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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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クリント・イーストウッドの映画に通底する思想がことごとく安直なリバタリアニズムでしかないことに気付くとき、彼が巧みにエクスプロイトしてきた自由の神話はたちまち色褪せるだろうか。或いはそれでもなお、彼の誣告する正義の力学はこの世界に意味を持ち続けるだろうか。観客や批評家がクリント・イーストウッドの映画を称揚するとき、彼らはしばしば禁欲主義的なナラトロジーを評価する。静謐でそれが故に強固な、そして何より重厚な物語に彼らはこの世界の縮図を見る。それが映画芸術そのもののセントラル・ドグマを指針する画期的な何かであるかのように吹聴しさえする。しかしそうした論陣が見落としがちな単純な事実として、クリント・イーストウッドの映画はその寓意性が故にまさに宗教的なノイズを孕み過ぎている。その意味ではやはり、クリント・イーストウッドの作る車や飛行機やアメリカ軍の映画はおしなべて皆一様に原理主義的なアイコンであり、何かのドグマに接近し得るものと言わざるを得ない。でもそれは映画のドグマではない。それは彼が、というより、アメリカという国そのものが奉ずるある種の神学にまつわるドグマなのだ。そしてもっと言えばそれは神学というよりもむしろ、病理とでも換言すべきものなのだ。荒木飛呂彦はクリント・イーストウッドはもはや一つのジャンルなのだと言った。でもそれは少し違うと思う。クリント・イーストウッドはある種の人々にとっては宗教であり、リバタリアニズムの迂遠な礼賛であり、そしてそれ故に自由という言葉の再定義を我々に迫るものだ。彼が雄弁に唱道するテーマそのものはジョージ・ミラーのポスト・アポカリプスでスチーム・パンクな燃料噴射装置付きの自殺マシーンと何ら変わらないように思えるのにもかかわらず、また、彼の映画からはリベラルホークからオルト・ライトまであらゆる政治的な背景雑音が賢しらにトリミングされているのにもかかわらず、彼がプロットする物語はその枝葉末節から中枢に至るまで全て例外なく、人々が神に対してスケール不変的に支払い続ける負債を所与の事実としてこれを斥けず、むしろ肯定し、そしてその負債を返済する行為こそが我々の自由なのだと説く。神が債権を取り立てて人に試練を与え、与えすぎて時に人を殺めもすることを絶対に譴責してはならない。我々はそれを甘受しなければならない。クリント・イーストウッドの映画においてはそれを超克することこそが人間に許されたほとんど唯一の自由であり、その努力を怠る救いがたき衆生は例外なく自由を脅かす敵である。敵?いや、敵ですらない。天国行き負債完済モノポリーに賭け金をベットしない人間はスプロケット・ホールの向こう側でただ置き去りにされ、瀆神的なファズ・ギターを奏で続ける脳の25フレット目をタライラッハ座標で完璧に撃ち抜くスイング・ジャズの凶悪極まる死の鉄槌でファイナライズされる。クリント・イーストウッドのチェス・ボードには仕掛けがあり、刻まれた軌道に沿ってしか彼らは進むことすらできずオイラーの定理に忠実に人生の終着地点へ最短距離で送り込まれるその瞬間までドーリー・カメラのこちら側で神を、正義を、愛を、そして何より自由をブート・アップし続けねばならない。クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」は例えばそういう映画だ。社会は自由だ。システムがそれを保証するかどうかにかかわらず、本質的にこの世界は自由だ。天啓にも似た突発的な愛国心に駆られてネイビー・シールズに志願するのも自由だ。ロメロとオーウェルの二人のジョージやアントニー・バージェスならそれを殺人マシーンと呼ぶだろうが、クリント・イーストウッドにとってはそれは自由の正当な行使であり、誰憚ることなき神への跪拝なのだ。兵士は神への負債を支払い、天国へ行った。それがこの映画の讃えるドラマだ。イラクでプラスチック爆弾をくくりつけられて爆殺された少年も神への負債を支払い、天国へ行った。それがクリント・イーストウッドがリアリズムの向こう側で敬虔に語る自由のあるべき姿だ。自由だ。全ては自由だ。
ところでノイタミナで2017年の1月〜3月期に放送されたアニメ「クズの本懐」は、そうしたクリント・イーストウッド神学とは別のアプローチでリバタリアンたちの受難を描いた物語だ。このアニメを単に軽佻浮薄なビーバーフリックと考えるか或いは好意的にもストック・エコノミーの闘技場で乱れ飛ぶグリーン・マナリシのセキュリティー・ホールの間隙で奇跡的に組み合わされたポートマントーと考えるかは個人の自由だが、どちらにしろこのアニメの真のテーマは恋愛でもセックスでも人間のクズでもましてや日本の高校生たちのソーシャル・ネットワーキングを巡る社会論などでも全くなくて、他ならぬ自由だ。それもクリント・イーストウッドと同様に、レイシャス・アロイファス・ラファティの「カミロイ人の初等教育」でイマニュエル・カント以降連綿と人類の大脳新皮質にスルー・ホール・マウントされ続けてきた端倪すべからざる純粋実践理性を完膚なきまでに再起不能になるまで情け容赦なく粉砕したような意味での壮絶な自由だ。このアニメのキャラクターたちにとって恋愛とは破壊であり、自由とは収奪するものだ。そして自由とは神に対する負債を死に物狂いで返済する行為と同義であり、そこから逃れる者にはこの世界に居場所はない。彼らはもはやそういう風にしか生きられない。自由を巡って殺し合うことでしか生きていけない。精巧にデザインされたはずのオープン・ワールド・ゲームで神が訛伝した真理の残骸。それは分配の正義を根底から覆す致命的な矛盾なのか?それとも神の荘重なる企図に導かれた未知の宇宙定数なのか?クリント・イーストウッドなら答えは決まっている。クリント・イーストウッドは自由におけるコペンハーゲン解釈をことごとく否定する。それに対するラスコーリニコフ的な逡巡すら彼は断罪する。ある人間はそれを手にいれる。ある人間はそれを失う。ある人間は生き残る。そしてある人間は死ぬ。それが自由だ。そのトートロジーこそが世界の真実だ。天下に並びなき神の理路整然たる統一場理論ディレクターズ・カット完全版だ。ではこのアニメはどうだろうか。緩解されざるオブセッションを抱えた悩めるリバタリアンたちがある共有地で感情とセックスを通貨とした凄惨なゼロサムゲームに興じている。彼らは人体を用いた危険な極限計算を延々と続け、ある意味ではラスコーリニコフ的な演繹、自由のバックドアーを探る邪悪な微分をこの世界に対して挑み続ける。そしてその過程で彼らがプレーするゲームの性質が徐々に変化していく。この時点でこのアニメとクリント・イーストウッドは明確に違ってくる。クリント・イーストウッドにとって世界は静的なものであり全てはすでに完成されている。そこではキャラクターたちは神への負債を所与の事実として受け入れ、その返済のためのニーチェ的な闘争を続ける。他方でこのアニメでは自由はありのままに受け入れるものとしては決して描かれない。このアニメの自由に関する闘争領域は様々なマクガフィンを契機として段階的に別の導関数を持ち始める。つまり、今となっては極めてオールド・スクールな手法、ラスコーリニコフ的な直接話法の内的独白を通じて彼らは自由そのものに闘争を挑むようになるのだ。もちろん、それが故にこのアニメの結論はクリント・イーストウッドのそれよりも残酷なものだとは言える。彼らが支払うべき神への負債はまたぞろ加算され、かつては単純明快なものだったはずの自由の弁証法は難解極まりない異教徒のマントラと化し、全ては寓意性を失い蛮土僻隅の無秩序へと帰っていく。ここには例えばオルト・ライトのポピュリストやブライトバード・ニュースのアジテーターが賢しらにモラルファグするリベラリズムの限界が確かにある。定言命法や個人の自由意思ではポスト・トゥルースのこういったパラドックスは解決することができない。クリント・イーストウッドなら答えはシンプルだ。ラスコーリニコフはあくまでラスコーリニコフに過ぎない。自由を巡る闘争そのものを剔抉してはならないし、その愚挙に及んだ者はこの世界から、少なくともクリント・イーストウッドの想像上のアメリカからたちまち消去され、神への負債は次の犠牲者を探し始める。でもこのアニメは違う。不要だと思われていたキャラクターたちのフィラー・エピソードが集積し彼らの狂気と殺戮の旅がその終着地点へ近づいていくにつれて、作品を統べる多項方程式の知られざる最後の定数が明らかになり、結局はこのアニメもまたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がごとき一つの禍々しい曼荼羅を織りなしていたことに、不可解ながら我々は気付くことになる。様々なディテールが絡まり合い、リバタリアンたちが見出した答えがまさに逆巻く自由の混沌によってしか継起され得ない必然的な結論であったことに我々は最後になってようやく気付く。ある者は神への負債を巡るゲームに勝利し、またある者は無惨にも敗れ去る。ゲームの終わり。しかし終わりはない。どちらの側からも見える景色は一様に超現実的であり、かつてゲームを始めた頃に考えていた終わりとは似ても似つかない。混沌の果てに彼らが見出したものはやはり混沌であり、一度手にしたはずの自由は細切れのペンローズ・タイルとなってまた世界に散らばっていく。彼らは戦うべきゲームが別にあることを、そして今まさに次のゲームが始まりつつあることを知る。最後になって彼らはようやく知る。クリント・イーストウッドが巧みに覆い隠す世界の二周目の姿を彼らはその時ようやく垣間見る。世界は再び混沌に落ち込み、狂気がこの都市を、空を、地平線を、人々の欲望と肉体の痙攣と断末魔の絶叫が乱反射するガラスの箱庭を覆っていく。自由を巡る物語はまたもや不条理で横溢し、ゲームの規則が再び書き換えられる。もちろんこのアニメはそのあとのゲームの姿までは描かない。キャラクターたちが自ら次のゲームへ向けてスタート・ボタンをパンチしたところでこのアニメは突然終わる。そのあとの世界を戦うのは語られざる結末の向こう側の彼らであり、そして、ほかならぬ我々自身なのだ。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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