忍者ブログ
島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
[193]  [192]  [191]  [190]  [189]  [188]  [187]  [186]  [185]  [184]  [183
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



以前このブログでも書いたようにマンガ『神のみぞ知るセカイ』はまぎれもない傑作なのだが、じゃあその凄さっていったいなんだろうと考えたとき、それは、キモオタギャルゲーマーがリアル女子を攻略するというプロットやそれ故のメタ視点がもたらす歪んだ快楽といったところよりもむしろ、それらの間隙にさりげなく併置される「日常」のディテールにこそ見出されるように思う。このマンガがすごいのは物語のグリーン・バックに過ぎないような微細な部分、それこそフラグとフラグの間に生じたモーション・ブラーのようなところで奇妙なフックを作ることにより、有象無象の創作物が軽々に陥るニュー・スピーク文法のナラトロジーを巧みに回避している点だ。

もちろん、枝葉末節や余計な虚飾を排してルートの分岐を簡略化することは、いいことだ。言いたいことがシンプルでまだるっこしくなくていい。当の『神のみぞ知るセカイ』の主人公・桂木だって、「たかが情報に無駄な演出が多すぎるんだ、お前ら」とあまねくオールド・スピークに手厳しい。そのご託宣に忠実に、プロットとシノプシスをシンプルに希釈し、寓意を明確にした物語はまさに「寓話」だ。そうして無駄な演出を削ぎ落としたミニマリズムは、わかりやすく簡便で、だからこそ凄まじい汎用性と互換性をもって肌のレヴェルで我々に迫る。このことが持つメリットは言うまでもない。アレハンドロ・ホドロフスキーの野心的な実験映画やレイ・ブラッドベリの詩情に満ちた短編小説が常にあらゆる時代で崇拝されているのも、それらが例外なく寓話であるからだ。

寓話。それはある意味で、人類がこのセカイの混沌をコードによって定位していく過程で生み出した完璧なテクノロジーであり、迷える下々のランダム・アクセスを容易ならしめる形而上のアンティキテラ・マシンだ。それは人々を接続するネットワークたり得る。人々の意識を平準化するクラウドたり得る。わかりやすく簡便で、この世界に偏在する。そして、わかりやすく簡便であるからこそ、それはときにもっとも肝要な部分を、わかりやく簡便であるがゆえに、狂おしいまでにあっけなく見失う。あまりに定式化された物語は、その理路整然とした無謬性ゆえに、ときにこの現実世界において何の実効性も持ち得ない。驚くべきことだが、無駄なものをことごとく排除することによって我々はこの世界の寓意に漸近するどころか、またぞろ別の矛盾と戦わざるを得なくなってしまう。この場合、オッカムの剃刀は単に、この世界を永遠に分割しつづけるのだ。その果てに我々がセカイのドグマに触れることは、恐らくない。

わかりやすい例を言おう。かつて現代思想のポストモダンと呼ばれる人々は、「大きな物語の喪失」なる驚異的な学説を提唱していて、世界中のちょっとオタクっぽい(でもハッカーになるほどのギーク・ファシリティもない)キモキモしい学生とかは押しなべてこれを本気で信じていた(時期があった)。曰く、20世紀以前の世界はツリー状の、トップダウンで勧善懲悪でとかく単純な図式の「大きな物語」に支配されていた。昔の人ってバカだよねぇ!でもヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』が予見したように、テクノロジーの発達やら何やらで様子が変わってきて、「大きな物語」は瓦解し、世界はもっと複雑で多様な、細分化されたしみゅらーくるだの何だのが跋扈するややこしいものになったんだ!…とかいう。未だにこれを妄信している人もいるし、確かにこのロジックはシンプルで明快で、世界の中枢に埋もれた何か、核心めいたものに我々がたどり着いたかのような錯覚をもたらした。そういう見方があるというのはほんとうに革命的なことだったのだ。しかし、シンプルで明快であるからこそ、この寓話には致命的な欠陥があった。このロジック全体が「大きな物語の喪失」というひとつの寓話に内包された別の「大きな物語」であることに、賢明なる読者諸氏ならばもうお気づきであろう。「大きな物語の喪失」は世界の真実に近づくどころか、寓話のミニマリズムが仕掛けた原始的なブービー・トラップにまんまと引っかかってしまったわけだ。

更に言えば、寓話の問題点はその解釈が話者の企図するとおりに恣意的にいくらでも上書きされ得るということだ。それゆえに、寓話はときに批判的な視座を失う。宗教団体や国家が古来より安易に寓話を濫造してきたことは偶然じゃない。我々が政府や大企業のプロパガンダに常に何かの寓話的な構造を見出すことは偶然じゃない。わかりやすい二極分化された世界、その中でわかりやすく行動し、そしてわかりやすく教訓を明示するキャラクターたち。もうおわかりだろう。寓話は寓話の示唆する解釈に対して、批判的な契機を持ち得ない。単純であるがゆえに、一度サーキットしだしたら歯止めが利かなくなる。共産主義国家は計画経済や農村回帰政策が頓挫しそうになると、それは「みんな」が思っていることが一致していないからだと考えた。だから、「みんな」の意志に面従腹背していると思われる人物をランダムに抽出し、適当に殺した。寓話に反するもの、その教義どおりの結果にならないものはことごとく排除し、この世界から消去していった。寓話に則った世界にするために、寓話どおりにならないものは全部。その寓話の欠陥自体には誰も目を向けることなく。そこではバカは死なないと直らないとされた。そして次々と人々の間に境界線が引かれ、よくわからないままにただ死んでいった。これは人類史上最大のミス・ディレクションだ。間違っても、人々は最初はそれらの寓話がこのようなことをもたらすとは思いもしなかったからだ。

そんなのポル・ポトだのコルホーズだのグラーグだのの昔話じゃないか、鉄のカーテンも遠くになりにけり、と思う向きもあるかもしれない。でも、それはウソだね。寓話はいつの時代にも語られる。そして我々はそのトラップにときに篭絡される。さあ、いまのこの国はどうだ。寓話は世界を新しくかつわかりやすく再定義するその代償に、恐るべき陥穽から我々の目を逸らしてしまう。原発推進派も脱・原発も、さまざまなセクトがそれぞれに正当性を誇示し、我々の前に好餌をぶら下げている。ある人は政治には安定が必要だという。文句を言う奴は黙っとけ、ということだ。これは鉄のカーテンの向こう側でかつて語られた物語と、いったいどう違うというのだろう。

でも一方でこういう反論もあるかもしれない。寓話が世界を完全に語るものではないとして、じゃあいったい何がそれをするのか、ということだ。でもそれはそれこそGod only knows.我々は神様じゃないのでわからない。でも逆説的にものごとを考えることはできる。

エル・トポやホーリー・マウンテンが単なるカルト・クラシックとしてしか膾炙され得ないのは何故だろう?それらの美しい散文詩に事たれりとするのを潔しとせず、我々が常にウーリー・ロメルのブギーマンだのサムシング・ウィアードだのビデオ・ナスティー筆頭のレイプ・リベンジ・ムービーだの、出来損ないのオルタナティヴに血道を上げるのは何でだろう?
更に別の例。シャフトのテレビアニメ、とりわけ武内宣之が関わった作品は完璧な「寓話」だ。スタイリッシュで洗練されていて、ムダな部分がどこにもない。でも、エロゲー人脈で完璧にクリエイトしたそれらの寓話が、実相寺アングルが全編に横溢しよりアナーキーでとりとめのない庵野秀明のエヴァンゲリオン・サーガに死んでも追いつけないのは何故なんだろう?さあ、よく考えてみよう。

話が長くなるので結論だけ。結局、世界の真実なんてどうでもいいことなのだ。世界が瀕する重大な問題、危急存亡の瀬戸際、そんな話はありていの「寓話」として我々の近傍に常に、ウィルスのように繁茂しつづける。でも、それがどうした。そんなものなくても我々の生活は回っていく。「寓話」の外で語られる物語は山のようにある。それらは決してスタイリッシュではない。とりとめもない。往々にしてくだらない。でも、世界の真実としてまことしやかに語られるあらゆる寓話よりも、もっとリアリティがあるし、もっと切実なものとして心に響く。なぜならそれらは現実の日常に確かに顕現する、この世界の矛盾や理不尽が姿を変えたものであるからだ。この世界を寓話が語り得ないのは、実のところ世界が単純なものではあり得ないからであり、世界が寓話ではないからだ。世界にはムダが多い。世界はよくわからない。リアルなんてクソゲーだ。でも、だからこそ、我々はスタイリッシュな寓話ではなく、とりとめもない日常のディテールにこそ、この世界の断片を見出せる。

『神のみぞ知るセカイ』の凄みはそこにある。『神のみぞ知るセカイ』では、原理主義的サタニスト集団ヴィンテージと穏健派の権謀術数渦巻く闘争が物語の上位レイヤーとして君臨しながら、結局はそんなものが実にどうでもいいことであるということが巧みに語られる。我々にとっても、そして、登場人物たちにとっても。特に19巻のラスト、女神編の大団円はまさに筆舌に尽くしがたい。そこで描かれたのは悪魔たちの壮絶なバトルとその帰結ではなく、物語の主軸とはまったく関係のないところでひっそりと始まりひっそりと終わった、ひとりの少女の失恋の物語だった。このマンガの凄さはここにある。セカイなんて結局のところどうでもいいことなのだ。悪魔たちのハルマゲドンを巡る叙事詩的な物語は、ここではひとりの少女の日常にすら劣る。いや、あるいは、逆のことも言えるのではないだろうか?
『神のみぞ知るセカイ』では、出会いと別れの刹那的な感情の変化の中で人がどのようにふるまい、そして、そこで彼らがどのような選択をしたのか、それらが世界の覇権を巡る壮絶なパワー・ゲームの行方などそっちのけで執拗に淡々と描かれていく。我々が演繹する日常と何も変わらない、市井の人々の懊悩と挫折と、その超克の物語。我々は狂おしいまでに、このくだらない日常の理不尽なフラグに振り回され、ときに残酷なチート攻撃に晒されながらも、この日常で確かに泣いて笑っている。死海文書やセフィロトの樹から遠く離れた世界の僻陬で営まれる、この塵のような日常。おれやあなたの、その人生の物語。それは確かに、クソゲーかもしれない。矛盾や理不尽なバグまみれのマスター・アップが間に合わなかった失敗作かもしれない。でも、それはごまかせないし、消せない。我々は日常という名の横スクロールのアクション・ゲームを、残機1で闘うしかない。難易度はSUPER HARDしか選べない。下手したら死ぬかもしれない。たいていのことは取り返しがつかずに、大きな後悔として心に傷痕を残し、往々にして総てはうまくいかない。だから、それゆえに、殺人鬼がチェーンソーを持って追っかけてこなくても、怪獣が町を破壊しなくても、巨大隕石が地球に激突しなくても、誰かと出会ったり別れたりを繰り返すこの日常こそが最大のスペクタクルなのだ。それがクソゲーだろうが何だろうがどうでもいい。それでも我々はそのゲームをプレイしつづけなければならない。
日常というクソゲーをつかまされ延々とプレイしつづけるほかない少年少女たちが、それでも常に最良の選択をしながら必死で生きていく。『神のみぞ知るセカイ』はそれを圧倒的な迫真性と切実さをもって我々の眼前に突きつける。それはだから、どんな寓話よりも強靭な物語としてまさにこの世界に屹立し得る。寓話の外で語られる、とるにたらない日常の物語であるからこそ、どんな寓話よりも確実に、この世界の矛盾や理不尽を圧倒的な現実として我々に明示する。我々は或いは、そんなものからは目を背けたいのかもしれない。寓話が絶え間ざる繁栄を享受するのは、それがシンプルで明快な形で現実をうまく覆い隠してくれるからだ。でも…それに何の意味がある?我々はやはり、この現実というクソゲーと闘うべきではないのか?そこにしか道はないのではないか?
リアルなんかクソゲーだ。そして、総てはそれを認識することから始まる。
DO THE RIGHT THING! 


そして最後に。
『神のみぞ知るセカイ』の女神編は作者の若木民喜先生が公言しているとおり、当初は小阪ちひろ(cv.阿澄佳奈)のキャラソン候補曲に過ぎなかった「初めて恋をした記憶」の歌詞から帰納法的に物語を逆算していく形で描かれた。最初のキャラソン・コンペでこの曲が外れたために、若木先生は曲の権利を買ってデッド・ストックにしてまでこの「初めて恋をした記憶」を『神のみぞ知るセカイ』エクスクルーシヴの楽曲にしようと画策していたというから、その妄執は察するに余りある。そして結果的に女神編は「初めて恋をした記憶」の壮大なプリクエルとしてマンガ史に残る大傑作となり、更には誰もが不可能と思っていたテレビアニメ第3シーズンの実現へと疾風怒濤の如く階段を駆け上がる。
すべては、このエンディングのために。
ニコニコ動画の公式放送に踊る惹句が、総てを物語っている。若木先生も女神編の連載終盤には、ひとつのことを描き切ることのみを目標にしていたという。アニメも同様に、1期と2期では回収しきれなかったエピソードを「そういうこともあったなぁ…」という主人公のダイジェスト回想形式という逆SPTレイズナー方式で早々に解決、あとはOVAを観て補完しろという壮絶な一見さんお断り商法、倉川アッカリーンのエピソードもオミットしてさすがに「これじゃ神のみファンすら楽しめない出来損ないファン・ノベルティじゃないか!」と義憤の念に駆られもしたものだが、総ては最終話のBパートの10分間のためにあったと思えば、もう総て許す!
結論。アニメ最終話、最高だった!マングローブ、よくやった!Bパートの演出・作画はもう、非の打ち所がない!完璧だ!
さすがにラストのBパートを楽しむために1期・2期に加えOVA2巻も観ておかなければならない敷居の高さは清濁併せ呑めるダイハードな神のみファンでもなかなかキツイものがあるが、あのラストのちひろの1枚絵を観たらもう何も言えない!

彼女には翼もない。特別な何かもない。
でも、それでも生きていくしかない。この日常で。この不思議な地球で。
ひとりの少女の覚悟の物語。そして、ひとりの少年の失敗の物語。
すべては、このエンディングのために。


素晴らしいアニメを作ってくれて、ほんとにありがとう。



PR
Comment
name 
title 
color 
mail 
URL
comment 
pass    Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
カレンダー
10 2017/11 12
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
Twitter
junkie uses Twitter

最新コメント
[10/27 Sandra]
[10/15 ブランドコピー]
[10/13 Andrea Gibson]
[09/28 偽ブランド 通販]
[09/27 Sarah Carlson]
最新トラックバック
(12/18)
バーコード
プロフィール
HN:
junkie
性別:
男性
自己紹介:
島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

メールはこちら
ブログ内検索
カウンター
カウンター
最近のお気に入り
FLEETWOOD MAC "MR. WONDERFUL"


EARTH "EARTH 2 -SPECIAL LOW FREQUENCY VERSION-"


FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME ONE"


FLEETWOOD MAC "LIVE IN BOSTON REMASTERED VOLUME TWO"


BLUE CHEER "VINCEBUS ERUPTUM"


MELVINS "LYSOL"


SIGH "GALLOWS GALLERY"



伊東美和 「ゾンビ映画大事典」



「悪魔のいけにえ」


「バッド・テイスト」


「愛のむきだし」


「マーターズ」
忍者アナライズ
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]