ACLでペトロビッチの広島とアデレード・ユナイテッドの試合を観ていたとき、パス・サッカーはほんとうにフィジカル・サッカーを超克するのではないかと思った。相手の最終ラインやディフェンシブ・ハーフのマークを外して前線でフリーになった、もしくは完全にフリーでなくとも後ろ向きでボールを受けられる体勢にある味方の選手にCBが精度の高いタテパスを供給し、そのままダイレクトで落とすかもしくは最終ラインのギャップに入り込んでいたフリーの「三人目の選手」へフリック。この一連の動作がため息が出るほど美しい。ほんとうにほんとうに美しい。
広島の攻撃パターンは主に狭い密集エリアにおける初歩的なワンツーによるライン突破、細長い長方形のエリアにおけるタテパスからのフリックを基本にしたいわゆる「三人目の動き」、そして最終ラインからロングフィードを送りそれに呼応してフォワードがラインを抜ける中盤省略の3つに大別されるが、そのどれもがアデレード・ユナイテッドの屈強なフィジカルをモノともせずに完璧に実践され、相手を翻弄していた。特に佐藤寿人のボールの呼び出しから足元に受けてのワンタッチの捌き方、そしてラインの抜け出し方はパーフェクトだった。オーストラリア人の強靭なフィジカルを相手に、いったいどのようなマジックを使えばこのような錬金術が可能になるのだろうか・・・?
パス・サッカーやポゼッション・フットボールの究極形があるとしたら、恐らくそれはペトロビッチの広島ではないのか。わたしは必ずしもパスサッカーやポゼッション・フットボールの信奉者ではないが、ペトロビッチ監督の作り上げたいまの広島のようなチームにならその理想を託しても許されるのではないかとすら思えた。
それでもデル・ボスケのスペインが、矜持を捨てて「インテル戦法」を貫徹したオットマー・ヒッツフェルトのスイスにモノの見事に敗れた試合を観たとき、やはりパス・サッカーはフィジカル・サッカーの重力から逃れることは出来ないのではないか、とも感じた。
単純に考えて、4枚の最終ラインと中盤の底2枚と左右のサイドハーフ2枚に加えフォワードの一人、或いは両方が自陣にリトリートして4-4や5-4の二列のボックスをゴール前に築いたとき、タテパスの成功率が極端に下がることは目に見えている。スペインだって整然とゴール前を固める相手のボックスにモノの見事に手玉に取られ、自慢のパスワークはいつしかボックスの周りをサークル状にリレーさせるだけの冗長で単調で無味乾燥な「オートメーション」でしかなくなっていた。「オートマティズム」ではない、「オートメーション」である。それはけっして機械仕掛けの精巧なカラクリ時計などではない。工場で黙々と一定のリズムで判を押しモノを運び箱に詰め梱包するだけのスタンパーとベルト・コンベアーには唯一無二のハンドメイドの製品を作ることはできない。そして最後は「勘定の出来ない」ヘスス・ナバスの個人突破でサイドを攻略しクロスを放り込むしか術がなかった。そうしてスペインは敗れた。
4-1-4-1とはそもそも、「90分間プレッシングしつづけるのは難しいから、時間帯によってプレッシングするかしないか使い分けよう」、という発想で生まれたシステムだったと言われている。例えばカレル・ブリュックネルが率いたEURO2004のチェコ代表はそういうチームだった。4-1-4-1のゾーンのときはアンカーの前の4枚の中盤が高い位置でプレッシングするのに適しているが、やがて運動量が落ちるとかえって前に張り過ぎて突破されたときに最終ラインの前を守る選手がアンカーのガラーセクひとりだけになってしまう。運動量が落ちたときにはそうしたリスクを勘案して、今度は4-1-4-1を崩して全員が下がって4-4の堅牢なゾーンを作るのである。この二種類の守備を使い分ければより効率的に、かつアグレッシヴに守ることが可能である、という理屈である。
それがいつしか変質して、4-1-4-1という形骸的な部分は広く受け継がれたけれども、そうした「高い位置からのプレッシング」という本来のコンセプトは忘れ去られた。4枚の最終ラインの前にアンカーを置き、更にその前にワントップを頂点とした五角形のようなゾーンを作る4-1-4-1という形は同じだが、その位置を最初からハーフコートに限定するのが最近のトレンドである。
守備時に必ず自陣に9人以上の選手がリトリートし、ハーフコートでゾーンの網を敷くこの戦術をほとんどのチームが行うようになった昨今、ポゼッション・フットボールの優位性は失われつつある。相手は極端なアウト・フットボールによってゴールを守ることに妄執するようになったのである。いくら流麗なパスを出しても、フィジカルの鉄壁がことごとく跳ね返してしまう。
「パス・サッカーは善でフィジカル・サッカーは悪」、ということがよく言われる。ここで言うフィジカル・サッカーとは、そもそもは「タテポン・サッカー」であった。ボールを奪ったらとにかく前線にロングフィードしてポストプレーヤーが競り勝ちマイボールにして中盤を省略してボールを獲られるリスクを減らそうというサッカーである。いわゆるキック&ラッシュだ。例えば2003年と2005年のワールドユースで大熊監督が率いた日本代表がそういうチームだった。これが観ていてまったく楽しくないサッカーだったから、「悪」とされた。それに対して丁寧にビルドアップしてパスをつなぐサッカーはクリエイティヴでチャレンジングだから「善」なのだ、という理屈である。
しかし、この「タテポン・サッカー」を芸術の域にまで高めたジョゼ・モリーニョのチェルシーというチームが一世を風靡してから流れが変わった。というかモリーニョは「タテポン」の攻撃パターンをより細分化し、オートメーション化することに成功し、そのアーカイヴを例えばプレミアの下位クラブなどが次々と援用するようになった。自陣に9人以上の選手がリトリートして二列のゾーンを築く「4-4」や「5-4」のドンビキは機能美となり、そこから繰り出される一本のロングフィードの直線は芸術性を帯びるようになった。本来は高い位置でのぷれっシングを標榜するものだった4-1-4-1システムは、そのゾーンの形状が「タテポン」の実践に極めて適していたためにそもそもの理念は忘れ去られたが配列というその上面の部分は多くのチームに「有用なスキーム」として受け継がれた。かくして「タテポン」はもっとも先進的なオートマティズムとして立派に市民権を獲得したのである。
さて、しかし、それでもパス・サッカーは善でフィジカル・サッカー(タテポン)は悪であるとされる。何故か。パス・サッカーはボールの軌道の不確定性を補正しやすい足元のショートパスというメソッドに拘泥している分、自らがデザインしたとおりの軌跡を描出することが出来るからである。地を這う短いパスは山なりの長距離のパスより、誤差の範囲が少ない。誤差の範囲が少ない、ということはどこに転がっていくかわからないボールの軌道を出来るだけ自らがデザインしたとおりにコントロールできるということである。どうしても運まかせの要素が強くなってしまうキック&ラッシュに比べてパス・サッカーは自らのパスの精度でその確率を偏向できるから、パス・サッカーは素晴らしいと言われるのだ。
しかし誤差の範囲は少ないけれど、その代わりにボールが描く軌道は相手の予想の範囲内に納まる、意外性のない単調なものになっていく。「ショートパスばかりだと相手に読まれる」のである。これがパス・サッカーの唯一にして、そして最大のジレンマである。
デル・ボスケのスペインもグアルディオラのバルセロナもアギーレのメキシコもマルセロ・ビエルサのチリもペトロビッチの広島も、パス・サッカーを標榜するチームは皆ここでつまづくのである。超守備的な4-1-4-1が普及した現代サッカーにおいて、パスをつなげばつなぐほど、相手のボックスは整備され、一方で攻撃は単調になっていくのである。
さて、するとパス・サッカーは意外性がなく単調になっていくのだから、要するに「つまらない」ということになりはしないか。現実的に、スイスにドンビキされたスペインやインテルにドンビキされたバイエルンのサッカーは、意外性がなく単調で無味乾燥で「つまらない」のである。パス・サッカーを志向していた頃の岡田ジャパンより、開き直って本田にドカドカとロングフィードを蹴りこむようになった本大会の岡田ジャパンの方がむしろおもしろかったりするのである。
このように、本来おもしろい攻撃を自らがデザインしたとおりに実践していくのに適した手段であったはずのパス・サッカーやポゼッション・フットボールが、それと対照的なアンチ・フットボールのタテポンをやるチームとマッチアップすることで、逆におもしろくなくなっていくのである。信じられないがそうなのである。
そもそもの疑問として、まず「パス・サッカーとフィジカル・サッカー(タテポン・サッカー)は別のものなのか」、という問題がある。パス・サッカーが善でフィジカル・サッカーを悪とするアナロジーには、「パス・サッカーとフィジカル・サッカーは互いに相関しない」という前提があるはずである。しかし、果たしてほんとうにそうなのだろうか、と言うと、実際のところはそんなことは決してないのである。というか、別に誰も「相関してはならない」と決めているわけではないのである。前述の「パス・サッカーは善でタテポンは悪」という二元論に依拠して、ただ単に意固地になってパス・サッカーをやろうとしているだけなのである。それはパス・サッカーが理想的なサッカーであると考えられているからある意味では当然なのだけれど、しかし頭の固くなった人間(たち)のやることがおもしろくないことは紀元前の昔からのお約束である。パス・サッカーにこだわったところでおもしろいサッカーになるとは限らないのである。
サッカーのおもしろさとは、そもそも「ゴールを割るか、割らないか」という二進法のスペクタクルであったはずである。その不確定性がカタルシスだったのである。だからゴールを割らせないようにみんなで努力する現在の4-1-4-1システムは機能美を伴うのだし、逆にゴールに決して直結しない冗長なポゼッションは観ていてつまらなかったりするのである。
その意味で、パス・サッカーとフィジカル・サッカーは究極的には共存していくべきなのである。4-1-4-1システムがそもそも高い位置でのプレッシングとリトリート・ディフェンスを併用するために開発された戦術であったのと同じように、未来のサッカーはポゼッションとタテポンという、現在の価値観ではコレクト・フットボールとアンチ・フットボールという風に対置される戦術を共存させる方向に向かっていくべきなのだ。わたしはそう思う。
だからわたしはペトロビッチ監督の広島の攻撃的なサッカーが大好きだが、一方でシャムスカ監督が率いていたころの大分も好きだし、オリヴェイラ監督の鹿島のサッカーも好きである。それぞれがそれぞれに適したやり方でサッカーをやっているのである。それを「善」だ「悪」だと色分けしようとする心こそ卑しいのだ。リスクを控えた手堅いサッカーもチャレンジングでアグレッシヴなサッカーも、オートマティズムに貫かれているのならどちらも「善」であるはずである。
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