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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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「なんでここが出雲って言うか知っとる?


この町は風が強いから、いつも山の向こうから雲が出てくるが。それで雲が出るところ、出雲って言うんだわ。

でね、おかあさんは出雲のそういうところが好き」




あれはおれが幾つのころのことだったか。車の中で確かにそう教えられたのを覚えている。

あれから何年か経って、おれは22歳になっていた。そんなこととは関係なく、相変わらず山陰は風が強く、雲が絶えず空の上に浮かび、雨が多い。

卒業式の日も雨だった。


午前中に形式どおりの式が終わったあと、小雨がぱらつく中、学校まで歩くことにした。いままでも市バスに乗り損ねたら駅から学校まで歩いて行ったことが何十回もある、歩き慣れた道だ。後輩たちからもらった花束を持って雨に濡れた松江を歩く。

松江はどうしても好きになれない。それはおれが22年も甲斐性もなく出雲に住み続けたからそう感じるだけかもしれない。
それでも4年も通った町だ。感慨や思い入れがないと言えば絶対に嘘になる。しんじ湖温泉駅。サウンドエース和田。菅田町のインド雑貨屋。学園通りのファミマ。きむ酒。そして学校。
雨に濡れた松江の黒いアスファルトの路面から伝わってくる記憶はどれも、学校で終わっていた。来る日も来る日も通った場所。研究室や教室や図書館じゃない。BOX棟2階の部室。
おれの大学生活の総てはやっぱり、そこだったんだ。おれはやっぱりそうなのだ。おれは軽音の空気からどうしても離れられない。それが幸せなことか不幸なことなのかは知らない。


四年間で学んだこと。死ぬほどある。
四年間で新たに触れ、魅入られた音楽。死ぬほどある。
四年間で失敗したこと。死ぬほどある。
四年間で人を傷つけたこと。それも死ぬほどある。

四年間でいろんな人と出会い、そしてその人たちに支えられたこと。
・・・死ぬほどある。ほんとうに。あり過ぎて恥ずかしくなるくらいにあるよ。
そしておれは、その総ての出会いに感謝したい。ほんとうに感謝したい。この四年間でおれと出会い、おれを支え、おれを導いてくれた総ての人たちに「ありがとう」と言いたい。おれから離れ、おれと訣別した人もいた。おれが拒んだこともあればその逆もあった。それでも、その人たちと出会えたことにもやはりおれは「ありがとう」と言いたい。
ありがとう。ほんとうにありがとう。

おれの大学生活はあなたたちと会えたことで、ほんとうに、ほんとうに豊かなものになった。あなたたちのどれか一人でも欠けていれば、きっと幸福な今日を迎えることはなかっただろう。総ての出会いに、この場を借りてせいいっぱいの「ありがとう」を言いたい。ありがとう。


・・・そして最後はやっぱり、おれを育みおれを拒み、そしておれを受け容れた軽音に戻るのだ。

軽音で出会った総ての人。軽音で学んだ総てのこと。


あの時間は嘘じゃない。あの時間は幻なんかじゃない。あの時間のつづきは、今、ここでつづいている。

軽音の仲間たち、また、松江で会おう。おれたちの間にある総てのことを語り、そしてその総てを肯定しよう。

おれたちは何かがやりたくて、それで軽音のドアを叩いたんじゃないか!何かを変えたくて、何かを叫びたくておれたちはあそこに集まったんじゃないか!

これで終わりじゃない!絶対に終わりなんかじゃない!また何度でもおれたちはあの日の気持ちに帰れるはずだ!

何かに導かれておれたちは出会った。

そうだよ。偶然なんかじゃない!




おれたちの心はいつでも、BOX棟2階のあの部屋に置いてあるよ。



さよなら松江。さよなら島大。さよなら軽音。

そして、ありがとう。ほんとうにありがとう。



いつか、またどこかで会いましょう。身体には気を付けて。風邪ひかないでね。ゲロ吐かないでね。



それじゃあ、ひとまずここで。

 

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黒沢清の「降霊」



関西テレビが製作したTVMですよね?出雲のGEOに置いてあったので、普通に怖いホラー映画を期待して借りてみたんですが、普通に壮絶に怖い極めて高性能なホラー映画でした。 こんなに洗練されたホラー映画なのにハリウッド・リメイクされていないのは、実は本作自体がマーク・マクシェーンの小説「雨の午後の降霊術」(Seance on a Wet Afternoon)の再映画化だから(一回目の映画化は1964年、ブライアン・フォーブス監督、キム・スタンレーとリチャード・アッテンボロー主演の「雨の午後の降霊祭」)。


フジテレビの深夜番組で以前、そのテの「見える人」に「『見える』ときをいちばんリアルに再現したホラー映画」を訊いたところ文句なしの第1位に輝いたことであまりに有名な映画ですね。ホテルの食堂で役所広司が風吹ジュンの肩に『見て』しまうシーンが、現役の「見える人」たちにとっては極めてリアルに作られていたそうです。ほんとうにそういう風に見えるんですって。
 
個人的にいちばん怖かったのが、ファミレスの大杉漣のシーン。無造作にさりげなく、しかし忽然と・・・。実際、『見える』ときってそういうものかも知んない、と思わせてくれる意味でまさに極めてリアル。大杉漣が演じる腹立たしいまでの傲岸不遜なクソサラリーマンの演技もリアルで、そこに注意を惹きつけられた隙にそれが『見える』、タイミングの妙。完璧。

過日のジャパニーズ・ホラー粗製濫造の狂騒の影で、リアリズムを追求したシネマヴェリテが如きホラー演出はとんと忘れられてしまったように感じるけど、ジャパニーズ・ホラーの武器ってやっぱりそこだと思うんだよね。それでなくてもここまでリアリスティックに、かつストイックに作られたホラー映画も珍しい。歴史的傑作「恐怖の足跡」(Carnival of Souls)に伍するかも、と言うと褒め過ぎだろうか?でも、それくらい良いですよ。
POVの手ブレカメラが映画界の新たなドグマとして定着し、猫も杓子もインディペンデントもメジャーの大作映画も等しく手ブレでブレブレの21世紀映画界にあって、ジャパニーズ・ホラーが、というよりホラー映画そのものがどこへ向かうべきなのかはぜんぜんわかんないけど、POV以前の固定の画作りにおけるホラー演出の、まさにひとつの里程標であり、立ち返るべき原点。いまの映画がわからなくなったら、とりあえず観直してみよう!





・・・とは言うものの、やはりいちばん忘れてはならないのはこの映画がサブテーマとして「小市民の悲劇」を内包しているということだと思う。小市民の平凡な幸せが、ひとつの奇妙な偶然を発端にして全部崩れていく、という、言わばサム・ライミの「シンプル・プラン」ですね。
映画の前半では、役所広司と風吹ジュンの、慎ましくも幸せな夫婦生活が丹念に描かれていく。お金はそんなにないけれど、二人で生きていくには充分だし、ケンカもしないし、たまの休日になればレストランに行っておいしいものを食べてアレコレと未来についての話をしたりする。ほんとうに幸せそうだ。何も不足がないように思える。でも、ある事件がきっかけでその平凡な幸せに影が差す。

「ねぇ、わたし、このまま終わっちゃうの?」
「・・・・・・・」
何かきっと良いことがあると思ってたから、二人で生きてきたのに!このままここで終わっちゃうんだ


風吹ジュンのこのセリフはともすれば幽霊よりも怖い。自分の人生が無価値だったとわかる瞬間。そんなこと言われたって!と観ているときは思うけど、でも責められない。たぶん、これは誰の人生にもいつかは訪れる万人に平等なホラーだから。
 
遅かれ早かれ、きっと来る。自分の人生の無意味さを知る、或いは突きつけられる瞬間が。そのときあなたは何を思うのか? そして、それに耐えられるのか?


 人生はいちばんおそろしいホラー映画だ。どんなゾンビよりも、どんな幽霊よりも凶悪で無慈悲な出来事に溢れた究極のホラー映画。 ただ、その映画を撮っているのは誰なのか?金を出してるのは神様かもしれないが、現場で働いているのは少なくともおれ自身だ。根本敬さんが言うように、脚本の決定稿は常におれの足元に転がってるんだ。

地獄のような世界を生きつづけることがハッピーなのか、死を選ぶことがハッピーなのか、それは人それぞれだけど、いずれにしろ自分の納得がいく形でエンドマークを迎えなくてはならないよね。
あなたはどう?生きることがハッピーだと勘違いして死にたい?どうでもいいことにチマチマと幸せを感じられるような合成ドラッグでクスリ漬けになって幸せな笑顔で安らかに死にたい?

まあ、それが割り切れないうちはまだ死ぬなってことだよね。おれはまだ二周目にも入ってないし、自機も残ってるみたいだから、まだしばらくはロックのCDを聴いてジャンクフードを食べてゾンビ映画観て泣いたり笑ったりしてるよ。
「降霊」でここまで人生を考えるとは思わなかった(笑)


ところで、役所広司と風吹ジュンの夫婦の人生はこれからどうなっていったんだと思う?
おれは、実はあれはハッピーエンドだったんじゃないかって思うんだ。
hamburgerfest3.JPG


学祭中止・・・。
少なからず島大生の心根に暗い影を落としたこの惨禍を受け、オズフェスト、ラウドパーク、安来刃物祭を凌ぐ世界四大フェスのラスボスとして恐れられる、「オニフェスト」(俗称:魔界の祭典)がオニちゃんの家で開催された。「バーミヤン。おれたちはいったいどこで道を間違え、そして何を失ったのか?」
ぅううあぅあバーミヤン!!!

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hamburgerfest5.JPG
25個のマックポークと25個のハンバーガーと2個のクオーターパウンダーを喰いまくる。ただそれだけ。胃袋の蠕動する音、大量の肉塊を前にしたときに咽喉からこぼれ出る絶望という名の呻き声、そしてパブロフの犬が如き垂涎音、これらが三位一体となって奏でる地獄のアンプラグド・インプロビゼーション!!!立ち現れたるはまさに涅槃の境地!!!バーミヤン!バーミヤン!!ばーみやんばんざーーーーい!!!


おれたちはいったい、どこで、何を間違えたのか?そしていったい何を失ったのだろうか・・・?


「・・・げぇぷ。ま、まじきちぃっス」
「ぅぉっぷ」
「ひはっ」

・・・・・・・・・・・・・。


ねえ、なんで無言になるの!!!



全員5個目くらいでギブアップした。(おれのわがままに付き合ってくれた皆さん、ありがとうございました。)
AMS
おとついくらいにITT O)))ちゃんから「AMSのオンラインショップがもうすぐなくなるから、半額セールをやってるよ」、と聴いてびっくりした。アルケミーの実店舗がなくなったとき、そんなにびっくりしなかったが、オンラインショップまでなくなるとなると少し考え込んでしまう。

もちろん、アルケミー・レコードのあの耳のロゴを冠したCDがこの世から消えてなくなるわけではない。ネットでもしばらくはAmazonやディスクユニオンで手に入る。ただ単にアルケミー・レコードが音楽産業という生き地獄のようなシノギの場から撤退し、足を洗った、というだけだ。しかし、それにしても。

いたたまれない気持ちで半額コーナーのページをながめながら14枚くらい一気に注文して銀行に代金を振り込む。個人的にそんなに利用したショップではなかったけれど、花電車の「THE GOLDEN AGE OF HEAVY BLOOD」やHIGH RISEのCDはここでしか手に入らなかったような気がするし、花電車を聴かなければPOSTOVOIの「THE GOLDEN AGE OF HELTER SKELTER」という曲は完成しなかったような気もする。


「いまの世の中、AmazonとヤフオクとE-bayを使えばたいていのものは手に入る」
JOJO広重が以前こういうことを言っていた。いかにもインディーズの盟主、救い主のような顔をしてせせこましくメジャーのミニチュアのようなオンライン・ショップを経営しつづけるよりも、あっさりと負けを認めて足を洗ってしまうほうが潔いし、いろんな意味で「インディペンデント精神」ではないかな、と個人的には思う。別にディストリビューターたちのテリトリーや権力があまりに強大だからではない。ただ単にひとの心が貧しくなっただけだ。いや、もともと人心とは貧しく卑しいもので、それが今になってようやくダイレクトに発露される機会を得ただけなのかもしれない。



人類史上最初のインディーズ・レコード(レコード・レーベルの力を借りずに自費生産し自費販売されるレコード)はBuzzcoksの「Spiral Scratch」だと思う。実際はビートルズのアップル・レコードだって広義のインディペンデントだし、それ以前にもディストリビューション・メジャーやメディア・メジャーとの契約を介さずにレコードを出していたひとたちはいたし、日本では1968年にザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」を大ヒットさせたりもしているから、正確なことはわからないけど、DIY精神を世界に播種したのはやはりBuzzcoksだと思う。あらゆる流通メジャーや広告メジャーの力を借りずに、より自由に表現活動をしていくやり方。もちろんアガリは少ないし、不良在庫をかかえるリスクを分散できるだけの資本基盤もない。それ故にそれだけで食っていくことは出来ず、バイトをしながらとか定職に就きながらとかでむしろ商売としてはまったく機能していないが、だからこそ何のシガラミもペナライズもなく、大好きなチンコやマンコやウンコについて堂々と音楽できる(そもそもBuzzcoksとは「爆裂チンコ」という意味だ)。

ゾンビ映画もスプラッター映画もポルノ映画も、1950年代後半から1960年代末にかけてアメリカで流行したドライブ・イン・シアターで商魂たくましく一山いくらのエクスプロイテーション映画を作ってきたインディペンデントの製作者たちがいたからこそ発展してきたのだ。ジョージ・A・ロメロなんか未だにインディペンデントだ。そう思うと、DIYやインディペンデントというのは文化の本質なのかもしれないね。

でも、時代は変わった。
アンダーグラウンドの流通インディペンデントや広告インディペンデントを担ってきた地下コングロマリットはいまやその役割を終えつつある。いまの時代、プロ・トゥールスの波形合成にはかなわなくともMTRやDTMのフリーソフトを使えばいくらでも自分たちで音源を作れるし大量のCD-Rを生産できる。GIMP2を使えばたいていのグラフィック・デザインは自前で作れる。


ガレージバンドとマイスペースさえあれば、誰もが「神様」になれる時代・・・。

そういう時代にあって、DIY精神やサード・パーティとしてメインストリームに対抗していくギルドを組織していくことはもはや徒労であり、アナクロニズムでしかない。いまの時代、誰もがパッケージであり誰もがアイコンであり、そして誰もがインディペンデントであり、かつ同時にメジャーだからだ。オレ、オレ。みんなが自分を誇示しようとあらゆるファッションやエレクトロニクスを駆使して大同小異の「個性」をひけらかそうとせめぎ合っている時代。ヴァルター・ベンヤミンが明示した「複製技術時代」の到来は、いま究極のモデルを獲得し、そしてそれが故に最悪の状況を作り出しつつある。

最悪?でもそれはBuzzcoksの時代からアンダーグラウンドの表現者たちの畢生の夢だったはずじゃないか。「誰も」が自分たちの「表現」を自由に、何の規制の心配もなく発表し、産業の如何なる介入も受けずに「平等」に流通する社会。最高じゃないか。

確かに、マイスペースは音楽産業にタカるディストリビューターというハイエナからわたしたちを守ってくれるかもしれない。表現の発信と享受はより平等に、より自由になり、いまはただ単に我々がそのあまりの機能美に圧倒され、感覚が補完されきっていいないだけかもしれない。しかし、我々の感覚が完全に補正されたとき、そこに広がっているのは無限の数の「神様」が跋扈する価値観の墓場なのではないかと思えて仕方がない。

想像してみてほしい。Amazonウィジェットの配列パターンが総ての価値の基準となり、情報の奔流に耐え切れずに自らすすんでAmazonに取りすがろうとする人々の姿を。マイスペースやyoutubeで取り交わされる音楽や映像をもはや情報のビット列としてしか解釈することができず、もはや易経の如き偶然の選択によってしか自分たちの「好きなもの」を判断できない人々の姿を

事大主義的だって?でもそういう気がして仕方がないんだ。不安で仕方がない。いつかわたしたちは、自分たちが好きなものが何なのかさえ、わからなくなるのではないか?

少なくとも今後20年間で大衆芸術は大きなパラダイム・シフトを迎えるはずだ。いままでのような消費のやり方はここでいったん終わるんじゃないかな。パッケージド・コンテンツはそれでも永遠になくならない、と考えているひとは少なくないけど、Amazonが消費構造のプライオリティを完全に変えたように、音楽をアーティストの神具や仏具のワゴンセールであるかのように消費するいままでの構造は恐らく消滅していくんじゃないだろうか。もちろんパッケージとしての商品の付加価値というのは(実数そのものは相対的に変化するにせよ)何らかの優位性を保つのかもしれないが、Amazonが消費の基準を「消費されるコンテンツの価値」から「消費行動そのものの価値」へと狡猾に変えてしまったように、パッケージもダウンロードも関係なく、もはや音楽は食べ物や飲料水を選ぶのと同じように消費されるようになるのではないだろうか。美味であるかどうかが基準となる高級料理ではなく、生活のライフラインとしての食事のことだ。例えばハードコア・パンクは郊外のマンモス・モールのフードコートでファストフードのように、例えばJ-POPは買い貯めのカップラーメンのように、例えばノイズ・ミュージックは高架下の屋台で売っている二束三文のケバブのように。もっと云えば、ガソリンのように。灯油のように。携帯のバッテリーのように。乾電池のように。ゲームのメモリーカードのように。コンドームのように。マスターベーションをするときのティッシュペーパーのように。

美味であるかどうかとか、そのクオリティは関係なく、ただ単に消費されるだけの使い捨てのもの。それが大衆芸術というものの本来の役割なのかもしれない。原初的には音楽というのは祭事のときの儀式めいたものだったのだろうし、それが故に呪術的な意味合いもある一回性のものであり、掃いて捨てるほど、佃煮にして売れるほどコンテンツとして流通しているいまの状態がまったくもって不健全であることには、よく考えれば誰もが気付くことだろう。それらのコンテンツ・ミュージック、コンテンツとして流通し消費される「狭義の音楽」を音楽よりも低次なものに俗転させることこそが音楽が音楽らしく復古することの唯一の道であるようにも思えるし、それで良いのかもしれない。音楽をコンテンツとして消費することで我々が得たものには多大なものがあるけれど、それと同時に失ってしまったものも確かにある。問題は結局、それについて無自覚な人間、何の反省もない人間が多すぎるということである。



「AMSはマーケットの役目を終了しました。」


Amazonがどういう雇用形態で労働者を使い捨てているかは知らないが、確かに純粋な小売業としてはかつてない良心的な価格で商品を全国流通させることに成功している意味で、インディーズの何を守っているわけでもないのに「インディーズの神」として高い値段で消費者に買わせるよりも全部Amazonに一任してしまったほうが目先の問題においても中長期的にも良いだろう。確かにAmazonは裏でどんなひどいことをしているかわかったものでもないし、胡散臭いが、要は消費者が利用するだけ利用してやればいいだけのことだ。それが商売であり、消費であり、そして資本主義というものなのだからして。

「規模も小さいし値段も高いけど、良いものを売る」がDIYの本懐だが、それが現実に機能していた時代は終わった。それは個人の問題とか世界経済の問題とかいろいろあるだろうが、結局は時代の要請でそうなっているとも云える。何が「良いもの」で何が「悪いもの」なのか、我々にはもうわからないし、もはやその基準さえ失われている。それで良いのかもしれない。価値観の墓場が手招きして我々を待っているが、その一方で我々は音楽というものとほんとうの意味で、良くも悪くも対峙できるようになったかもしれない。それがどんな結末を迎えるかは別問題だが。



とりあえずAMSの半額セール、9月末日までだそうで(場合によっては10月以降も散発的にあるかな~?ヤフオクでの動きも合わせてここしばらくは要チェック)。アルケミー・レコードのカタログは気に入るかどうかは別として、関西のインディーズ・シーンというものが何かを投げかけ、投げかけつづけた、ということの確かな記録であるように思う。一枚900円~1400円でおもしろいものが揃っているので、これが最後にして最大のチャンスだと思って購入してみはいかかでしょうか?

AMSオンライン


おもしろい音楽を、ありがとうございました。
denden.JPG

実習がはじまって2日。残りは5日。完全アウェーで孤独死しそうですが、わたしはいつでも孤独なのでぜんぜんオッケーです!!!孤独最高!!!

今日はコピーをとりに大社町のでんでんむし図書館へ行ってきました。絶対にコピーをとらないといけない書類があって、出雲大社周辺にはコンビニというものが存在しないので、コピー機といえば博物館の事務室に平身低頭でお伺い立てないといけないのですが、なんか「できるだけやめてください。」と言われて極めてアレでアレなので、ここでアレすると負けだと思ったので2キロ先のでんでんむしまで行ってきました。コピー6枚とるために徒歩で炎天下の出雲大社参詣道を2キロ歩いて60円払った俺は、果たして「地上の星」になれたのだろうか・・・。

昼食は「いずも 縁結び本舗」でソフトクリーム300円を食べました。出雲大社周辺にハイエナのように群生する土産物・外食産業のなかでアタリの店を探すにはそれなりの訓練が必要なのですが、ここは直感で行動したのが幸いしたのか、普通にうまかったです。わたしは一食がアイスクリームでもチョコエースバットでも平気なので、これで良いのです。

大社町の、名所旧跡の周辺に点在するアーケードはぜんぜん好きじゃないですが、そこから奥まった住宅密集地域の情緒にはたまらないものがあります。旧家がパズルのように入り組んだ町並みはとても美しく、地中海沿岸の白亜の市街地もパリのシャンゼリゼ大通りもサバンナのバオバブの並木もTウィルス流出後のラクーン・シティも、大社町の旧市街にはかないません。



ところで、なんで「化物語」がこんなに お も し ろ い ん で す か ー ー ー 。
わかりませーん。だれか教えてくださーい。普通におもしろいんですが。かつてこんなに「童貞」と「処女」という言葉が飛び交ったテレビアニメが、地球上に存在したでしょうか?当面の注目はこの先ひたぎタンと暦きゅんがセクースするかどうかなのですが、たぶんテレ東はチキンなのでそのフラグは成立しません。なんで!!!こんなにエロいのに!!!パンチラではじまるアニメなのに!!!
少し衒学的なきらいがありますがそこはそれ、痛々しいライトノベル・ユーザーの旧弊に何を言っても詮無きこと。大人ならここは素直に、バカとエロが詰め込まれた愛情たっぷりの変態ブーケを身体いっぱい受け止めましょう!!!

「化物語」がすごいのは、主人公のアララギ暦くんが元・吸血鬼で童貞であり、しかもそれを負い目に感じて日々を生きているという点です。ここらへんはジョージ・A・ロメロの「マーティン」に近いです。昨今のライトノベル読者たちは自らの性遍歴を自虐的に(もしくはその逆に)嘲笑の対象にできるようになったんでしょうか?その意味でもエポック・メイキングなアニメになりそうな予感がします。主題歌の「Staple Stable」と「君の知らない物語」、どちらも良いです。

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自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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