ヤンキー少女はもともとDIGITAL CONDOMという名前で、そのあとスーパー・ナイジェリアになって、そして今に至るのですが、なかなかしっくりする名前がない。ヤンキー少女も正直、合点のいくネーミングではないと思っている。
もっと短めの名前が。
一応候補は、MEATとかSOFTとか、フィータスっぽい名前だ。
五輪候補、厳しくなってしまったね。
でも、それは結果論じゃないか、と、今回の試合に限っては思う。
今回の反町ジャパンは良いサッカーをしていた。いままでが嘘のようなアグレッシヴなサッカーで、「気持ちが足りない」と言われ続けていたこのチームがようやく本来の姿を現出せしめたのではないか。森島を外したのと、細貝のボランチが少し意外だったが、あとはまあ順当なスタメン。本田圭に関しては少し懐疑的だったが、でもある程度バランサーとしての使い勝手を考えると家長より本田なんだよね。水野が縦横無尽に両サイドを駆け回り、柏木がサーチ&デストロイし、本田が追い越していく、このコンビネーションが、反町監督のやりたいサッカーなのなら、結果如何に関わらず続けていくべきだろう。柏木の守備への貢献もすごい良かった。内田もだんだんとマッチしてきている。水野を使うなら家長とか、と言われるが、まぁ、エキストラキッカーですよ。柏木と水野の新旧ファンタジスタ。もちろん家長も良い選手だが、スーパーサブ的な位置づけとするとおもしろい。しかし、本田圭、悪くないと思うのだけどね。選手の素質如何という低レベルな議論ではなく、チームにフィットしているか、タスクをこなせているか、という次元で、悪くないと思うんだけど。これでまた叩かれるのかね。がんばれ。
仮に五輪を逃したとしても、責任をとるならそれが誰かは、もはや明白でしょう。もちろん、ファーストトップにどういう選手を使いたいんだ、どっちだよ、という煮え切らなさもあるのだが、しかし、このチームはまるで強化と呼ぶにふさわしいマッチメイクをさせてもらえずにここまで来た。どっかのバカが組んだ地獄の過密日程の中で、なかなかベストのメンバーを呼べなかった。正直、一度もその時点における暫定的なベストの布陣と言うのを、このチームでは見たことがないと思っている。アジア大会で早々に帰国したこのチームはカナダで大活躍したU-20が台頭する頃になって彼らユース組に対してイニシアティヴをとれるチーム状況ではなかった、しかしJFAやマスコミが煽ってプレッシャーをかけてくる。そういうタイミングでU-20との融合を図っていった。
(というか、当初いちばん心配していた中村北斗の穴を誰が埋めるのか、という問題がアジア大会のネックだったが、結局、辻尾や一柳は定着せず結果的にユースから内田が上がって伊野波がコンバートしている。ここらへんの方向性の見えなさは、ほんとうに反町監督だけの責任だろうか?かなり反町擁護のサイドからの意見であることは重々承知だが)
逆に反町監督があらぬレッテルを貼られてしまうのではないか、と思うと非常に残念でならない。
このチームは既にA代表が卒業(か、または放棄か)したマンマークを律儀に続け、結構良い感じのチームにまとまってきている。それで結果が伴わなかった今回の試合だが、前の試合に比べれば圧倒的に良いよ。まだ数学的には可能性は十分あるわけで、あきらめずに、下を向かずに、がんばって欲しい。
「飛ぶ教室」はやっぱり良いまんがだった。最初は「気まぐれ☆オレンジロード」直系の「気まぐれ☆」タッチな軟派な展開にビビッて早くも拒絶反応が出る(いまのジャンプ主力作家陣がうすた京介先生の猿真似しか出来ていないのと同じだ。あいつらのまんが、20年後読んだらぜったい寒い)が、再読してみると慣れもあってより如実に作品の肉感がわかる。というか、ひらまつ先生は普通に絵がうまいね。ストーリーテリングというかマンガ的な物語作りの手腕においても、2巻の巻末に入っていた読み切り版「飛ぶ教室」を読んでみると普通に安定したセンスのある作家だったことがわかる。「気まぐれ☆」な感じは完全に編集部の介入だろうね。専属制度の毒牙にかからなければハッスル拳法とかで作家生命を終えることもなかっただろう。オサムのような文学少年ちょっとマザコンよりみたいな主人公像はどちらかというと萩尾系の少女マンガっぽいので、核は核でもモヒカンとマッチョが男根主義的社会を築いていた当代ジャンプ誌上では絶対にあり得なかった。それを考えるといかにレジスタンスな作品であったか、結局オサムは彼女とデレデレしてたいして人間的に成長するわけでもないし相変わらずダメ人間(ある意味ではのび太的)だけどやっぱり先古典的な「神」的視点における物語ではあり得ない救済のされ方をしている意味でこれはのちの安達哲先生の傑作「さくらの唄」の市ノ瀬クンに通ずるものではないのか。もっと評価されていいよこのマンガ。
ところで、もっとも言いたかったのが、この作品でドラマ的にも圧倒的な磁場を持つ北川先生、これって「ロング・ラブレター」の結花さんの原型じゃないのか?このマンガ自体「漂流教室」の亜流として広く認知され、あのドラマの脚本の大森さんが30代くらいと(勝手に)推定するとリアルタイムで読んでいる可能性もあるわけで、あながちないとは言えない、いや、ていうかこれはほぼ確実でしょう。とにかく絶望的な状況下でわずかな良識ある大人(どっちかというとモラトリアム過渡したばかりの若者)がこどもたちの支えになる、というシチュエーションはあんまないよねぇ。
まあ、あらゆる意味でエポックメイキングなこのマンガ、ほんとに良いです!!!みんな読んで!!!
あと、「ロング・ラブレター」に関しては以下のサイトが良いです。無断リンクします。
http://derutcarf.fc2web.com/sekiya/
サブドメインが「sekiya」ですぜ?
終戦関連でNHKがこれでもかと戦争関連のドキュメンタリーを垂れ流していたが、一貫しておもしろいものがなかった。NHKは必ずしも中道左派ではないが、どこかバイアスがかかったような輪郭のぼやけた作品を量産することで知られている。少なくとも現代の日本人の大半を骨抜きにした最大の戦犯は電通とNHKの二大巨頭であり、旧来保守やや恒久平和偏重よりの歪んだ価値観(要するに意見をコロコロ変えて被害者面ばかりをする、現代日本を腐らせた自己責任論という名の責任転嫁論)を「反戦平和」という名のネガティヴ・キャンペーンのもとで盛大に繰り広げてきた。そのもっとも最新形にあたるのが一般市民を討論というかケンカさせて有意義なディベート・ゲームを楽しんだような気分にさせる「日本の、これから」という番組で、おれはこのシリーズは大嫌いなので、今日も憲法9条について盛大にケンカしたっぽいけど大嫌いなので観ない、観ないったら観ない!!!但し、いくつか捕捉すると、NHKの作るドキュメンタリーやドラマや教養番組は総てが総て安易なノーテンキバカ量産番組ではないということ。NHKにも良心的なスタッフはいるのだ。ただ、彼らはゴールデンタイムで文字通り末席を汚し続けるアホなやつらの日陰にかくれてなかなか目立たない、というだけで。そういうマトモなNHKを観たければ、手っ取り早く「NHKアーカイブス」を観るといい。こんなことを言うとただの懐古主義、もしくは旧態依然とした体制主義だと言われてしまいそうだ。おれは断じてそのようなことはないと自負しているつもりだが、それでもやっぱり、懐古趣味はあるかもしれない。粗い画質、時代錯誤のナレーション、古いBGMに琴線が振動してしまうのは余りにもノスタルジーというか、主客転倒なモノの見方をしてると言われても仕方ないけど、それでもNHKアーカイブスはやっぱり良いです。正直言ってこんな良い見本があるのにマトモなテレビを作れないいまのNHKスタッフは、言葉は悪いが真剣にバカだと思う。アホですよ、もう。
そんなくだらないNHKの戦争ドキュメンタリーでもっとも拍子抜けだったのが「核クライシス」。もう、ほんとにくだらな過ぎて言葉が出ない。これが一国の国営放送がゴールデンタイムにわざわざ流す内容か。真剣にNHKはバカである。こんなものを観て頭が良くなった気分になってなんか真剣にもの考えたような気持ちになるほど国民はアホではありません。昨日やってたパール判事のドキュメンタリーも半分どうでもいいような感じだった。まあ、核クライシスに比べれば月とスッポンくらい数万倍良かったですけど。というか、パール判事は歴史修正右翼の最終兵器であり、はっきり言ってこのチョイスだけで「言葉狩り」を助長するようなものだ。どうもNHKには時流に逆らおうという反骨精神が強く欠けているようである。これは昔からそうだったわけではなくて、そもそも放送作家というものは旧来的にはレジスタンスであった。それが日本において大きく変質したのは電通が広告業界の一元支配を確立した高度経済成長移行の時期であって、その世代以降の子供が中核を担っているいまのNHKにマトモな番組が作れるわけありません。て、こんなことをいうとアドホック陰謀論者のように思われそうだ。断じて違いますけど。
ただ、BSでやってた「ニュルンベルク裁判(NAZIS ON TRIAL)」はなかなか良かった。て、これはBBC製作だ。BBCを擁護するわけではないが、この番組が良かったのは、なんか「ナチスが悪いっていうけどナチスの連中も大半はアイヒマンみたいに普通のマトモなひとたちであって、むしろなんか連合国側の人間も相対的に醜くなってしまう人類の悲劇、やるせなくって苦労してます!!!」みたいな感じの物語を余計な酌量を極力排除して、安易な起承転結な一元構造へと貶めなかった点。ここら辺の感性がいまのNHKには絶対的な欠けている。というか、いまの日本、及びアメリカにね。多角的なものの見方を持たねば。それで、ちょっとだけNHKをヨイショしておくと、NHKがずいぶん前にハイビジョン用に作ってた近衛文麿のドキュメンタリードラマ、あれは非常に良かった。このニュルンベルク裁判よりも、下手すればレベル的には上だった。あの番組を作ったスタッフ、いまどうしてるんでしょう。もう、まさに人間・近衛文麿の苦悩と自己断罪の日々、日々、日々!!!あれは泣けます泣かせます!!!
ということで今週各所で垂れ流された戦争ドキュメンタリーでいちばん良かったのは、NEWS23の「終わらない戦争」の第2夜、離隊(逃亡)して日本に帰るに帰れずタイで未だに活きている元日本兵のお話。要するに彼らは脱走兵なのである。死線をくぐりぬけ帰還した日本兵、もしくは非業の戦死を遂げた人々に比べれば、なんかあまりにもなひとたちだが、しかし、誰が彼らを責めれると言うのだろう。「あっちこっち逃げて逃げて逃げまくった人生でしたよ~。つまらない人生だったですよ~」
誰が彼らを責められるだろう。
タイトルは、伊藤潤二先生のマンガから。
「おいっ、そんな大きな声を出すな・・・あいつに聴こえるじゃないか!!!」
今日ブックオフに行って2時間くらい物色していたら、不意に見つけてびっくりした。
びっくりしたどころではない。
楳図かずお先生の「漂流教室」に感化されて以来、『「漂流教室」のフォロワーとしてもっとも良質な作品』という評価をネットで散見し、ずっと探し続けていたまんが。古本屋を巡るたびに一時期は必ずチェックしていた、そして結局見つからないでいた、個人的には幻のまんが。
ブックオフで待っていればいつかは出てくる、ということは聞いていたが、既に諦めて何年も経っていた。それが今日、こんな形で出会えるとは。
ジャンプ史上、もっとも泣ける終末SF。
やっと見つけた。
おれはいま不思議な偶然に感謝したい思いでいっぱいだ。
各105円、何も欲しいものがないのでバウハウスのベストを買おうと思っていたが、危ないところだった。
1巻が1986年12月15日第6版、2巻が同年同月同日第5版と、このまんがに限っては後刷版の部類に入るものではないか。
著者・ひらまつつとむ氏の巻頭のことばを。
「今、ボクの目の前には、物があふれています。
スイッチを押せば、電気がつき、水が出る。
お金を出せば、何でも手に入ります。
でも、それが一瞬のうちに、永遠になくなってしまったらー
ある日突然そう思って、こわくなったのが、ボクが、この漫画をかこうとした動機です。
オサムたちには、ガスも水道も、電気もありません。
けど、愛すべき北川先生といとしい一年生がいるのです」
読む前から泣けてきます。ハイ。
この日はおれが(いつものように)遅刻、尚、途中離脱しなければならないという時間上の制約に加えて、ギターのナットが欠けるという重大事故にも見舞われ、クオリティとしてはとても課題の残る内容の練習だった。あと、ブルース・ドライバーをセカンド・ドライヴとして最近から使い始めているが、これも使い方の難しい機材である。ダウン・ピッキング向けの分離しないコード・ストロークが欲しいんだけどね、程よいヒズミで。この程よさが微妙な問題なのである。てゆうか、ヤンキー少女では過剰過ぎるようなヒズミでやっと程よいというレベルであり、個人的にはブルーズ・ドライバーくんにはもっと盛大に爆裂してほしいのである。
その日はS田さんと、音楽についての話をする。とても密度の濃い話。正直、S田さんがここまで徹底した相対主義者であるとは思わなかった。面を洗って出直してこなければならないのは、おれの方かもしれない。
「音楽には何も期待していない」
「基本的にギターやエフェクターはノイズを出すための道具」
という、おなじみの持論を展開するが、S田さんはただ一言、「それでも良いよ、ぜんぜん」と総てを許容するのである。この言葉は、救済の護法であるかのような気もするが、ともすれば更なる孤高の突端へと追い詰める必殺の文句でもある。結局、唯我論の混沌から何も答えを示さない、私的言語の限界を知らねばならない。
結局、S田さんとおれに共通しているのは、「ゲイジュツなんてするな!」ってことなのかもしれない。
わたしは総てのサブ・カルチャーを信じない。わたしは総てのカルチャーを信じない。わたしは総ての音楽を信じない。
このまえ、Y内さんやF田さんと話していた、もはやヤンキー少女の音楽を語る上では欠かせない「パッケージ論」を思い出して、パッケージの飽和から抜け出す手管とは結局、唯我論に過ぎないのではないか、という気になった。
S田さんの場合は、徹底して選択主体の自分が中心の唯我論であり、それが総ての芸術的な(この言葉を使った時点で、芸術はパッケージの彼岸へと追いやられるのだが)営為を救済している。
対して、おれの場合は、選択主体としての自分が選択する、その選択自体がもはやパッケージに汚染されていて、パッケージを隠蔽し続けることを予め放棄して、選択主体としての自らすらをパッケージ化してパッケージの混沌の中へと身投げしようとしている。それが圧倒的に無様でカッコ悪くて、どこまでもコマーシャルで自己本位な「ゲイジュツ」という名の詭弁、「ゲイジュツ」という名の権力者の装置を肯定するのである。おれはいま、そう考えている。
どちらも正しいような気がする。が、そのどちらも答えでないような気もする。
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