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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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「作品」とは何だろうか?

人はなぜ書を編み、詩を吟じ、ものを象るのだろうか。文明が開闢して爾来、古代から今日に至るまで幾星霜つづいてきた芸術という営為のその根元は、果たしていったいどこにあるのだろうか・・・?


作品に接する、ということは会話の中で他人の言葉を聴き取るという営為に近いものがあるとかねがね思ってきた。というのは、我々は周囲の事象や状況が確かに変化したと感じるとき、その論理的な帰結を常に考究しつづけるように運命づけられていて、それ故に何か「音が鳴っている!」「字が並んでいる!」「画が描かれている!」と反射的に感じるとき、脳はきっとその何らかの「意味」とか「理由」めいたものを求めるようにサーキットされているものだと思うからだ。なぜそこで音が鳴り、字が踊り、モノが描かれ象られているのだろうか・・・そのことの意味や理由を納得のいくかたちで「理解」することは即ち、誰かが何かについて語っているその言葉を単なる音韻の羅列から理路整然とした意味の集合、因果律へと落とし込もうという作業そのものではなかろうか。
「なぜ我々はモノを理解したがるのか?モノに意味を求めたがるのか?」という問いをトートロジーだと考えればそれらは遡及不可能な大前提である。したがって総てのモノや現象というものは総じて他者の「問いかけ」であり、我々はその問いかけの真意を理解しようとしなければならない。例えば温度や天候の変化や四季の移ろいや光陰は神(と、便宜上しておく者)という話者のひとり語りであって神の他者に対する「問いかけ」である。動物の移動や咆哮はその主体たる動物によって為される他者への「問いかけ」である。そして、話者が発する声とは、それが憑拠とする言語を我々が理解していようがいまいが等しく、他者に対して「問いかけ」られたものなのである。

改めて、「作品」とは何か・・・?
「作品」とは作者という話者のひとり語りであり、彼の他者に対する「問いかけ」の一様式である。では、それと他の「問いかけ」とを隔てる懸隔とは何か?端的に言うならば、その「問いかけ」の構造やそれに対するアルゴリズムがより煩雑で難解なものを我々は「作品」と呼ぶのではないだろうか。もしくは、作者と我々との間で交わされるコミュニケーションにおいて作者が何らかのポーズによってある傾向の解答を否定し、またある傾向の解答を奨励するようなものをそう呼ぶのではないだろうか。人という作者が何かを「思わしげ」に我々の前に差し出すとき、その「問いかけ」に対する我々の解答としてもっとも原始的なものは拒まれる。「それは紙だ」「それは石だ」「それは画布だ」「それは塩化ビニルだ」「それはポリカーボネイトだ」もしくは、「それは便器だ」。作者が「イヤ、そうではない」と答えたとき、そのときその「問いかけ」はもっと別の意味を持つものとして解釈され、そしてその別の意味を探求する新たなサーキットを我々は走り始める。
そういったものを我々は「作品」、「芸術」と呼んでいるのではないだろうか?

そしてその「問いかけ」の意味を理解するためには、「それは音の塊だ」「それはヴァイナルだ」という原始的な解答やトートロジーとは違った解答を見出すためには、我々はその話者が話す言語や作品に底流するコードを渉猟し習得しなければならない。もちろん、そういった言語学とは無関係に、その「問いかけ」に「無為に傾聴する」という視座もあってしかるべきである。それを否定するつもりはないが、しかし、それは相対主義やテクスト主義の真髄とは異なるものであると感じる。通底コード(実際には、「~の、ようなもの」でしかないことは否定できないにしろ)を見出すことは「問いかけ」に対する複数ある解釈のうちのただひとつを絶対的なものとして定めることではなく、「問いかけ」の意味を理解するためのサーキットを明確にしようという行為である。そのサーキットが間違っていても、我々はそれをマチガイであると自覚することでまた何かを学ぶことが出来るはずである。

 

最近、60年代のブリティッシュ・ブルーズを積極的に聴くようになった。ブリティッシュ・ブルーズを好きになったのだ。それは恐らく、ブリティッシュ・ブルーズを解凍するのに適した拡張子が脳内で結線されたからではないかと思う。例えば子どものころ、わたしにとってのその母国語はNHKの『みんなのうた』でありJ-POPであった。対してアメリカやイギリスのロックは、これは最初はグランジ・メタルやニューヨーク・アヴァンギャルドといった「方言」の習得から始まったのだけれど、やがて母国語の規模に伍するまでのサーキットをわたしの脳内に結線した。いわば第一外国語だ。そしてわたしの脳の中に今、新たなサーキットが敷設され張り巡らされつつある。ブリティッシュ・ブルーズという第二外国語だ。

新しい言語を知ることで、それまでは単なる音の塊にしか聴こえなかったものにもある程度の意味を読み取ることができるようになる。また、かつて知っていた言語やコードで読み取っていた「問いかけ」をその言語で読み込むことで別の意味が姿を現すことがある。ブリティッシュ・ブルーズの魅力を知ることで、それまで「ロック」という言語とアルゴリズムでしか希釈することのできなかった音楽もまた違った顔を見せる。

(ブリティッシュ・ブルーズはいわゆるプリミティヴな意味でのブルーズではないが、それが何だと言うのか。別の言語によって話されたものに触れ、それに啓蒙され、その中のいくつかのことを自らの血脈の中に受け容れ、継承した。ブリティッシュ・ブルーズとはその力動を刻銘に記録したドキュメントだ。それがホンモノであるかニセモノであるかという議論は必要ではあるが、しかしけっして総てではない。)


split.JPG

例えば、The Groundhogsの『Split』はブルーズ・ロックのクラシックとして高く評価されている名盤だが、わたしがこれまで習得していた第一外国語である「ロック」リージョンの語法ではSplitクワドロジーを収録したA面にその高度を認めていたように思う。対して、ブリティッシュ・ブルーズの哲理を習得した新しい視座から見ると、エポック・メイキングなA面と比べてよりトラディショナルでより地味で後退的なB面の価値もまた同様に素晴らしいものであるように思えてくる(特にアルバムの掉尾を飾る「Groundhog」は、オリジナル・フリートウッド・マックの「The World Keep on Turning」や「Trying So Hard to Forget」で聴かれるようなミニマリズムの極致を鼓膜に打刻する、鳥肌が立つようなホワイト・ブルーズの名演だと思う)。

この時期のイギリスのブルーズ・ロックを巡る状況・・・大きなメタモルフォーズと地殻変動を前にした奇妙な緊張感やクロスオーヴァーの熱気に包まれ、新たなメソッドが積極的に試されては一方は淘汰され他方はその土壌に根付きはじめていた・・・、それは別の見方をすればイギリスの若者たちがそれまで用いていた言語が異文化衝突によって部分的に書き換えられ、結果的に土着言語と舶来言語の私生児としての有象無象のヴァリエーションが燎原の火の如く励起していった時代でもあったことを、そのとき衝突した二つの言語を同時にフィルタリングすることによって21世紀の日本の片田舎でうかがい知ることが出来る。いままで軽んじるか、或いは食わず嫌いを決め込み無視していた文化に触れることによって新たな視界が開け、それまで使い方や読み方のわからなかったサーキットに電流が走る感覚にリスニング・アドベンチャーの醍醐味を感じずにはおれない。二つの異なる言語やアルゴリズムが衝突し、互いの染色体を交換し全く新しい私生児を作り上げていくこの過程は極めて「スリリング」だ。

 ところで、

エリック・クラプトンとピーター・グリーンのどちらが好きか?


、という問いは例えば冷やし中華とザルソバのどちらが好きか?と問われているようなものでそもそも答えようがないが、敢えて言うならクラプトンはこってりと脂の乗ったドロドロの冷やし中華であり、他方でグリーニーはソバとツユの極めてシンプルなコンポジションである。

大衆音楽産業にロックという新たな言語を持ち込んだのは、厳密にはイギリス人ではない。しかし、その新しい言語の文法と修辞を整理する作業に貢献したゴッドファーザーの一翼として、エリック・クラプトンとジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの鉄板トリオ、クリームの名は絶対に音楽史に刻まれていなければならない。ドロドロの冷やし中華という形容は、そもそもクリームの鉄板の3人が壮絶なジャム・セッションにおいて醸成していったロックという思想が、そもそも絢爛豪華でグラマラスであることを表すアイコンであることに由来している。ブリティッシュ・ブルーズがミニマリズムを美徳としていたのに対して、クリームの3人が作り出した壮絶なラウド・ノイズの壁が惹起するのは物量作戦と人海戦術である。

ピーター・グリーンは「間」をたいせつにするギタリストであるが、対してジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの爆撃のようなリズム・セクションとそれに乗るエリック・クラプトンの躁病的なギター・プレイはとにかく「手数」を重視したものであるように思える。



livecream_vol2.JPG


クリームの『Live Cream Vol.2』はヘヴィ・ロック史の劈頭を飾るまさに歴史的名盤であるが、そこで聴かれる凄まじいジャム・セッションはそれまでの静と動という二進法の「間」のギター哲学に重きを置いたブリティッシュ・ブルーズの言語から逸脱し、とにかく物量と速度の指数関数的爆発を標榜する「手数」の楽理に貫かれた新しい言語を創造するものであった。

『Live Cream Vol.2』の奔流のようなギター・プレイはまさに「発狂」という形容こそふさわしい。ピーター・グリーンの「間」の巧みさや艶やかなサステインに衝撃を受けたあとにこのエリック・クラプトンの演奏を聴くと、少し荒削りで不恰好なように感じられるが、それはそもそもクリームの音楽がそういう「言語」を基底として展開されるものだからであり、「間」の言語よりも「手数」の言語、「スピード」の言語で解読すればクラプトンの演奏は「あらゆる技術的なディシプリンを置き去りにする、狂気に満ちた迫真の演奏」という風に解釈することが出来る。


正直、『Live Cream Vol.2』はいわゆる「バカテク」を期待すると拍子抜けする作品だと思う。しかし「手数」や「スピード感」や「狂気」というフィルターをかけてもう一度耳を傾けてみると、ジャック・ブルースのドライヴィンで扇情的なベースライン、ジンジャー・ベイカーの核爆発のようなドラミング、そしてエリック・クラプトンのネジが外れて暴走した10トントラックが崖を転がり落ちるように騒々しく節操がなくやかましいギター・プレイの三位一体のオートマティズムが確かに一定の「言語」に貫かれているように感じられる。これがスペクタクルである!第一に、音楽的、音響的、物理的にとんでもなくスペクタクルである。High Riseをはじめて聴いたときの衝撃を軽く凌駕する、と言ってしまってもまったく過言ではないと思う。間違いなく「ヘヴィなもの」としてのロックのアイコンはここから定位していったのだ。間違いないのだ。

そして第二に、それまでの言語が書き換えられ、組み替えられ、新しい言語、新しいアルゴリズムとして転生していくということ、それ自体がとんでもないスペクタクルである。その理由は前述したとおりであるから繰り返さないが、二つの異なった言語を親として新しい言語が生まれ出る過程はエポック・メイキングでスリリングでダイナミックなものである。この『Live Cream Vol.2』に収録されているライヴが行われたのが1968年である。信じられないがそうなのである。文献を紐解くと、クリームとしてのキャリアの全盛期に行われていたジャム・セッションはキャリアの終盤に行われたこの『Live Cream Vol.2』のライヴよりもはるかに壮絶ではるかに凄まじかったらしい。信じられないがそうらしいのである。



恐らく、ピーター・グリーンもクリームの壮絶なジャム・セッションをどこかで実際に体験していたのではないか。そしてその凄まじい演奏によって、まったく新しい文化が誕生していることに気付いていたのではないか。シンプルなザルソバも美味だが、ドロドロの冷やし中華やラーメンも結構いけるぞと。そしてこれからは冷やし中華の時代だと。

オリジナル・フリートウッド・マックが新たなギタリストとしてダニー・カーワンを迎え入れ鉄壁のギター・オーケストラを完成させたのは、クリームが生み出した「手数」の音楽を自らのものとするためではなかったか。そして1969年9月に彼らは歴史的名盤『Then Play On』を発表、その白眉編である「Rattlesnake Shake」のライヴ演奏は、「間」と「手数」の壮絶な核融合の軌跡であり、クリームがもたらした新たなアルゴリズムに確かに呼応するものであった。この「Rattlesnake Shake」のライヴ演奏は『Live in Boston Tea Party』に収録された24分間のヴァージョンを聴いてみて欲しい。「壮絶」の一言である。
 


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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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