ここにいけば何でもある!!!ここにくれば何でもある!!!
・・・何でもある、ということは何もない、ということと同義なんだけど。そう思うけど。
喧嘩別れ。したくないけど見たくもないけど。
愛とか言うのじゃないけれど、あんたを殴ってみたかった。終わりはいつでも、喧嘩別れ。誰もおれのこと好きじゃないし嫌いじゃない。そうして終わりはいつでも、喧嘩別れ。
後味わるいし血が染みる。
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バイトを変えました。賃金的にも精神衛生的にもこれでよかったと思います。
「腸詰工場の少女」(高橋葉介先生の短編マンガです)のような生活からも脱却できます。
終わりはいつでも喧嘩別れ・・・わたしの人生はいつもそうです。最後はぜったいに喧嘩です。それ以外はズルズルつづいています。旧友と会ったりするイベントがつづきます。でも、最後はぜったいに喧嘩です。家族とも他人とも喧嘩して、わたしはいったいどうなってしまうんでしょうか。たぶん死ぬときはひとりです。
後味わるいし、血が染みる。
冗談だと思われるかもしれないが、わたしは自分で自分が本気でギタリストだと思っている。わたしにはテクニックなんてないしスケールもろくに知らないし理論も知らない。足元には歪みしかないし唯一テクニックがあるとすれば「高音と低音のそれぞれのフィードバックを使い分けられる」程度だ。ギターマガジンとかを読んでいると眩暈がしそうになる。ほんとうにこのひとたちは上手いんだな、自分は死んでも無理だな、と思う。たぶんおれは死んでもロバート・フリップのようにはなれない。うらやましいから、テクニック一辺倒のひとをリスペクトする気持ちはある。でも、そういうひとたちになりたいとは全く思わない。ギターの弾き方というのを知らないし、どういう音が良いとか、どういうギターが上手いかとか、それらも実はほんとうのところはまるでわかってない。
でもギターという楽器は好きだ。鉄と鉄が振動しあって電気がそれを増幅して残虐な音を出してくれる。だからエレクトリック・ギターが好きだ。電気が通ってないギターは、実はあんまり好きじゃない。素敵なコード進行とかフレーズとかには全く興味がない。音楽の内容にはまるで興味がない。それがどう変形して歪んでいるか、増幅されているか、興味があるのはそれだけ。
嘘を言うのはやめよう。ひとを惑わすのはやめよう。ギタリストごときがひとの哀しみをどうにかしてくれるのだろうか。そんな幻想を見るのはやめよう。生まれたくもないのに生まれてきた無数の音が電気でボコボコにされて増幅されて、わたしたちはそれでいったい何をしたいのだろうか。わたしはギターとセックスがしたい。ギターをレイプしたい。
わたしが音楽を通して伝えたいこと、それは、ギターを身篭らせて中絶させたり畸形児が産まれたり、そういったありのまま。そこから目をそらすのは、もうやめよう。もう、やめよう。
「Earth2 -Special Low Frequency Version-」を聴いていると、眠りに落ちるかそういうことを考えるかのどっちかだ。
いつかわれわれは、ギターとわれわれとの間に産まれた私生児の悲しみに謝ることができるのだろうか?
わたしの人生が変わったとすれば、それはやはり高校の頃だったと思う。わたしの場合はそれがカフカじゃなくて、ニルヴァーナと岡崎京子だったんだけど。いまではそれとは少し距離を置いたところにいるのだけど、振り返ってみるとやっぱりそうだった。うーん、久しぶりにリバーズエッジが読みたくなったね。それとも、いまのわたしにはもう必要のない作品になってしまったのかな。だとしたら、悲しいな。
カフカの「変身」、時間をかけずにすごい本を読みたい人にはオススメです。あと、Y内さんにもね(笑)。更に沈むかもしれないけど。
ピクシーズのコピーがすごい楽しい。
ピクシーズの音楽は絶対にパンクとは違うけど、パンクのDIY精神を明らかに継承している音楽ではある。その意味では同列にしてしまってもいいや。高校生の頃、少ないコードで、誰にでも簡単に弾けて、怖ろしくポップで、しかしどこまでもフリーキーな音楽を作ろうと思ってレスポールを買った。そのキッカケになったのがピクシーズだった。あれから5年くらい経って、一度疎遠になって、そしていままた彼らと邂逅を果たしているような、そんな感覚だ。
ギターロックが好きで、パンクのDIYの側面に強いリスペクトを持っている人で、ピクシーズをまだコピーしたことがないという人は、一度やってみてください。プレイしていてほんとうに楽しい。
SMAPによる「世にも奇妙な物語」の特別編が再放送されていた。
香取慎吾出演の「エキストラ」というエピソードは特に記憶に残る作品である。わたしはこれを小学生か中学生にならないかくらいのときに観て、身体の中でくすぶっていた感情が確信となっていったのを感じた、そういう想い出がある。これがわたしにとっての「怪奇大作戦」であり、良かれ悪しかれいまのわたしをフェノメーヌへとねじ曲げてしまったフラクタルのひとつとして君臨しているのである。
社会というものはある誰かの都合の良いように作られている。そのシステムは絶対であり、そこから逃れることは許されない。システムの前では人命など紙くずも同然である。
「エキストラ」で描かれるのはそういう世界である。誰かが主役を、誰かが端役を、演じることを強いられる、演じることが正しいことだと教えられる。
「ぼくはエキストラを降りたから、何もいらないんだ」
この衝撃は諸星大ニ郎に匹敵するか、もしくはそれ以上である。
このドラマが放送されて間もなくして日本でも新自由主義政権が台頭、システムによる合理主義、市場原理主義と自己責任論の腐臭に満ちた冷酷な時代が始まるのである。
それから数年、日本はどうしようもないくらいに残忍怜悧な人間、システムに依拠するという幻想のもとで浮遊した個が跋扈する国へと変貌を遂げた。「エキストラ」が暗示した未来社会そのものである。
「早く、何でもいいから台本をください」
この戦慄はジョージ・オーウェルに匹敵するか、もしくはそれ以上である。
2008年。
このドラマが再放送された意義は、あまりにも大きい。
大阪に行ってダイナソーJr.を観てきました。
わたしの目の前で、神がまさにそこに居ました。
ジャズマスターの形をした全能の杖で、6連スタックの観音開きに鎮座する白髪の神仙が壮絶に爆死していました。わたしはほんとにほんとに泣きそうでした。
日本はもう終わりだ。うちのおばあちゃんは今月からスズメの涙ほどの年金から後期高齢者保険料を天引きされ、アイスクリームはいま126円もして、これからいろんな人が餓死するでしょう。ガソリンがまた上がると、今度こそ運送業の零細中小は壊滅するでしょう。この国はクソです。無能な政治家が湯水の如く放蕩し下々から搾取する。この国は終わりです。
わたしにはダイナソーしかない、そう思った。
ほんとにほんとに、わたしはダイナソーによって延命した。
パンクロックはほんとに人を救うかもしれない。
少なくともわたしはオレンジ色のTシャツにボサボサの白髪長髪のJが「バッジ」を歌った瞬間、もう、死んでも良いと思った。「フリーク・シーン」ではほんとにほんとに、ヘッドバングとボディスクラッチの業火の中で窒息して死んでもいいや、と思った。ダイナソーを聴けてほんとに良かった。ワゴンもやってくれた。ほんとに、死んでも良い、そう思った。
「13、4歳のとき、突然、世界が狂ってると思った。それでブラック・サバスを聴いたら、ガツンとやられた。」
世界は狂っている。
でも、ダイナソーは絶対に正しい。死んでも正しいし、負けない。
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