島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
月曜日、ヤンキー少女の定期練習。
この日はおれが(いつものように)遅刻、尚、途中離脱しなければならないという時間上の制約に加えて、ギターのナットが欠けるという重大事故にも見舞われ、クオリティとしてはとても課題の残る内容の練習だった。あと、ブルース・ドライバーをセカンド・ドライヴとして最近から使い始めているが、これも使い方の難しい機材である。ダウン・ピッキング向けの分離しないコード・ストロークが欲しいんだけどね、程よいヒズミで。この程よさが微妙な問題なのである。てゆうか、ヤンキー少女では過剰過ぎるようなヒズミでやっと程よいというレベルであり、個人的にはブルーズ・ドライバーくんにはもっと盛大に爆裂してほしいのである。
その日はS田さんと、音楽についての話をする。とても密度の濃い話。正直、S田さんがここまで徹底した相対主義者であるとは思わなかった。面を洗って出直してこなければならないのは、おれの方かもしれない。
「音楽には何も期待していない」
「基本的にギターやエフェクターはノイズを出すための道具」
という、おなじみの持論を展開するが、S田さんはただ一言、「それでも良いよ、ぜんぜん」と総てを許容するのである。この言葉は、救済の護法であるかのような気もするが、ともすれば更なる孤高の突端へと追い詰める必殺の文句でもある。結局、唯我論の混沌から何も答えを示さない、私的言語の限界を知らねばならない。
結局、S田さんとおれに共通しているのは、「ゲイジュツなんてするな!」ってことなのかもしれない。
わたしは総てのサブ・カルチャーを信じない。わたしは総てのカルチャーを信じない。わたしは総ての音楽を信じない。
このまえ、Y内さんやF田さんと話していた、もはやヤンキー少女の音楽を語る上では欠かせない「パッケージ論」を思い出して、パッケージの飽和から抜け出す手管とは結局、唯我論に過ぎないのではないか、という気になった。
S田さんの場合は、徹底して選択主体の自分が中心の唯我論であり、それが総ての芸術的な(この言葉を使った時点で、芸術はパッケージの彼岸へと追いやられるのだが)営為を救済している。
対して、おれの場合は、選択主体としての自分が選択する、その選択自体がもはやパッケージに汚染されていて、パッケージを隠蔽し続けることを予め放棄して、選択主体としての自らすらをパッケージ化してパッケージの混沌の中へと身投げしようとしている。それが圧倒的に無様でカッコ悪くて、どこまでもコマーシャルで自己本位な「ゲイジュツ」という名の詭弁、「ゲイジュツ」という名の権力者の装置を肯定するのである。おれはいま、そう考えている。
どちらも正しいような気がする。が、そのどちらも答えでないような気もする。
この日はおれが(いつものように)遅刻、尚、途中離脱しなければならないという時間上の制約に加えて、ギターのナットが欠けるという重大事故にも見舞われ、クオリティとしてはとても課題の残る内容の練習だった。あと、ブルース・ドライバーをセカンド・ドライヴとして最近から使い始めているが、これも使い方の難しい機材である。ダウン・ピッキング向けの分離しないコード・ストロークが欲しいんだけどね、程よいヒズミで。この程よさが微妙な問題なのである。てゆうか、ヤンキー少女では過剰過ぎるようなヒズミでやっと程よいというレベルであり、個人的にはブルーズ・ドライバーくんにはもっと盛大に爆裂してほしいのである。
その日はS田さんと、音楽についての話をする。とても密度の濃い話。正直、S田さんがここまで徹底した相対主義者であるとは思わなかった。面を洗って出直してこなければならないのは、おれの方かもしれない。
「音楽には何も期待していない」
「基本的にギターやエフェクターはノイズを出すための道具」
という、おなじみの持論を展開するが、S田さんはただ一言、「それでも良いよ、ぜんぜん」と総てを許容するのである。この言葉は、救済の護法であるかのような気もするが、ともすれば更なる孤高の突端へと追い詰める必殺の文句でもある。結局、唯我論の混沌から何も答えを示さない、私的言語の限界を知らねばならない。
結局、S田さんとおれに共通しているのは、「ゲイジュツなんてするな!」ってことなのかもしれない。
わたしは総てのサブ・カルチャーを信じない。わたしは総てのカルチャーを信じない。わたしは総ての音楽を信じない。
このまえ、Y内さんやF田さんと話していた、もはやヤンキー少女の音楽を語る上では欠かせない「パッケージ論」を思い出して、パッケージの飽和から抜け出す手管とは結局、唯我論に過ぎないのではないか、という気になった。
S田さんの場合は、徹底して選択主体の自分が中心の唯我論であり、それが総ての芸術的な(この言葉を使った時点で、芸術はパッケージの彼岸へと追いやられるのだが)営為を救済している。
対して、おれの場合は、選択主体としての自分が選択する、その選択自体がもはやパッケージに汚染されていて、パッケージを隠蔽し続けることを予め放棄して、選択主体としての自らすらをパッケージ化してパッケージの混沌の中へと身投げしようとしている。それが圧倒的に無様でカッコ悪くて、どこまでもコマーシャルで自己本位な「ゲイジュツ」という名の詭弁、「ゲイジュツ」という名の権力者の装置を肯定するのである。おれはいま、そう考えている。
どちらも正しいような気がする。が、そのどちらも答えでないような気もする。
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