忍者ブログ
島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
[193]  [192]  [191]  [190]  [189]  [188]  [187]  [186
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



アラン・ムーアが近年のアメコミ・ファンダムについて「今日日アヴェンジャーズの映画をwktkしてるのは30過ぎのノスタルジーマンセーの大きなお友達ばかりでスーパーヒーローコミックはもはや本来の読者たるべき小学生のものではなくなってしまった。クソ嘆かわしい。ていうかグラフィック・ノヴェルっていう言い方痛くねえ?」*と発言していたそうで爆笑だが、別にこれはアメリカに限った話ではなく、NERDなサラリーマンが革命機ヴァルヴレイヴというクソアニメをわざわざモバイル・ストレージして通勤電車の中で不気味な笑みを浮かべて嗜みながら上司からの直電を着拒するという狂気の沙汰のようなCMをパブリック・アドレスしている我が国のアニメ界隈においてもけっして無縁ではあるまい。

変化に順応できない保守的で頑迷な思想的ヒルビリーもしくは改宗した隠遁ヒッピーの普遍的な脊髄反射と決めつけるのは簡単なことだが、アラン・ムーアにしろ富野由悠季にしろ宮崎駿にしろ、それがどんなに凄惨な自己憐憫に裏打ちされたものであれ、深謀遠慮に基づくミス・ディレクションを企図したものであれ、いつの時代もみな押しなべて言っていることは正論ではある。矛先はさまざまなれどいずれの論陣も市場の停滞や硬直化に対する危機感が根底にあり、結局毎度判で押したようにデモグラフィック:ナードな文化はそのうち行き詰るよ、というありきたりなご託宣にたどりつくものではあるにせよ、このアナロジーはさんざ使い古されながらも未だ説得力があるとはいえる。

ただ単にジャンル文化として如何なるクロスオーバーも否定しほとんど民族浄化にも似た強迫観念的なマニエリスムへと没していくことを潔しとする原理主義的なポジションと、より総体的に創造的破壊を是としてあらゆる文化的営為に積極果敢にコミットした総合芸術たらんとするリベラルなポジションのせめぎ合いの中で、その狷介で鼻持ちならない態度からまぎらわしいがアラン・ムーアや富野・宮崎は総じてやはり後者に類別される。

イギリスのニューウェーブSFがそれまでのA・E・ヴォークト的にしてサイエントロジックなウンコ疑似科学的なヒロイックSFを解体しいっぱしのスペキュレイティヴ・フィクションへと転生させたように、『ウォッチメン』はキーン条約を作品世界に仮構することでスーパーヒーローコミックをメタ構造に落とし込みジャンルを一歩上の次元へと引き上げた。それによってもたらされたポスト・モダニックな混乱とフォローワーたちの方法論ばかりが先行した手段と目的の取り違えという頭を抱えるような愚行は歴史につきものの残酷な皮肉であるとしても、そもそもの動機は純粋に、賞味期限をとっくに過ぎたジャンルに同時代性という付加価値をどう付与するか、という極めて建設的なもの。これはガンダムにしてもナウシカにしてもエヴァンゲリオンにしても同じ。セックス・ピストルズにしてもブラック・サバスにしてもニルヴァーナにしても同じ。閉鎖的な村社会と化した文化はムカつくし、意味がない。誰もがカビの繁茂した同じシンタックスの傘の下で、同じネットワークで、同じプラットフォームで、同じオブジェクト指向インターフェースで、同じコンテンツを嗜む。クラウド万歳。ニュースピーク万歳。これじゃスタンドアロンでゲルマニウム・トランジスター・ラジオのエアプレイをカーゴ・カルトしていた紀元前の昔のほうがなんぼか多様で革新的だったじゃねえか。そして人々はヴィデオがレディオ・スターを殺したときにようやく気付く。総ての文化はみな、最初はカウンターだった。付和雷同と右顧左眄の救いようのないチェーン・コンボでスプライトの隙間のヒット・チェックを小突き回すだけのジョバーなシステムからのフェイタリティな解放。あなたがボーン・サックで彼をフィニッシュする瞬間。そのとき、周囲に垂れ込めるハーシュ・ノイズに抗して自らの内部により強力なドローン・ノイズを作り出すとき、その衝動はひとつのサーキットとして形を成す。既成事実とこれを推進する向きとの漠々とした対決。そう、それこそが文化だ。
クロウダディのポール・ウィリアムズもニルヴァーナのSLTSについて同じようなことを言っていた。
停滞と中庸と正統墨守に唾棄し、WYSIWYGの魔手を逃れ、パワー・サプライのない未開の沃野へと敢えて踏み出すこと。ここに大衆性が加わるに如くはないが、或いは変革というアクションそのものが自ずと娯楽性たり得るのかもしれない。

でもここで留意すべきは、これは文化が真に革新的な価値を持ち得るときのあくまで一側面に過ぎないということ。上記に挙げた例はそのハードコアに少なからぬ批評性を抱懐したものであり、その効用が浸潤する速度の差こそあれ皆一様に、ユーザーはこのパッチを実装することで須臾の一瞬ののちに自らをアップデートすることができた。この場合、文化はそれこそ速効性のキラー・ジョイントとして我々の脳を上書きし、我々はそこで批評性という干渉縞の向こう側に新たな地平を垣間見るのだ。

しかしながら、批評性は別にstuffそのものに内在していなくてはならないと決まっているわけではない。あまつさえ批評性は相対的なものでしかないのだから、経年劣化に対する耐性と鋼性にそれを付与するのはたいていの場合、歴史的な文脈や当世社会のパラダイムでしかありえない。 アラン・ムーアだって、小学生に享受される存在としての無慮数千年に渡り連綿と続いてきたヒーロー・パルプの伝統を別に否定しているわけではない。彼は何ら目新しい批評性を持たないジャンル文学は人類の進歩に貢献しないから焚書坑儒しろと言っているわけではないのだ。彼はいい年こいたオッサンがジャンル文学を何か意味があるものとして自己言及性だのシミュラークルだのポスト・モダンの祭壇に上げて玩弄する現状を批判しているのであって、むしろここで論難されているのは「批評性」というテクニカル・タームによって巧みにカモフラージュされた、自らのオーラル・ステージとの離愁に未だに拘泥しつづける者たちの醜い自己憐憫であるといえよう。

このアナロジーを証明する平明にしてそれゆえに極めて致命的な自傷行為となり得る例示はいくらでも思いつける…エヴァンゲリオン以降市場を公然と跋扈した物語の破綻と語り手の凄惨な自己陶酔を糊塗するためだけのオープン・エンディングの粗製濫造(とそれを許したポスト・モダニズム・ジャンキーたち)、グランジ・カルチャーをバロウズ文学やそこから自ずと継起的にサマー・オブ・ラヴの残像と併置させたまでは良かったがメイン・ストリームに対するカウンターというアナロジーに妄執するあまりその音楽性の根本に厳然としてあったはずのブルー・オイスター・カルト性やブラック・サバス性その他もろもろのメタル崇拝をものの見事に見落としてしまった批評家たち(とそれを許した数多のポーザーたち)、等々。これらはほぼ例外なくデベロッパーとエンドユーザーとの醜悪な癒着関係がもたらした文化的な停滞であるといえる。文化の批評性を安易にパブリック・ドメインとしてパッケージしたことによって、そのトリップを永続させんがための両者の利害の一致は結果的に文化の批評性そのものの滅失を招いてしまうのである(批評性は相対的なものであり、つまり後付けのものだということは先に述べたとおり)。

蓋し、批評性とは、最高のトリップをユーザーに約束する強力なデザイナーズ・ドラッグである。少しだけ自分の知覚が拡張されたような気がして、たちまちこれまで自らを囲繞してきた文物や過去が色あせて見える。例えば「けいおん!」等の日常系アニメにおけるアンチ・クライマックスにしてアガペーが横溢し個人的な感情を失った死の世界のヴィジョンに籠絡された人々は、たちまちそれまでの普遍的な文法で書かれてきた物語が前時代的でオールド・スクールに見えて仕方なくなり、「魔法少女まどか☆マギカ」とかも手法としては手垢にまみれていて日常系の革新性には及ぶべくもない、と本気で言っていた論客すらいたものだ。反対に、「魔法少女まどか☆マギカ」の病的なまでの厭世観に耽溺した人々も、同様にその他有象無象が社会性やリアリズムに欠けた茶番劇に見えて仕方がなかったそうな。
でも所詮はドラッグであるから、グラスやコークやアシッドがそうであるように、それがもたらすものが如何なるグッド・トリップであれ、いずれはそこから目覚めなければいけない時間がやってくる。

「大きなお友達」とはしばしばデモフラフィック:キッズな文物に傾倒する成人男性を指す蔑称として使われる。例えばハピネスチャージプリキュアや銀河にキックオフ!をHDDにストレージしていた人間がこれにあたる。反面で、この定義はときに同属嫌悪のネガティヴ・キャンペーンとして悪用されている実態もある。例えば「魔法少女まどか☆マギカや化物語やエウレカセブンを嗜んでいるクールな我々は毎週プリキュアだのアイカツだのに憂き身をやつし続ける大きなお友達みてぇなキメェ連中とは違うんだよ」といった具合に、自らの優越性を賢しらに誇示するために。そしてこの排他的な学閥は押しなべて、「魔法少女まどか☆マギカやエヴァンゲリオンはプリキュアと違って崇高な意味があってとても文学的で哲学的でカックィー」というテーゼを妄信しているものである。要は「あのアニメはあくまで大人向けのものであり、ガキ向けのhenshinアニメに人生を捧げているキモい人たちとはいっしょにしないでください」という免罪符として彼らは批評性ドラッグを濫用しているのだ。権威主義に額づくブタどもが!

冒頭のアラン・ムーアの発言においても、「グラフィック・ノヴェル」というラベリングによってヒーロー・パルプを何か高踏的でアカデミックなものとして過剰に崇拝する批評性ヘッズを痛烈に批判していたはずである。我々はサブカルチャーを批評性ドラッグのキャンディー・マンの魔手から救い出すべきではないのか?そして、デモグラフィック:キッズのアニメはもちろん、あまつさえソフトポルノとしての効能しか持ち得ないエクスプロイテーションのアニメをも不当に蔑視するような「批評性」は、逆に文化を停滞させてしまうのではないのか?さよう、これは修辞疑問である。答えはもはや明白である。

それゆえに「魔法少女まどか☆マギカ」や「YU-NO この世の果てで愛を唄う少女」を言論がことさらに顕揚したように、「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」や「ストライク・ザ・ブラッド」のような傑作エクスプロイテーションにおいても同様の賢慮が注がれることを願ってやまない。両者はテレビアニメという象限における記号的な性表現の可能性を考究し、フリーダム・オブ・スピーチの臨界点までペドファイルやボディ・フラッシュやパンツ・エクスポージングをエクスプロイトせんとした、まさにアニメ表現の人跡未踏のエクストリームを標榜する荘重なる企図である。

したがってわたしは「最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。」の毎話の劈頭を飾る「BINKAN(機種依存文字)あてんしょん」のベーストラックの耳を聾さんばかりのMVYMRが現代音楽の極北を指針し得るものだと半ば本気で思うし、第6話Cパートの「メタルギア・ソリッド」パスティッシュがシャフトのスタジオ・ワークを完全に凌駕していたことはおろか、さだめしエマニュエル・ルベツキのドーリー・カメラの魔法にすら伍するものであったと信じて疑わない。

「ストライク・ザ・ブラッド」(以下STB)についてはもはやここで駄弁を弄するまでもない天衣無縫の大傑作であるが、その勝因は限られたデベロップ資源を世界最強の吸血鬼や半人半獣キメラやホムンクルスや古代兵器ナラクベーラや空間転移魔法や錬金術師その他もろもろのガジェットが筐底狭しとベルト・スクロールで乱れ飛ぶ複雑なタペストリーを織り成す作業にではなく、パンチラ及びパンモロ及び乳揺れ及びパイスラ及びおっぱい全開のエクスポージングもしくはボディ・フラッシュとニンフェット及びLGBT及び触手及びコスプレ及びツンデレ及びハーレム及びラッキースケベの無限コンボを徹底的に描破し尽すことに注ぎ込んだことの一点に尽きよう。2クールに渡り「まったく、中学生は最高だぜ!」とエンドユーザー(成人男性、誇り高き社会不適合者)が滂沱と血涙を流しながら快哉を叫んだことは想像に難くない。最終回もパンツを両手で握りしめる主人公に女子中学生が「先輩のバカァー!!!」と叫喚しながら刀剣を振り下ろしてエンド・クレジットという寸毫の間隙もない鉄壁のエクストリーム・エロ・スペクタクルであり、全編に渡りエクスプロイテーション精神を貫いた製作陣には惜しみなき賛辞と万雷の拍手を送るほかない。完璧である。本気で傑作だと思う。この作品に限っては、作画が当代において必ずしも秀抜とは言い難い絶妙なスカム・クオリティに統一されていた点が逆説的に背徳性と劣情を昂進する要素のひとつとなったことも特記すべきところだろう。その時点で最高のスペックを誇示するプロダクトが必ずしも時代の覇者たり得ないことは、数多の故事が雄弁に物語っているとおりである。ストーリーそのものをソフト・ランディングさせつつセカンド・シーズンを予感させるオープン・エンディングの余白も残すシリーズ構成の手腕も非の打ち所がない。そして何よりラッダイト的文明批判や鼻クソのような功利主義の垂れ流しや世界を照らすアガペーなどの軽佻浮薄なDIY神学にウツツを抜かすことなく徹頭徹尾エロを貫き通した点が本気で素晴らしい。この作品に関わった人間は全員手のつけようのない天才である。テレビアニメにおけるエクスプロイテーション表現はこのSTBを里程標として更に高次のフェーズへと移行したといえよう。かように本作は総てにおいて一点の死角もない、まさに奇跡的な傑作である。

STBについてもうひとつ付言するなら、STBはセカンド・クールのエンディング・クリップのゲスト・ディレクター及びコンテ・マンにあの長井龍雪を招聘しており、最小限のリソースで最高のクレショフ効果をもたらすことに成功している。ホリゾントの一隅に無造作に打ち捨てられたCRTモニターを少女が無為に眺めていると、スクリーン上にラスタライズされていた男がいつの間にか少女の傍らで佇立している。男は少女の左肩に顔を寄せ、牙をむき、首筋を食む。その一瞬に閃く少女の表情は交歓に打ち震えているようにも思えるし、一方で迫りくるぬばたまの夜がもはや避けようのないものと知悉しつつある者の諦観のようにも思える。いずれにしろ、二人の姿は画角から幻影のように消え失せ、もはやそこに彼らはいない。あとに残されたのは明滅するCRTと、そして二人の絆をつなぎとめていた他愛もないプロップだけ。少女の表情を粗い解像度でラスタライズしていたCRTもやがて暗転し、そこで映像は終わる。完璧だと思う。これほどまでに思弁性と詩情に富んだエンディング・クリップはいまだかつて見たことがない。STBはあくまでエクスプロイテーションであり、それもこのうえなくエクストリームなポルノグラフィーである。しかしそれゆえにオーバードーズ気味の愚昧なポスト・モダン・ヘッズのプレイする空虚な批評性遊戯に抗するメタ批評性を内包する傑作たり得る。同時に、このSTBの放埓にして尾籠なカデンツァが淫蕩と妄動の果てに比類なき気高さを湛える至高のコーダによって掉尾を迎えるさまはどこか象徴的であり、その倒錯したパースペクティヴは言外の意図を我々にはからずも教唆しているようにすら思える。かつて我々はこういったものをこそ、文化や芸術と呼んでいたのではなかったか?

つまりはそう、まさにこれこそが文化なのだ。


* "I haven't read any superhero comics since I finished with Watchmen. I hate superheroes. I think they're abominations. They don't mean what they used to mean. They were originally in the hands of writers who would actively expand the imagination of their nine- to 13-year-old audience. That was completely what they were meant to do and they were doing it excellently. These days, superhero comics think the audience is certainly not nine to 13, it's nothing to do with them. It's an audience largely of 30-, 40-, 50-, 60-year old men, usually men. Someone came up with the term graphic novel. These readers latched on to it; they were simply interested in a way that could validate their continued love of Green Lantern or Spider-Man without appearing in some way emotionally subnormal. This is a significant rump of the superhero-addicted, mainstream-addicted audience. I don't think the superhero stands for anything good. I think it's a rather alarming sign if we've got audiences of adults going to see the Avengers movie and delighting in concepts and characters meant to entertain the 12-year-old boys of the 1950s."
(Alan Moore talks about Fashion Beast, Jacques Derrida and modern superheroes : http://www.theguardian.com/books/2013/nov/22/alan-moore-comic-books-interview)
PR
Comment
name 
title 
color 
mail 
URL
comment 
pass    Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
カレンダー
08 2017/09 10
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
Twitter
junkie uses Twitter

最新コメント
[09/20 Sarah Carlson]
[09/15 nike kaishi size 5 5]
[08/27 Sarah Carlson]
[08/12 Ann Weaver]
[07/13 Ann Weaver]
最新トラックバック
(12/18)
バーコード
プロフィール
HN:
junkie
性別:
男性
自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

メールはこちら
ブログ内検索
カウンター
カウンター
最近のお気に入り
FLEETWOOD MAC "MR. WONDERFUL"


EARTH "EARTH 2 -SPECIAL LOW FREQUENCY VERSION-"


FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME ONE"


FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME TWO"


BLUE CHEER "VINCEBUS ERUPTUM"


MELVINS "LYSOL"


SIGH "GALLOWS GALLERY"



伊東美和 「ゾンビ映画大事典」



「悪魔のいけにえ」


「バッド・テイスト」


「愛のむきだし」


「マーターズ」
忍者アナライズ
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]