敢えて言うならクラプトンはこってりと脂の乗ったドロドロの冷やし中華であり、他方でグリーニーはソバとツユの極めてシンプルなコンポジションである。

大衆音楽産業にロックという新たな言語を持ち込んだのは、厳密にはイギリス人ではない。しかし、その新しい言語の文法と修辞を整理する作業に貢献したゴッドファーザーの一翼として、エリック・クラプトンとジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの鉄板トリオ、クリームの名は絶対に音楽史に刻まれていなければならない。ドロドロの冷やし中華という形容は、そもそもクリームの鉄板の3人が壮絶なジャム・セッションにおいて醸成していったロックという思想が、そもそも絢爛豪華でグラマラスであることを表すアイコンであることに由来している。ブリティッシュ・ブルーズがミニマリズムを美徳としていたのに対して、クリームの3人が作り出した壮絶なラウド・ノイズの壁が惹起するのは物量作戦と人海戦術である。

ピーター・グリーンは「間」をたいせつにするギタリストであるが、対してジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの爆撃のようなリズム・セクションとそれに乗るエリック・クラプトンの躁病的なギター・プレイはとにかく「手数」を重視したものであるように思える。



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クリームの『Live Cream Vol.2』はヘヴィ・ロック史の劈頭を飾るまさに歴史的名盤であるが、そこで聴かれる凄まじいジャム・セッションはそれまでの静と動という二進法の「間」のギター哲学に重きを置いたブリティッシュ・ブルーズの言語から逸脱し、とにかく物量と速度の指数関数的爆発を標榜する「手数」の楽理に貫かれた新しい言語を創造するものであった。

『Live Cream Vol.2』の奔流のようなギター・プレイはまさに「発狂」という形容こそふさわしい。ピーター・グリーンの「間」の巧みさや艶やかなサステインに衝撃を受けたあとにこのエリック・クラプトンの演奏を聴くと、少し荒削りで不恰好なように感じられるが、それはそもそもクリームの音楽がそういう「言語」を基底として展開されるものだからであり、「間」の言語よりも「手数」の言語、「スピード」の言語で解読すればクラプトンの演奏は「あらゆる技術的なディシプリンを置き去りにする、狂気に満ちた迫真の演奏」という風に解釈することが出来る。


正直、『Live Cream Vol.2』はいわゆる「バカテク」を期待すると拍子抜けする作品だと思う。しかし「手数」や「スピード感」や「狂気」というフィルターをかけてもう一度耳を傾けてみると、ジャック・ブルースのドライヴィンで扇情的なベースライン、ジンジャー・ベイカーの核爆発のようなドラミング、そしてエリック・クラプトンのネジが外れて暴走した10トントラックが崖を転がり落ちるように騒々しく節操がなくやかましいギター・プレイの三位一体のオートマティズムが確かに一定の「言語」に貫かれているように感じられる。これがスペクタクルである!第一に、音楽的、音響的、物理的にとんでもなくスペクタクルである。High Riseをはじめて聴いたときの衝撃を軽く凌駕する、と言ってしまってもまったく過言ではないと思う。間違いなく「ヘヴィなもの」としてのロックのアイコンはここから定位していったのだ。間違いないのだ。

そして第二に、それまでの言語が書き換えられ、組み替えられ、新しい言語、新しいアルゴリズムとして転生していくということ、それ自体がとんでもないスペクタクルである。その理由は前述したとおりであるから繰り返さないが、二つの異なった言語を親として新しい言語が生まれ出る過程はエポック・メイキングでスリリングでダイナミックなものである。この『Live Cream Vol.2』に収録されているライヴが行われたのが1968年である。信じられないがそうなのである。文献を紐解くと、クリームとしてのキャリアの全盛期に行われていたジャム・セッションはキャリアの終盤に行われたこの『Live Cream Vol.2』のライヴよりもはるかに壮絶ではるかに凄まじかったらしい。信じられないがそうらしいのである。



恐らく、ピーター・グリーンもクリームの壮絶なジャム・セッションをどこかで実際に体験していたのではないか。そしてその凄まじい演奏によって、まったく新しい文化が誕生していることに気付いていたのではないか。シンプルなザルソバも美味だが、ドロドロの冷やし中華やラーメンも結構いけるぞと。そしてこれからは冷やし中華の時代だと。

オリジナル・フリートウッド・マックが新たなギタリストとしてダニー・カーワンを迎え入れ鉄壁のギター・オーケストラを完成させたのは、クリームが生み出した「手数」の音楽を自らのものとするためではなかったか。そして1969年9月に彼らは歴史的名盤『Then Play On』を発表、その白眉編である「Rattlesnake Shake」のライヴ演奏は、「間」と「手数」の壮絶な核融合の軌跡であり、クリームがもたらした新たなアルゴリズムに確かに呼応するものであった。この「Rattlesnake Shake」のライヴ演奏は『Live in Boston Tea Party』に収録された24分間のヴァージョンを聴いてみて欲しい。「壮絶」の一言である。
 


2009年は永遠に生き永らえるものと思われていた森繁久弥が死んで、「人はいつか死ぬものなのだ」という、しごく当たり前でありながらもっとも哲学的かつ神学的な問いかけについていまいちど深く考えさせられる年だったと思います。
ひらまつつとむ先生の名作「飛ぶ教室」の読み切り版(単行本第二巻の巻末に収録)を読んだことありますか?主人公のオサムのラストのセリフにこんなのがあります。「体が震えた・・・生まれてはじめて心の底から泣きたくなった。映画やテレビで人が死んでもよく考えなかった。人が死ぬって こういうことだったんだ。」
2009年はそういう気持ちになることが多い一年だったのではないでしょうか。ほんとうに余りに多くの著名人が、特にサブカルチャーの分野においてバッタバッタと亡くなられて、何とも言えない気持ちになりました。
特にショッキングだったのが、まずはマイケル・ジャクソン。永遠にお茶の間にネタを供給しつづけてくれる存在だとばかり思っていたのですが、死とひきかえに正当な評価を取り戻したのが何とも皮肉です(生前にもっと愛してあげれば良かったのに・・・)。わたしは彼の音楽にはほとんど関心がありませんでしたが、ワールドクラスのネタ・タレントとしてリスペクトしていたので彼の死にはやはり堪えられないものがあります。同じ意味で、ファラ・フォーセットの死も衝撃でした。マイケル・ジャクソンと同じ日に亡くなった"angel"でしたが、彼女の場合はもっとハッピーな最期だったようです。
そしてアベ・フトシ。鬼神の如き凄まじいカッティングで日本中の高校生に多大な衝撃と建設的な教唆を与えたJポップ史に残る偉人ですが、まさかこんな若さでこの世からドロップしてしまうとは・・・。彼の残虐なまでに情熱的なギター・プレイがあったからこそ、90年代後半~ゼロ年代前半のJポップ文化は豊かなものになったのだと本気で思います。
あとは、ダン・オバノン。ホラー映画史に確かな足跡を残した稀代のストーリーテラーでした。彼が亡くなったことで、ホラー映画の世代が確かに一巡しつつあることを実感し、何とも名残り惜しい気持ちになります。
ギタリストと言えば、ギブソンレスポールのゴッドファーザーであるレス・ポールさんも大往生の末、天寿を全うされました。また、あまり日本では報道されませんでしたが、Blue Cheerの偉大なる爆音ロックンローラー、ディッキー・ピータースンもくたばってしまいました。超超超名盤「Vincebus Eruptam」の歪み切ったファズ・ギターの爆音がなければPanteraやSlayerやMotorheadやAC/DCやMelvinsやNirvanaやNeurosisやHigh RiseやBorisやGreenmachineやCryptopsyはもちろん、非常階段やSunn O)))も誕生しなかったわけで、その意味では爆音ロック史の最重要人物でした。ヘヴィ・ロックのモノリスの死を悼み、今後も爆音ロックを愛しつづけることをここに誓います。


ゼロ年代最後の年はそんな終末感ただよう黒衣の一年だったわけですが、2000年問題ではじまり911で革命的に「何か」がブッ壊れた、混沌としたゼロ年代の総決算という意味では、象徴的な一年だったのかもしれません。

ゼロ年代が「喪失のディケイド」であるとするなら、2009年はまさしく「喪失の一年」でした。
しかし、いつまでも喪に服して下を向いているわけにもいきません。偉大なる先人たちの死を悼みつつ、彼らからしっかりと「何か」を受け取って、また歩き出さねば。不幸な出来事は多かったけど、それだけの一年でもなかったはず。喪失と混沌の奔流の中で確かに芽吹いたものが、きっとあるはず。






・・・ということで、打ち続く悲しみから立ち上がるための萌芽を見つけ出すべく、2009年を大衆音楽の面から振り返ってみたいと思います。2009年に発表された音楽作品の中から、わたしjunkieが聴いてみて良かったと思うものベスト10(+その他)、を、誰も興味ないかもしれませんが自分用のメモの意味も込めて、発表します。

選考対象は2009年1月1日前後~2009年12月31日前後にリリースされた作品の中で、2009年以前の音源のリイシューや過去音源のコンピレーション、また既発作品の初CD化などのアップ・コンバートを除いたCD、アナログ作品です。ですから普通に考えたら嵐のベスト・アルバムや菅野よう子のベスト・アルバムが上位に食い込んでいて然るべきですが、今回は割愛しています。(微妙なのがNirvanaの「Live at Reading」ですが、今回は新譜として扱っています)


それではカウントダウン方式で参ります!


2009年 junkie的大衆音楽作品10選(+その他)


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10 Dinosaur Jr. 「Farm」
とにもかくにも1曲目の「Pieces」、これに尽きます。間違いなくDinosaur Jr.にしか作れない、唯一無二の最強のポップソングです。イントロのギターリフだけで瞬殺されます。泣きのギターソロ、無気力なボーカル、ドミナント・コードの多用、総てが完璧です。21世紀になっても相変わらず泥臭いギター・ロックをどうしようもない爆音とどうしようもないヘタウマな演奏でやってしまうところにマンネリズムと同時に、ある種の矜持を感じます。ボーナス・ディスクのライヴもどうしようもない爆音で、そしてどうしようもないくらいヘタですが、ぜんぜんオッケーです。とにかく「Pieces」すご過ぎ。

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9 椎名林檎 「三文ゴシップ」
わたしは熱心な椎名林檎のリスナーではないし、歌舞伎町の娼妓がどうのこうのとかナナメ後ろの女子高生がどうのこうのとかどうでもいいし、それ以前に狙ったようなブレスの入れ方とか気に入らないのでむしろそんなに好きなミュージシャン/ボーカリストではなかったんですが、このアルバムの先行シングルとして発表された「ありあまる富」を聴いてその印象が大きく変わりました。在り来たりで無難なアレンジのポップソングでこりゃ安全パイだな、と思いきやさにあらず、「彼らが手にしている富は買えるんだ/ぼくらは数えないし、失くすこともない」「価値は命に従って付いてる」と訥々と歌う、中道左派の北欧社会民主主義的な哲学に貫かれたゴリゴリの新自由主義批判ソングなのでした。どんなハードコア・パンク・バンドがポリティカルな歌詞を歌い叫ぶよりも、このような口当たりの良いシンガロングなポップソングに思想的な歌詞を乗せるほうが何倍も有用であることに気付いたと同時に、椎名林檎が覚醒して「歌いながら説教するさだまさし的SSW」へと進化しつつあることを実感したのです。(詳しくはこちらで
このアルバムでは「労働者」という曲が凄まじいくらいに良いです。楽曲と歌詞、そして歌唱、総てが完璧です。椎名林檎が楽しそうに歌っているのも良いです。「いったいいくらかかるの?果てしない充足まで/とても間に合わない、身体と時間がない」「悪いのはどいつだ、顔見せな!」「お願い、夢を見さして!」、という歌詞に血涙の叫びを感じたのは、わたしだけではありますまい。「労働者」は2009年でいちばん聴いた曲かもしれないです。それくらい良いです。

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8 Om 「God is Good」
凄まじい低音と、骨格だけになったようなシンプルな楽曲、そして呪術的なボーカル。録音はSteve Albiniです。単なる麻薬ヘロヘロロックと片付けることは簡単ですが、ホワイト・ブルーズがどのように興隆していったか、そしてそれがそもそもどのようなものであったか、その歴史を後景に鑑みると考えさせられるものがあります。(詳しくはこちらで

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7 Big Business 「Mind the Drift」
Big Businessの音楽性をどう言い表していいかよくわからなかったんですが、何となくHarvey Milkに近いんじゃないかと最近思っています。良質なメロディと確かなヘヴィネスを持った佳作。ゼロ年代のアメリカのアンダーグラウンド音楽の実態を知る意味でも、資料的価値のある作品です。(詳しくはこちらで

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6 Melvins 「Chicken Switch」
これは純然たるMelvinsの新譜ではなく、リミックス集。しかし、山塚EYE氏を筆頭にリー・ラナルド、メルツバウ、Acid Mothers Templeのカワバタ氏・・・とアメリカのアンダーグラウンド最重鎮Melvinsのリミックスだけあって多士済々の凄まじいメンツが揃っています。当然のようにクオリティが高いリミックスになっているわけですが、むしろ原曲の良さが際立っているようにも感じられます。「Lysol」を擦り切れるほど聴いたゴリゴリのMelvinsファンには堪らない企画盤。

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5 Fu Manchu 「Signs of Infinite Power」
普通に超カッコいいヘヴィ・ロック!です。ただ、普通に超カッコ良すぎて腰を抜かすのは間違いないのですが、ここまで超カッコいいロックばっかりの捨て曲なしのアルバムを作っておきながらやけに平然としていてすまし顔なのが逆に器用貧乏な面を感じさせます。しかし、「器用貧乏も10年つづければゴールデン器用になる。何でもできて文句あっか?!」という菅野よう子先生の名言があるように、それが何の弊害になりましょう。Fu Manchuは実際にそれを10年以上つづけてきたので、立派なゴールデン器用です。ほんとうに捨て曲なし、完全無敵のへヴィ・ロック。ゴールデン器用の真髄をご堪能ください。

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4 Baroness 「Blue Record」
完膚なきまでの男泣きへヴィ・メタル。もう最高過ぎて言葉が出ない。「A Horse Called Golgotha」の男泣き度はハンパではありません。震えて聴き、そして泣いてください。傑作!!!(詳しくはこちら

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3 Sons of OTIS 「Exiled」
普通に超カッコいいストーナーロックの名盤。また、低音のビビリ度がハンパなく、重低音マニアにも推奨。ヘヴィネス、楽理の両面において最強の作品。爆音ロック史に残る名盤だと思うので、是非一度聴いてみてください。名盤。(詳しくはこちら

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2 Church of Misery 「Houses of the Unholy」
最強。総てを蹂躙する圧倒的なヘヴィネスで疾走し自爆する燃料噴射装置付きの自殺マシーン。ほんとうにほんとうにカッコ良過ぎて鼻血と血涙と胃液と放射能が出てくるので全ロックファンは絶対に聴いてください。定番のカヴァー曲はSir Lord Baltimoreの「Master Heartache」で、今回も呆れるほどカッコいい。個人的にChurch of Miseryの最高傑作だと思う。LET THEM EAT DOOOOOM ! ! ! ! !(詳しくはこちら


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1 KK NULL 「Extropy」
2009年が終わり、21世紀最初のディケイドが終わったことになりますが、この10年間は前世紀の人々が想像したような「夢と希望に溢れた21世紀」像のその片鱗すら実現することも叶わない暗黒の10年間でした。ミレニアムが一巡したものの何一つ具体的な実感を伴わないまま迎えた「新世紀」初頭の漠然としたうつつの日々が911同時多発テロの爆発と噴煙によって完膚なきまでに蹴散らされて以降、わたしたちは爆弾テロと新自由主義がズタズタに切り裂いたグローバリズムのガレキの中をよろめきながら歩いてきたわけですが、そこで気付いたことは「この世界は矛盾と理不尽と悪意と暴力に満ち満ちている」というしごく当たり前の事実認識から人類が一歩も進歩していない、ということでした。民族紛争、宗教紛争、第三世界と先進諸国間に横たわる埋めがたい格差、90年代に結局解決できずに放置されてきたそれらの問題は20世紀の終焉とともに記憶の片隅に追いやられてしまったわけではまったくなく、要するに21世紀に棚上げされて相変わらずわたしたちの近傍に存在しつづけ、それを解決するためにはわたしたちがわたしたち自身の力でその問題と対峙し、戦わねばならない、という、しごく当たり前の、そして圧倒的にごまかしの利かない事実を、わたしたちは911から始まったゼロ年代という10年間を通して痛烈に思い知らされたはずです。21世紀になって「何か新しいもの」が唐突に現れてわたしたちの何かを解決し、導いてくれる、という夢は幻想でしかなかったのだと。
大衆音楽においても、そこまでドラスティックな地殻変動や突然変異が起こったわけでもなく、「何か新しいもの」の萌芽があるようでなかなか現れず、要するにゼロ年代の文化は90年代の文化の延長であり、地続きなのだ、という、これまたしごく当たり前の事実を突きつけられつづけた拍子抜けの10年だったように思います。もちろん、まったく進歩していないということはないでしょうし、素敵な作品がいっぱい発表された10年ではありましたが、21世紀になったからといって唐突に未来的なサウンドが現れて総ての音楽パラダイムを塗り替える、というような出来事は、この10年間では遂に起きませんでした。
さて、このKK NULLの「Extropy」は、ある意味では時代錯誤的ですらあるほどの「未来らしさ」「21世紀らしさ」を、飾り立てのない正方向のベクトルで吐き出した正統派の「21世紀サウンド」であり、もう恥ずかしいくらいにピコピコでペコペコの電子音が容赦なく飛び交い衝突し対消滅する、まさに絵に描いたような「21世紀の音楽」であります。しかし、60年代や70年代の人々が「21世紀の音楽」として想像していたようなそうしたピコピコでペコペコの電子音楽はそのまま80年代に消費しつくされ順列可能性が出尽くしてしまい、もはや様式美化し厳然たる「20世紀のクラシック」として隠居しているような存在であり、今の潮流はむしろそれすらノスタルジーとして止揚したポスト・ノイズ、もしくはSunn O)))のMVYMR概念のように音響的・物理的なレゾンデートルを模索する方向へと進んでいます。要するに、完全に時代遅れです。でも、KK NULL(ex. Zeni Geva)は何の臆面もなく、正々堂々とこの時代遅れな「21世紀サウンド」を21世紀の今にぶつけてきました。
ゼロ年代のわたしたちにとって衝撃だったのは、それが90年代の単なる延長であり、結局何も解決されないまま棚上げされてしまった時代でしかない、という残酷なまでに当たり前の事実を爆弾テロとネオコンという形で突きつけられたことであり、「何か新しいもの」を求めて旧世紀の価値観のまま21世紀にやって来たわたしたちにとってこの10年間はだからこそディストピアそのものでした。戦争も経済も宗教も文化も道徳も、総て20世紀のお下がりであり、何一つとして「新しいもの」なんてなかった。
でも、その「何か新しいもの」を見出すのも結局、わたしたち自身であるはず。そしてその「何か新しいもの」はわたしたちのイマジネーションの中からしか産まれ得ないはず。
ピコピコでペコペコの電子音楽ははるか大昔に先人たちが「21世紀っぽい!!!」と夢想したものの焼き直しに過ぎないかもしれないし、実際にそうなんですが、しかしそれは「何か新しいもの」を必死に想像して考えた先人たちがかつて確かに存在していたのだ、ということのかけがえのない証明でもあります。
喪失のディケイド、ゼロ年代最後の年にKK NULLがわたしたちに問いかけた、60年代少年マガジンの巻頭グラビアが如き「懐かしい未来」、「21世紀の音楽」は、時代遅れのオールド・ファッションに身を包みながらも懸命に、かつて未来に希望を託した時代が確かにあったことを叫んでいるように聴こえるのです。「何か新しいもの」を求めて、懸命に生きた時代があったことを。
現実の21世紀は想像よりもかなり灰色の時代になってしまいましたが、まだ、あと90年あります。この余りにも場違いな「21世紀の音楽」が、わたしには何かポジティヴな散文詩であるかのように聴こえたのです。これが2009年の、わたしの第1位です。




・・・ということで2009年の大衆音楽作品10選は以上のようになりました。
以下、次点。

John Zorn 「O'o」
Masters of Reality 「Pine / Cross Dover」
Eternal Elysium 「Within the Triad」
Shrinebuilder 「Shrinebuilder」
Nadja 「When I See the Sun Always Shines on TV」
Black Cobra 「Chronomega」
Wino 「Punctuated Equilibrium」


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次点作品の中で特に良かったのが、Masters of Realityの「Pine / Cross Dover」。あらゆる意味でヘヴィネスを削ぎ落とされた「肉抜き」のロックが不思議な浮遊感を伴って揺曳しているような、実に奇妙な音楽体験を提供する文字通りの「音楽的な畸形児」です。John Mclaughlinにオマージュを捧げた、とかChriss Gossがよくわからないことを言っているのもミステリアスさに拍車をかけていますが、とにかくここまで意図的に軟弱なサウンド・プロダクションを施した作品でありながら、文法や修辞はロック言語そのものである、という何とも不可思議なワンダー・ワールドへとリスナーを誘い、場合によっては引きずり込まれたまま戻ってこれなくなる可能性があります。それくらいアクが強く、クセになるサウンドスケープです。その意味では個人的に2009年最大のインパクトを提供した作品でした。

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また、John Zornの「O'o」は直球のインストゥルメンタル・アルバムで、特に2009年、Great Jewish Musicシリーズに傾倒していた自分としてはJohn Zornのライトサイドの暫定的な高度を知ることができた意味で重要な作品でした。1曲目の「Miller's Crake」から重く引きずるようなベースのスライドが死ぬほどカッコ良かったし、完成度の高いインストゥルメンタルがいっぱい詰まった作品なのですが(絶滅した鳥類をテーマにしたコンセプト・アルバムらしい)、中でも白眉は「Kakawahie」。メランコリックなメロディが実に"Jewish"に推移する奇跡のような名曲で、何度も聴きましたね。「Kakawahie」は2009年を代表する1曲に数えられるべき名曲だと思います。




次に、逆に期待していたけどそんなに良くなかった(とわたしが思った)作品。
ここではあまり多くを語りませんが、その筆頭となったのがSunn O)))の「Monoliths & Dimensions」。
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現代音楽がナンなのかも詳らかにはわからないしヘヴィ・ロックについてもまだまだ不見識の多いわたしですが、やっぱりSunn O)))の真骨頂はMVYMRであり、「ここまでヤるか?!」という限界突破のクレイジーな轟音・爆音志向こそがSunn O)))の真髄なのだと思います。個人的には、メタリカの「For Whom the Bell Talls」をわけのわからない超重爆音でボコボコにコピーしてMerzbowと轟音核融合した「Flight of the Behomoth」辺りがやっぱり頂点だった気がします。あの頃はまだロックの香りがしていました。ロック=バカです。バカ=ロックです。そして、ロック≠(not equall)お利口さん、です。要するに、いまのSunn O)))は自分にとってはこまっしゃくれたお利口さんの音楽にしか聴こえません。バカの素晴らしさは、半歩先の行動がまったく予想できないことです。次から次へと繰り出される「予想外」の連続にわたしたちは恍惚となり、どっぷりと中毒的に耽溺していくのです。だからこそロックという文化はここまで発展してきたのです。対してお利口さんは基本的にマニュアル駆動なので、次の行動がある程度予測できます。行動がパターン化しているので傍観者のわたしたちにしてみたら、あまりおもしろくありません。
何もロックを学術的に精査する試行が悪いとは言いません。何か、ジョン・コルトレーンとかマイルス・デイヴィスみたいでカッコいいしね。でも、それとその音楽がおもしろいかどうかは全く別の問題です。個人的には、ヘタでもバカでもいいから「おもしろい」音楽が好きです。その意味で最近のSunn O)))はあんまりおもしろくないです。正直、ゴシック・メタルが如き訥々としたセリフの裏にかぶさる不協和音、とか、ネタ音楽としての素養は充分なので、エクストリーム・ネタ・メタルへと転生を遂げて欲しい気分でいっぱいです・・・・・なんて言うとMVYMR的には間違いなんでしょうか?でも、わたしはやっぱりMVYMRってもっと「おもしろい」概念だったと思うんです。「White1」の辺りとか、普通に無茶してておもしろかったです。あの頃のSunn O)))に、もう一度会いたいです。

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ロックをアカデミックに敷衍しようとする試みが悪いとは言わんけど、それと音楽がおもしろいかどうかは別・・・という意味で、Sonic Youthの「The Eternal」もSunn O)))と同じく、個人的にあんまり良いと思わなかったです。何かインディーズに返り咲いてイチから出直し、みたいに盛大に太鼓を叩いて日本ではTシャツ付きの初回限定盤が非人道的なぼったくり価格で売られたりしていましたが(当然、買いませんでした。輸入盤で充分です)、個人的には「Daydream Nation」の頃からどこがどう変わっているのかよくわかりませんでした。というか「Daydream Nation」の頃にあったツッパリ根性というか、暴走族が汚いカワサキに乗り回してラッパを吹きながらジョルジュ・バタイユを読んでいるような異文化侵略性が、あまり感じられませんでした。聴いてて途中で寝てしまいました。「Eliminator Jr.」みたいな必殺の曲があれば、もうちょっと印象が変わったのかもしれませんが・・・。個人的にはSonic Youthももっともっとバカでおもしろい音楽を作れる気がするので、次回に期待です。
繰り返しますが、ロック=バカなのです。バカ is ロックです。がんばれ!  ・・・まあ、Sonic Youthはもう「ぬるま湯」が規定路線になっているので、「The Eternal」もその意味では充分に優れた作品なのかもしれませんが・・・。




あと、2009年といえば80年代~90年代前半に発表された日本のアンダーグラウンドの作品が多くリイシューされたことも忘れてはなりません。獅子奮迅の働きをしたのがディスクユニオン傘下のP-ヴァインです。想い出波止場の全作品リイシュー、羅針盤の初期3作品リイシュー、そして突然段ボールの「抑止音力」をリイシュー、と、レコード会社としての最低限の責務をこの1年間で十二分に果たしたことになります。こうしたP-ヴァインの大車輪の活躍があって、遂にわたしも畢生の夢だった「抑止音力」を手に入れることができました!ほんとうにP-ヴァインさん、ありがとうございます。

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「抑止音力」は「くだらねぇバカ!くだらねぇ日本!くだらねぇクソ!」というあまりにも圧倒的に素晴らしい歌詞によって日本音楽史に永遠に快癒することのない傷跡を刻み込んだ「夢の成る丘」を収録した、カルト・アルバム中のカルト・アルバム。ロックが大衆音楽として俗転していく過程を痛烈に批判したこの作品は、日本だけでなく世界規模で音楽の消費構造が変わり、大衆芸術そのものがその存立意義をリセットしていまいちど模索しつつある混沌とした時代の今だからこそ、むしろより強い意味を帯びてその破壊力を増しているようにすら思えます。この機会に是非、一度聴いてみてください。


また、2009年は関西のインディーズ・シーンを支えてきたアルケミー・レコードのオンライン・ショップが完全に閉店し、小売業から撤退した年でもありました。それについて拙ブログでも雑感を書いていますが(実はJOJO広重さんのブログにそれが取り上げられて、少しだけアクセスが増えたことがあったりしました)、ほんとうに音楽の消費構造が確実に変わっているのだ、ということを身をもって痛感した気分になりました。AMSが終わったことがショックだったのではなく、むしろAMSがなくなってもインディーズを取り巻く産業構造がとりたてて変化することもなかった、というその事実がショックだったのです。第三の波として情報産業時代を迎えて以降、着々と何かがゆっくりと変化していきましたが、ゼロ年代最後の年にわたしたちは遂に、消費の力学が根本から変わってしまったことを期せずして知ることとなったのです。






・・・・・さて、2009年の大衆音楽は、個人的には以上のようなものでした。特筆すべきは、ゼロ年代最後の年にやはりAMSが完全閉店し、小売と卸流通におけるAmazonの帝国主義的一元支配がほぼ完成したことだと思います。また、その時勢にP-ヴァインが(というか、反Amazonのリアルショップとしてほぼ唯一黒字経営を維持している旧時代の数少ない残党であるdiskunionが)突然段ボールの「抑止音力」をリイシューしたこと。この2点が、次の一年、次のディケイドを占う上で大きな意味を持っていくものと思います。「抑止音力」のジャケットには、以下のような碑文が刻まれています。

『既成事実とこれを推進する向きとの漠々とした対決』

ロックとは糞尿ぶっつけ音楽であり、マイナー・パワーを炸裂させることであると。間違っていることに対して、大声で「間違っている!!!」、と叫ぶことであると。
何かが確実に失われ、何かが確実に変わっていったこの10年でわたしたちは新たな悪意と、新たな矛盾と、新たな理不尽と遭遇しました。糞尿をぶつけ、負の叫びを叩きつける相手は揃っています。ロック文化の基本理念が使い古された時代遅れのものだなどと、いったい誰が言えるだろうか。むしろこれほどまでに不条理と理不尽が横溢した時代にあって、誰がそんなことを言える?
ロックがもう一度ロックとして転生し降臨するときは、そんなに遠いことではない・・・・・かも。


また、個人的には今年は200枚以上のCDやアナログ作品を買い、音楽鑑賞という趣味を充分に楽しめた一年でしたが、反面で新譜の占める割合が圧倒的に低かったりします。Slayerの新譜をはじめとして、まだまだ聴いていない2009年の音源がいっぱいあります。それらをリアルタイムでフォローし切れなかったことも残念ですが、もっとも残念なのは、自分があまり得意ではないジャンルに対してつい勇み足になり、勇気をもって踏み出せなかったこと。これからは何でも恐れずに吸収していく必要があります。
良かったことは、メタルをだいぶ聴けるような体質になってきたこと。いままであまり聴かなかった音楽を積極的に吸収することで、視野が変わります。これは非常に大きいことです。

2010年はまず年明け早々にSIGHの新譜が出ます。Church of Miseryのライヴ盤も出ます。大衆音楽は休むことなく回りつづけています。ゆっくりとですが、何かが確実に変わっていくこと、そしてそれがわたしたちにとって幸せな変化であることを願います。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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