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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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AMS
おとついくらいにITT O)))ちゃんから「AMSのオンラインショップがもうすぐなくなるから、半額セールをやってるよ」、と聴いてびっくりした。アルケミーの実店舗がなくなったとき、そんなにびっくりしなかったが、オンラインショップまでなくなるとなると少し考え込んでしまう。

もちろん、アルケミー・レコードのあの耳のロゴを冠したCDがこの世から消えてなくなるわけではない。ネットでもしばらくはAmazonやディスクユニオンで手に入る。ただ単にアルケミー・レコードが音楽産業という生き地獄のようなシノギの場から撤退し、足を洗った、というだけだ。しかし、それにしても。

いたたまれない気持ちで半額コーナーのページをながめながら14枚くらい一気に注文して銀行に代金を振り込む。個人的にそんなに利用したショップではなかったけれど、花電車の「THE GOLDEN AGE OF HEAVY BLOOD」やHIGH RISEのCDはここでしか手に入らなかったような気がするし、花電車を聴かなければPOSTOVOIの「THE GOLDEN AGE OF HELTER SKELTER」という曲は完成しなかったような気もする。


「いまの世の中、AmazonとヤフオクとE-bayを使えばたいていのものは手に入る」
JOJO広重が以前こういうことを言っていた。いかにもインディーズの盟主、救い主のような顔をしてせせこましくメジャーのミニチュアのようなオンライン・ショップを経営しつづけるよりも、あっさりと負けを認めて足を洗ってしまうほうが潔いし、いろんな意味で「インディペンデント精神」ではないかな、と個人的には思う。別にディストリビューターたちのテリトリーや権力があまりに強大だからではない。ただ単にひとの心が貧しくなっただけだ。いや、もともと人心とは貧しく卑しいもので、それが今になってようやくダイレクトに発露される機会を得ただけなのかもしれない。



人類史上最初のインディーズ・レコード(レコード・レーベルの力を借りずに自費生産し自費販売されるレコード)はBuzzcoksの「Spiral Scratch」だと思う。実際はビートルズのアップル・レコードだって広義のインディペンデントだし、それ以前にもディストリビューション・メジャーやメディア・メジャーとの契約を介さずにレコードを出していたひとたちはいたし、日本では1968年にザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」を大ヒットさせたりもしているから、正確なことはわからないけど、DIY精神を世界に播種したのはやはりBuzzcoksだと思う。あらゆる流通メジャーや広告メジャーの力を借りずに、より自由に表現活動をしていくやり方。もちろんアガリは少ないし、不良在庫をかかえるリスクを分散できるだけの資本基盤もない。それ故にそれだけで食っていくことは出来ず、バイトをしながらとか定職に就きながらとかでむしろ商売としてはまったく機能していないが、だからこそ何のシガラミもペナライズもなく、大好きなチンコやマンコやウンコについて堂々と音楽できる(そもそもBuzzcoksとは「爆裂チンコ」という意味だ)。

ゾンビ映画もスプラッター映画もポルノ映画も、1950年代後半から1960年代末にかけてアメリカで流行したドライブ・イン・シアターで商魂たくましく一山いくらのエクスプロイテーション映画を作ってきたインディペンデントの製作者たちがいたからこそ発展してきたのだ。ジョージ・A・ロメロなんか未だにインディペンデントだ。そう思うと、DIYやインディペンデントというのは文化の本質なのかもしれないね。

でも、時代は変わった。
アンダーグラウンドの流通インディペンデントや広告インディペンデントを担ってきた地下コングロマリットはいまやその役割を終えつつある。いまの時代、プロ・トゥールスの波形合成にはかなわなくともMTRやDTMのフリーソフトを使えばいくらでも自分たちで音源を作れるし大量のCD-Rを生産できる。GIMP2を使えばたいていのグラフィック・デザインは自前で作れる。


ガレージバンドとマイスペースさえあれば、誰もが「神様」になれる時代・・・。

そういう時代にあって、DIY精神やサード・パーティとしてメインストリームに対抗していくギルドを組織していくことはもはや徒労であり、アナクロニズムでしかない。いまの時代、誰もがパッケージであり誰もがアイコンであり、そして誰もがインディペンデントであり、かつ同時にメジャーだからだ。オレ、オレ。みんなが自分を誇示しようとあらゆるファッションやエレクトロニクスを駆使して大同小異の「個性」をひけらかそうとせめぎ合っている時代。ヴァルター・ベンヤミンが明示した「複製技術時代」の到来は、いま究極のモデルを獲得し、そしてそれが故に最悪の状況を作り出しつつある。

最悪?でもそれはBuzzcoksの時代からアンダーグラウンドの表現者たちの畢生の夢だったはずじゃないか。「誰も」が自分たちの「表現」を自由に、何の規制の心配もなく発表し、産業の如何なる介入も受けずに「平等」に流通する社会。最高じゃないか。

確かに、マイスペースは音楽産業にタカるディストリビューターというハイエナからわたしたちを守ってくれるかもしれない。表現の発信と享受はより平等に、より自由になり、いまはただ単に我々がそのあまりの機能美に圧倒され、感覚が補完されきっていいないだけかもしれない。しかし、我々の感覚が完全に補正されたとき、そこに広がっているのは無限の数の「神様」が跋扈する価値観の墓場なのではないかと思えて仕方がない。

想像してみてほしい。Amazonウィジェットの配列パターンが総ての価値の基準となり、情報の奔流に耐え切れずに自らすすんでAmazonに取りすがろうとする人々の姿を。マイスペースやyoutubeで取り交わされる音楽や映像をもはや情報のビット列としてしか解釈することができず、もはや易経の如き偶然の選択によってしか自分たちの「好きなもの」を判断できない人々の姿を

事大主義的だって?でもそういう気がして仕方がないんだ。不安で仕方がない。いつかわたしたちは、自分たちが好きなものが何なのかさえ、わからなくなるのではないか?

少なくとも今後20年間で大衆芸術は大きなパラダイム・シフトを迎えるはずだ。いままでのような消費のやり方はここでいったん終わるんじゃないかな。パッケージド・コンテンツはそれでも永遠になくならない、と考えているひとは少なくないけど、Amazonが消費構造のプライオリティを完全に変えたように、音楽をアーティストの神具や仏具のワゴンセールであるかのように消費するいままでの構造は恐らく消滅していくんじゃないだろうか。もちろんパッケージとしての商品の付加価値というのは(実数そのものは相対的に変化するにせよ)何らかの優位性を保つのかもしれないが、Amazonが消費の基準を「消費されるコンテンツの価値」から「消費行動そのものの価値」へと狡猾に変えてしまったように、パッケージもダウンロードも関係なく、もはや音楽は食べ物や飲料水を選ぶのと同じように消費されるようになるのではないだろうか。美味であるかどうかが基準となる高級料理ではなく、生活のライフラインとしての食事のことだ。例えばハードコア・パンクは郊外のマンモス・モールのフードコートでファストフードのように、例えばJ-POPは買い貯めのカップラーメンのように、例えばノイズ・ミュージックは高架下の屋台で売っている二束三文のケバブのように。もっと云えば、ガソリンのように。灯油のように。携帯のバッテリーのように。乾電池のように。ゲームのメモリーカードのように。コンドームのように。マスターベーションをするときのティッシュペーパーのように。

美味であるかどうかとか、そのクオリティは関係なく、ただ単に消費されるだけの使い捨てのもの。それが大衆芸術というものの本来の役割なのかもしれない。原初的には音楽というのは祭事のときの儀式めいたものだったのだろうし、それが故に呪術的な意味合いもある一回性のものであり、掃いて捨てるほど、佃煮にして売れるほどコンテンツとして流通しているいまの状態がまったくもって不健全であることには、よく考えれば誰もが気付くことだろう。それらのコンテンツ・ミュージック、コンテンツとして流通し消費される「狭義の音楽」を音楽よりも低次なものに俗転させることこそが音楽が音楽らしく復古することの唯一の道であるようにも思えるし、それで良いのかもしれない。音楽をコンテンツとして消費することで我々が得たものには多大なものがあるけれど、それと同時に失ってしまったものも確かにある。問題は結局、それについて無自覚な人間、何の反省もない人間が多すぎるということである。



「AMSはマーケットの役目を終了しました。」


Amazonがどういう雇用形態で労働者を使い捨てているかは知らないが、確かに純粋な小売業としてはかつてない良心的な価格で商品を全国流通させることに成功している意味で、インディーズの何を守っているわけでもないのに「インディーズの神」として高い値段で消費者に買わせるよりも全部Amazonに一任してしまったほうが目先の問題においても中長期的にも良いだろう。確かにAmazonは裏でどんなひどいことをしているかわかったものでもないし、胡散臭いが、要は消費者が利用するだけ利用してやればいいだけのことだ。それが商売であり、消費であり、そして資本主義というものなのだからして。

「規模も小さいし値段も高いけど、良いものを売る」がDIYの本懐だが、それが現実に機能していた時代は終わった。それは個人の問題とか世界経済の問題とかいろいろあるだろうが、結局は時代の要請でそうなっているとも云える。何が「良いもの」で何が「悪いもの」なのか、我々にはもうわからないし、もはやその基準さえ失われている。それで良いのかもしれない。価値観の墓場が手招きして我々を待っているが、その一方で我々は音楽というものとほんとうの意味で、良くも悪くも対峙できるようになったかもしれない。それがどんな結末を迎えるかは別問題だが。



とりあえずAMSの半額セール、9月末日までだそうで(場合によっては10月以降も散発的にあるかな~?ヤフオクでの動きも合わせてここしばらくは要チェック)。アルケミー・レコードのカタログは気に入るかどうかは別として、関西のインディーズ・シーンというものが何かを投げかけ、投げかけつづけた、ということの確かな記録であるように思う。一枚900円~1400円でおもしろいものが揃っているので、これが最後にして最大のチャンスだと思って購入してみはいかかでしょうか?

AMSオンライン


おもしろい音楽を、ありがとうございました。
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一冊の本が人生を変え得るほどに人を感化することはよくあることだと思う。読書をする、という営為は叡智との対話でもある。しかも、それは本というoutputの背後に広がる無辺の叡智である。

 

人間のつくったモノは、どんな人間が作ったにしろ世界との連関、ひしめき合う差異性のリゾームrhizomeの連なりの先端にある、円を描いて拡がっていく波のようなもので、つまりはそれと接することは世界そのものと交信していることに等しい。

そう考えると音楽というのも末梢の個人が連なる莢雑混沌とした根茎世界の縮図に他ならないはずだが、音楽を聴くということはそれと対話をしていることになるのだろうか。それはわからないし、恐らくこれからもわからない。

 

 

「人生を変えた」というのは、あとになって省察してみないとわからない。何年も年輪を重ねたあげくに記憶に経年劣化の断裂が生まれ、その空虚に何かを当てはめることもできるかもしれない、とにかく格別の愛着というのは年月の重みによってしか醸成され得ないのだろう。

 

自分は21年生きてきて、音楽をソフトウェアやコンテンツとして消費するようになったのは最近の5年くらいのこと。急に言われても、よくわからない。自分はひょっとすると音楽をファッションとしてしか消費していないのかもしれない。しかも著しくゴスなファッションだ。最近の自分は暗い音楽にしか感応できないのだから。共振する周波数のレンジが狭まっている。極端に狭まり、聴き方を限定している。これはあまりよくないことだ。何にロックを感じるか、というとリフよりもサウンド・プロダクションを重視するようになっている。Popとは「過剰」の別称である。過剰に歪んだ音、過剰に強調された音、過剰に加圧された音、それらはみなpopに自分の耳に飛び込んでくる。それで心地いいのか、と聴かれれば、おそらくそうではない。CDを聴いているときにだけその音と同期し、恍惚となっているが、いざ音楽が鳴り止んだなら、たちまち酩酊感は消尽する。

 

昔、the Doorsの"Music is Over"を聴いて激しく感動した。このひと(Jim Morrison)はよくわかってる人だ、と何もわかっていない自分はそう思った。何もわかっていなかったけれど「よくわかっている」と感じさせるだけの強いエネルギーを感じたのだ。今でもあの感覚はウソではないと信念に基いて断言できる。でも、いまそれと同じものを感じるのか、と聴かれたら、おそらく違うと思う。その刺激に耐性ができてしまったのだろうか。わからない。ただ、おそらく予定調和に終わってしまうだろうと思う。

Eternal ElysiumのCDはひとの心を強く揺さぶってはくれない。ただ、重厚無比の低音の集塊が物理的に身体を圧迫する。それが快感なのだから優れた音楽と言わざるを得ない、だけど、「音楽が鳴り止んだら、明かりを消してくれ」と歌ったJimの電光火花が飛散するかのような焦燥はそこにはない。

 

Dopeから覚め、禁断症状が現れる、なぜならそこには現実があり、そこには自分しかいないから。音楽が鳴り止んだら、だから、明かりを消してくれ。

 

世界の真実というものがあるなら、そういうことだとわたしは思った。冷徹と雁行して去来する苛立ちと、絶望と、諦観と、そして嘆きと怒りと焦燥が、わたしに「何かしろ」と催促した。

 

「何かしろ」、と言ったのだ。

それは10代最後の夏のことだった。

冗談だと思われるかもしれないが、わたしは自分で自分が本気でギタリストだと思っている。わたしにはテクニックなんてないしスケールもろくに知らないし理論も知らない。足元には歪みしかないし唯一テクニックがあるとすれば「高音と低音のそれぞれのフィードバックを使い分けられる」程度だ。ギターマガジンとかを読んでいると眩暈がしそうになる。ほんとうにこのひとたちは上手いんだな、自分は死んでも無理だな、と思う。たぶんおれは死んでもロバート・フリップのようにはなれない。うらやましいから、テクニック一辺倒のひとをリスペクトする気持ちはある。でも、そういうひとたちになりたいとは全く思わない。ギターの弾き方というのを知らないし、どういう音が良いとか、どういうギターが上手いかとか、それらも実はほんとうのところはまるでわかってない。
でもギターという楽器は好きだ。鉄と鉄が振動しあって電気がそれを増幅して残虐な音を出してくれる。だからエレクトリック・ギターが好きだ。電気が通ってないギターは、実はあんまり好きじゃない。素敵なコード進行とかフレーズとかには全く興味がない。音楽の内容にはまるで興味がない。それがどう変形して歪んでいるか、増幅されているか、興味があるのはそれだけ。

嘘を言うのはやめよう。ひとを惑わすのはやめよう。ギタリストごときがひとの哀しみをどうにかしてくれるのだろうか。そんな幻想を見るのはやめよう。生まれたくもないのに生まれてきた無数の音が電気でボコボコにされて増幅されて、わたしたちはそれでいったい何をしたいのだろうか。わたしはギターとセックスがしたい。ギターをレイプしたい。

わたしが音楽を通して伝えたいこと、それは、ギターを身篭らせて中絶させたり畸形児が産まれたり、そういったありのまま。そこから目をそらすのは、もうやめよう。もう、やめよう。


「Earth2 -Special Low Frequency Version-」を聴いていると、眠りに落ちるかそういうことを考えるかのどっちかだ。

いつかわれわれは、ギターとわれわれとの間に産まれた私生児の悲しみに謝ることができるのだろうか?



大阪に行ってダイナソーJr.を観てきました。

わたしの目の前で、神がまさにそこに居ました。

ジャズマスターの形をした全能の杖で、6連スタックの観音開きに鎮座する白髪の神仙が壮絶に爆死していました。わたしはほんとにほんとに泣きそうでした。
日本はもう終わりだ。うちのおばあちゃんは今月からスズメの涙ほどの年金から後期高齢者保険料を天引きされ、アイスクリームはいま126円もして、これからいろんな人が餓死するでしょう。ガソリンがまた上がると、今度こそ運送業の零細中小は壊滅するでしょう。この国はクソです。無能な政治家が湯水の如く放蕩し下々から搾取する。この国は終わりです。
わたしにはダイナソーしかない、そう思った。

ほんとにほんとに、わたしはダイナソーによって延命した。

パンクロックはほんとに人を救うかもしれない。
少なくともわたしはオレンジ色のTシャツにボサボサの白髪長髪のJが「バッジ」を歌った瞬間、もう、死んでも良いと思った。「フリーク・シーン」ではほんとにほんとに、ヘッドバングとボディスクラッチの業火の中で窒息して死んでもいいや、と思った。ダイナソーを聴けてほんとに良かった。ワゴンもやってくれた。ほんとに、死んでも良い、そう思った。

「13、4歳のとき、突然、世界が狂ってると思った。それでブラック・サバスを聴いたら、ガツンとやられた。」

世界は狂っている。
でも、ダイナソーは絶対に正しい。死んでも正しいし、負けない。

自分が好きな音楽とは何か?この一枚さえあれば、とりあえずあとは何も要らない、私の総てを代弁する音楽、私を救済する絶対無比の私のラング(ソシュールのね)、おれはそういうものを、たとい近似的な相似形ですら知らない。そんなものとであったことが無い。だから、おれはバンドをやっている。自分が好きな音は自分で作るしかない。 以下、自分が好きな音。
JCM900にエレハモのHOT TUBESをつなげて出す超ブーミーなフィードバック、空間が振動するような重低音とときおり射出される超高音ハウリングの痙攣エレハモのHOT TUBESというのは以前メインで使っていた歪みで、チューブ・ディストーション。現在音が出ないためボードで眠っている怪物ファズだ。いまはファズフェイスで代用しているが(これはジムダンロップ製のリイシューだ)、やはりHOT TUBESのような音が理想。ネットでは「ブーミー過ぎて使えない」「ノイズがおおすぎる」という辛辣な評価ばかりで散々だが、「そこがいいんだよ」って言ってやりたい。BIG MUFFのある意味で理想的な紋切り型の(それは形骸化した、とも言う)ファズに比べればはるかに出来が悪い、凶暴と言うより異形の音だが、おれはこっちのほうが好きだ。2本のチューブが突き出たメタリックな筐体が好きだった。

JCM900にHOT TUBES(もしくはファズフェイス)をつなげて、カッティングミュートしながらの雑多なストロークで出るガチョン、ガチョンという金属的なミュート広義のミュートとはガリガリとしたブリッジ寄りをミュートさせる、古典的なロック奏法だろうが、おれにとってはミュートの極意とは「潰された音」、「ブツ切りにされた音塊」でしかない。音にさえなれない音。もう、無条件に好き。インダストリアルっぽい金属チックが最高。

普通にCDを聴いても完璧に満たされることがない。それは、時にはおれの心に漸近すらしない、遠方でただ鳴り響くだけの音である。好きなバンドは何か、と問われれば、KINKSかもしれないしヴェルヴェッツかもしれない。でも、それら総てを無条件で好きと言えない、何かがそれらを否定する。もっとノイズが欲しい。非音楽的なものをもっともっと欲しい。ブオー、と言う、いつまでも吐露されまきちらされるブーミー音だけを収録したCDがあればいいんだけど、ないから、自分でギターを弾くしかない。弾くというか、アンプの前でユラユラさせるだけなのだけれど。

よく、「ノイズを制御するからこそノイズはカッコいい」なんて言われるが、そんなのは音響派と呼ばれるひとたちの理屈である。そんなものはてんで違う。ぜんぜんカッコよくない。凶暴なファズギターがポップフィールドで捕獲され、そこら辺の腐れエモバンドも今では常套手段としてBIG MUFFやRATを常備する。制御されたノイズと言うのは家畜である。ベロベロと恋愛感情を垂れ流し、無責任に倫理を振りかざす、そういう本来のロックからはかけ離れたような歌曲を歌うバンドたちが、いまやこぞって、かつて「悪魔のサウンド」と呼ばれインダス、グランジの特権であった轟音を強奪し始めた。まるで免罪符のように、彼らは轟音に乳繰り合いの歌や責任転嫁の愚痴り合いの歌を乗せ、我々を欺こうとしている。最低のクズどもが。
ノイズとは、制御できないからノイズなのである。それを自分が撒き散らしている、それを必要としない他人に見せ付けている、というのがたまらなく快感だ。それが正しいノイズの姿だと、おれは思う。矮小と思われるだろうか。だが、もはやおれは、そういう音楽しか愛せないのである。そしてそれは、非音楽とみなされるような、そういう音にもなりきれない音なのである。


・・・・・なんて書いてしまった!!!恥ずかしいが、まあ、たまにはこういう真剣な話をしてもいいじゃんね。

そんなおれでも「これは!」というCDはあります。その代表格がDINOSAUR JR.の「YOU'RE LIVING ALL OVER ME」。これは、歴史的名盤です。このアルバムに触れていない音楽史があるなら、デタラメもいいとこダ!商売として興行として連綿と築き上げられてきた音楽体系というのは、総てこのアルバムに止揚され独自のポップソングとして昇華されている、といっても過言ではないだろう。ここには総てがある。そして、それは総じて意味の無いものだ。音楽とは、かくも切ない、悲しみの営為である。音楽というもののくだらなさを、その悲しさを、まじまじと思い知りなさい。「JUST LIKE HEAVEN」のギターソロは人類が音楽というものを通じて到達し得た至高の極地である。この曲は、泣ける。ただ、これは本来はオリジナルのトラックではなくて、CD化に際してのボーナストラックだった!!!本来は「FOSSILE」に入ってるんですねー。ふーん。でもね、「LITTLE FURY THINGS」にはじまって「JUST LIKE HEAVEN」で終わるこのバージョンで初めて聴いたので、やっぱりこのアルバムの最後はそういう気分である。爆裂のギターソロ、垂れ流れる歌メロ、咆哮、ブツ切り!!!
うーん、ほんと、大好きで大好きでしょうがない音楽ですね。
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自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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