島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
埼玉の深谷にあるミニシアター深谷シネマにて白石和彌の「止められるか、俺たちを」を観る。まず深谷に行くのに西日暮里で山手線に乗り換え赤羽から更に高崎線で1時間かかる。電車賃が意外と高くて蓋し埼玉は秘境であるという思いを新たにする。深谷シネマは深谷駅北口から徒歩7分ほど。上映まで時間があったので近くのラーメン屋(店の名前は忘れた・・・)でつけ麺を食べる。映画館は煉瓦造りの古い建物を市民有志で改造したもので、もう使われなくなった煙突などがそのまま残っている。看板がなければここに映画館があるなど誰も思わない・・・。料金は1,100円と良心的。このスクリーンでは「止められるか、俺たちを」がこの日から1週間ほど上映されるのだ。客はまばらだがそれだけに居心地よく観ることができた。何より都内でとっくの昔に打ち止めとなった作品がソフト化までのブランクの間に劇場で観ることができる機会は貴重である・・・。
それにしてもなぜ俺はこの 映画を観たくなったのか?映画秘宝の2018年ベスト&トホホでは三留まゆみとなんと小野耕世がベストに入れ、モルモット吉田は第1位、一方で多田遠志がワースト3に選出していた以外は実は箸にも棒にも引っかかっていない・・・(本当はあと数人のよく知らない人がベスト10に推挽してはいる)。ただ、別冊映画秘宝「サスペリアMAGAZINE」のクロス・レヴューでモルモット吉田の寄稿文のタイトルが「止められるか、魔女たちを」だったのが妙にカッコよく思え、それで俺はこの映画に抗いがたい何かを感じたのだった。このタイトルを考えた人本当に天才だと思う・・・。そのタイトルの由来については映画秘宝2018年11月号68ページの特集記事において解題があり、それによれば若松孝二の実現しなかった暴走族映画のタイトルが「止められるか、俺たちを!」だったのだ、と言うことである。他方で本作のパンフレットの若松組座談会ではもともと事務所に持ち込まれた暴走族の写真集のタイトルだったとか、足立が若松を代弁して語った言葉が下敷きなのだとか異説もある。いずれにしろこのタイトルが最高にかっこいいことはもはや疑いようがないので起源についてはもはやどうでもいい話だ・・・。
この映画を語るにあたって軽視してはならない事実の一つに、この映画を2018年に世に問うと言うことはこの映画を観る者の大部分は実は、あの時代を直接的には知らないのだ、と言うことがある。あの時代のサブカルチャーの推進力がそれこそ本当に誰にも手のつけようがないほどに凄まじかったのだと21世紀に生きる我々は(60年代なんてその時代に生きたことすらないのに。と言うよりも、或いはそれゆえに)美化してしまいがちだ。現代に生み出される文物に心の底からスウィングできない層というのはいつの時代にもいる。時代と同化できず、こぼれ落ち、町の片隅や別の時空の記憶の中についこの時代の空気とは別の何かを探してしまう人間はいつだって存在する。そして、サブカルチャーの冥府魔道に迷い込んでこの時代から弾き飛ばされて結局どこにも帰る場所がなくなってしまった奇特な人間は必ずや、この映画を観て心にとんでもない傷跡を刻みつけられることになる。なぜ自分はこの時代を享受できないのか?なぜ自分にとって現在は居心地が悪く、こんなに生きるのが辛いのか?もちろん憐憫な無用である。この映画もそうした救いようのない衆生を慰めるものでは決してない。なぜなら結局、今となっては全てがファンタシーだからだ。これはある意味では、この時代に居場所をなくすこと以上に残酷なことだ。新宿のゴールデン街はもはや、この映画で描かれたような場所ではありえない。今の世の中にインディーズ映画を作ろうとしても、あの頃のような空気は絶対に実現しえない。そもそもこんなことが実際に起こったかどうかすら定かではない。画面の中に描かれたこと以外は実は何一つ起こらなかったのかもしれない。しかしそれよりもなお悲惨な事実は、この映画が紛れもなく青春映画の傑作であると言うことである。何者でもない若者たち。空中に浮かんでは弾けていく泡のように儚いひとときの共同体。セックス。パンクと言う言葉がまだ存在しなかった頃の仇花めいたものとしての革命(と言う名のパンク的な何か)。この映画には青春というものを構成するありとあるイディオムが全て詰まっていて、それでいて一つの無駄もない。そして、この映画は青春を通じて我々が辿り着くその末路すら冷徹に描き切る。青春とは破壊である。青春とは自殺である。青春とは隣近所や町で出くわす人間だか警官だかをかたっぱしから殴り殺したくなる衝動のことであり、また同時にそれが絶対に実現されることのない絵空事であることをあまりにも厳然と突きつける情け容赦なき死神である。それゆえに、この映画が終わった後に残されるのは映画館の暗闇に佇む、何も持たない、何者でもない我々自身なのだ。最高の青春映画であるがゆえに、この映画は我々を救わない。その内側には実は何もない。この映画は過去をむやみやたらに美化するものでもなく、現代に居場所のない惨めな人々に福音を与えるものでもない。この映画はただ、エンド・マークの向こう側に我々を取り残すことで我々を攻撃するのだ。それは言い換えれば、映画が円環を為さず完結することなく現実にはみ出して我々を攻撃することによってそこで描かれた青春が我々に、映画を観る我々に仮託されると言うことだ。映画が現実の中に溶け出し裏返しになる。映画の中に流れる時間はそのまま我々の生きるこの時代の空気の中に流れ込む。この世界が以前とは全然違って見える。世界の景色が全く変わってしまう。或いはそれはマヤカシかもしれない。そんなものはただの錯覚に過ぎないのかもしれない。しかし、この映画によってもたらされる傷や痛みは本物だ。世界が実のところ何も変わっていなくとも我々はこの映画から攻撃されることで別の何かに変形する。それだけは事実だし、それはこの現実に起こったことだし、我々に起こったことは誰にも否定できないし誰にも変えられない。この映画が我々に見せる景色はそう言うものだ。この映画を観終わった後に起こることはつまりはそう言うことだ。
後には何も残らず、ただ周囲のいろいろなものを犠牲にして混沌を撒き散らし人生を取り返しのつかないところにまでネジ曲げて去っていく青春という化け物。それはいつだって我々のそばにいる。それはいつでも我々の、我々自身の心の中から現れる。この映画を観終わったその時から、我々の心にその化け物が巣喰い始める。その化け物はいつか、空間を食い破りこの時代に再び出現するだろう。その化け物は青春の魔力によって社会や日常をまた攻撃し始めるだろう。言うまでもなく我々はもはや化け物そのものであり、かつてあったようにはもう戻らない。そしてその時我々は、化け物となることによって初めて、ようやくこの時代に自らの居場所を見出すのだ。
それにしてもなぜ俺はこの 映画を観たくなったのか?映画秘宝の2018年ベスト&トホホでは三留まゆみとなんと小野耕世がベストに入れ、モルモット吉田は第1位、一方で多田遠志がワースト3に選出していた以外は実は箸にも棒にも引っかかっていない・・・(本当はあと数人のよく知らない人がベスト10に推挽してはいる)。ただ、別冊映画秘宝「サスペリアMAGAZINE」のクロス・レヴューでモルモット吉田の寄稿文のタイトルが「止められるか、魔女たちを」だったのが妙にカッコよく思え、それで俺はこの映画に抗いがたい何かを感じたのだった。このタイトルを考えた人本当に天才だと思う・・・。そのタイトルの由来については映画秘宝2018年11月号68ページの特集記事において解題があり、それによれば若松孝二の実現しなかった暴走族映画のタイトルが「止められるか、俺たちを!」だったのだ、と言うことである。他方で本作のパンフレットの若松組座談会ではもともと事務所に持ち込まれた暴走族の写真集のタイトルだったとか、足立が若松を代弁して語った言葉が下敷きなのだとか異説もある。いずれにしろこのタイトルが最高にかっこいいことはもはや疑いようがないので起源についてはもはやどうでもいい話だ・・・。
この映画を語るにあたって軽視してはならない事実の一つに、この映画を2018年に世に問うと言うことはこの映画を観る者の大部分は実は、あの時代を直接的には知らないのだ、と言うことがある。あの時代のサブカルチャーの推進力がそれこそ本当に誰にも手のつけようがないほどに凄まじかったのだと21世紀に生きる我々は(60年代なんてその時代に生きたことすらないのに。と言うよりも、或いはそれゆえに)美化してしまいがちだ。現代に生み出される文物に心の底からスウィングできない層というのはいつの時代にもいる。時代と同化できず、こぼれ落ち、町の片隅や別の時空の記憶の中についこの時代の空気とは別の何かを探してしまう人間はいつだって存在する。そして、サブカルチャーの冥府魔道に迷い込んでこの時代から弾き飛ばされて結局どこにも帰る場所がなくなってしまった奇特な人間は必ずや、この映画を観て心にとんでもない傷跡を刻みつけられることになる。なぜ自分はこの時代を享受できないのか?なぜ自分にとって現在は居心地が悪く、こんなに生きるのが辛いのか?もちろん憐憫な無用である。この映画もそうした救いようのない衆生を慰めるものでは決してない。なぜなら結局、今となっては全てがファンタシーだからだ。これはある意味では、この時代に居場所をなくすこと以上に残酷なことだ。新宿のゴールデン街はもはや、この映画で描かれたような場所ではありえない。今の世の中にインディーズ映画を作ろうとしても、あの頃のような空気は絶対に実現しえない。そもそもこんなことが実際に起こったかどうかすら定かではない。画面の中に描かれたこと以外は実は何一つ起こらなかったのかもしれない。しかしそれよりもなお悲惨な事実は、この映画が紛れもなく青春映画の傑作であると言うことである。何者でもない若者たち。空中に浮かんでは弾けていく泡のように儚いひとときの共同体。セックス。パンクと言う言葉がまだ存在しなかった頃の仇花めいたものとしての革命(と言う名のパンク的な何か)。この映画には青春というものを構成するありとあるイディオムが全て詰まっていて、それでいて一つの無駄もない。そして、この映画は青春を通じて我々が辿り着くその末路すら冷徹に描き切る。青春とは破壊である。青春とは自殺である。青春とは隣近所や町で出くわす人間だか警官だかをかたっぱしから殴り殺したくなる衝動のことであり、また同時にそれが絶対に実現されることのない絵空事であることをあまりにも厳然と突きつける情け容赦なき死神である。それゆえに、この映画が終わった後に残されるのは映画館の暗闇に佇む、何も持たない、何者でもない我々自身なのだ。最高の青春映画であるがゆえに、この映画は我々を救わない。その内側には実は何もない。この映画は過去をむやみやたらに美化するものでもなく、現代に居場所のない惨めな人々に福音を与えるものでもない。この映画はただ、エンド・マークの向こう側に我々を取り残すことで我々を攻撃するのだ。それは言い換えれば、映画が円環を為さず完結することなく現実にはみ出して我々を攻撃することによってそこで描かれた青春が我々に、映画を観る我々に仮託されると言うことだ。映画が現実の中に溶け出し裏返しになる。映画の中に流れる時間はそのまま我々の生きるこの時代の空気の中に流れ込む。この世界が以前とは全然違って見える。世界の景色が全く変わってしまう。或いはそれはマヤカシかもしれない。そんなものはただの錯覚に過ぎないのかもしれない。しかし、この映画によってもたらされる傷や痛みは本物だ。世界が実のところ何も変わっていなくとも我々はこの映画から攻撃されることで別の何かに変形する。それだけは事実だし、それはこの現実に起こったことだし、我々に起こったことは誰にも否定できないし誰にも変えられない。この映画が我々に見せる景色はそう言うものだ。この映画を観終わった後に起こることはつまりはそう言うことだ。
後には何も残らず、ただ周囲のいろいろなものを犠牲にして混沌を撒き散らし人生を取り返しのつかないところにまでネジ曲げて去っていく青春という化け物。それはいつだって我々のそばにいる。それはいつでも我々の、我々自身の心の中から現れる。この映画を観終わったその時から、我々の心にその化け物が巣喰い始める。その化け物はいつか、空間を食い破りこの時代に再び出現するだろう。その化け物は青春の魔力によって社会や日常をまた攻撃し始めるだろう。言うまでもなく我々はもはや化け物そのものであり、かつてあったようにはもう戻らない。そしてその時我々は、化け物となることによって初めて、ようやくこの時代に自らの居場所を見出すのだ。
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