巷で話題の西部謙司・著の「サッカー戦術クロニクル ~トータルフットボールとは何か?~」を読了。
帯には「戦術をここまで語った本はありません!!!」と殺気立った売り文句が踊っているが、まぁ、誇張ではないだろう。リヌス・ミケルスの1974年のオランイェは耳にタコができるほどどっかで聴いたことある話ばかりだが、ほかと違うのは「でもこいつらより先にトータルフットボールをやっていたチームはあったのだ」という展開へ接続させることを前提に書いていること。「戦術を語る」と大々的に喧伝しながらも、裏では「サッカーは戦術ではない」という素晴らしいスタンスをハッキリと提示しているあたり、すごいと思う。確かに、そういう意味ではいままでのサッカー本ではなかった種類の本である。オシム監督の影響が伺える。
いちばん心を打ったのは、第二章の「ACミランのルネッサンス」。靴のセールスマンから果てはアッズーリの監督にまで上り詰めたアリゴ・サッキの殺人機械の話である。これは、サッカーファンなら概要くらい最低でも知っているだろう有名な話だが、知っているつもりが実は肝心な部分を見落としていたりするもので、サッキのACミランが世界に衝撃を与えた驚愕の4-4-2がどのようなものだったかをここまで体系化してロジカルに説明した文書をわたしは読んだことがない。是非一読するべきである。日本のサッカー界でもプレスやハードワークの重要性を説くことはもはやトレンドとなっているが、どうも本質を見誤ってはいないか、という感がある。コンパクトフィールドもフォアチェックも目的ではなく手段である。そのことをこの章ではこれでもか、とばかり言っている。特に「サッキのプレッシングとは、いわば敵陣でのカテナチオであったのだ」という文章には、思わず胸が切なくなり、心が震えた。
ACミランはバレージとルート・フリットとファン・バステンがいたから機能したのだ。
1974年のオランイェはクライフがいたからこそ機能したのであり、モウリーニョのチェルシーはドログバとマケレレ頼みだ。
この本を読めばそれが痛いほどわかる。あのオシム監督もリスペクトしているというアルゼンチンの名将メノッティ監督の名言が心に残る。「サッカーが進化するのではなく、サッカーをやる人が進化するのだ」。また、オシム監督はこうも言っておられたはずだ。「人があってはじめてシステムが生まれる。システムが人を超えてはならないのだ」。
ヨハン・クライフが率いたアヤックスとバルサの3-4-3の基本理念は、「プレッシングなぞクソだ!!!そんなものテクニックさえあればどうにでもなる」。サッカーとは戦術のスポーツではない。クライフはサッキ以降、プレッシングの病理に苛まれた現代サッカー、ハードワークとスプリントのサッカーを「ノーテクニック」と一蹴した。
当然、個人技で劣っているチームがそれを補うためにシステムを使って連携していくのであり、わたしはシステムを否定しない。徹底的に計算されたオートマティズム、ロバノフスキーやサッキやモウリーニョのサッカーも観ていて楽しい。「ジャイアント・キリングこそサッカーの醍醐味である」を標榜するわたしとしては、たとえノーテクニックでもきちんと組織サッカーを忠実にやろうとするチームを絶対的に支持する。
しかし、そこに人がいることを忘れてはならない。システムありきではなく、まず人ありきでなければならない。システムが人を支配するのではなく、人のもとにシステムを造らなければならない。サッカーだけではない、実社会でもそうだろう?そう思わないか?後輩の出来が悪いのは、上回生がちゃんと教えてないからだろ。しかる前にきちんと教育しろよ。そうしないと出来るものも出来んだろうが・・・おっとっと。
ヴンダーチームとマジック・マジャールに言及し、かつそれにスコットランド・サッカーをリンクさせるという独自の仮説も提唱している辺り、戦術論を超えてサッカー史の研究としても興味深い。とにかく、この内容で1500円は安いと断言する。初心者にはやや敷居が高く、サッカーファンには既出ネタばかり、という「帯に短しタスキに長し」感は否めないが、一読の価値はある一冊である。
「飛ぶ教室」はやっぱり良いまんがだった。最初は「気まぐれ☆オレンジロード」直系の「気まぐれ☆」タッチな軟派な展開にビビッて早くも拒絶反応が出る(いまのジャンプ主力作家陣がうすた京介先生の猿真似しか出来ていないのと同じだ。あいつらのまんが、20年後読んだらぜったい寒い)が、再読してみると慣れもあってより如実に作品の肉感がわかる。というか、ひらまつ先生は普通に絵がうまいね。ストーリーテリングというかマンガ的な物語作りの手腕においても、2巻の巻末に入っていた読み切り版「飛ぶ教室」を読んでみると普通に安定したセンスのある作家だったことがわかる。「気まぐれ☆」な感じは完全に編集部の介入だろうね。専属制度の毒牙にかからなければハッスル拳法とかで作家生命を終えることもなかっただろう。オサムのような文学少年ちょっとマザコンよりみたいな主人公像はどちらかというと萩尾系の少女マンガっぽいので、核は核でもモヒカンとマッチョが男根主義的社会を築いていた当代ジャンプ誌上では絶対にあり得なかった。それを考えるといかにレジスタンスな作品であったか、結局オサムは彼女とデレデレしてたいして人間的に成長するわけでもないし相変わらずダメ人間(ある意味ではのび太的)だけどやっぱり先古典的な「神」的視点における物語ではあり得ない救済のされ方をしている意味でこれはのちの安達哲先生の傑作「さくらの唄」の市ノ瀬クンに通ずるものではないのか。もっと評価されていいよこのマンガ。
ところで、もっとも言いたかったのが、この作品でドラマ的にも圧倒的な磁場を持つ北川先生、これって「ロング・ラブレター」の結花さんの原型じゃないのか?このマンガ自体「漂流教室」の亜流として広く認知され、あのドラマの脚本の大森さんが30代くらいと(勝手に)推定するとリアルタイムで読んでいる可能性もあるわけで、あながちないとは言えない、いや、ていうかこれはほぼ確実でしょう。とにかく絶望的な状況下でわずかな良識ある大人(どっちかというとモラトリアム過渡したばかりの若者)がこどもたちの支えになる、というシチュエーションはあんまないよねぇ。
まあ、あらゆる意味でエポックメイキングなこのマンガ、ほんとに良いです!!!みんな読んで!!!
あと、「ロング・ラブレター」に関しては以下のサイトが良いです。無断リンクします。
http://derutcarf.fc2web.com/sekiya/
サブドメインが「sekiya」ですぜ?
今日ブックオフに行って2時間くらい物色していたら、不意に見つけてびっくりした。
びっくりしたどころではない。
楳図かずお先生の「漂流教室」に感化されて以来、『「漂流教室」のフォロワーとしてもっとも良質な作品』という評価をネットで散見し、ずっと探し続けていたまんが。古本屋を巡るたびに一時期は必ずチェックしていた、そして結局見つからないでいた、個人的には幻のまんが。
ブックオフで待っていればいつかは出てくる、ということは聞いていたが、既に諦めて何年も経っていた。それが今日、こんな形で出会えるとは。
ジャンプ史上、もっとも泣ける終末SF。
やっと見つけた。
おれはいま不思議な偶然に感謝したい思いでいっぱいだ。
各105円、何も欲しいものがないのでバウハウスのベストを買おうと思っていたが、危ないところだった。
1巻が1986年12月15日第6版、2巻が同年同月同日第5版と、このまんがに限っては後刷版の部類に入るものではないか。
著者・ひらまつつとむ氏の巻頭のことばを。
「今、ボクの目の前には、物があふれています。
スイッチを押せば、電気がつき、水が出る。
お金を出せば、何でも手に入ります。
でも、それが一瞬のうちに、永遠になくなってしまったらー
ある日突然そう思って、こわくなったのが、ボクが、この漫画をかこうとした動機です。
オサムたちには、ガスも水道も、電気もありません。
けど、愛すべき北川先生といとしい一年生がいるのです」
読む前から泣けてきます。ハイ。
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