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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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「ディセント」

 

これは極めてよく出来たホラー映画である。90年代後半以降のホラー映画の進捗を踏まえた上でそれを良く考証し、それらの良い部分を抽出して作品に加味したという意味で。

隔絶され閉塞された地下の洞窟を舞台にしたサバイバル劇とくれば、まずヴィンチェンゾ・ナタリのカナダ映画「CUBE」に端を発するシチュエーション・ホラーが思い浮かぶし、カメラがパンして振り戻ったときに唐突にクライマックスが訪れる演出方法はジャパニーズ・ホラーの方法論からの援用とも言えなくもない。登場人物のひとりが脚を骨折して、それを即席で麻酔なしで手術するという、いわゆる「漂流教室の柳瀬くん執刀のカッターナイフ盲腸手術」シーンは近年のトーチャー・ホラーの盛り上がりを意識しているだろうし、ひねり過ぎてむしろ一周してしまった感のあるラストシーンの曖昧さや蛇足感も当代風のサービス精神と解釈できないこともない。そして、手ブレ当たり前のリアリティ重視のPOVの方法論に寛大な画作りは、言うまでもなく「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の流れを汲んでいるだろう。この点に関しては、「ビデオカメラ越しの画面を登場人物と一緒に覗き込む」という逆転の発想でこれまでのフォローワーとは一味違う角度から切り込んでおり、見事としか言いようがない。当然、その効果は凄まじいまでの緊張感として結実している。

もちろん、本作が映画として優れているかどうか、映画としてグッと来るかどうかはまた別の問題である。この映画は近年のホラー映画の趨勢と興亡を良くお勉強したという意味で優等生のホラー映画だが、それはあくまでアヴェレージとしての優性であって、ほんとうの意味でグッとくる何かとは往々にして数値として計量できないものであったりする。個人的にはここまで真面目に90年代後半~ゼロ年代のホラー・トレンドをパッチワークしながら、「ディセントくん人形」でも売り出して一山当てようと目論んだのか後半に入って大胆にクリーチャーの姿をサーヴィスしている点が逆にマイナス。ここまでPOVで画を作り込んだのだから、あのかわいらしいクリーチャーが「キシャー!!!」と画面に映るたびに微笑ましくなってしまうのはやはり頂けない。しかし、昨今のホラー・トレンドに則するならそれもまた正解であったりするところが悩ましく、まさにいろんな意味で「優等生」な映画だ。まあ、何回も言いますがそれと映画がおもしろいかどうかはまったく別の話だと思いますけどね。

 

しかし、そんなことより重要なのはこの映画の登場人物が全員女性で統一されているという点である。男性はひとりだけ出てくるが冒頭の数分だけで、あとは徹頭徹尾女性女性女性、本作は完膚なきまでの「くのいち」映画なのである。ここまで女しか出てこない映画は、わたしは不勉強ながらちょっと記憶にない。

 

ホモ・サピエンスの半分はメスであるから女性は計数的にはマイノリティではないが、社会学的に、そしてありとあらゆる時代と階位の文化圏に底流する総てのコモンセンスにおいて、長らく男性優位の構造の犠牲者なる地位に甘んじてきた意味で実質的にはマイノリティであった。マイノリティは多くの権限をマジョリティに対して抑圧されるからこそマイノリティなのであり、よって彼女たちに社会や政治が、そして文化が寛容になるのには凄まじい時間が必要だった。ニュージーランド政府が世界で初めて女性に参政権を与えたのが1893年、キンゼイ・レポートによって女性の性行動が初めて学術的に精査・公表されたのが1948年である。

リドリー・スコット監督、ダン・オバノン脚本の「エイリアン」はその意味で映画史において革新的な役割を果たした映画だろう。宇宙の辺土に破棄された謎の生物兵器が宇宙船の中で覚醒し、乗組員を次々と殺戮していくというこの映画はそのプロットそのものがまずホラーというジャンルに新たなインスピレーションを与えたし、H・R・ギーガーによるクリーチャー・デザインもエポック・メイキングなものだったが、何より意味があったのは最終的に唯一生き残ったのがシガーニー・ウィーバーだったという点である。男性乗組員が次々とチェストバスターの魔手に倒れる中、最後に生き残った女性乗組員が遂にその化け物にトドメを刺すことに成功したのだ。

それまでのホラーにおける女性の役割・・・恐れおののき、泣き叫び、アルフレッド・ヒッチコックの手にかかれば振り下ろされるナイフで切り裂かれ、ハーシェル・ゴードン・ルイスの手にかかれば手足を切断され内臓を引きずり出されていた・・・それが、この映画を境に完全に切り換わった。つづく続編の「エイリアン2」(Aliens)ではシガーニー・ウィーバーは更に強くなり、孤児の少女を抱き寄せながらクイーン・エイリアンの卵巣を火炎放射器で焼き尽くす。「エイリアン」で自立した女性は「エイリアン2」で遂に、それまで社会が女性に対して捏造してきた<政治的に正しい>、つまり<権力者=男性にとって都合の良い>レゾンデートルを自らの手で粉々に破壊してしまうのだ。これは映画に限らず、サブカルチャー全般における大いなる革命の狼煙だった。それまで男性たちによって飼い慣らされてきた女性たちはパンドラの箱を開け情報統制を見破りそこから抜け出て、遂には男性優位社会がそれまで称揚してきたポリティカリー・コレクトに異を唱え、そのパノプティコンをズタズタに切り捨ててしまった。マーガレット・サッチャー首相のもとでフォークランド諸島を巡ってイギリスがアルゼンチンと交戦状態に突入したのが1982年である。

 

ジェンダリックな意味で極めて革命的であったエイリアン1&2以降、大衆芸術において女性は一定の権力を男性たちから簒奪したように思える・・・「トゥーム・レイダー」のララ・クロフト、「バイオハザード」のアリス・アバーナシーはその象徴のようだ。彼女たちは屈強なトレジャー・ハンターや凶悪なリビング・デッドを軽快にbeat'em upする。

登場人物オール女性映画である「ディセント」は、その系譜の最終進化系であると言えるかもしれない。

 

 

ところで、マイノリティを主人公にした映画と言えばまず思い浮かぶのはジョージ・A・ロメロである。「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」の主人公は黒人だったし、続く「ゾンビ」の主人公4人のうち最終的に生き残るのはケン・フォーリーとゲイラン・ロスであり、つまり○○と○○(ネタバレになるので伏字)。リビング・デッド三部作の暫定的最終作だった「死霊のえじき」の主人公も女性だったし、むしろそこでは筋骨隆々としたアングロサクソン系の白人男性はゾンビたちによって無残にも身体を引き裂かれ内臓を貪り喰われてしまうのだ。

ところが、ジョージ・A・ロメロは近年に入ってマイノリティ(黒人、女性)を主人公にすることをやめてしまった。「ランド・オブ・ザ・デッド」「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」の主人公は白人だったのだ。これに関して正確なところはわからないが、わたし個人の意見を言えばそれは現代人類に対するロメロの諦観の表象であるのだと思う。大規模な反戦運動や公民権運動、ウーマン・リブを契機に、ほんとうに平等な・・・総てのマイノリティが解放され、総てのハンディキャップが取り除かれた社会が訪れるはずだ。本気でそう思っていた人々が大勢いた。「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」や「ゾンビ」が作られた時代とはそうした時代だった。不当な黒人差別や女性差別が灰燼に帰り、真の意味での文明社会が勃興する・・・ロメロがこぞってマイノリティを主人公に据えてきたのは、そうした理想に対して一縷の希望を仮託するためだったのだろう。この社会は変わるんだと。社会を取り巻く理不尽はいつかなくなるのだと。

しかし、現実は結局、何も変わらなかったのだ。女性が国家元首になっても何も変わらなかった。オールド・ジェンダリックな見方をすればフォークランド紛争は女性を最高指揮官に置く近代軍隊によるほんとうの、実弾とV-TOLが飛び交う「戦争」であった。戦争をして得をするのは軍産複合体だけだ。女性がトップになっても結局その本質は何一つ変わらなかった。黒人差別も根絶されるどころか、レイシズムはむしろ確固たる思潮としてその基盤を確立してしまった。冷戦構造が瓦解して以降、新たな秩序を模索していたアメリカがたどり着いたのは威勢の良いことをまくし立てて票田である南部のヒルビリーを扇動する新自由主義政権だった。マッチョ信仰を煽り極度に聖書原理主義的な彼らにとって女性はただかわいければ良い、黒人は下僕、ムスリムは問答無用でテロリスト・・・。ロンドンで爆弾テロが起こったとき、警官によって何の関係もない若者が射殺された。理由は?「肌が黒かったから犯人だと思った」

 

マイノリティを主人公格に重用することはある意味で時代に逆行した行為であるようにも思える。実際にジョージ・A・ロメロが「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を撮った頃にはそうだった。しかし、今は違う。Say No to Racismの洗礼を受けた権力者たちにとって、黒人や女性が活躍する映画を撮ること自体が寛容の姿勢を示すポーズとなるからだ。権力者たちはそうして別の意図をカモフラージュするのだ。マイノリティの重用はいまや形骸化して意味を失いつつある。ちょうどソビエトが映画産業国有化宣言のバイアスを通して作ったプロパガンダが「女性や子供や老人などの社会的弱者を守る赤軍兵士」のイメージを刷り込ませ、総務省がド田舎の農家のジジ・ババを起用してやけに扇情的な地デジ推奨CMを作ったのと同様に、権力者はマイノリティを積極的に重用することで現実をシュガー・コーティングしてしまえる。それがたとえ、どうしようもなく理不尽で残酷な現実であったとしても。

 

 

マイノリティをどう扱うか?映画史におけるその問題の先人ジョージ・A・ロメロは形骸化してしまったマイノリティ重用に見切りをつけ、もうそれ自体を放棄してしまった。或いは、それとは別の形でその問題を提起する術を模索し出したと言うべきか。また、それとは対照的に以前と変わらず女性や黒人を主人公にして直球でメッセージを提起しようとする一派も根強く存在する。今後も映像作家が配役をどのような人種・性別で構成して映画を作るのか、その一挙手一投足がジェンダーとレイシズムの両方の側面において変わらず注目されていくことだろうが、さて、この「ディセント」は現代史のジェンダリックな側面に果たしてどんな一石を投じるのだろうか?

個人的にはそこまで難解な問題でなくても、ピーター・ジャクソンの歴史的傑作「バッド・テイスト」が男しか出てこない映画だったのに対して、その20年後にこのような形でそのアンチテーゼが作られたことがとても感慨深い。当たり前だが、ホラー映画界も人間万事塞翁が馬、巡り巡るのだ。

「ディセント」がオール女性映画だったことがオールド・ジェンダーが崩壊したことのメタファー、とか安易なことは死んでも言えないし、いまの社会を見ればそんなの嘘八百だということも誰でも気付くだろうけど、ここまで極端なマイノリティ偏向が現れるということは素直に歓迎すべきことではなかろうか。

ニール・マーシャルやホラー映画ファンにとっては些細な問題かもしれないけど、「ディセント」が少なからず現実を変えていく微力ながらの嚆矢となることを影ながら願いたい。

 
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