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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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ウィ~ア~~メガネブッウ~~~~♪


後景に佇立する巨大資本のマノ・ネグラが商魂たくましく如何なる奸智を巡らそうとも、或いはそれが純然たるスカム・カルチャーの泥濘から派生した偶発的な市場汚染のほかの何者でもなかろうとも、我々をここ数ヶ月ほど夜を日に継いで執拗にパワー・アンビエントしつづけた一連のティーザーに瀰漫する終末的な狂気からは、より正確には、そこでパブリック・アドレスの絶え間ざる絨毯爆撃により我々の鼓膜を完膚なきまでに焼尽しつづけた真に呪術的にして退廃的な(そして今にして思えばそれゆえに抗いがたくシンボリックで何にもまして崇高な)詠唱と調性とその倍音に横溢する名状すべからざる恐怖からは、とはいえ、男娼ハーレムを賢しらにエクスプロイトしようというこの国の深夜アニメ生物圏にとってはもはや何億回目かのお定まりの凡庸な意図しか感じられなかった。あまねく異文化衝突における最初の邂逅とは得てしてそのようなものだ。その前後と現在に至るまでのクロノロジカル・テーブルを改めて鳥瞰すれば、洋の東西を問わず今世紀の人類がものしたあらゆる芸術作品の中でも恐らく最高の(あえて強調しておこう、最高の)到達点であろうことはもはや疑うべくもない大傑作『進撃の巨人』がアニメ界隈に与えた影響と衝撃、そしてもはやプレート・テクトニクスと形容すべきパラダイム・シフトの凄絶ぶりは筆舌に尽くしがたく、その燦然たる光芒は未だに褪色することがないが、一方であのような凄まじいモノリスの顕現が容易ならざるものであることは余人においてその圧倒的な完成度をもって逆説的に垂訓されたものでもあるので、カーゴ・カルトめいたユーフォリアは半ば諦念を抱きつつ巧みに抑止され、市場の期待値の推移は隠微なものに留まっていた。価値あるものは確かにもたらされた。儚くも妙なる誣告者の託宣に導かれ、唯々諾々とひねもす安寧を貪っていられた黄金の2クール。我々はそれが二度とは繰り返されないベル・エポックであることを惜しみながらも、他方でそのことに安堵すらしていた・・・あのような奇跡的な体心立法格子構造を持った芸術は、至高であるがゆえに孤高であらねばならない!それがこの世界を統べるドグマであり、我々にとって冒すべからざる神秘だった。そうであったはずだった。

が、イコノクラスムはいつも唐突に、何の前触れもなく、企図されざるいくつかの偶然を経由してほとんど統計的なノイズのようにして去来する。そこには何も期待はなかった。クラウド・コンピューティングとソーシャル・ネットワーキングがもたらした隷属と偏向の快楽はやがて、閾下の認知バイアスとしてのある種の神学としてかたちをなす。それは人類史的には大きな損失であり退化であるが、そんなことはどうでもいい。その神学のもとではあらゆる芸術はこの世界に生まれ出た時点で須臾の一瞬のうちに墓標と化す。それが生まれる前からオッズやトマト・メーターはもう決まっていて、それはほぼ例外なく投じられたバジェットの量に比例し、新たな価値はその言葉のうえでは実は矛盾であって既に誰かに定められた価値でしかない。たいていはその運命に抗うことはおろか無知の無知の陥穽から這い出ることすら叶わない。我々はその神学の裏に確かにエルゴード的仮定の冷徹さを認めてはいる。それと同時に諸行無常の残響を、しょせんタイプライターをめちゃくちゃにパンチするしか能のない数百億匹のチンパンジーのうちの一匹でしかない自らの鏡像を認めてもいる。だからそこには何も期待はなかった。重要な点なので何度もパラフレーズし、強調することにしよう。そこには何も期待はなかった。というより、期待できる要素がどこにもなかった。デイ・グローで塗りたくられたギーク・ボーイたちのペップラリー?だからどうした。Yaoiカップリングの拡大再生産は佃煮にして売れるほど見てきた。テニスと水泳とバスケット・ボールの次はメガネ?エクスプロイテーションの供犠がまたぞろ俎上に加えられただけの話。さよう、そこには何も期待はなかった。『進撃の巨人』のような奇跡の傑作からは懸絶された、アニメ生物圏の生態系の最下層にまたもや投げ捨てられるフィラー。誰もがそう思った。だからそこには何も期待はなかった。クソ長い前置き終り。

メガネブ!をポルノグラフィーだと考えていた人々の懸念はまず最初の一秒で粉砕される。オープニング・テーマのパワー・ポップは最初の一小節でヴォコーダーかと聞き紛う奇怪な歌唱法をもって我々の鼓膜をジャミングし、カンのモンスター・ムービーのアート・ワークを彷彿とさせるスーパー・ロボットが画面に踊る。それらは我々を困惑させる。岸誠二がスタイルとして確立した、オープニング・フッテージの序盤でキャラクターの一枚絵を付けパンなどで強調するスター・システムは今日のアニメ・ファンにとって見慣れたものだが、ここではそれが完璧に実践されているのみならず、ピエト・モンドリアンは知らずともシャフトのアニメなら浴びるほど観ている今日のアニメ・ファンにとっては既視感すら惹起するコンポジション美術的な演出手法も、それがやはり完璧に、不必要なまでに過剰に踏襲されている。これもまた我々を困惑させる。そのフッテージのそこここで、主人公は救いがたい狂人なのではないかと我々に外挿させるに足る暗示的なカットが青春学園マンガのクリシェとエイゼンシュタイン式モンタージュの効果的な引用により印象的に描出される。のちほど我々は登場人物のほとんど全員が狂人であることを知ることとなるが、いずれにしろそれはやはりここでも我々を困惑させる。何より重要な点は、このアニメにはナラトロジーの主体でありなおかつ男娼たちの寵愛を一心に受けることとなるべき女性キャラクターはもちろんのこと、そのようなベンチマークがなくともハーレムのめくるめくハング・アウトを心行くまでシミュレートするために男性キャラクターたちに用意された完全無欠な超人たちという設定さえも、恐らく、画面はおろかスプロケット・ホールの中にすら登場しないだろうという点である。これは、このアニメがポルノグラフィー、とりわけyaoiワークスに固有の性質の大部分を備えておらず、仮にそうであったとしてもその集合において限りなく異端であることを示している。

このアニメの本編に触れる際には、やはり「日常系」なるジャーゴンにまつわる甲論乙駁のかまびすしい議論の応酬に陥るべきではない。だから日常系の定義を巡る問題についてはここでは簡潔に一望するに留め、暫定的な解釈を素描することのみに傾注しよう。未だ論争は尽きぬものの、日常系とは、奇人たちの非日常的な日常を活写した作品群の集合を指すテクニカル・タームであることはほとんど疑うべくもない。これが論理矛盾を孕んだ定義であることを論難する向きは、更に煩雑で思わせぶりな言葉を指向性破片型地雷のようにバラまくことに執心しているが、それは日常系がセカイ系の対極概念として派生したカテゴライズに過ぎないという(限りなく真実に近い)可能性を必死に覆い隠すか議論から遠ざけようという不毛な努力の表象であって、そこに有用なアナロジーはほとんどない。ここで問題なのは、日常系が非日常を描いたものであるなら、剣と魔法と弾道ミサイルとスーパー・ロボットと量子力学的蓋然性増幅装置が飛び交う他の有象無象と弁別することが不可能となるという点だが、ほんとうにそうなのだから仕方ない。あなたが知っている日常系アニメのことを思い出してみてほしい。言語に絶する奇癖や超人的な能力を備えた変態や天才たちが織り成す日常などは、我々の営む日常とはおおよそ異なるものであるから、それらは例外なく非日常なのだ。この定義に従えば、例えばロックスター・ゲームズのオープン・ワールド・ゲームの歴史的傑作『グランド・セフト・オート』シリーズも日常系となるし、杜王町のスタンド使いたちの出会いと別れとその対消滅を描いた『ジョジョの奇妙な冒険』第四部も日常系となる。我々が日常系にカテゴライズしている作品のほとんどが、諸要素を希釈していけば究極的にはGTAに到達するということは驚きだが、そもそも「日常」から完全に乖離した芸術というものは初期ウィトゲンシュタイン及びスタニスワフ・レムの認識的崩壊天体工学の視座からして人類には作り得ないのであるから、本来であれば「日常系」の対極にあたる集合などは存在しないはずなのである。

或いは、単純に「日常系」をアヴァンギャルド・アートとして、あたかも映像におけるドローン表現の極北であるかの如く吹聴するポジション・トークすら存在する。与太話を延々と繰り返すだけのアンチ・クライマックスの構造がミニマリズムでパワー・アンビエントでカット・アップでOn the CornerでEarth2だと言うのだ。この定義は理解しがたい。確かに、京都アニメーションはフィックスの画面とカーテン・ショットを巧みに併用することであたかも言外の意味がそこにあるかのような錯覚をもたらす演出手法をかなり意図的に実践している。それはアートなのかもしれない。それは単なる女子高生のキャッキャウフフの会話劇ではなく、何か壮大で崇高で文明批判的でヒューゴー・ガーンズバック連続体の向こう側にあるウンタラカンタラかもしれない。が、例えばEarth2のヘヴィ・ドローンが音楽消費大系を根底から塗り替える革命的な意味を持った最大の理由は、当時のサブ・ポップ周辺のシーンやオルタナティヴ界隈でもっとも発言力のあったイギリスの評論家やそもそものヘヴィ・メタル・ミュージックの伝統を総て無視してディラン・カールスンのオブセッションを虚飾なく表現するというルビコン・リバーを渡った英断にこそあったのであって、日常系アニメがネットのマジョリティに阿諛し市場の見えざる手の先縦に倣い、直視したくない現実に煩わされず頭を使わずにBGVのように嗜めるガールズ・トークの粗製濫造によってもたらしたものがそれと同等の価値を持つものだとは、少なくともわたしには思えない。もちろん、そうして完成した表現そのものは小津安二郎やウィリアム・バロウズに或いは伍する可能性があるかもしれない。でも、それは現代美術という権威主義にアニメが跪いた以上の何の印象も与えない。だって肝心の中身、作り手のメッセージとか、そういうの微塵も感じないもの。それでいいのか?さよう、エクスプロイテーションやポルノグラフィーとしてソフィスティケイトされることは、別に悪いことじゃない。総ての文化に貴賎はない。しかし、富野由悠季の警句は表層こそオールド・スクールであれ、そこに底流する真意はその硬度を今日においてむしろより強めつつあるように思える。「アニメだって文化だろう?文芸だろう?娯楽だろう?それがここまで下卑てていいのか?一番趣味が悪いところに照準をあわせて、商売をしようというのでは、病人を増やすだけじゃないか?」
だから我々は吾妻ひでおの、発せられると同時に我々に条件反射的なレイズヘルを継起した完璧な印象批評に対して、何も言い返すことができない。「空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も見てる人々もそんなに現実がイヤなのか?」

賢明なるプラグマティストは「空気系」という死語の存在をここで指摘するものと思うが、ここでは割愛し、次の一文を附言するに留めよう。『びんちょうタン』や『かみちゅ!』がUHFアナログ地上波に乗ってCRT上にラスタライズされていた時代といまとでは、何かが決定的に異なっている。それが何かは、今日のアニメのトレンドにコミットすることで我々が無意識にアジャイル・デベロップしている形而上のソフトウェアであるとしておこう。これについてはメガネブ!を解題するにあたり重要な点でもあるので、後述することとし、そこでは我々が尊敬措くあたわざるものとして崇拝してやまない『化物語』シリーズを心苦しくも批判的に検討することとしよう。

そろそろ話をメガネブ!に戻そう。未だ議論の余地は有り余るほどにあるものの、ひとまずメガネブ!を広義の日常系として定義しておこう。でもメガネブ!のスタイルは明らかに『けいおん!』サーガとは異なる。もちろん『きんいろモザイク』のそれとも異なる。むしろメガネブ!と日常系を結節するミッシング・リンクとして真っ先に思い浮かぶのは、なもりの『ゆるゆり』だ。ごらく部(メガネ部)なる面妖なソロリティ(フラタニティ)に集う選民としてのローライズにホモセクシュアルな複数の女子(男子)という設定、更に作品のアクセントとして杉浦綾乃(鈴木徹)というわかりやすいツンデレ、そして真にホモセクシュアルであることを自認するキャラクターに物語を占有する契機はほとんど与えられず、あまねく肉欲の意思表示は直接的なデノテーションのかたちをとりながら常にスリー・フォールド・レピティションの袋小路へと追いやられる。両者の特質として重要な点は、どちらもホモセクシュアリティが前提であることを公式設定とすることによって、逆説的にyaoiワークスで散見されるようなヘテロセクシュアル作品のカップリング化が必然的に誘引する背徳感を中和すると同時に、健全なコメディと軽度のサタイアを演繹する確固たる地歩を得ることに成功している点だ。これらが通常の日常系とは異なったスタイルを持った作品であることには、特に留意する必要がある。日常系の作品の多くはそのレイド・バックを目的としたスタイルゆえに、あらゆるショック・バリューを嫌い、スラップスティックやファルスはおろか健全なコメディであることすら放棄しているからだ。日常系はまさに書き割りのようなのっぺりとした平坦な戦場を歩く。平坦な戦場を歩くこと。しかしメガネブ!や『ゆるゆり』はそれを第一義とはしていない。

これらの懸隔はメガネブ!と『ゆるゆり』がLGBTフィクションであることに依拠している。ただし、ホモセクシュアリティを巡るLGBTテーマのコメディとして眺望したときに、メガネブ!と『ゆるゆり』が明確な相違を示すことは強調しておく必要があるかもしれない。それらのコメディに供物として捧げられる文物の差異を言明してみると、メガネブ!は『ゆるゆり』とは異なり、ホモセクシュアリティすらコメディの対象として相対化していることがわかる。メガネブ!ではホモセクシュアリティという営為そのものが他の要素と平等に玩弄され脱構築される。それらにまつわる人々の葛藤や感情の機微などは描かれたとしても単に表層的なものでしかなく、作品のハード・コアを為すことはありえない。これはまず、『ゆるゆり』が掲載されているコミック百合姫のようなホモセクシュアリティ・オリエンテッドの媒体ではマーケットに反逆する行為であるがゆえに困難である。倉田嘘の『百合男子』は男性側のyuriマーケットをサタイアとして相対化することでメタLGBTジャンルの勃興に成功した記念碑的な作品だが、『百合男子』が嘲弄する対象はあくまで男性でありながらフィメール・オリエンテッド・フィクションに耽溺してしまう倒錯心理に葛藤しつづける異端の狂人たちであり、けしてyuriそのものではない。しかし、メガネブ!はそうした聖域を設けない。

ここまで語ったことをひとまずまとめてみよう。メガネブ!は広義の日常系に分類され得る。しかし、日常系のアンチ・クライマックスのドグマに反するばかりか、コメディに対してそこそこのスペックを誇示するシリアル・ペリフェラル・インターフェイスを備えている。この意味で日常系の中においてメガネブ!は異端である。
また、メガネブ!は明白にLGBTテーマのポルノグラフィーであるかのようにパブリック・アドレスするhypeに幾分かは忠実に、そしてそれを受けた市場のほとんど予想どおりに、LGBTフィクションとしての要素を持つ。しかし、そこではホモセクシュアリティはたちまち相対化され、コメディのビッグ・チャップによって等しく情け容赦なく粉砕される。この意味でLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションの中においてメガネブ!は異端である。

これは我々を困惑させる。我々の当初の悲観的な予測とはうらはらに、これはどうやら何か意味がありそうなのに、それを指し示す解は日常系からもLGBTフィクションからも、そしてそれら総ての集合のいかなる類縁性からも導き出されないようだ。が、逆にそれは消去法によってただひとつの解しかあり得ないことを教えてくれる。メガネブ!がLGBTテーマすら止揚し、ときに破壊しながらyaoiの沃野を爆走していくダイナミズムは結果的に、そのハード・コアで逆巻く原理を我々にワイヤー・タップしてくれる。そして更にその方程式の両辺にもうひとつの変数を加えてみれば、半ばレンズ・フレアにまみれたものではあれ、ひとつのヴィジョンが我々の前に立ち現れるはずだ。まずは先に引用した吾妻ひでおの慧眼に満ちた発言にもう一度言及する必要がある。吾妻ひでおが論難する日常系の空虚さとは、ドラマツルギーをあらかた虐殺し尽くしたアンチ・クライマックスの構造にではなく、あらゆる感情の存在の否認にこそ見出される。デベロッパーやパブリッシャーはそれらの中で意識的に御しがたい感情の増幅や減衰を放棄し、スタンドアロンの閉回路と化した世界観を呈示する。そしてエンドユーザーもそのスノードームを望んでいる。でもこれは歴史上のあまねくポルノグラフィーにとって普遍的な性質でもあるから、別にそれはそれで問題ないのかもしれない。ポルノグラフィーに高位の物語性だの崇高な意味だのは必要ない。日常系にもそれが言えるかもしれない。だから日常系ユーザーはそのことにさえ自覚的であれば、誰の非難を甘受する必要もないのかもしれない。しかし、ここで注意すべきなのは、日常系は感情がウィンターミュートした世界をあらかじめ仮構しながら、それでいて「愛」だの「優しさ」だの抽象的な概念に対してやたら饒舌であるという点だ。このことが孕む凄まじい危険性をご理解いただけるだろうか。ここで日常系が振りかざす「愛」というのは、もちろん個人的な恋愛感情のことではなく、セックスのコノテーションでもない。それはアガペーと呼ばれる神学的な概念のことだ。日常系のキャラクターたちは皆押しなべて、ほとんど例外なく、このアガペーのドグマに忠実に、隣人を愛し他人を思いやり自己犠牲すら厭わない。万人に平等な愛。世界を包囲する愛。だから、そこには何もない。

そこには何もない。なぜなら前提としてあるべき個人の感情がそこには介在しないからだ。それは自由とは言わない。我々は世界のための愛とかいうよくわからない概念のために生きているわけでもなければ、世界を統べるメイン・フレーム・コンピュータを通じて愛という感情を知悉しているわけでもない。しかしながらこの不可解な思想が日常系ではほとんど自明のこととして公然とhypeされる。或いは現代社会に生きる迷える衆愚は、そうした概念があたかも存在しているかの如く錯覚していたいのかもしれない。が、それに何の意味がある?

このよくわからない奇怪な信仰をもっとも老獪なニュースピークで喧伝しているのが『化物語』シリーズだ。ここでこのアニメを批判的に検討することをお許しいただきたい。わたしは未だにこのシリーズのファンであるし、今日のアダルト・ゲーム市場の醇風美俗を圧縮し巧みにエクスプロイトすることに成功している様には少なからぬ賛意を示したいし、それこそ最初はジョナス・アカーランドのあの人類史上最高のミュージック・ビデオであるラムシュタインの『Pussy』に通ずる何かを感じもしたことを白状しなければならない。このアニメには当初はさまざまな退廃の装置とそのあからさまな直喩が用意され、我々はそこで展開されるペドフィリアや近親相姦、チャイルド・ポルノとビッチ・ロボトミーの完全ハーレムといったありとあらゆる性のオペランドの氾濫に戦慄した。それはある意味で革命だった。このアニメによってフィジカル・パッケージのインカムでバジェットを回収するビジネス・モデルがより高次のステージへ移行したばかりか、それまであのような背徳とは無縁であった市井の有為の人々をアニメ宇宙の暗黒空間へと引きずり込むことに成功したのだ。アララギ君をピボットとしためくるめくセックス・ファンタジーへと、想像の翼をはためかせ我々はいつでもダイヴできる。用意された諸要素はそう思わせるに足るものだった。

しかし、実際にはそうはならなかった。我々がそこで豊麗高雅なるファッキン・スラットと狂気の殺戮の旅路に出ることはついぞなかった。代わりに我々に突きつけられたのは、聖人君子たるアララギ君の穴だらけの良識と功利主義を長広舌によってひたすら正当化するのみのアララギDIY神学のプロパガンダだ。それは何かの冗談のようだ。あれだけ淫蕩の限りを尽くしたアララギ君ではあったが、最後には掌を返したように、日常系の総てのキャラクターたちと同様に、世界を優しく包み込み万人を照らすアガペー、他人を尊び、等しく敬い、それで解決不能の事態があれば自己犠牲すら厭わないというアクロバティックな道徳精神をもって我々を調伏せんとする。そしてアララギ君とそのプレイメイトたちは、おのおのがその不可解な神学に納得して、大して起伏もない物語を経由して、やがてもとの日常へと戻っていく。それは何かの冗談のようだ。我々がいままで観てきた退廃の物語は、実は日常系アニメだったのだ。

『化物語』シリーズや日常系アニメに通底するこのアルゴリズムは世界の至るところで繁茂しつつある・・・特に顕著なのは、インターネット・ソサエティだ。思想の自由市場を極限にまで加速させた末にソーシャル・ネットワーキングが実現した恐るべき集団の狂気。幾原邦彦がネット言論をして「その清廉潔白さたるや吐き気を催すほど」と指摘した、あの小手先の理論武装と出来合いの倫理感と根拠のない示威衝動にまみれた「善人」たち。彼らは世界が理路整然として秩序だったウェルメイドの閉回路であることを信じて疑わず、そこに唯一絶対のドグマがあることを信じて疑わず、だからそこで暮らす総ての人々が完全無謬でなければならないと信じて疑わない。現実の人々の行動様式や愚かさや不完全さについては黙して語らず。自分たちに照らし合わせてどうか、という反省的な契機すら持たず。彼らは世界が正しい方向に向かうためには必ず供犠と贖罪が必要なのだと公言して憚らない。アララギ君のように、日常系アニメのように、世界を救済する絶対原理としてのアガペーを公然と提唱することに何ら疑問を持たない。フランク・ダラボンの『ミスト』に出てきたあのムカつくミセス・カーモディを思い出してみよう。「善人」はいつの間にか、世界を救うために糾問と弾圧と人身御供が必要だと盲信する人々の別名になりつつある。でもアララギ君や日常系アニメはこの不条理に触れないんだな。アララギ君はただおまえらはいまのままでいいだの仮に何かあっても自己犠牲が世界を救うだの美辞麗句を振りかざして事足れりとするばかり。そんなアニメに、わたしは何の意味も見出せない。

最後に改めて問おう。メガネブ!のハード・コアにあるものが何であったか、日常系としてもLGBTフィメール・オリエンテッド・フィクションとしても異端であるこのアニメの根幹を為すものがいったい何であったか。やはり逆説的に、『化物語』シリーズや日常系アニメが陥る終末思想とは対極の概念をメガネブ!に外挿してみよう。アララギ君や日常系アニメを苛む病理、アガペーに隷属された絶対に正しい善人たち。その対極にあるもの。さあどうだろう。スケスケメガネなる奇怪なガジェットの製作に日々没頭するヒマラヤ第三工業高校のメガネ部員たちは字義どおりの狂人であり、常人に理解しがたい行為を平然と為す奇怪な集団であるからこそ、そしてアニメもそのことに自覚的であるからこそ、メガネブ!のキャラクターはあの忌々しいドグマから完全に自由な存在であるかのように思われる。ここでは狂気を制御するものはない。その狂気がもたらすかもしれない凄惨な苦痛を避けるためのケヴォーキアン式安楽死セットはここにはない。ただ狂気が狂気としてそこにある。それによって或いは、あの装置が我々を防護するどころか、束縛するパノプティコンと化していたことに、そのときはじめて気付くことになるかもしれない。メガネブ!はその禍々しい狂気によって、あのふざけたコマンドラインを粉々に破壊するのだ。その狂気を、例えばアララギ君は、例えばナンJ民は、例えばネット・トラフィックに巣食うお気軽レイシストたちは、「バカ」と呼ぶかもしれない。バカ。

バカであることに自覚的であること、バカであることを恐れないこと、バカであることを直視すること。メガネブ!は確かにただのLGBTフィクションと日常系の最悪の組み合わせかもしれない。でも、少なくともこれらのことをちゃんと実践している。自らの狂気とちゃんと向き合っている。これがどんなに尊いことか。この世界にアガペーなど存在しない。そればかりか、世界は完全なものですらあり得ない。P2Pのコミュニケーションすら往々にしてうまくいかない。それは我々が少なからずバカであるからだ。メガネブ!は我々を困惑させる。それは、そこに我々の姿を垣間見るからだ。我々の世界を矛盾と理不尽で覆い尽くす最大のセキュリティ・ホールは、実は我々自身だ。そのことに自覚的な人々はいったいどれだけいるだろう?それは或いは我々人類の限界を超えた問題なのかもしれない。しかし、だからこそ我々はバカについてもっと真剣に考えなければならない。メガネブ!はCGレンダリング・テクノロジーとアンチ・エイリアシングの魔法を惜しみなく投入し、バカ・シンギュラリティを極限までブーストする。こうしたほとんど狂気に近い浪費を、我々は最大限のリスペクトを込めて、「バカ」と呼ぶべきである。彼らは、ヒマラヤ第三工業高校メガネ部は、全身全霊でバカをやっているのだ。それは誰にも汚せない。これもまたひとつの世界のかたちだからだ。そして我々はそのとき、我々の世界を狭めていたアガペーという名の「壁」を突き破って現れた、あの巨人の正体をはじめて知ることとなるのだ。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

バンドとは別にソロプロジェクトとして、チップチューン・デス・メタルを追求するF.O.D(Fuck or Die)をはじめました。MySpace

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