それにしてもなぜ俺はこの 映画を観たくなったのか?映画秘宝の2018年ベスト&トホホでは三留まゆみとなんと小野耕世がベストに入れ、モルモット吉田は第1位、一方で多田遠志がワースト3に選出していた以外は実は箸にも棒にも引っかかっていない・・・(本当はあと数人のよく知らない人がベスト10に推挽してはいる)。ただ、別冊映画秘宝「サスペリアMAGAZINE」のクロス・レヴューでモルモット吉田の寄稿文のタイトルが「止められるか、魔女たちを」だったのが妙にカッコよく思え、それで俺はこの映画に抗いがたい何かを感じたのだった。このタイトルを考えた人本当に天才だと思う・・・。そのタイトルの由来については映画秘宝2018年11月号68ページの特集記事において解題があり、それによれば若松孝二の実現しなかった暴走族映画のタイトルが「止められるか、俺たちを!」だったのだ、と言うことである。他方で本作のパンフレットの若松組座談会ではもともと事務所に持ち込まれた暴走族の写真集のタイトルだったとか、足立が若松を代弁して語った言葉が下敷きなのだとか異説もある。いずれにしろこのタイトルが最高にかっこいいことはもはや疑いようがないので起源についてはもはやどうでもいい話だ・・・。
この映画を語るにあたって軽視してはならない事実の一つに、この映画を2018年に世に問うと言うことはこの映画を観る者の大部分は実は、あの時代を直接的には知らないのだ、と言うことがある。あの時代のサブカルチャーの推進力がそれこそ本当に誰にも手のつけようがないほどに凄まじかったのだと21世紀に生きる我々は(60年代なんてその時代に生きたことすらないのに。と言うよりも、或いはそれゆえに)美化してしまいがちだ。現代に生み出される文物に心の底からスウィングできない層というのはいつの時代にもいる。時代と同化できず、こぼれ落ち、町の片隅や別の時空の記憶の中についこの時代の空気とは別の何かを探してしまう人間はいつだって存在する。そして、サブカルチャーの冥府魔道に迷い込んでこの時代から弾き飛ばされて結局どこにも帰る場所がなくなってしまった奇特な人間は必ずや、この映画を観て心にとんでもない傷跡を刻みつけられることになる。なぜ自分はこの時代を享受できないのか?なぜ自分にとって現在は居心地が悪く、こんなに生きるのが辛いのか?もちろん憐憫な無用である。この映画もそうした救いようのない衆生を慰めるものでは決してない。なぜなら結局、今となっては全てがファンタシーだからだ。これはある意味では、この時代に居場所をなくすこと以上に残酷なことだ。新宿のゴールデン街はもはや、この映画で描かれたような場所ではありえない。今の世の中にインディーズ映画を作ろうとしても、あの頃のような空気は絶対に実現しえない。そもそもこんなことが実際に起こったかどうかすら定かではない。画面の中に描かれたこと以外は実は何一つ起こらなかったのかもしれない。しかしそれよりもなお悲惨な事実は、この映画が紛れもなく青春映画の傑作であると言うことである。何者でもない若者たち。空中に浮かんでは弾けていく泡のように儚いひとときの共同体。セックス。パンクと言う言葉がまだ存在しなかった頃の仇花めいたものとしての革命(と言う名のパンク的な何か)。この映画には青春というものを構成するありとあるイディオムが全て詰まっていて、それでいて一つの無駄もない。そして、この映画は青春を通じて我々が辿り着くその末路すら冷徹に描き切る。青春とは破壊である。青春とは自殺である。青春とは隣近所や町で出くわす人間だか警官だかをかたっぱしから殴り殺したくなる衝動のことであり、また同時にそれが絶対に実現されることのない絵空事であることをあまりにも厳然と突きつける情け容赦なき死神である。それゆえに、この映画が終わった後に残されるのは映画館の暗闇に佇む、何も持たない、何者でもない我々自身なのだ。最高の青春映画であるがゆえに、この映画は我々を救わない。その内側には実は何もない。この映画は過去をむやみやたらに美化するものでもなく、現代に居場所のない惨めな人々に福音を与えるものでもない。この映画はただ、エンド・マークの向こう側に我々を取り残すことで我々を攻撃するのだ。それは言い換えれば、映画が円環を為さず完結することなく現実にはみ出して我々を攻撃することによってそこで描かれた青春が我々に、映画を観る我々に仮託されると言うことだ。映画が現実の中に溶け出し裏返しになる。映画の中に流れる時間はそのまま我々の生きるこの時代の空気の中に流れ込む。この世界が以前とは全然違って見える。世界の景色が全く変わってしまう。或いはそれはマヤカシかもしれない。そんなものはただの錯覚に過ぎないのかもしれない。しかし、この映画によってもたらされる傷や痛みは本物だ。世界が実のところ何も変わっていなくとも我々はこの映画から攻撃されることで別の何かに変形する。それだけは事実だし、それはこの現実に起こったことだし、我々に起こったことは誰にも否定できないし誰にも変えられない。この映画が我々に見せる景色はそう言うものだ。この映画を観終わった後に起こることはつまりはそう言うことだ。
後には何も残らず、ただ周囲のいろいろなものを犠牲にして混沌を撒き散らし人生を取り返しのつかないところにまでネジ曲げて去っていく青春という化け物。それはいつだって我々のそばにいる。それはいつでも我々の、我々自身の心の中から現れる。この映画を観終わったその時から、我々の心にその化け物が巣喰い始める。その化け物はいつか、空間を食い破りこの時代に再び出現するだろう。その化け物は青春の魔力によって社会や日常をまた攻撃し始めるだろう。言うまでもなく我々はもはや化け物そのものであり、かつてあったようにはもう戻らない。そしてその時我々は、化け物となることによって初めて、ようやくこの時代に自らの居場所を見出すのだ。
驟雨に包まれた海辺の沼沢地がおれには地獄の辺土に見えた。ビニール・シートの天蓋は風に煽られればたちまちバッファアンダーランエラーに陥り、その過負荷を地上2メートル分の加速度が乗算された雨水に変換して地面に出力して、そしてヌカルミでできたフロアはパブリック・アドレスの絨毯爆撃がレア社謹製のスーパー・ドンキー・コング式スプライトの大群の魂或いはコーディングされざるその他すべてのものを電子の箔押し加工で浮き彫りにするたびに尊敬措く能わざるポロロッカに見舞われては極小のブロブ片を空間に射出した。オープニング・アクトのどうでもいいジョバーを横目でやり過ごすにはいつもなぜか卓抜したテクニックが必要とされるから、おれはシオドア・スタージョンの「マエストロを殺せ」(柳下毅一郎訳)を読み進めることにして、醜いフルークが謀殺したラッチ・クロウフォードの残響にパワー・アンビエントされ徐々に緩やかにジョン・ゾーン式コブラ・ゲームの棋譜に踊る微分方程式並みの厳正さで発狂していくマジック・リアリズムがなぜかおれの現実にシンコペートしてきてそれは心地よい細切れのアナログ・ディレイのように虚構と現実の懸隔を双方向的に浸食し重大な精神汚染をもたらす。スキッドが弾いていたのはおそらく、周囲24フレット分とあとその先の人生数十年分に壊滅的な打撃をもたらす真に魔術的なファズ・ギターであり、だからこれはノルウェーのデス・メタル・バンドの小説でもよかったしベオグラードのスラムでライバッハのブートレグを聴きながら発狂するムスリムの少年の儚くも妙なるモンタージュでもよかったし、或いは雨の松江のライヴ会場でスタージョンを読みながら無聊をかこつコミュニケーション障害の27歳のおれに降りかかるそのあとの或いはもっとあとの数奇な運命を象る何かであってもよかった。とにかく、おれはおれのビアンカの手が現れるのを待っていた。おれのデス・クリムゾンが、おれの四八(仮)が、おれの超光戦士シャンゼリオンが現れるのを待っていた。それはこの瞬間でなくても或いはそのあと或いはそのまえ或いはそのどちらでもない謎の余剰次元におけるまだ見ぬ邂逅であり、そしてそれはやはりそのときではないはずだったし実際にそうだった。うみのてのライヴが始まった。いつもならDJブースに喜捨されるはずのサブ・ステージがたちまちシールドのスパゲッティで埋め尽くされ、リゼルグ酸ジエチルアミドのグリーン・マナリシがアラモゴルド砂漠に刻まれた巨大なペンタグラムに降臨しB17爆撃機のレギオンを核実験のクレーター上にフルメタルの星座としてバンプ・マッピングするに吝かでない状況が現出する。フェンダー・ジャパンのパステル・カラーのジャズ・マスターは2段直結回路のダーリントン接続でエレクトリック・レディ・ランドのウォッチ・タワーへとたちまちバッド・トリップして頭蓋骨を叩き割る。ラッチ・クロウフォードの残響を電光火花の彼方に垣間見る。光あれ。ディギン・イン・ザ・カーツ。クラークスデール空軍基地でサーキットされたE3のマイクロソフト・ブースでジョーズ・アンリーシュトをはじめてプレイした人たちの気分はたぶん、日本版ローカライズ「ブリー」が800円でディスカウントされている島根のバイブル・ベルトでもきっと、ミッドウェイ・ゲームズのあの邪悪なフェイタリティのグラフィック・アートに忠実にハイウエスト・ニーレングス・インバーティド・プリーツ・スカートで武装した女の子を鋼鉄のソーセージ・スタッファーへと送り込んで切り刻むときですら確実に、きっと確実に、こんな感じでイカレていたのだろう。おれは或いは彼が或いは彼女が或いはその他すべての脳が腐りかけた小心翼々のサタニストたちはみな、寄木細工のアフロ・フューチャリズムが網膜に直接ベクタスキャンするケン・ケリーのマノウォーのジャケット・アートのオイル・ペインティングが如き16ビットのソーフィヤ・セミョーノヴナの下腹部のアルビノの皮膚に欲情して地面に激突してバラバラになる。おれたちはいつもそれが何かとても価値のあるものだと思いたくて、価値のあるものを価値のあるものだと思うおれたちを価値のあるものだと思いたくて、緩やかにオーバードーズし気付いたときにはもう脳ミソがスキャナーズ爆発を起こして粉々に飛び散ってウィーン・アクショニズムで描いたアルタミラ壁画のクローンとして永遠になる。ライヴが終わる。永遠になったおれたちはもう永遠ではない。永遠ではなくてここは邪知甘寧に満ちた死の世界。永遠はない。終わりはない。見えない敵が我々を攻撃する。OBEY, CONSUME, MARRY & REPRODUCE. おれはロディ・パイパーを見つける必要があった。即効性のイデオローグを、陰謀論に跪拝するためのデザイナーズ・ドラッグを、オールトの渦状雲で覆われた電離層にたゆたうソーフィヤ・セミョーノヴナを、おれは見つけ出さねばならなかった。存在しない女。物販で高野京介から手売りでCDを2枚買った。いま手元にはそのときに買ったうみのての「イン・レインボー・トーキョー」(メンバー全員のサイン入り)と、高野京介と1997年の「The End of Youth」がある。ライヴが終わっておれたちはつけ麺を食べて家路について次の日には普段通り仕事をしていた。もう永遠ではなくなっていたから大量のドレーン・チューブを内臓に接続して時空間をネジ曲げようとする不毛な術策を弄することもなかった。フルークとラッチ・クロウフォードの物語はその次の日くらいに終わりを迎えた。暗黒の物語。存在しない女。ビアンカの手、もはやMZ700のポンチ絵と化したソーフィヤ・セミョーノヴナ(であったものの四散した残骸)。農奴解放時代に既にENIACが稼働し、ドストエフスキーがATARI2600をプレイしていたなら、我々はいまごろゆみみミックスのエミュレーションにMODされ電子のカケラになって消えていた。存在しない世界。そうであったはずの世界。高野京介と1997年はスーパーコンボドライヴ(たぶん台湾製)でオン・ザ・フライ書き込みされたバルク品のCD-R(スタック・リングには日立マクセルのロットが刻まれている。きっと中国製)で、人体を油圧サーボアクチュエータで緩やかに確実に死に追いやるときのシーク・ノイズで水晶振動子に焼き尽くされワウフラッターでブランク・スレートを汚染した。存在しない女。高野京介がハイスコアガールのTシャツを着ていたことを思い出した。「おれたちはかつて二次元の住人だった。だから二次元の女しか愛せないのだ」「なるへそ~」「どんなに醜くても、それがおれたちの生きた証だ」この一連のシークエンスで押切蓮介は伝説になった。
「似たようなやつらと何かしでかそうと/大人になってもバカでいようねと/このコード進行が何かのパクリでも/このコード進行がくるりのパクリでも/それでもぼくは/それでもぼくは/おれがロックマン/おれはロックマン/おれがロックマン/おれが」
フルーク、ああフルーク。
おれはもう一度永遠になって、そして、またもとの生活へと戻っていった。
あけましておめでとうございます。唐突で申し訳ないけど、今後の自分の芸術との関わり方を根底から覆すような強烈な体験であったため、何をさしおいて今日観たライヴの話を。
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石コロケッタ
ファンクとアフロビートとフリージャズをゴッタ煮にしてモトローラ68000のCPUパワーの極限までスプライト片に細切れに加工したものをリバース・エンジニアリングした感じ・・・もっと言えばMZ-700のTinyXEVIOUSみたいな。それでいてデートコースペンタゴンロイヤルガーデンのようなベクトルには向かわないという。もっとわからんか。サックス/ボーカルの人が「タイのゲイ・バーのバック・バンドみたいな感じ」と言っていた。その形容は当意即妙。どこまでもバッド・テイスト原理主義に殉じる姿に拍手喝采。とりあえずとても良い。出雲に巣食うアヴァンギャルドのDNA継承者その1。
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安来のオジ
が本名でエントリー、リアル・フォーク・ブルースを限りなくオーセンティックに。良かった。
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NEWサザエ
本日のキュレーター・・・になるのかな?ファンクとジョルジオ・モロダーとシャッグズをゴッタ煮にしてモトローラ以下同文。もっと言えばTinyスペハリ。それでいて旧態依然とした80年代マンセーのリバイバリズムもしくはマニエリスムもしくはコピーキャットに堕さず、あくまで現在進行形のコンテンポラリー・ポップ・ミュージックへと結実させる力業。これに感動しなかったら嘘だ!!!メンバー全員初老、ひとりは還暦。ほとんどフィックスでそして30年目アニヴァーサリー。これはもはや奇跡的という以外の言葉が見つからない。かつてバンドマンであった総ての人はこのことの持つ意味をたちどころに理解できるはずだ。そうでなければいけない。もう最高。出雲に胚胎するアヴァンギャルドの血脈を継ぐものその2。
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DR.BREAKER
間違いなく世界に通用する音。安土桃山時代に仮にインダストリアル・ミュージックが奏でられていたなら確実にこういう音になっていたであろうという、時空をねじ曲げる完膚なきまでの轟音核融合。すごすぎ。去年も遠藤ミチロウが松江B1に来たときのオープニング・アクトでその凄さは体験済みだったが、今回はそれらのハードウェア資産を確実に継承したうえで更に上位互換を達成。もう最高。デイメアでもTZADIKでもIpecacでもマンズ・ルーイン(もうないが)でも何でもいいから、とにかくこの音を全世界に紹介して欲しい。現時点で世界最高のヘヴィ・ロックだと本気で思う。スティーヴ・アルビニもリック・ルーヴィンもSOMAもPITAもあとニューロシスもナパーム・デスも総ての轟音原理主義者がもう下を向いて黙るしかないほどに凄絶。狂おしいまでに残虐。そしてそれら全部が渾然一体となった末に垣間見るあっち側の世界。骨格を粉砕し脳を掌握し自意識を瓦解させるその総ての究極の更にその先。もうとにかく最高。
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山根麻衣
サプライズ・ゲスト。あの山根麻衣。菅野よう子w/シートベルツの超名曲「BLUE」はプレイしなかったが、そんなもの必要ないくらいの完璧なパフォーマンス。不遜ながら初めてそのご尊顔を拝謁したが、この宇宙のあまねく生命へ全方位で向けられた力強いメッセージのその凄まじい強度にただただ圧倒される。これが!あの!もう言葉が出なかった。最高。
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クリトリックリス
真打。もう(ドクターブレイカーをあれだけ誉めそやしておいて何だが)人類がいままで作り得た総ての音楽の中で最高だと本気で思う。リズム・マシンの脱力ペコペコ打ち込みバック・トラックに全身全霊のスポークン・ワードと謎の暗黒舞踏がシンクロナイズし名状すべからざるスカム・ミュージックの桃源郷が雪崩れを打つようにオーディエンスを篭絡する。そこで語られるのは市井の人々の苦しみと悲しみとその間隙で刹那的に飛び散る人生の真実めいたナニモノかの漏電火花の儚い残像。泣ける。本気で泣ける。音楽の意義とか芸術の定義とか人生の意味とかそういうものとは百億光年の隔たりがあるこの日常、我々が泣いたり笑ったり嘆いたりわめいたりブチキレたりオナニーしたりキスしたりセックスしたり産まれたり死んだりするこの日常のグラウンド・ゼロのそのハード・コアで刻まれるクロック周波数の化石の最後の黒い燃えカスが風に乗って運ばれたときに不意に瞬く、生きていかねばならない者たちのちっぽけな覚悟。或いは絶望。或いは焦燥。そして或いは、生の肯定とその孤独の終り。橋本昌和(P. A. WORKS)の傑作TVアニメ『TARI TARI』のテーマは、「文化のあるところに人はあつまる」だという。文化に引き寄せられ、文化に突き動かされ、そこで人と人は出会うべくして出会い、そしてそこから新たな文化が生まれる。涙が出そうだ。それが人の生きる道だと思う。クリトリックリスの音楽はその定理を確かに証明していると思うし、そしてそれゆえにクリトリックリスの音楽は人類史上最高のシティ・ポップスだと心の底から思う。松江ALIVEで彼のライヴを観て以来、ずっとわだかまっていたものが今日再びまみえたことで、ひとつの線につながったような気がした。できるだけ多くの人に彼のライヴを観てほしい。そして、「桐島、バンドやめるってよ」を聴きながらともに笑い、涙しよう。人と人はつながる。そこに音楽があるかぎり。
「感傷的になってる暇なんかない」というのはほんとうの話で、やっぱりこの世界の真実と言うのは外面に作り笑顔を浮かべたジョバーどものおためごかしなんじゃないかという疑問も恐らくは正解で、それでも人は生きていかなくちゃいけないし生活していかなきゃいけないし、そして、幸せにならなきゃいけない。そうじゃなきゃいけない。それを邪魔する権利は誰にもないし、暗がりの中で干からびて命の動きを止めようとしている人がいれば「がんばれ」と声をかけて奮い立たせてもう一度リングに立つ手助けをしてあげなきゃいけない。それができるかどうかはまた別の話だし外の世界がクソだろうが何だろうがそんなもんはほとんど関係ねぇ。自分が生きるための努力をしなきゃいけないし時には誰かが生きるための手伝いをしなきゃいけない。だから、がんばらなきゃいけない。
だからというわけじゃないけど、やっぱり涙で誰かとお別れするより、笑顔で送り出してあげた方がいいんじゃないかと。お互いの人生はまだ終わらないしまだつづいていくし、誰かがいなくなってもまた新しい誰かがまたその火を受け継いでいくだろうし、結局すべてはつづいていくんだから、
だから、
だから、がんばらなきゃいけない。
「よくわかんないけど、とにかくがんばりましょう」
やっぱり家で本ばっかり読んでいないで、たまに外出るといいことあるね。
久々にあの場所に帰れて、少なくともおれは、楽しかった。楽しかったです。ほんとに。ありがとね。
結局車で機材運んだりしてたら、最後まで付き合っちった。。。でも楽しかったからいいや。みんな楽しそうな顔してたし、それが何より。みんな元気そうで何より。それが何より。
「よくわかんないけど、とにかくがんばりましょう」
ロックンロールがどうとか本気でどうでもいい。少なくともおれにはわかんねぇし、わかった気になったところで素でどうでもいいと思う。でもロックがどうの真剣に議論する人たちの気持ちはわからんでもないし、かつてはおれもそうだったしいまでも少しだけそんなんだから、そういう人たちのことを悪く言うつもりはない。
つまり何というか…
「がんばれ」ってことです。
本読んで勉強しましょ。もっと考える力つけましょ。あーだこーだ議論しましょ。もろもろ含めてがんばりましょ。
何かテンション上がってくるでしょ?
まぁみんな仲良しというわけにはやっぱりいかないし、仲直りの見込みのないくだらねぇケンカをすることもあるし、そりゃ生きてりゃいろいろあります。おれだってまた余計なこと言っちったし、何でいつもこんなんなるのか、おれはただタールたっぷりの安タバコを片手に「せつないわー」とボヤくばかり。でも次の日になればすっかり忘れてすぐ元気になるよ。ムカつくことは多いけどそんなんしらねぇよ。みんな敵作るのが好きだなぁ。そんなことばっかしてて腹痛くならんのか?腸に穴開くぞ。そんなん健康に悪いよ。大人の話なんてしらねーよバ~~カ。そりゃあんだけ楽しいライヴすれば床に穴開くわ。何でそれにケチつけんのさ、クソ。…でもその気持ちもわからんでもない!!!一応わからんでもないよ!!!。。。と心にもないフォローをいれたけど、まぁこれも修行です。
いろんな人がいなくなっていろんな人が去っていく。みんなおれを残して大人になっていく。こんなんばっかりだ。ずっと仲良くダラダラやってくわけにはいかないね。
でも、それが何だって言うのさ。
久々に空に向かってツバ吐きたくなったでしょう?
たぶんそれがバンドってもんですよ。ロックンロールとか言うやつですよ。もっと言えば、ポから始まる五文字の言葉ですよ。
鉄パイプ持って誰かを殴り殺しに行きたくなったら、ほんとにやったら犯罪になるので、その代わりにボスのチューナーとビッグマフをモンスターケーブルでマーシャルにつないで、全部フルテンにしてフィードバックを鳴らしなさい。たいていのことはそれで解決します。うだうだ文句言うクソどももたいていはその一発でピャーと飛んでいきます。ハハハ
なんか青春だなぁ!
このゲームこれ以上プレイしてたらおれ、コタツから出れんくなるから二周目はやめとくわ!
でもおもしろかったから、あんたに今度貸すよ。
きっと気に入ると思うよ!
ACLでペトロビッチの広島とアデレード・ユナイテッドの試合を観ていたとき、パス・サッカーはほんとうにフィジカル・サッカーを超克するのではないかと思った。相手の最終ラインやディフェンシブ・ハーフのマークを外して前線でフリーになった、もしくは完全にフリーでなくとも後ろ向きでボールを受けられる体勢にある味方の選手にCBが精度の高いタテパスを供給し、そのままダイレクトで落とすかもしくは最終ラインのギャップに入り込んでいたフリーの「三人目の選手」へフリック。この一連の動作がため息が出るほど美しい。ほんとうにほんとうに美しい。
広島の攻撃パターンは主に狭い密集エリアにおける初歩的なワンツーによるライン突破、細長い長方形のエリアにおけるタテパスからのフリックを基本にしたいわゆる「三人目の動き」、そして最終ラインからロングフィードを送りそれに呼応してフォワードがラインを抜ける中盤省略の3つに大別されるが、そのどれもがアデレード・ユナイテッドの屈強なフィジカルをモノともせずに完璧に実践され、相手を翻弄していた。特に佐藤寿人のボールの呼び出しから足元に受けてのワンタッチの捌き方、そしてラインの抜け出し方はパーフェクトだった。オーストラリア人の強靭なフィジカルを相手に、いったいどのようなマジックを使えばこのような錬金術が可能になるのだろうか・・・?
パス・サッカーやポゼッション・フットボールの究極形があるとしたら、恐らくそれはペトロビッチの広島ではないのか。わたしは必ずしもパスサッカーやポゼッション・フットボールの信奉者ではないが、ペトロビッチ監督の作り上げたいまの広島のようなチームにならその理想を託しても許されるのではないかとすら思えた。
それでもデル・ボスケのスペインが、矜持を捨てて「インテル戦法」を貫徹したオットマー・ヒッツフェルトのスイスにモノの見事に敗れた試合を観たとき、やはりパス・サッカーはフィジカル・サッカーの重力から逃れることは出来ないのではないか、とも感じた。
単純に考えて、4枚の最終ラインと中盤の底2枚と左右のサイドハーフ2枚に加えフォワードの一人、或いは両方が自陣にリトリートして4-4や5-4の二列のボックスをゴール前に築いたとき、タテパスの成功率が極端に下がることは目に見えている。スペインだって整然とゴール前を固める相手のボックスにモノの見事に手玉に取られ、自慢のパスワークはいつしかボックスの周りをサークル状にリレーさせるだけの冗長で単調で無味乾燥な「オートメーション」でしかなくなっていた。「オートマティズム」ではない、「オートメーション」である。それはけっして機械仕掛けの精巧なカラクリ時計などではない。工場で黙々と一定のリズムで判を押しモノを運び箱に詰め梱包するだけのスタンパーとベルト・コンベアーには唯一無二のハンドメイドの製品を作ることはできない。そして最後は「勘定の出来ない」ヘスス・ナバスの個人突破でサイドを攻略しクロスを放り込むしか術がなかった。そうしてスペインは敗れた。
4-1-4-1とはそもそも、「90分間プレッシングしつづけるのは難しいから、時間帯によってプレッシングするかしないか使い分けよう」、という発想で生まれたシステムだったと言われている。例えばカレル・ブリュックネルが率いたEURO2004のチェコ代表はそういうチームだった。4-1-4-1のゾーンのときはアンカーの前の4枚の中盤が高い位置でプレッシングするのに適しているが、やがて運動量が落ちるとかえって前に張り過ぎて突破されたときに最終ラインの前を守る選手がアンカーのガラーセクひとりだけになってしまう。運動量が落ちたときにはそうしたリスクを勘案して、今度は4-1-4-1を崩して全員が下がって4-4の堅牢なゾーンを作るのである。この二種類の守備を使い分ければより効率的に、かつアグレッシヴに守ることが可能である、という理屈である。
それがいつしか変質して、4-1-4-1という形骸的な部分は広く受け継がれたけれども、そうした「高い位置からのプレッシング」という本来のコンセプトは忘れ去られた。4枚の最終ラインの前にアンカーを置き、更にその前にワントップを頂点とした五角形のようなゾーンを作る4-1-4-1という形は同じだが、その位置を最初からハーフコートに限定するのが最近のトレンドである。
守備時に必ず自陣に9人以上の選手がリトリートし、ハーフコートでゾーンの網を敷くこの戦術をほとんどのチームが行うようになった昨今、ポゼッション・フットボールの優位性は失われつつある。相手は極端なアウト・フットボールによってゴールを守ることに妄執するようになったのである。いくら流麗なパスを出しても、フィジカルの鉄壁がことごとく跳ね返してしまう。
「パス・サッカーは善でフィジカル・サッカーは悪」、ということがよく言われる。ここで言うフィジカル・サッカーとは、そもそもは「タテポン・サッカー」であった。ボールを奪ったらとにかく前線にロングフィードしてポストプレーヤーが競り勝ちマイボールにして中盤を省略してボールを獲られるリスクを減らそうというサッカーである。いわゆるキック&ラッシュだ。例えば2003年と2005年のワールドユースで大熊監督が率いた日本代表がそういうチームだった。これが観ていてまったく楽しくないサッカーだったから、「悪」とされた。それに対して丁寧にビルドアップしてパスをつなぐサッカーはクリエイティヴでチャレンジングだから「善」なのだ、という理屈である。
しかし、この「タテポン・サッカー」を芸術の域にまで高めたジョゼ・モリーニョのチェルシーというチームが一世を風靡してから流れが変わった。というかモリーニョは「タテポン」の攻撃パターンをより細分化し、オートメーション化することに成功し、そのアーカイヴを例えばプレミアの下位クラブなどが次々と援用するようになった。自陣に9人以上の選手がリトリートして二列のゾーンを築く「4-4」や「5-4」のドンビキは機能美となり、そこから繰り出される一本のロングフィードの直線は芸術性を帯びるようになった。本来は高い位置でのぷれっシングを標榜するものだった4-1-4-1システムは、そのゾーンの形状が「タテポン」の実践に極めて適していたためにそもそもの理念は忘れ去られたが配列というその上面の部分は多くのチームに「有用なスキーム」として受け継がれた。かくして「タテポン」はもっとも先進的なオートマティズムとして立派に市民権を獲得したのである。
さて、しかし、それでもパス・サッカーは善でフィジカル・サッカー(タテポン)は悪であるとされる。何故か。パス・サッカーはボールの軌道の不確定性を補正しやすい足元のショートパスというメソッドに拘泥している分、自らがデザインしたとおりの軌跡を描出することが出来るからである。地を這う短いパスは山なりの長距離のパスより、誤差の範囲が少ない。誤差の範囲が少ない、ということはどこに転がっていくかわからないボールの軌道を出来るだけ自らがデザインしたとおりにコントロールできるということである。どうしても運まかせの要素が強くなってしまうキック&ラッシュに比べてパス・サッカーは自らのパスの精度でその確率を偏向できるから、パス・サッカーは素晴らしいと言われるのだ。
しかし誤差の範囲は少ないけれど、その代わりにボールが描く軌道は相手の予想の範囲内に納まる、意外性のない単調なものになっていく。「ショートパスばかりだと相手に読まれる」のである。これがパス・サッカーの唯一にして、そして最大のジレンマである。
デル・ボスケのスペインもグアルディオラのバルセロナもアギーレのメキシコもマルセロ・ビエルサのチリもペトロビッチの広島も、パス・サッカーを標榜するチームは皆ここでつまづくのである。超守備的な4-1-4-1が普及した現代サッカーにおいて、パスをつなげばつなぐほど、相手のボックスは整備され、一方で攻撃は単調になっていくのである。
さて、するとパス・サッカーは意外性がなく単調になっていくのだから、要するに「つまらない」ということになりはしないか。現実的に、スイスにドンビキされたスペインやインテルにドンビキされたバイエルンのサッカーは、意外性がなく単調で無味乾燥で「つまらない」のである。パス・サッカーを志向していた頃の岡田ジャパンより、開き直って本田にドカドカとロングフィードを蹴りこむようになった本大会の岡田ジャパンの方がむしろおもしろかったりするのである。
このように、本来おもしろい攻撃を自らがデザインしたとおりに実践していくのに適した手段であったはずのパス・サッカーやポゼッション・フットボールが、それと対照的なアンチ・フットボールのタテポンをやるチームとマッチアップすることで、逆におもしろくなくなっていくのである。信じられないがそうなのである。
そもそもの疑問として、まず「パス・サッカーとフィジカル・サッカー(タテポン・サッカー)は別のものなのか」、という問題がある。パス・サッカーが善でフィジカル・サッカーを悪とするアナロジーには、「パス・サッカーとフィジカル・サッカーは互いに相関しない」という前提があるはずである。しかし、果たしてほんとうにそうなのだろうか、と言うと、実際のところはそんなことは決してないのである。というか、別に誰も「相関してはならない」と決めているわけではないのである。前述の「パス・サッカーは善でタテポンは悪」という二元論に依拠して、ただ単に意固地になってパス・サッカーをやろうとしているだけなのである。それはパス・サッカーが理想的なサッカーであると考えられているからある意味では当然なのだけれど、しかし頭の固くなった人間(たち)のやることがおもしろくないことは紀元前の昔からのお約束である。パス・サッカーにこだわったところでおもしろいサッカーになるとは限らないのである。
サッカーのおもしろさとは、そもそも「ゴールを割るか、割らないか」という二進法のスペクタクルであったはずである。その不確定性がカタルシスだったのである。だからゴールを割らせないようにみんなで努力する現在の4-1-4-1システムは機能美を伴うのだし、逆にゴールに決して直結しない冗長なポゼッションは観ていてつまらなかったりするのである。
その意味で、パス・サッカーとフィジカル・サッカーは究極的には共存していくべきなのである。4-1-4-1システムがそもそも高い位置でのプレッシングとリトリート・ディフェンスを併用するために開発された戦術であったのと同じように、未来のサッカーはポゼッションとタテポンという、現在の価値観ではコレクト・フットボールとアンチ・フットボールという風に対置される戦術を共存させる方向に向かっていくべきなのだ。わたしはそう思う。
だからわたしはペトロビッチ監督の広島の攻撃的なサッカーが大好きだが、一方でシャムスカ監督が率いていたころの大分も好きだし、オリヴェイラ監督の鹿島のサッカーも好きである。それぞれがそれぞれに適したやり方でサッカーをやっているのである。それを「善」だ「悪」だと色分けしようとする心こそ卑しいのだ。リスクを控えた手堅いサッカーもチャレンジングでアグレッシヴなサッカーも、オートマティズムに貫かれているのならどちらも「善」であるはずである。
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