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島根県のハードコアパンクバンド、ヤンキー少女、改めSOFT、改めストーナーロックバンドPOSTOVOIのボーカルjunkieの公式ブログ!!!
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「ねえ、生きるってことは、罰なんだね

「そうか・・・
僕らははじまりから総て、罰だったんだ」


「ゆり、やっとわかったよ。どうして僕たちが世界に残されたのかが」
「おしえて」
「君と僕はあらかじめうしなわれた子どもだった。
でも、世界中のほとんどの子どもたちはぼくらといっしょだよ。
たった一度でもいい、誰かの愛してるっていう言葉が必要だったんだ」
「たとえ運命が総てをうばったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。
わたしたちはそれをするために、世界に残されたのね」
「愛してるよ」
「愛してるわ」


「君たちはけっして呪いから出ることはできない。
僕がそうであるように。
箱の中の君たちが何かを得ることなどない。
この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵一つ残せないのさ。

君たちはぜったいに幸せになんかなれない


「冠ちゃん、これがピングドラムだよ

「君も僕たち兄弟も、過去に呪われているんだ」


僕の愛も、君の罰も、総て分け合うんだ。





ほんとうに、とんでもないアニメだった。
屈指の名エピソードである20話「選んでくれてありがとう」のこどもブロイラーのシークエンスで背筋が凍りついた。観た人は全員そうだろうが、あそこの陽鞠のセリフにいつだって総てを根こそぎ持っていかれるんだ。ああ、ほんとうに、ほんとうにとんでもないアニメだ。

「地上で最初の男と女の話、わたし、知ってたよ。
二人は罰を受けたんだ。
生きるってことは、罰なんだね


ここまで重いセリフはいまだかつて聞いたことがない!
生きるってことは、罰!罰なんだ!君の人生もおれの人生も、オマエもテメェも総ての人生も、みんな罰なんだ!
一生懸命生きてる君の人生に意味なんかない。
一生懸命メンヘルを演じてる君の人生にももちろん意味なんかない。
なぜなら総ては罰だからだ。
あんたたちの人生は全部、罰なんだ。

ああ、こんなことを真剣に言ってるアニメは、いや、アニメに限らずとも世界中のどのメディア・アートを見渡しても、ごく一部の重度の極右自由主義思想を罹患した残念極まりない傲岸なアイン・ランド主義者を除いては、なんてことだ、おそらくピングドラムだけだ。いや、それも違う。ランディアンはおそらく総ての人生を肯定する。彼らは無理矢理にでも人生を肯定し、仮に失敗したとしてもそれは個人の責任だから仕方ないと唾棄する。だとしたら、こんなドグマを真剣に称揚した人間は有史上でもポル・ポトくらいだ。笑ってはいけない。泣いてはいけない。ピングドラムとポル・ポトがここでつながる。

ピングドラムは更にたたみかける。

22話で真砂子はピングフォースを「美しい棺」だと言っていた。あそこは素晴らしい組織だった。素晴らしい、フェイクだけどしかしほんとうに価値のある「家族」を演繹できる、素晴らしい空間だった。でも、それは美しい棺なんだと。高倉夫婦が引き起こした陰惨なテロ事件、そして現に高倉冠葉が加担する第二のホロコースト、それらを覆い隠した上での見せかけの美しさに過ぎないんだと。他方でそれは、はからずもピングフォースが指弾してきた「この世界」の愚かさと醜さと同じだ。こどもブロイラーで虐殺され透明にされてゆく子どもたちの存在を無視しつづけるこの世界と、ピングフォースはいっしょだ。この世界は美しい棺なんだ。
「あれは呪いなの!わたしたちは過去に呪われているの!」
23話で更に真砂子は、それをフーディーニの魔法と呼んだ。フーディーニの詐術で世界を変えることなどできない。騙されてはいけない。それは見せかけの美しさであり、その箱は棺に過ぎない。
もっと踏み込もうか。
彼らが囚われる美しい棺、彼らを呪う過去、そして彼らを支配する運命は、総てひとつの概念でつながれている。彼らが必死に追い求め、総てを犠牲にしてでも手に入れようともがき、そして、絶対に手に入れることができないもの。
そう、彼らを苦しめるほんとうの呪いは「家族」なんだ。ほんとうの美しい棺とは、家族のことなんだ。
家族っていうのは、呪いなんだ。

サネトシが批判するのも、おそらくはそこだ。家族という呪いに振り回され、総てを搾取され死んでいく哀れな人々。多蕗も時籠も荻野目りんごも高倉兄弟も夏目真砂子も、総て家族という美しい棺に魅せられ、篭絡され、そして総てを奪われて死んでいくんだ。荻野目りんごの畢生の賭けによって運命の乗り換えが成功するまで、彼らの運命の至る場所はそこにしかなかったのだ。ああ、この腐った世界!



でも、幾原邦彦はサネトシじゃない。ポル・ポトでもないしニーチェでもない。幾原邦彦は、ここで世界を呪わない。

例えばBlu-ray第1巻のライナーノーツに収録されている幾原邦彦のインタビューによれば、少なくとも彼がクリエイションを試行した時点では、ピングドラムの根本に底流するテーマはそこまで厭世的なものじゃないということはわかる。彼は別に世界を呪いたくてこのアニメを作ったわけじゃない。家族という欺瞞を喝破するためだけに作ったわけでもない。彼は次のように述べている。


「自分にとって最も大切なコミュニティは何か」を誰もが自覚する日はそう遠くないと思う。そこでは、恋愛なんかは、人生において劇的なディテールの中心ではなくなってたりね。90年代は「私はここにいますよ」という物語が多かったと思うけど、僕はそれはもういいんだ。それよりね、いまの僕はコミュニティの再確認をやってみたいと思っている。
(中略)
ここ15年くらいの変化にはすさまじいものがあるでしょう。国家の定義も変わっていこうとしているし、経済も国家を越えたり・・・こういうことは個人的なコミュニティにも返ってくるだろうし、移民が増えている状況も、国家における家族のあり方を問うものだと思う。もうずっと前から「お金じゃない」ってみんな言ってるでしょ。でも誰もそれに変わるものを見つけられないし、説得力のある提示ができない。だからね、「愛だ」みたいなドラマが流行った時代があったんだと思うよ。逆説的にね、「お金じゃない、愛だ」って。みんな頭で切り分けてたんだよ。「フィクションの中では愛、でも現実は」ってね。でもいまの時代、「もう、頭の中で切り分けるのは息苦しい」と、みんな思い始めてるんじゃないかな。「お金じゃない」ということを、いよいよ実感させてほしいという状況に来ているような気がする。「新しい幸せの定義」みたいなものを教えて欲しいというかね。
でもね、そのお金に変わる「新しい幸せの定義」で大失敗してるわけじゃないですか、それが近代の若者の歴史でもあるし。振り返ると、とても肯定できるものじゃない。でも「自分にはまったく無関係だ」という態度はフェアじゃない。例えばね、他人に構わず正しいことを言う人って、いつの時代でもいるでしょう。そういう人は必ず失敗すると思うんです。今回意識したのは、やはり「正しいことを言う人」です。正しいことを言って、失敗していく人。普通の人には揺らぎの幅みたいなものがあって、そこがセーフティとして機能する。正しさを認識していても、怖ろしい現実を見て見ぬふりして生きていける。だけど、なかには絶対に見て見ぬふりができなくて、正しいことしか受け容れない人がいる。彼らは傷ついて、上手くやれないことが多い。いや、まず上手く生きられない。僕はその人たちのことを単純に否定したくないんです。彼らのことを、メディアは良く言わないでしょう。「曖昧にできず、正しく生きようとした人だ」とは言わない。むしろ狂人と呼ぶよね。自分を騙せずに極論に行ってしまう人・・・今回はそこも否定せずに描きたいと思う。この社会にはいろんな矛盾や理不尽な話がいっぱいある。そのなかで傷つきながら、最小のコミュニティの中でかばいあう。たとえそのコミュニティが罪の場所だとしても、他の場所で生きるという選択肢は彼らにはなかった。世間では、おそろしい毒壷であっても、彼らにとっては、記憶の故郷であるという・・・その不幸と極限の感情を描きたい。
(キングレコード「輪るピングドラム」Blu-ray第1巻 ライナーノーツより抜粋)



ここで彼が言う「コミュニティ」という言葉の解釈には少し注意が必要かもしれない。特に先進国下で観測されるような、家族秩序の再編成によって形成され、内ゲバと離合集散と褪色と心変わりを繰り返すアメーバ状のコミュニティ、そうした出来合いのコミュニティについては。
どちらにしろ、デッドヘッズでヘルズ・エンジェルズなヒッピー・コミューンからマンソン・ファミリーやオウムやピングフォースに至る実践的な原理主義集団まで、そういう類のコミュニティは総て、家族という概念を巡る果てしない拡大解釈と絶望的な論理後退へと突き進む不毛な闘争の仇花であって、そして、それらはほぼ例外なく、従前の家族(或いは国家)というガラクタにうんざりした人々、幾原が実に的確に言明するところの「正しいことを言う人」が家族のオルタナティヴを求めて必死にもがくのだけれど、だけど結果として他ならぬ家族のクローン、それもかなりツギハギだらけの劣化版を作り上げていくという、(他人からしてみれば)凄惨なサタイア、壮絶なエディプス・コンプレックスを歴史として内包しているものだ。
そして幾原はこれを、無碍に否定できないと言うんだ。
でもそれは誰だってそうだ。幾原だけじゃなくて、90年代に、もっといえば16年前にあの騒動を通過した文化人はみんなこの「コミュニティ」という概念と向き合わざるを得なくなって、そして何らかの回答を迫られたからだ。それはあなただってそうだし、おれだってそうだ。なぜなら、16年前のあの事件よりももっと凄まじい現実をおれたちは見ているからだ。それが何なのかはあえて言うまでもない。
お金じゃない!お金で買えないものはないなんてもう言わないよ絶対!
ワールドトレードセンターの灰燼と噴煙の中からスタートしたゼロ年代を経て、リーマン・ショックとあの地震があった。原発がメルトダウンを起こして日本中が21世紀のスキッツォイドマンになって混沌こそ我が墓碑銘となり、ビン・ラディンは死んだ。要するに、あまりにマンガみたいで現実離れしたことが起こりすぎたのでみんなメンヘルになって自閉症になって半死半生のウォーキング・デッド状態になったんだ。その結果、みんな貴賎を問わず自分なりに反省して、もっと別の答えを見つけたがってる。そしてみんなほぼ例外なく、何らかの形で既存のコミュニティを再編成しなければならないと本気で考えるようになっている。これは幾原だけじゃないしおれだけでもない、ほとんど総ての人々がそうなんだ。あなただって身に覚えあるだろう?
でも、大変だ!コミュニティを再編成!何かすごそう!でも、いったいどうやって?
幾原によれば、どうするも何も、もう時代の要請で再編成は始まってるんだ、と言うんだ。学研「オトナANIMEDIA vol.2」のインタビューのなかで幾原は次のように述べている。


「家族」なんていうのは、それこそ『サザエさん』みたいに、幻想の日本の家庭として置かれている部分もあるじゃないですか。これから少子化がどんどん進んで、世界的な状況も鑑みると、更に「家族の形」は細分化していかざるを得ないはずですよね。それこそ、片親しかいない家庭も当たり前の話で。ものすごく複雑になっていくと思う。お父さんが連れてきた兄弟とか、いろんな国籍の家族があったり。そうなったら、それが僕たちの日常になるわけじゃないですか。すでにその渦中にいる人もいると思う。
だから、どこかしら「自分たちの未来についての話である」と感じてもらえるものであればなぁ、と思っているんですよ。あの震災で感じた部分も、そういうことじゃないのかな、って気がした。「僕たちの愛しいものは永久に存在しているものじゃない」ということを実感してしまった。言葉ではわかっていたんだけど、みんなそれを思い知ったと思う。「明日なくなるかもしれない」ということを身にしみて理解したというかね。例えば今後、さらに日本の経済が下り坂になっても、それでも「愛しいもの」はあってね。みんな今までは「勝ち組だ、負け組だ」って話ばかりしてきたんだけど、そんなことはもういい・・・それよりも、「明日、大事な人と会えなくなってしまうかもしれない」と考えた時に、何かそこで愛しいものが切実にあぶり出されてくる感覚があると思うんだ。
(学研「オトナANIMEDIA vol.2」 p.8)


ああ、これをただ単に「家族を大事にしよう」とか「絆」とか、ひとまとめのクリシェにしてシュガー・コーティングしてしまえれば、現実はどんなにか楽だろう。幾原だってこういうことを言っているけど、でも実際はかなり現状に対して悲観的な部分があるんだろうと思う。サネトシの最後の遠吠えが不気味な余韻を残すのもたぶんそのせいだ。それにそれは、たぶんいまを生きるおれたち自身にも心当たりがあり過ぎるほどにある分、余計に切実な問題だ。よく考えてみてほしい。いまある既存のコミュニティはあまりに身勝手で実に不道徳な欲望まみれの合従連衡の果てにズタボロになった賞味期限切れの腐肉なんだ。それを大事にしようも何も、先ずは大事にしてこなかったいままでの己の不見識を、おれたちは何をさしおいても清算しなきゃならない。

そもそも、家族って何だ?
ほんとうの家族って何だ?というより、おれたちにとって家族って何だ?
みんなそれがわからなかったし、今でもよくわかってない。
この残酷で理不尽で気まぐれなシステムに支配された世界で、家族は別におれたちにとって絶対の護法となるわけじゃない。それは時に人だって殺す。家族は世界を必ずしも良い方向には導かないし、もっと言えばおれたちを幸せにしてくれるわけでもない。それはある意味でおれたちを縛りつづける呪いなんだ。
おれたちはぜんぜん自由じゃない。この社会はぜんぜん自由じゃない。与えてくれるのは概念としての自由だけ、お定まりの説法と穴だらけの自由崇拝と、功利主義のあまりに不確実な取り扱い説明書だけ。家族はそのなかで自由という脅威からおれたちを守ってくれるわけでもなければ、対抗しうる別の何かを示してくれるわけでもない。何も救わないし何も教えないし何も与えない。ただそこにあるだけ。ただそこに存在するだけ。理由なんて誰も知らない。とにかく、それが何らかの契約であるということはおぼろげながらもみんな知ってる。でも、誰もその正しい使い方を、それがそこにあるほんとうの理由を誰も知らない。みんな社会はクソだとか世界はゴミだとか他人はクズだとかそういう話だけはとても能弁だ。この社会のネットワークを絶えず蚕食しつづける膨大なパケットとそれらを許容するにはあまりに脆弱過ぎる、おれたち自身に実装されている二十万年来の生物学的ビンテージ付きの使い古しのバッファのこと。この社会を汚染しつづける機能和声の呪いの詠唱とそれに呼応するように不気味なバイオリズムを刻む謎めいたストック・エコノミーのフォークロアと、高速道路のコンクリートの曲線が発信しつづけるテレビ・アイドルの生理周期のcsvデータのこと。でも、誰もほんとうに肝心なことを語らない。家族って何だ?家族って何なんだ?そして家族は、いまだにただそこにありつづける。ただ、それだけ。
家族なんていつだってリセット可能だし、いつだって再生できるし、そして、その終わりは突然やってくる。
ああ、おれはだいぶ前からそのことに気付いていた。おれだけじゃない、みんなそうだろう、みんなだって、とっくの昔に気付いていたはずなんだ!でも、誰も言わなかった!どうでもいいことばかりしゃべって、ほんとうに肝心なことを何一つ言ってくれなかった!


「もう、家族ごっこは終わりだ」
「これがわたしと晶ちゃんの、絆だったから。でも、返すね」


この社会を取り巻き、至るところに濫立するアプリケーションのことをあなたはどう思ってる?
それらがおれたちの忠僕であって、あくまでおれたちの便益に資するための何がしかであると本気で思ってる?
おれだって昔はそう思っていた。この世界が、都市が、無線LANが、高圧電線が、その他もろもろのありとあらゆるドローンがもたらす最高の便益。それがこの世界の希望で、だからこそこの世界は美しいと思っていた。
そして、今でもそう思っている。
今でもこの都市は最高で、この都市がもたらすアプリケーションはいつだってrili badassでgood stuffでleaning on the everlasting armsなんだって思ってる。たぶんあなただってそうだと思う。そしてたぶんこの完璧なシステムの中から脱け出すことなんて絶対にできないし、もとよりそんなことをする気もないということも。

じゃあ話を変えようか。
あなたは家族と言うアプリケーションのことを、どう思ってる?

おれはずいぶん前からこのアプリケーションを使ってない。いや、正確には、はじめからよく使い方がわからなかった。そのやり方は学校で教わるわけじゃない。インターネットにも書いてない。そのアプリケーションは非常によくできたhi-rezなFPSで、どうやらプレーヤーがシステムの要求する総ての動作を実際に演繹していかなきゃならないらしい体感型ロールプレイング・ゲームであると同時に育成シミュレーションでもあってもっと言えば冗長なサウンド・ノベルらしい。でも、それが何のためなのか、最終的に何のためにそんなアプリケーションを起動しているのか、誰もわからない。なぜか誰も知らない。今じゃ専用回線のトラフィックも閑古鳥でたいていの人はログアウトしてしまった。たまにログインして入ってみたとしよう。そのとき、おれたちは出くわすかもしれない。奇跡的にプレーしつづけてきた一部のニッチなハードコア・ゲーマーが、誰もいない広大な都市のコンクリートの回廊のそのタナゴコロで、慎ましくも清廉な「家族」を演じつづけている光景に。
そしてそのとき、おれたちは何を思うだろう?



改めて、家族とはおれたちを縛りつづける呪いなんだ。
おれたちがいままでこの最小のコミュニティをブッ壊れるがままに放置しておいた理由だって、みんな呪いから逃れたかったからなんだ。
みんなサネトシのように、高倉夫婦のように、この家族というオールドスクールな旧弊が、イヤでイヤでたまらなかったんだ。


でも、幾原邦彦はこの世界を呪わない。高倉兄弟はこの世界から見捨てられても、運命から総てを奪われても、それでもこの世界を呪わない。
なぜか?

その理由を知る前に、先ず、運命の乗り換えが万能の護法ではなく、その効果が極めて限定的であることは留意しておく必要がある。
荻野目りんごのプロジェクトMはとっくの昔に失敗し、高倉兄弟は運命の乗り換えの代償として透明な存在になり、相変わらずサネトシはこの世界を呪いつづけて、そらの孔分室で、スカイメトロの雑踏のなかで、この世界の僻陬で、次の電車が来るのを、そして、桃果が再び降臨するのを、ただひたすら待ち望んでいる。
それらは別に世界をより良い場所にアップデートしたわけじゃない。
彼らは運命の乗り換えによって世界を今よりももっと良いものに変えたわけじゃない。

最大のパラドックスはここにこそある。
結果的に、運命の乗り換えは何を救ったのか?

別の言葉で言い換えよう。

運命の乗り換えは、この世界の罰と呪いに対して、いったい何をしたのか?



ピングドラムは、家族の物語だ。
より正確には、家族という呪いから逃れようと必死にもがく者たちのその凄惨な闘争の物語だ。

改めて、家族というのは、おれたちを縛りつづける呪いだ。
おれたちはもうずいぶん前から、これがイヤでイヤでたまらなかった。ずっとこれをどうにかしてやりたかった。サネトシだってそうだった。多蕗だってそうだった。時籠だってそうだった。そして、桃果ですらきっとそうだった。
桃果だってサネトシと同じく、この世界が間違っていること、自分たちが生きるこの世界が必ずしも美しいものでないことをよく知っていた。どうにかしなきゃならないと思っていた。

でも、桃果は世界を壊さなかった。






生きることは罰だ。そして、家族とは呪いだ。おれたちはもうずっと長い間、こいつらに苦しめられてきた。
でも、それがどうした。

・・・ああ、桃果、これがピングドラムだったんだね。

運命を乗り換えることで彼らは呪いから脱したわけでも、それに抗する別の力を手に入れたわけでもない。世界のシステムを変えたわけでも、それに代わる別の何かを作り上げたわけでもない。

ただ彼らは、それぞれの罰を、それぞれの呪いを、自らの決断で引き受けたのだ。
彼らは自らに課された罰を、自らが進むこれからの残酷な運命を、自らの決断で選び取ったのだ。
彼らはそういう決意をしたのだ。
生きることは罰だ。家族は呪いだ。運命はクソで世界はクソで総ては残酷だ。

でも、それがどうした。

このアニメが素晴らしく、何にもまして気高いのは、高倉兄弟が自己犠牲によってピングドラムを一巡させるからでも、荻野目りんごが命を賭して運命を乗り換えるからでもなくて、実は、最終的に多蕗と時籠が結ばれるからかもしれない。
運命の輪でつながれた二人は、自らの罰と呪いを自らが引き受けたことで、結果的にほんとうの「家族」になった。ああ、おれは、彼らのことを思うと涙が止まらない。彼らは運命の重力場から逃れ過去の呪いから解き放たれたわけじゃない。そうじゃない。彼らはそれらの罰と呪いを自らの決断で選び取ったんだ。そうしてはじめて彼らは自分たちが生まれたほんとうの理由に気付いたのだ。自分たちがこの世界に残されたほんとうの理由。

「たとえ運命が総てを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せになれるわ」


ああ、だから、おれは彼らのことを思うと、涙が止まらない。



即ち、総てはこういうことである。

ほんとうの「家族」とは、自らに課された罰と、その呪いを、一様に引き受ける場である。
総ての罰も、総ての呪いも、そして、総ての愛も、全部分け合うんだ。




これが答えだ。

だから多蕗と時籠は家族として永遠に結ばれる。そして冠葉と晶馬と陽鞠のニセモノの家族も、ピングドラムを分け合ったあの瞬間において、ほんとうの家族として永遠に結ばれつづけるのだ。



そして、おれたちはいつか、それをしなきゃならない。
もうすぐ決断を迫られるときが来る。
この世界でおれたちが課された罰と、呪いを、引き受けるかどうか。
或いは、世界を壊すのか。


あんたはそのとき、どっちを選ぶ?





あらかじめ失われた総ての子どもたちへ、運命の至る場所から。
家族という呪い、おれたちをときに機能不全へと至らしめるこの奇妙なバグにうんざりしていた総ての友達に。或いは、スクリーミング・フィストに失敗してスプロールから追放された総ての流刑者たちに。


生きることは罰で、そして家族は呪いだ。
でも、それがどうした。
僕の愛も、君の罰も、総て分け合うんだ。


これが答えだ。



幾原邦彦の胡乱で面妖で朴訥で、ときに狂おしいまでに儚いこのマカロニ・ウエスタンを、おれはこれから何度となく観返しつづけることだろう。
家族という呪いを引き受け、生きるという罰を自らが選び取るそのときまで。おれもいつか、誰かとピングドラムを分け合う。おれたちの愛も、おれたちの罰も、その総てを分け合うんだ。


この不思議な地球で。
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島根県のハードコアバンド、ヤンキー少女改め、SOFT、改め爽やかJ-POPデスメタルバンドPOSTOVOIのギター・ボーカルです。

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